第4話 忠義を捨てた男が拾った新たな忠義
日本の九州地方にある肥後藩。有明海を望む何もない田舎に『士郎』は生を受けた。父はかつて脱藩して、長州藩に身を寄せて、数多の要人の命を散らした人斬りであった。
その剣の腕前で、京の都に知れ渡る程の実力者となったらしい。
なれど哀れ周囲の評価等というものは、その時の都合で移りゆくものである。
その変心の残酷さ、父の剣術一つでどうとなる様なものではなかった。
実行犯であった彼一人に罪が押し付けられ、危うく死罪になるところを必死に難を逃れ、生まれ故郷まで帰って来られたまでは良かったが、此処でも彼は悪とされた。
そこで髷を落し、帯刀すらせずに、素性を隠してひっそりと暮らしている。
数年孤独で生きていた士郎の父は、有明の浜で女の漂流者を拾った。
瞳の青い、明らかに異人の女……聞けば長崎に向かう船が、荒波で転覆し、この浜まで流れ着いたのだという。
父は元々、この異人を受け入れる輩を悪を断罪し、斬り捨ててきた。
けれどそれは彼の意志ではなく、彼を人斬りとして使った者の意志であった。
それに何より独り身。互いに孤立無縁となってしまったこの二人が、夫婦になる………至極自然な流れ……そんな間に士郎は生まれた。
士郎は背の低い父親に良く似ていて小柄であったが、瞳の色だけは、母親譲りの青い目をしていた。
父は完全に刀を捨てていたのだが、この家には日本刀ではない剣が1本だけ存在する。
とても細身の両刃の剣。母が大事に抱えていた物で『エストック』という剣である。
母にとってそれは大好きだった兄の形見であった。
これを見た父は、もう捨てた筈の剣の道が、まさか異国の女からもたらされた運命に驚いた。
異国も剣も斬り捨てた筈であったのに、よもや向こうからやってくるとは。加えて自分に良く似た息子すら授かった。
やはり剣からは、逃れられないのだなと思わざるを得ない。
士郎6歳。父は別に稽古をつけているつもりはないのだが、棒切れで打ち合いをするのが日課になっていた。
帯刀していなくとも士郎にとって、父は憧れの存在であった。
一方父にしてみればただのお遊びであったのかも知れない。
しかし士郎がどれだけ創意を凝らした打ち込みをしても、いとも容易く受け流される。
最も少年と大人の武士では、力の差は歴然………よって必然なのだが、士郎にしてみれば、毎日悔しくて仕方がなかった。
やがてそんな士郎の打ち込みが、徐々にではあるが、鋭くなっていく。喜びと同時に、いよいよ自分と同じ道を辿りそうで、複雑な思いを抱いた。
とある日の夜、夕食が終わってから、士郎は父の部屋に呼び出された。部屋と言っても、正確には間仕切りで仕切っただけの、狭い部屋である。
士郎は父が大好きだ。改めて話を………などと言われただけで高揚する。
「士郎よ、”武士道とは死ぬ事と見つけたり”という言葉がある」
薄い茶を一口クィと喉に流し込むと、父は息子を真っ直ぐに捉えてこう告げた。
「どういう事ですか? 武士は死にたがりなのですか?」
「はははっ、そうではない。良いか士郎よ。武士は戦いの中に身を置く時には、死人と化すのだ」
「死人……ですか?」
真っ直ぐに父を見つめていた未だ幼くあどけない瞳の士郎は、首を傾げる。
「そうだ、命という限界を捨てるのだ。自らの命を惜しむから、人は本来の力を発揮出来ない。だから命なぞ無用。自分は最早死んでいると定義するのだ」
「は………はい」
「さすれば恐怖を克服し、己の全力を出すことが出来る。決して死に急げと言っているのではない。その境地で人は本来の力でもって忠義を尽くせるのだ」
「は、はぁ……」
遂に間の抜けた返事をしてしまい、ハッと自分の口を塞ぐ士郎である。
「ははははっ、今はまだ判らずとも良い。何れ理解する日が……いや、やめておこう。お前が元服を迎えた時、もう武士の世は終わっているかも知れぬ」
「そ、そんなの嫌です! 私も父上の様に立派な武士になりたいのです!」
「武士か、そうか。うむ、そうだな。武士と剣の時代は、残念だが必ず終わりが来る。然し……」
「しかし?」
「哀しきかな、人の世から戦いがなくなる事は未来永劫あるまい。その時は士郎よ、お前が母を守るのだ。それが武家の男子として生を受けた者の運命だ」
「は、母を……」
「嫌いか? 母が?」
何かを言いかけて口を閉じた士郎の言葉を父は拾った。士郎は完全に口を閉ざし、俯いてしまった。
士郎の母は、元々身体が弱かった。ろくに家事もこなせず、寝ている時間が多かった。父は文句を言う事なく、全ての家事を母の代わりにそつなくこなしていた。
士郎はそんな母が嫌いであり、父に関しても、これだけは譲れなかった。一家を預かる男のする事ではないと思っていた。
父『河南一誠』が、母『エレーヌ』を救ったのは約8年前の事。
一誠は長州藩の仲間から見限られ、脱藩したので肥後藩にも居場所がなく、最早生きる意味すら失っていた。
そんな生ける屍の様な彼が、有明の海で漂流していたエレーヌを見つけた時、宝石でも見つけた様な気分になった。
初めのうちは、体力が戻る迄面倒をみて、後は長崎にでも送り届けてやれば、彼女の祖国に帰れる算段がつくだろうと、その程度のつもりであった。
なれどエレーヌの儚き美しさ、優しさは、一誠を闇の底から引き上げてくれた。
エレーヌ自身もこの彷徨える空っぽの鎧のような男を救いたいとする特別な感情を抱いたのだ。
さらにエレーヌがもたらした兄の剣術の話は、西洋の剣と日本の刀という開きこそあるが、とても興味深いもので、彼の生涯と言えた剣に対する熱い情熱を取り戻させると共に、武士道とはまた違った騎士道精神というものに興味が沸いた。
特に男尊女卑が横行しがちな日本において、女性に重きを置く『レディーファースト』という思想がある事には驚いた。
ただ騎士道の信じる神のためだけに、命果てるまで戦うというのは、正直解せない、危険な発想だとも思った。
だが今や尊皇にも幕府にも見限られた自分も皇のためなら命さえ惜しまんと考えていた事を思うと大して変わらぬではないかと改める。
神か天皇か、仕える者と向かう正義が違うだけであったと、自分のこれまでの行いを思い返すと、実に無駄な血を流したものだ。
加えてエレーヌは、その弱き身体で世継ぎさえ産んでくれた。
婦人を重んじる騎士道精神だけではない。最早エレーヌは、一誠にとって忠義を尽くすに値する存在となった。
だからと言って士郎に武家の男子として生を受けた者の運命と説いている自らには苦笑せずにはいられなかった。
それは武家の習いではなく、完全に自分のエレーヌへの忠義を押しつけているのに過ぎないのだから。
◇
士郎は14になった。木の枝で一誠と打ち合っていたものは、竹刀に変わっていた。そして一誠は36。
士郎の若い剣と一誠の老いた剣。徐々にその差は縮まってきた。互いに防具は付けない。
士郎の生傷ばかりが増えていく時期はとうに過ぎていた。けれど確実な1本、勝者と言える一撃は未だ取れてはいなかった。
この日は雨が降って地面がぬかるんでいた。当然互いの足元を取られる状況であった。士郎は草鞋を脱ぎ捨て、素の足で地面をがしりと掴む事にした。
(ほぅ、思い切りの良い事だ)
一誠は息子がこの悪天候を好機とみたのだと肌で感じた。自分が一番得意とするい左下段、斜め下に剣先を向けた格好で構える。