第20話 お互いに錆無き想いを
ローダとサイガンの二人が武器商人を訪れた、その日の夜のことである。
ローダはこの街で一番洒落たレストラン、それも5階建ての最上階にある眼下にはフォルテザの港が一望出来る最高の席を予約していた。
それをルシアとサイガンへ向けて当日に告げたのだ。ついでに「一応正装して来るんだよ」と付け加える。
女性にしては服装に無頓着なルシアのこと、正装と言われるとあの時に着た青いドレス以外に思いつかない。
「こ、これは一体……」
「どういう状況なのだ?」
とにかく訳が判らないが約束の時間には、どうにか間に合ったロットレン親子である。
ルシアに続き、サイガンが言葉を引き継ぐ形でローダに現状を問いただすが、先に待ち受けていた当人は、ニコニコするだけで何も答えようとしない。
やがて朱塗りの膳に載せられた食事が運ばれて来る。ルシアにとってそれは全くお目にかかった事がない料理の数々。皿ですら見た事がない。
一方のサイガンにとっては、実に350年以上振りに見るものであり、目を丸くして驚く品であった。
「さあ、先ずは乾杯という事で」
「いや……待って。この料理も、そしてこのグラスに注がれたのはお酒? これも嗅いだことがない香りだわ」
「まあ、いいじゃないか。詳しい事は後で話すよ」
ルシアどころかサイガンさえ、まさかのローダが食った形で晩餐が始まる。ローダの元貴族が如何なく発揮される。
グラスが美しい音を奏でたのに続いて、ピアノの生演奏が始まり、親子の落ち着きのなさが、さらに顕著となる。
しかしルシアはともかく、サイガンの方はいい加減に年長者として、ローダのこの演出に気づいても良さそうなものなのだが、余程こういう事に縁がなかったらしい。
「えっ、何、このお酒。凄く飲みやすくて美味しい。透明だから白ワインかと思ったら全然違う」
初めての香り、そして口にしたその味にルシアのテンションは一気に跳ね上がり、酒に弱い顔は瞬く間に朱に染まる。
「こ、これは日本酒ではないか? それにこれは日本の懐石料理だ。ローダ、お前こんなものを一体どうやって……」
日本通のサイガン、懐かしい日本酒を嚙みしめる様にゆっくりと、舌の上で転がす様に味わう。
「ね、ねえ。これどうやって食べれば良いの?」
ルシアはフォークもスプーンもなく、代わりらしい2本の棒きれが入った袋を指差しながら戸惑っている。
「ああ、これは箸と言ってだな。この様に使うのだ。あ、そこの小皿にこの黒い醤油というものを注いでから、少し浸して食すのだ。この様にな」
サイガンがルシアにレクチャーする。ローダも食し方を知っているが、あえて父親に丸投げし、そのぎこちない様子を眺めて楽しんでいる。
いきなり箸をこう使えと言われて出来るものではない。サイガンはルシアの手を取って、教える羽目になる。
「この緑色の塊は?」
「これは山葵と言ってだな。その刺身という料理に付けて……ああ、そんなに付けてはいかんぞ。鼻がやられる」
食事の仕方すら知らない子供に教える様なものだ。もう我が娘から目が離せない。
「この赤身に白い脂がさしてる贅沢な生肉みたいなの。このまま頂くの?」
「ああ、そうだ。これは鮪という魚の大トロというものだ。そう、さっき言った通り、醤油とほんの少しの山葵をつけてだな……」
サイガンが先ず手本を示し、ルシアもぎこちない手つきでそれに習う。
「んっ? んんーっ、な、何これ? 口に入れてすぐに溶けてなくなっちゃった! それにこの山葵? 鼻にいい香りが抜けて……嗚呼」
「そちらの白いのも違った美味さがあるぞ……ん? これは鰤ではなく、間八?」
親子の共同作業みたいな食事が続く。サイガン、ルシア共々、一喜一憂が止まらない。
そんな事を続けているうち、サイガンはようやくローダの意図を汲み取った様で、箸を休めた。
「そうか、そういう魂胆か……この若造め」
サイガンの言葉にルシアもがっつくの止めることにした。
「全く……思えばこうやってルシアと二人で、楽しい食事をした事など皆無であった。私が与える食事と言えば、実に粗末なもので、食事を楽しむという行為自体、教えてやれなんだ」
「おじい……じゃない、お父さん」
サイガンの言葉にルシアは、これまでを思い返し、ハッと息を飲むのだ。
(私に父親としての経験値《試練》を与えた次第か。全く、実に小憎らしい………)
「心から感謝するぞローダ。さあ私に見せてくれ。お前が私の息子になる所をな」
「え、えっ!?」
サイガンは目を細めながら微笑む。ルシアはサイガンの言葉に驚きを隠せない。
それを聞いたローダは少し強く手を叩いて合図を送る。
すると店のマスターがやって来た。何やら小さな箱をらしきものを膳に載せ、上には白いシルクの布が被せてある。
「この度は、この『三毛猫亭』を御婚約の場に選んで頂き、恐悦至極に存じます。さあ、どうぞミセス・ルシア様」
「はあ……えっ!? あ、は、はいっ!」
ルシアは酔いもあってか、マスターの言葉を解せず、間の抜けた返答をした。気が動転しているので「ミセス・ルシア……」が判らないのだ。
とにかく勢いでもって大きな返事をするのがやっとだ。
白い布を剥がしてみると、掌に乗る程の箱があった。これまた純白で、ある意味飾り気のない箱。ルシアはそれをゆっくりと手にとって蓋を開く。
その中身の輝きを見て、ようやく状況を受け入れるのだ。心臓の動きに呼応して全身が小刻みに揺れ動くのを抑えられない。
「あ、ああっ………」
箱の中身を見たルシアは、思わず泣いて声を失ってしまう。歓喜、感銘、ベランドナに手伝いを乞い化粧した顔が崩れてしまう。
「失礼する、そしてお父様。俺がこれからやる事にどうかお許しを」
ローダは箱の中身を取り出すと、ルシアの左手を恭しく握り、美しい薬指にその輝きをそっと優しくあてがう。
加えて今度は、自分の胸元に隠してあった同じ箱を開き、同様に取り出すと、これをルシアに無言で渡す。
………返答ではなく、同じ事を自分にする様に要求する。或る意味酷い、生涯に一度きりのことだというのに否定を許さない。
(全く、何も言うつもりもないが、完全に色んな事をすっ飛ばしておる。第一それは、婚約指輪ではなく結婚指輪ではないか)
この飾り気のないプロポーズに思わず苦笑する父親。娘どころ父にも否定される未来を想定していない、真っ直ぐにも程があろう。
ルシアは未だに泣く事を止められずに、黙って頷くとローダの大きくごつい左手を握る。
(逞しい手……)
とても今さらな事をルシアはふと感じた。これまでこの手を繋いだことを思い返しつつ、薬指にはめる事で返答とするのである。
途端に歓声と拍手が沸き起こる。一体どこに隠れていたのか、仲間達が現れて次々に祝福やら冷やかしが飛び交う。
サイガンはスッと席を立つと、窓際に座っていた娘を《《息子》》の隣の席へ移る様に促した。
「皆、ありがとう。ルシア、心から感謝する。そして義父さん、僕は今日から『ローダ・ロットレン』を名乗ります」
「な、何だと。いや…待て、それは、それだけは幾ら何でも承服しかねるぞ」
ローダの今回のサプライズ、知らなかったのはルシアとサイガンだけ。……と思いきや、誰にも知らせていない発言が飛び出した。皆も当然騒然と化す。
サイガンだけは冷静を装って、その申し出だけは否定する。
「いえ、これはもう決めた事です」
「ローダ、貴方本当にいいの? ルイスがお兄さんでなくなるって事よ」
ルシアもこれは手離しで喜ぶ訳にはいかないと思う。ファルムーン家はローダの生まれた家でこそないが、家にルイスを連れ帰ると約束した筈だ。
「いい、いいんだ。何も兄貴と縁を切るという話をしている訳じゃない。姓は変わってもルイスはこれからも俺の大切な兄だ。必ずファルムーン家に連れて帰る。それは何も変わらない」
「じゃあ、どうして……」
「俺は……このローダは、ルシアだけでなく、その父も心から愛する。ロットレンの血筋をここで絶やすのがどうしても嫌なんだ」
相変わらず真っ直ぐに返してきたローダ。これにルシアはさらに涙し、ローダの事を横から抱き締めずにはいられなかった。
「良いですよね? 義父さん」
「フンッ、いいも何もお前が言い出したら聞かんのは、今に始まったことじゃないからな。好きにしろ」
何処までも実直な息子に対し、サイガンは目を逸らしつつ勝手にしろという態度だ。
なれど態度と心情はあべこべで、本来なら自分もみっともなく泣いてしまいたい気分である。
「もう何も言うまいと思っていたのだが、見た所その指輪、金どころか白銀ですらない。宝石の一つも入っておらんではないか? そんなもので本当に良いのか?」
サイガンの見立て通りこの結婚指輪。一応削り加工で少々凝ってはいるものの、一生ものにして良いのかという代物なのだ。
これがあの武器商人にローダが追加で依頼した癖に「後で届けてくれ……」と告げた品の正体だと知る。
「えっ、私、これ凄く好きよ? 確か錆びにくいステンレスって材質よね?」
サイガンの質問に応じたのは贈り主ではなく、贈られた方である。
「そう、それだ。ステンレスだぞ? もう味もそっけもない工業用品の様な材質だ。子供の玩具みたいなものだぞ?」
「だからいいんじゃないの。『Stains Less』私達の想いは決して錆びない、最高じゃない。これ以上のものは望めないわ」
仮にも父親として何か言わないと気が済まないといった態度のサイガン。
それに対して娘は、ガロウの示現流の如くバッサリと斬って捨てると、ローダの肩に寄り添って、恍惚の表情を夫へ向けるのである。
父は溜息をついてからヤレヤレといった感じで、苦笑いするのがやっとであった。