1.姉と弟
のどかな春の日差しのもと、ロワ伯爵家の悪夢は始まった。
屋敷の正門に馬車が止まり、扉が開いて一人の若者が降り立つと、大きな歓声があがる。
ある者は頬を紅潮させ、またある者は涙ぐむ。
恋する乙女のような反応をしたのは、伯爵家の親戚筋にあたる、いい年をした男たちばかりだ。
彼らの視線を一身に浴びたのは、人目を確実に引くであろう長身の人である。整った顔だちに、背筋はぴんと伸び、見知らぬ大勢の中年男たちに囲まれても、眉一つ動かさない。
堂々とした振る舞いは、彼らの興奮をさらに煽った。
「おぉお⋯⋯何と見目麗しい青年か! 凛々しいではないか。賢そうではないか! これは令嬢たちが放っておくまい!」
「将来が楽しみだ。伯爵家も安泰だぞ! いやぁ、よかった⋯⋯っ!」
大陸の雄と言われるラヴール王国は、肥沃な土地と豊かな漁場に恵まれ、交易も盛んな大国だ。そのラヴール王国において、ロワ伯爵家は建国来続く名門である。
王家から王女が当主の正妻として降嫁した例もあり、現王家の流れも汲んでいた。
上級貴族の中でも特に際立つ実力者である五つの伯爵家を指して『五大家』と呼ばれたが、当然のようにその中に入っている。
伝統と格式あるロワ伯爵家の当主には正妻が産んだ息子が一人いた。しかし、放蕩三昧の末に争い事に巻き込まれ、呆気なく死んでしまった。いくら素行の悪い男でも、伯爵家には大切な跡取りである。特に母親であった正妻の嘆きは大きく実家に帰ってしまったが、伯爵家の受難はそれだけでは済まなかった。
跡継ぎの死から一カ月も経たない内に、今度は伯爵当人が急死してしまったのだ。
ロワ伯爵家は、当主一家をいっぺんに失った。
そこで伯爵家の人々は、伯爵が正妻に遠慮して遠ざけておいた二人の庶子を、王都に呼び寄せることにした。
ラヴール王国では男子の継承が優先される。正妻であろうと妾の子であろうと、男子でありさえすればいい。
しかも幸いなことに、庶子のうち一人は男子だった。
名はリュンクス。正式に爵位が継げるのは成人した二〇才になってからだったが、その時までもう一年を切っている。しかも、彼には三つ年上の姉がいて、彼女は成人していた。
伯爵家の当主が不在のままでは困るから、まず姉を代理にたて、その後で弟に継いでもらえば、すべてが丸く収まるに違いない。
まさに素晴らしい名案のように思われた。
リュンクスは田舎で優れた剣の指南役に巡り合ったとかで、彼に鍛えられて剣技も秀逸であり、智慧者であるという噂もあった。半信半疑だった親戚の者たちは出迎えて早々に、噂は事実だったと感激したのだ。
「使い込んだ剣を穿いておるな。よいことだ! ロワ家を率いる者は、かくあらねば!」
「早速、縁談をもちこみたくなるのぅ!」
彼らは大満足でこう評した。
騎乗して馬車の後ろから付いて来ていたリュンクスは、馬から降りて彼らの元に歩み寄りながらも、笑いを堪えなければならなかった。
なにしろ、彼らが惚れ惚れとした顔で見て絶賛していたのは、姉であるルイーズだったからだ。
田舎でもずっと男装をしていたせいで、男と間違えられるのも日常茶飯事であったルイーズは、弟と思い込まれた点に関しては全く怒りを覚えなかった。
ただ、冷ややかな目で親戚の者たちを見返し、
「弟は貴方たちの道具ではありませんよ」
と、一蹴した。
度肝を抜かれた彼らは、ルイーズの傍にやって来たリュンクスと見比べ、全員揃って真っ白になった。
血の気が引く、とはこの事である。