第5話 嫌いな母の剣を相伝する息子
父・一誠にとって負け知らずの左下段の構え。ほんの少し前の士郎であれば父からこの態勢を引き出せただけで興奮が抑えきれなくなる処だ。
士郎が真逆というべき珍しく最上段に構える。ただでさえ下段を得意とする相手に向かったこの構えは愚策に見える。
(誘っているつもりか……)
一誠がそう考えるは道理。最上段からの士郎の振り下ろしよりも、自分の剣が先に届く。これは必然に思えた。
空の雲はさらに重くなり、雨が強かになってゆく。まだ少し遠いが稲妻の音も響いている。
「はあッ!」
士郎が鋭い掛け声と同時に竹刀を振り下ろし始める。
(鋭い! だが!)
一誠は定石通り、竹刀を振り上げる。先に俺の竹刀が士郎の腹を割る。間違いなくそういうタイミングであった。だが一誠の竹刀が虚しく空を斬る。
(なっ!?)
一誠の竹刀の先には、士郎の腹どころか足すらなかった。士郎は振り下ろしを途中で止めて、一誠の竹刀の上まで跳ね上がったのだ。
このぬかるみの中での跳躍、何より見事なのは一誠が竹刀を完全に振り切って、戻せない所まで引きつけた事だ。
「ぐッ!?」
竹刀を握ったその手に激痛を受けて、柄を握っては要られなくなる。士郎はただ上に跳躍したのではなく、少し後ろ向きに飛んで、一瞬止まった一誠の手に向かって竹刀を振り下ろし、それを見事に的中させた。
一誠は手から零れ落ちた竹刀をただ見つめるしかなかった。
「参った、完敗だ」
痛い手を抑えながらも一誠は、目で笑いながらそう告げた。士郎は父から初めて聞いた敗北宣言に浮かれてしまいそうになるのを必死に堪えて、袴が泥にまみれるのも構わずに竹刀を置いて正座した。
「あ、ありがとうございました!」
そして深々と頭を下げる。もう全身泥まみれで、とても勝者の勇姿とは思えない。
「………もう良い、頭を上げて早く家に戻るのだ。風邪をひく」
そう言いながら落とした竹刀を何とか拾い上げようと一誠は、動こうとしたが、先に士郎が動き、父の竹刀をすくい上げた。
「ふふっ……全く、これでは立つ瀬すらない」
これにはもう苦笑いで応えるしか術を持たぬ一誠である。
「す、すみませぬ父上。出しゃばった真似を」
「良い、良いのだ。今宵の酒は美味そうだ」
泥だらけの息子の頭を撫でながら、父は満面の笑みになった。
◇
そしてさらに2年の歳月が流れる。士郎は一誠の小柄を活かした素早い剣術をしっかりと自分のものにし、さらに昇華させていた。
16になっても父親譲りの小さい身長は相変わらずで、然しだからこそ、士郎にとって唯一無二の極みを目指せる剣術が父のそれであった。
とある日、とても寒く表に出るのが億劫な一日であった。早朝に降り出した小雨は、夕方には氷の粒に変わっていた。
「………雪か、珍しい。こんな日に父上は何処へ往かれたのだろう」
もう陽が落ちる。全身の雪を払いながら、士郎は家に戻った。エレーヌはこんな日、絶対に表どころか自分の部屋もろくに出ない。火鉢の前で、布団を被りながら、ただじっとしている。
「………母上、薬湯をお持ちしました。入ります」
「あ、ありがとう。ごめんね」
士郎はやれやれといった思いを抱えながら、それでも薬湯を母の元へと運ぶ。
エレーヌは少し咳込んでから、その声に応えた。
「起きていて大丈夫なのですか」
「士郎、私の故郷は、白い雪に覆われた日の方が多いのですよ。だからね、雪を見るのは好きなのです」
正直心配などしていないのだが、挨拶代わりに尋ねてみる。だいぶやつれた顔で、エレーヌはニコッと笑った。
「は、はあ………」
「………の、割には寒いの苦手なのよね。本当に困ったお母さんだわ、私は………」
士郎のつれない返事を見透かした様なことを母は笑顔のまま返すのである。
「いや、決してその様な事は……」
否定しながら顔を逸らす士郎。母の事となるとどうにも顔に浮かぶものを隠せないらしい。修行が足りないと思った。
その時、玄関の引戸を開ける音が聞こえてきた。
「か、帰ったぞ、はあ………参った参った。まさか雪になろうとは」
一誠は頭も肩も雪で真っ白で雪だるまと化していた。玄関を開けたは良いが、先ずは雪を払うのが先であったと、積もったものを払い落とすが、そのそばから新たな雪が載ってゆく堂々巡り。
見かねた士郎が、傘を開いて父を中に入れた。
「全く、こんな時間迄どちらに……っ!?」
士郎は言いかけた口をハッと閉じる。一誠の握っている細長い黒い包みを見てからだ。
父は息子の視線に気がついて、少しだけ目で笑うと「さあ、家に入ろう」と促した。
一誠は着替えもせずに、まず妻の部屋を無遠慮に開いて中に入った。士郎も後に続く。
「まあ、おかえりなさい……」
エレーヌも士郎と同じ反応を示した。一誠はニヤリッと笑うと、その黒い包みを床に置いて開いてみせた。
士郎もエレーヌも声を失った。包みの中身、それは最早この家の御神刀ともいうべきエストックであった。
鞘ごとそれを士郎に突き出した一誠。ゴクッと息を飲みながら士郎は、恭しく両手で受け取った。
ズシリッと重みを感じるのは、物理的な重さのせいだけではなさそうだ。
「……抜いてみろ」
一誠はニヤッと笑いながら士郎が期待する言葉を告げる。士郎は再び唾を飲んでから、剣を鞘からゆっくりと引き抜いた。
「こ、これは……」
エレーヌはその刀身を見て絶句し、加えて涙が勝手に溢れ出るを止められなくなった。ボロボロのもう刃などと呼べる代物ではなかった筈である。
なれど見事な業物へ蘇っていた。その剣を握る我が息子が、愛した兄の姿と重なり、益々《ますます》涙を止めるのに難儀する。。
「苦労した。俺の身上を理解してくれる刀鍛冶を探す事。しかもそんな剣など捨ててしまえと言われる事を説得する事。実に難儀であった」
エストックの刀身をひたすらに見つめ続ける士郎の興奮が冷めることを知らない。
けれど士郎自身、本来はこんな洋刀ではなく、日本刀が欲しいと恋焦がれていた。
(何と、此処までしっくりくるとは………)
一誠はエストックを握る士郎を見て思った。嗚呼……士郎とこの剣は、こうなるべく運命だと。
「士郎よ、その剣は今日からお前のものだ。それを腰に差せ」
「え……こ、これは父上が?」
息子の言葉に父は首を横に振る。然し剣を捨てた寂しい面持ちでない。
「俺は、もう刀を捨てたのだ。それはこれからも変わらぬ。その剣は日本の武士道と北欧の騎士道を継いだお前にこそ相応しい」
優しくも爽やかな顔で微笑む一誠。そして妻の方に視線を移す。彼女も全く同じ想いであったらしく、涙を流しながらコクッと頷いた。
「こ、これが俺の剣……」
士郎は剣の柄を両手で握り、高々と上げながら呟いた。
…………その時であった。玄関を激しく叩く音が聞こえていた。
「御用改めである! 大人しく家を開けよ!!」
「なっ!?」
御用改め…………士郎はその言葉に我が耳を疑った。
(くっ! あの鍛冶屋め。俺を売ったのか? 初めからそのつもりだったのか!)
一誠は声には出さず、舌打ちだけした。
「ち、父上、御用あらた……!?」
「士郎、エレーヌ、お前達は、奥の部屋の窓から逃げるんだ。いいな?」
一誠が士郎の言葉を遮り、声量を下げて指示を出した。
「いや父上、意味がわかりません。何かされたというのですか!?」
一誠は士郎に自分の人斬りの罪歴を話してはいない。いや……全く話をしていない訳ではない。だが敵を斬ってきたという伝え方しかしてこなかった。
敵を斬る行いが罪になるというのが、士郎に解せなかったのだ。
「士郎、ここは父上の言う事を聞くのです」
エレーヌが珍しく士郎の疑問を切って捨てた。さらに士郎の袴の裾を掴み、奥の部屋へと引っ張ろうと躍起になる。
「河浪一誠、いる筈だ! 返事をせよ!」
再び外から荒々しい声が家の中に飛び込んで来る。
(……最早、これまでか)
「士郎よ! 今こそ母を護る時だ! そしてその剣を頼んだぞ」
声量こそ小さかったが、ハッキリとした口調で伝える一誠。後は士郎とエレーヌの二人を少々荒々しく押し飛ばした。
そして竹刀を掴むと、次は玄関先に向かって一目散に駆けてそのまま玄関を蹴破った。
「なっ!?」
「何をする!?」
玄関先に待ち構えていた二人の武士は完全に面食らった。けれど一誠の得物が刀ではなく、竹刀であったことに安堵する。
一方、一誠にしてみれば家にやって来たのが、奉行所の同心などではなく、正式な肥後藩の藩士であった事に苦笑せずにはいられなかった。
此方を未だ名を馳せた人斬りだという理解で、腕に自信のある者を寄越したに違いなかった。