番外編 エルレアの静かな愛に囚われたルイス
《このお話は書き直しにあたってカットしたのですが、少し勿体ない気がしてきたので少々手を加えて再掲させて頂きました》
ルイス・ファルムーン15歳。夏、早朝の事だった。夏は暑い、この国でも相場が決まっている。
だから彼は毎朝涼しい早朝に起床して、剣術の自主練の時間に当てていた。通学している騎士学校で既に好敵手がいない。
それにも関わらずこのような研鑽を彼は決して疎かにはしない。
弟ローダも起きられた時だけは付き合うのだが、ほぼ朝陽と同時に向かえる朝練に付き合う程、ストイックにはなれなかった。
兄も無理に誘うつもりもないので、大抵一人であった。まあその方が気楽というものだ。
この日もやはり起きられたのはルイス一人であった。14歳から通っている学校の指導と、もっと小さい頃から父ラムダや、ファルムーン家に雇われている戦士達から習った事を実直に熟す。
彼は体格に恵まれた事もあり、この家で最も強かったと言われる初代と同じ、両手で握る大剣をこの若さにして既に愛用していた。
早朝とはいえ夏、重い大剣を振るっていれば自然と汗だくになるのは、仕方がない。流石に少し休もうと木陰に腰を下ろした。
「あ、あの……」
余程疲れていたのか、相手の影があまりに薄かったのか、その震える様な小さい声を掛けられるまで気がつかなかった事に驚きと恥を覚えた。
一体、いつからそこにいたのであろうか。一般人の気配に気がつかないとは、未熟だと思った。
黒髪の線の細い女子は、背後に立って何かを握っていた。しかし手渡すタイミングを逸している。
普段自分に声を掛けてくる相手に比べたら影も色気も正直薄い。でもだからこそ赤みが差した顔の初々しさがかえって胸に奇妙な違和感を刺してきた。
「こ、これ、も、もし良かったら!」
深々と頭を下げながら告げる言葉とは裏腹に、半ば押しつける様に渡してきたそれは、冷水で冷やしたタオルと水筒であった。
まるで告白の手紙でも渡すほどの度合いで差し出したものがこれである。本当に初々しいにも程がある。さらに踵を返して何も求めず立ち去ろうとした。
「ま、待ってくれっ!」
「い、痛いっ!」
「ああ、ご、ごめんよ。そんなつもりじゃ……」
慌てて少女の右腕を掴んだので、ルイスは少々掴む手に力を入れ過ぎてしまう。とても細くてか弱いの手本になりそうな感触だ。
悲鳴を上げられたので慌ててその手を離したが、何故か相手は逃げなかった。ただ何も発せず、何も出来ずにモジモジしているだけである。
ルイスはその場を何とか取り繕りたい。脳をフル回転させながら、目前の女子を見ていると、ようやく気がついた事を言葉に乗せる。
「君は確か、この間の学園祭を観に来ていた……」
「わ、私のことを覚えて下さってっ! い……いたんですか?」
ルイスが言っているのは、成績優秀な生徒6人による学園祭で行った模擬戦の事である。観客が100人は座れそうな、それなりの会場だった。
観客席は満員であったのにルイスは彼女の事を覚えていた。
入学2年目にして、既にその6人に入るルイス。その上、容姿端麗となると、泥臭い剣術試合なんぞを観戦に来る同い年位の女子が後を絶たないのだ。
大きな黄色い声援で、自分をアピールしてくれる子が多い中、両手を握り締め、神に勝利でなく無事を祈る様な姿の黒髪の娘が確かにいた。
それがこの女子であった。他の娘達と違う行動が、かえって印象を強くしたのだ。
試合の結果はルイスの圧勝。先述の通り、2年で卒業したその年目なのだから、既に頭角を現していた最中。当然の結果だといえる。
この男、相手は全て先輩達の中、試合だけでなく観客の物色をする程の余裕を持っていたようだ。
「嗚呼、まるで命を賭した決闘を見つめる様な態度でいられたら……ねっ」
「あっ……」
(は、恥ずかしいぃ……)
片目を瞑って寄越してきた片思いの彼からのまさかの逆アピール。まるで高熱を患ったかのように真っ赤に染まってゆき、クラッと来てその場にへたり込んでしまった。
「お、おぃ……大丈夫かい?」
そんなか弱い彼女の背中をさりげなく支えてやる事を決して忘れない。名前も知らない女性へのその気配りは、騎士道の範疇を超えている。
女子の方は、もう鼓動が相手に伝わる事を判っていながらもどうにもならない。ルイスの方は思わず悪戯心が芽生えてしまう。
「これ、ありがとう。この暑さだよ、どんな差し入れよりも正直助かる」
「あっ……いえ、そ、そんな。大袈裟です……」
「名前……」
「えっ?」
「君の名前だよ、聞かせては貰えないかな……。あ、失礼。僕はルイス・ファルムーンだよ」
「……ぞ、存じておりま……す」
頂いたタオルで身体を拭いながら、彼女の背もたれになる事を決して止めようとしない。そして無遠慮に名前を聞いてみた。微笑みを絶やさずに。
自分の名を先に告げるのを忘れていた無礼を詫びるのだが、この少年の行為はわざとだ。
しかもあの模擬戦で優勝したのだから名前など知れ渡っている。相手が自分の名前を既に知っていることなぞ承知の上だ。
聞かれた相手は暫く応じられなかった。息を整えるのに必死だったからだ。少し間を置いてから、ようやく呟く様な声で発した。
「エルレア……」
「エルレア? えっとエルレア……」
「あっ、は、はい。そ、その……エルレア・シアーティン……です」
下の名だけで終わらせようと思った。勿論、目を合わせる事は出来ない。それなのに相手は、此方の顔を覗き込んで来たから堪らない。
過呼吸になりはしまいか? 必死にフルネームをどうにか言えた。「ティン…」の辺りは小声過ぎてルイスが聞き耳を立ててなければ聞き漏らしたことだろう。
エルレア・シアーティン。城下町で家具屋を営む店の一人娘。一応それなりの店ではあるが、高級貴族であるルイスと自分は、つり合いとか考える事すらおこがましいと思い込んでいた。
けれど今、現実に彼は、自分の顔を見つめながら爽やかな笑顔で話し掛けている。ほんの出来心からまさかこんな事になるなんて。
(な、何を話せば……)
千載一遇のチャンスが目前にある訳だが、これを活かせる様な胆力が、エルレアにはない。
身体を拭き終えた憧れの相手は、自分の右手をそっと握ると、その手の甲に口づけをした。
「あ……あっ!?」
「ありがとう、エルレア・シアーティン。その名前、覚えておくよ。今度、僕の家で何かあった時は、必ず君を招待する。また会えたら嬉しいっ!」
「え、え、えぇぇ……?」
思考が全く追いつかないエルレアを置いて、ルイスは爽やかな笑顔と口づけの余韻を残して去ってしまった。
そして季節は秋になった頃、収穫を祝う宴の招待状と、これまで見た事もないドレスが、高級貴族ファルムーン家の御子息より届いた。
ドレスの包みを開いたシアーティン家は、一家を上げての大騒動となったのは言うまでもない。
宴では夢見心地でルイスと踊った。しかしルイスは意地が悪いのか、或いはほんの遊び程度でその気がなかったのか。
それ以上彼女との関係を縮める様な事はせず、友達の間柄のまま、あの成人の朝を迎えた。
エルレアにしてみれば、彼が大人を迎えたその日に、心臓が飛び出る思いで、自らも少女から女性への階段を駆け上がろうと着々と準備していたのだ。
この様な想いは、男子のいい加減なそれよりも、余程熱い覚悟があるらしい。
彼はちょっとした出来心で自分に接してきた事を正直判っていた。ならばこそ、だからこそ、此方から押しに押すのだ。
エルレアという女性は、ルイスが思う程、細い人間では、なかったという訳だ。
マーダという邪魔が入るまでもなく、この愛想の良い優男は、いつの間にやら彼女の細い腕に絡み取られていた訳である。