第18話 神籠もる島
牙朗は勤めを終えて家に戻った。ほおづきがいつもの様に夕食の支度をしていた。
「あ、お帰りなさいまし。え、その手はどうしたのですか?」
帰ってきた旦那の手が手拭で縛られている。真っ赤に染まっているのを見て、ほうづきは慌てて駆け寄った。
「ああ、これか? 大した事じゃない」
旦那はそう言うが、ほうづきにはとてもそうは見えない。とにかく傷の手当てをと牙朗を座らせて、手拭をほどいた。
「とても斬られてるじゃないですかっ! これはいけない!」
「だから大したこ…」
「座ってて下さいっ!」
ほうづきの迫力に牙朗は、すっかり大人しくなった。ある意味先刻のくノ一より怖いと思った。
水を入れた桶と新しいサラシを持ってくる。
「ちょっと我慢して下さいよ」
そう言いながら、旦那の手を桶にゆっくり入れて、傷の汚れを洗い落とす。
綺麗なサラシで良く拭き取り、そして新しいサラシを割いて丁寧に切れている指に巻いていった。
旦那様は、拾われた猫の様に大人しくするしか無かった。
「旦那様、斬り合いがありましたか?」
「嗚呼、甲賀の忍だった。そいもくノ一だったぞ」
テキパキと作業しながらほうづきが質問する。流石に疲れたのか答える牙朗の声にいつもの覇気がない。
「甲賀の忍者が来るのですか? この国《薩摩》は一体、何をしていると、そんな事になるのですか?」
ほうづきの疑問は実に素朴で在りつつも、驚きに満ちていた。確かに言われてみればそうだ。
この時の彼は、まだ琉球を通じた密貿易など聞かされてはいないのである。
「そんな事は知らない、俺は仕事があれば良い」
やっぱりさっきのくノ一よりもこの嫁の方が余程怖いと思う。
太平の世でありながら何故貴方は、こんな危険な仕事をしないといけないのですか?
うちの嫁は、あろうことか旦那の仕事だけでなく、薩摩の在り方すら切り捨てたのだ。
彼はそんな事考えもしなかったし、自分の命をかけた仕事を全否定された気分であった。勿論彼女は、自分の身を案じているだけの事で他意はない。
その後、妻は無言になった。言い過ぎた……これ以上口を挟む事は、武家の妻の行為を逸脱していると思い直したらしい。
とにかく全ての傷にサラシを丁寧に巻くことに集中するほうづき。終わるとホッと一息ついた。
「これで良い、あとは明日お医者様に診て貰いましょう」
こうして彼女は、夕食の支度に戻っていった。
夕食が終わり、深夜近い頃であった。牙朗は縁側で芋焼酎を飲んでいた。隣ではほうづきが、酌をしている。
「今宵の月は綺麗じゃ。桜島も綺麗じゃっど」
「珍しいもありますねえ。景色を肴に酒を飲む旦那様は。詩でも読んでみますか?」
ほうづきは、そう言って少し笑った。牙朗は少しむっとすると、ほうづきの両膝の上に頭を置いた。
「これは、いよいよ珍しい…甘えてくる旦那様、どうなさいましたか?」
珍しいという割にほうづきは落ち着いて、旦那の頭を猫を扱う様に優しく撫でる。
「お前は一言多い。たまには良いだろうが…」
「ふふっ、良いことでございます。いつもこうしてくれればいいのに」
そう言って妻は微笑んだ。牙朗は月明かりに照らされた彼女の白い肌がとても美しいと今更ながら思う。膝の上はとても心地良く、自分が生きている今に感謝した。
「ほおづき」
「はい、何でございますか?」
「俺は、侍じゃ。いつこの場からいなくなってもおかしかない男だ」
「はい、私も武家の妻。悲しき事ですが、それは覚悟しておりますよ」
覚悟を決めている牙朗の発言に、ほおづきは顔色一つ変えなかった。
牙朗はハッとした。嫁を貰っても俺は剣に生きるだけの男。いつか相手を不幸にするやも知れぬと思っていた。
しかし今、自分は迂闊にも死ぬるときはここで死にたいと思った。
武士とは戦う時、既に死人と化す事で死を恐れずに戦う事が出来る。しかしこの今を守りたいが故にそうするのだ。
こうやって自分の先祖達は、命を繋いでくれたから今があるのだ。
「………ふっ」
牙朗は思わず笑ってしまった。今更この様な事に気がつく自分を笑ったのだ。
「どうなさったとでございますか?」
自慢の妻は、愛しい旦那の顔をのぞきこんだ。
「ほおづき、今宵は付き合ってくれ」
「………はい、旦那様」
時は過ぎ、牙朗は二十六になっていた。五歳になる男子『士朗』と三歳になる女子『華恵』という子宝にも恵まれた。
貧乏なのは相も変わらずであったが、自分の置かれた状況には、それなりに満足していた。
一方、薩摩は『島津斉彬』が君主となり、徳川幕府はペリー率いるアメリカの黒船来航からの不平等条約の締結により、弱腰の幕府をなんとかせねばならぬという話題で多くの武士達がいきり立っていた。
まだ当時はいわゆる討幕ではなく、幕府を盛り立ててこの国の危機を脱しようという意見が根強かった。
薩摩藩の”富国強兵”は最早、秘密裏のものではなくなり、溶鉱炉や、ガラス、ガス灯といった産業を興し、西洋の軍艦すら建造するという。
当然、牙朗も若い衆の会合に呼び出される様になった。しかし牙朗は、この手の政治的な話には一切興味がなかった。
彼の興味……外国というものは、一体どんな所なのであろうという一点に集中した。
十八の時、琉球との密貿易を探ろうとした甲賀のくノ一を初めて斬ったあの日、”何故そんな事をしているんですか?”
ほおづきに問われたあの日から、彼にとって琉球と海外というのは、忘れられない存在となった。
牙朗は藩に自分を琉球で諸外国との交渉人を守るお役目を頂く事を強く望んだ。普通なら京や江戸へ進出する事を望む所なのに、何を好んで琉球などと…理解が出来んと言う者ばかりであった。
そんなに行きたきゃ行くが良い。藩は彼の琉球行きを認めた。
琉球出発の日、彼を見送りに来たのは、愛する妻……ほうづきと子供達だけであった。
牙朗は華恵を抱きかかえ、その頭を思い切り撫でた。士朗には母さんと妹を頼むぞと言って、その小さい両肩を叩いた。
「では、行ってくるぞ」
牙朗は標準語で別れを告げた。諸外国との交渉に顔を出す者は、まず薩摩の訛りを直す事を要求されたのだ。
「か、まこち、まこち(本当に)帰ってきてくいやんせっ!」
「おうっ! 必ず帰って来る。それまで頼む!」
涙を堪えながらほおづきは、旦那の船が見えなくなるまで手を振り続けた。
旦那の別れ際の挨拶……標準語でこそあるが、発音の訛りまでは抜けていなかった。
◇
「で、アドノス島への貿易船に密航したのさ。と、まあ俺の方はこんな所だ。たいして面白いものではないだろ?」
ガロウはローダの意識に語りかけた。
「ガロウ、それでお前の探し物は見つかったのか?」
「探し物かあ…うーん、正直まだ良く分からん。今はお前らと一緒に戦っているのがまあ、それなりに楽しいぜ。きっとあのまま国元にいたらこんな経験は、出来なかっただろうな」
ガロウはニヤっと笑ったが、ローダは真剣な顔つきを崩さない。
「牙朗、必ず帰らないといけないな。神籠もる島(鹿児島)へ」
ローダの言葉に一瞬ハッとしたガロウであったが、すぐに笑い返した。
「おぅ、当たり前だ。俺は必ず帰るぞ、俺の家は、あそこしかないっ!」




