第2話 黒服のジェシーと赤髪のジェシー
ジェシーの所属する組織とは、マフィアファミリー『コルオネ』。ボスのボディーガードとして雇われている事は、既に触れた。
ついでに述べると同ファミリーで、ボディーガードとして雇われている女は、他には1人としていない。
ジェシーがナナリィーを連れて、プライベートルームに同居する様になった時、周囲の連中の目は大変冷やかであった。まあ場所が場所だけに仕方がない。
然しジェシーはボスの直属という地位をいい事に、周りには目もくれずナナリィーを実の妹の様に溺愛し、さらには護身術と称し、自らの格闘技術を教える事にも余念がなかった。
ジェシーの格闘術はボクシングをベースに自己流も取り込んだ拳を使ったものだ。
さらに女性であるにも関わらず、そこいらの男性に引けを取らない身長を生かし、打ち下ろす様な右ストレートを得意とした。
長いリーチを活かし、相手を基本寄せつけないが、入り込まれたら下からアッパーを叩き込むのが彼女のスタイルだ。
ボクシングというのはあくまでも競技なのだが、それはグローブを付けた上での話。狙う所は基本人間の急所。
当然ジェシーのそれは、生身の拳が飛んで来るので、殺傷能力に秀でている。
幼いナナリィーは、意外にもその教えを次々に吸収していった。力しかモノを言えない世界で何も持ち得なかった彼女は、寧ろ喜んで厳しい鍛錬にも耐え抜いたのである。
ジェシーは初めて出会った時のナナリィーが、自分に悟られる事なく背中から裾を掴んだ時の事を決して忘れてはいない。
だから後は戦い方さえ指導すれば、彼女はきっと伸びると思っていた。ナナリィーは期待に応えたという訳だ。
ナナリィー16歳、女性の成長期を終える頃には、身長も急成長し、気がつけばジェシーとあまり変わらない身長になり、スパーの相手が出来る程の腕前になっていた。
こうなると冷やかであった周囲の視線もガラリッと変わった。ナナリィーへの悪口は完全になくなり、代わりに来たのは、中間幹部達からのボディーガード要請だ。
だがこれらはジェシーの方で突っぱねられた。彼女は決してナナリィーを、自分のいる薄汚れた世界に入れようとはしなかった。
無論、ナナリィーの人生はナナリィー自身が決める事なので、もし彼女が望むのなら止むを得ない。
自らがマフィアの世界に足を踏み込んでいながら、ナナリィーには同じ道を望まないと言うのは、随分な我儘だと承知はしているのだが、ジェシー自身は譲れないものがあった。
そんな2人の生活に突然の終焉が訪れる。ジェシーがファミリーから姿を消したのである。ナナリィー18歳の時である。
「ジェシーが消えた!? え? 嘘でしょそんなの!? ねえっ!!」
プライベートルームへ報告に来た男の襟を掴んで持ち上げるナナリィーの顔に悲壮と驚愕が入り混じる。
「じ、事実だ…それよりやめろ、息が出来ん……」
男に文句を言われ、ナナリィーが慌てて手を離す。男は床にそのまま落ちた。
「ゲホゲホッ、この馬鹿力が。い、良いか? これから貴様にボスからの命令を伝える」
「何ィ? ぼ……ボス?」
実に情けない姿の男は、床に転げたままの姿でマフィアの掟を伝えようとする。
さらに驚くナナリィー。先述した通り、中間幹部からの話は幾度もあったが、ボスからというのは初めてだ。
「そ、そうだ。ボスの命令は絶対だ。これからもファミリーに居たいのなら、言う事を聞くんだな」
「なっ……」
「おっと、どうせお前の事だ。ジェシーを追って私も、とか言うつもりだろ。やめておけ、組織を抜けた奴は必ず消される。判るよな、この意味が?」
男は埃を払いながら立ち上がりニヤリッと笑う。ようやくこの生意気な小娘にマウントが取れた気分に浸る。
「まさか………ジェシーを消す?」
「うーん………それは今後のお前次第だ」
ナナリィーの顔に黒い影が漂う。男の目は泥にまみれた様にドス黒い。
「……わ、私次第!?」
「まあ、ついてきな……」
ナナリィーは言われるがままに男の後をついて行った。行くよりなかった。考えてみたら此処に住んで8年にもなるが、こんな地下奥深くにある階層は知らなかった。
「此処だ、くれぐれも粗相のない様にな。ボス、ナナリィーを連れて来ました」
「開いている、入れ」
一見特筆する事のない扉だった。しかしもうどれだけ階段を下ったのか定かでなく、眼前に黒々と現れたソレは、実に恐怖を煽る。
この状況と、奥から聞こえる低音の効いた男の声が、扉を不気味な物に見せているに過ぎないが、まだ若過ぎるナナリィーの思考を鈍らせる。
扉を開くと部屋の奥に、白髪混じりの初老の男が座っていた。足が悪いのか、椅子の前には、杖が入った傘立ての様な物があった。
細身で身長も低く、こんな男がと思わざるを得ない。なれどその眼光だけは鋭く、何もかも見透かされている様で、ナナリィーの顔はさらに強張った。
ナナリィーは男に従い、膝を折って完全に服従の姿勢を取る。当然下を向くことになるので、ボスの眼光から逃れる事が出来た。
「お前か、ジェシーの連れというのは………」
見た目とはかけ離れたとても威圧的な声。眼光の次は、その声で頭を押さえつけられている、そんな気さえする。
「ハッ、お初にお目にかかります。ナナリィーと申します」
自分がこんな丁寧な言葉を発している事にナナリィーは驚いた。
「……違うな」
「はっ?」
そんなナナリィーをボスは、有無を言わせぬ上から一瞥する。
不意に名前を否定され、ナナリィーが思わず顔を上げてしまった。
「聞こえなかったのか? お前はナナリィーではない。そう言ったのだ」
容赦なくボスの威圧は続いてゆく。
「あ、いえ、確かにこの名前は、ジェシーがつけてくれた……」
「そう言う話ではないわ。良いか、今日この時からお前がジェシーだ」
ボスは狼狽えたナナリィーからの必死の訴えをバッサリと斬り捨てた。
「お、仰っている意味が……」
「くどいッ! お前はこれからジェシーになって、我の身辺警護と身の回りの世話をして貰うッ!」
ボスは声を荒げると、ナナリィーの足元を拳銃で撃ち抜く。一体何時抜いたのか判別出来ない程の早業であった。
そしてナナリィーは以後ジェシーと呼称される様になった。ボスがごく稀に他の組織に出向く時などは、ジェシーから聞かされていた時と同様にボディーガードとして随伴した。
然しそれはボスとファミリーの箔をつける様な立ち位置であり、実際には拳銃を持った他のファミリー達で、ボディーガードとしての役割は充分足りていたのである。
ではボスが表に出ない時、一体彼女は何をしていたのか。これが身の回りの世話である。所謂男身の回りの世話だ。
既に30代後半を過ぎたジェシーには出来ない、いや正確には、この男が満足出来ない役回りであった。
これはほぼ毎晩の営みであった。ジェシーになったナナリィーは、夜中に部屋を抜け出していた先輩の行動がようやく理解出来た。
そして10歳迄の自らの行いが、再び繰り返される事に、最早考えるのをやめた。
◇
ナナリィーがジェシーに変わってからさらに2年。彼女は20歳になっていた。
ボスは相変わらず血気盛んであり、それはまるで明ける事を知らぬこの街の夜の様であった。
このファミリーはそんな夜の暗闇の様にこの街を裏から仕切り、まさに最上段に君臨していた。故に疎まれる存在とも言えた。
「……ゼロ、判ってんだろうな。打合せ通りに頼むよ」
「ハアンッ? 誰にモノを言ってんだい? そっちの方こそ、俺の足について来れんのかよ?」
そう言って男にゼロと呼ばれた女は、鼻で笑った。
「………違いない、じゃ行くか」
夜に紛れた二人は斥候として『コルネオ』ファミリーの、建物入口の様子を窺っていた。
そして斥候は、やれると感じ、攻勢に転じる。入口の見張りは二人に首をナイフで引き裂かれ、悲鳴を出せずに絶命した。
ゼロは無言で背後に合図する。一斉に街の暗がりから、20人程の男達が音を立てずに飛び出した。
建物の四隅を囲う者と、ゼロと男について中へと入っていく者へと別れた。
1階ロビーには、ファミリーの下っ端連中がいる。確かにいた。だが1人を除いて他は皆、吐血して既に意識が無かった。
メイドに化けた別の斥候が配った毒入りのワインを飲んで、地獄に送られていたのである。
(なんて他愛の無い……これがあの『コルネオ』かよ)
ゼロは死体には目もくれずに生き残った男に詰め寄る。
「な、てめ……っ!」
ろくな声すら出せずに、男はゼロに襟首を掴まれた。
「おいっ、クソ野郎。ナナリィーはどこだ?」
「な……ナナリィー? そんな奴はどこにもいない事は、お前が一番良く知ってんだろ?」
ゼロに責められた男は、苦しみながらも目だけで笑ってそう答えた。