第1話 煽りを入れる小さな船頭
穏やかな波間に浮かぶ船上に一人の青年と、まだ14にも満たない男子が居た。
穏やかとはいえ真夜中の海に浮かぶその船は、小川を流れる笹の葉の様に頼りなく周りからは映るであろう。
しかしながらその笹を操る男子の目は、自信に満ちておりその口元には、余裕の微笑みさえ浮かべていた。
船の後方にはエタリア国の港町、ルークの街並みが広がっている。エタリアは陽気で派手を好む人が多い。
この街も例外ではなく、街の灯り、灯台、煌びやかな装飾を施した建物群が、宝石の様に優雅に映える。
一方、船の向かう方はまるで別世界の様に暗く、灯りなど殆ど見えない。実に薄気味悪い雰囲気だ。
「だけどどうしてあんな島に行くのさ?」
船頭である褐色の少年がこの質問を言うのは、これで何度目であろう。
「それ、何度目だ。どれだけ聞かれても答える気はない」
青年は面倒臭い顔を隠す気もなく言い放って押し黙る。
不愛想な青年が身に着けている銅製の鎧。
余程長い旅でもしてきたのか、煤けてはいるものの、紋章の様な模様が描かれている立派な業物である事が判る。
腰に下げているロングソードの鞘も同様の装飾が施されていた。
髪はボサボサの黒髪で無精髭も生えているが、けれども眼光の奥には何か鋭いものを感じ取れる。決意を感じる整った顔立ちである。
自分と兄弟達が食べていけるだけの漁を生業にしている褐色の少年ことディン。
この青年は良い家の出身か、何処かの王族の騎士見習い位の地位はある人物であろうと勝手に解釈していた。
「………あの島に渡りたい、これで頼めるか」
10日程前のこと、この青年は少年の元を訪れると、美しいエメラルドが輝く腕輪を目の前に無造作に置いてそう告げた。
少年は何か訳ありだなと容易に理解した。男達の大半が船乗りであるこの街で、自分の様な子供を選んで声を掛けてきた。
そして何よりも希望する行き先が異常なのだ。
島国アドノス。大陸と比べたら矮小なので島と呼ばれる存在ではあるが、一周すると1500Kmはゆうに超える程の中々に大きな島だ。
6つの自治区と、そしてそれらを統べるフォルデノという国があり、数千人が暮らしている。
加えて大陸の国家に全く引けを取らない軍事力と貿易で栄えている場所であると伝えられている。
ただこの島から良い話は全く聞かない。絶えず戦争をしていて、その戦列にはゴブリンやオークといった人型の化物。
それどころかドラゴンの様な御伽噺にしか出てこない化物すら生息していると言われているのだ。
だからアドノスに渡してくれと船乗りに頼む人間は、全て訳ありで普通の船乗りは相手にしないのである。
ところがこの少年、ディンは変わり者であった。まあ若さ故の好奇心もあったのであろう。
ひっそりとアドノスに渡っては、裕福な連中しかお目に掛かれない装飾品等を拾って来て悦に浸っているのであった。
そんな噂話がこのだんまりした青年に伝わってしまい、今に至るのである。
ディンがアドノスに渡るのはいつも夜。彼の頭の中には海に潜む岩礁の一つ一つが入っている。
そして何よりもこの"訳ありの青年"を訳ありの島国に輸送する事は、冒険心を擽る楽しみのひと時なのだ。
ただ変わり者の自分に声を掛けてきた事と同じ、いやそれ以上の変わり者である青年と、もっと話がしたいという欲求を満たしたくて仕方がない。
好奇心旺盛な少年にとって穏やかな夜の海は、余りにも静か過ぎた。
「なあっ!」
ディンは鬱憤を吐き出す様な声を出す。青年は面倒そうな視線を送ってくる。ディンは構わず続けた。
「どいつもこいつもアンタの頼みを断ったろ? 答えを聞くまでもねえ、門前払いされたろ?」
ニヤニヤと意地の悪い顔で青年を見ながらさらに続ける。
「藁にもすがる思いでアンタは、俺の所にやってきた。そして俺はあの悪名高い島にアンタを送ってやろうとしてんだ。理由くらい喋るのが礼儀じゃないのか!?」
意地の悪い視線を送りながらディンは、揺さぶりをかけてきた。
青年はひとつ溜息をついてから、観念して「面白くない話」だと口を開いた。
「俺にはルイスという兄がいる。正確には血は繋がってはいない。俺は兄さんの家、ファルムーン家に拾ってもらった。本当の親の事は全く覚えていない」
青年は夜空を見上げながらボソボソと喋る。まるで感情を何処かへ置き去りにしたかのように。
話を切り出したディンの顔から先程の意地の悪さは消えて、青年の方をじっと見つめる。
「ファルムーン家は代々王宮に仕える騎士を育てている家だ。父さんも母さんも、そして兄さんもみんな俺に優しくしてくれた。特に兄さんは本当にとても優しく、そして天才だったよ…」
「………」
「18で近衛騎士に任命された。史上一番の若さだって、父さんなんか大はしゃぎしてたよ。俺なんか剣の腕じゃ練習相手にもならないのに、優しく剣を教えて貰った」
淡々と表情を変えることなく青年は続ける。
「あ、うん……」
一体何の話だろうとディンは思い、首を傾げる。
「騎士団の中でも近衛騎士ともなれば毎日、王の御前に出向く。当然ながら勝手な国抜けなど許されない………」
此処で青年は一度言葉を切る。呆けているのではないかと心配になる程であった星空を見上げるのを止め、不意にディンの方を向く。
「けれど兄さんは20歳を迎える成人の儀式の日に、突然いなくなってしまったんだ」
明らかに青年の声色が変わり曇った生気が宿る。加えて話は、突如重く暗いものへと変わるのだ。
「兄さんが居なくなった時、残りの近衛騎士9人が皆、死んだ。どの死体も人の死に様とは言い難い惨たらしいものだったらしい」
当時を思い出した青年の顔が歪む………まるでその「惨たらしいもの……」を目の当たりしていたのではと思える程に。
「そ、それって……」
驚いたディンの挙動で船の床板が軋んで小舟が細やかに揺れる。少年の動揺を示すかのように。
「そんな訳があるかっ!」
ディンの発言を容赦なく遮った青年。一瞬睨みつけてから我に返り、軽く詫びる様に頭を垂れてから、再び視線を夜空に戻す。
「すまない……悪かった。皆、今のお前と同じだ。父さんまで兄さんがやったと怒り狂ったよ。でも俺はあの優しい兄さんがそんな事をしたなんて、全く思っちゃいないんだ………する訳がない」
「そうか、うん、そう……だよね」
青年は元の口調に戻ったが、実は平静を取り繕っているのだろう。両拳を握りしめている。その手は少し震えていた。
ディンも平静を装うことに決めた、思ったことを素直に言い過ぎたと少し反省する。
海だけは、そんな二人を知る由もなく穏やかに包んでいた。