第1話 感情を忘れた少女の初めての感涙
一方、此方はローダ、ルシアとトレノ、ティン・クェンである。ローダが『心の結束』でトレノとティンの意識を探ろうとしている所なので、ルシアにはやる事がない。3人の様子を眺めているだけである。
(私にも彼等と同じように鍵の順番が回って来るのかしら……えっ!? ローダに私の全てを見られてしまうっ!?)
気の強いルシアであるが寒気がする程、怖くなってきた。既に二人は恋仲、とはいえお互いの全てを知っているのかと問われると、当然そんな事はない。
まだ知られていない事の方が重要………それも自分側の分が大変な厄介事なのだ。
(もし、もしもよ……私の正体を知って、ローダが私の事を嫌いになったりしたら……)
両膝を抱えて座り込むルシア。ローダはこれまでどんな人の過去も思いも全て受け入れた故、今の彼が形作られている。
とはいえルシアも同じく許容して貰えるか自信がない。自分が他とは余りにも異なる存在であり、愛情があるからこその裏切りになりかねないのだ。
(……この幸せだけは決して失いたくない、だけど………)
駄目だ……泣きそうな思いで自身の下の方を目を落とす。彼女は取り合えずこの想いを心の隅に追いやっておくことに決めた。
このローダだけの戦いが終わった後、とにかく自分はいつでも動ける用意をしておこう。
(………恐らく私は彼女と戦う事になるんだわ)
ルシアの思う彼女とはヴァロウズのNo5、女というには余りにも強靭で大きな身体をもつティン・クェンである。
◇
ティン・クェン………いや、この名前は彼女がヴァロウズ5番目の戦士という事で、マーダが与えた名前である。
彼女の生まれ故郷…と、いうか物心がついた頃には、この街にいたというだけの事であり、本当に故郷なのか定かではない。
両親の顔も知らない、だから名前なんかないし、故郷という暖かい場所ではなかった。
ロクな警察組織も法もない街であった。生きるためには自分の力で何とかしないといけないし、逆に言えば力さえあれば、何をしても許される街。
なれど10歳の少女にとって、これは余りにも過酷な現実であった。当然力なんてものは皆無。
生きるために彼女が出来るのは、憐れな自分のカラダを男共に、時には同性にさえ売る事だけだ。
それが最早当たり前のこと過ぎて、嫌だとか、気持ち悪いとか、そんな感情さえ持ち得なかった。
そんな彼女に転機が訪れるは12歳の時、いつもの様に彼女唯一の力を使っている最中、見るに見兼ねた女が止めに入った。
「おい、テメエみたいな汚い男がソレに触っているのは、見ているだけで吐き気がすんだよっ!」
女は黒服のスーツ姿で、ベリーショートの一見優男にも見える姿をしていた。
「何だあ? じゃあ手前が代わりをしてくれん…ッ!?」
凄む男に目もくれず、スーツの女はあっという間に差を詰めて裏拳を顔に叩き込む。その威力に男の鼻骨が潰れて嫌な音を立てる。
その一撃だけで男は気を失い、吹き飛んでしまう。女は地面に仰向けで寝てしまった男に唾を吐き付けた。
「全く、クソつまんねえ下衆野郎だ。おぃ、お前のせいであたいの拳が穢れちまった。もう二度とそんな真似するんじゃないよ」
この女にだって無駄な忠告だと判っているが、流石に言わねば気が済まない。あとはヒラリッと身を翻しその場を立ち去るつもりでいた。
然し気がつけば少女は女の背中のスーツの裾を握っている。如何にも縋る思いが滲み出ていた。
「なっ?」
女は驚いた。何故なら少女の気配をまるで感じなかったからだ。
(偶然……だよな)
とある組織のボスに彼女は、ボディーガードとして雇われている。背中に目こそありはしないが、その位普段から意識しているのだ。
殺気はなくとも気配は感じ取れる筈。気にこそなったが疑問符が付くほどの驚きではないと判断する。
「お前、名は?」
「わ、判らない……皆はナナシィーって呼ぶ」
膝を折って少女となるべく視線を合わる女。薄汚れた頭を撫でながら聞いてみる。
首を振りながらナナシィは、怯え声で答えた。
「アチャーッ、そりゃあお前名無しじゃねえか。………まあ、そんなもんか。流石に名無しはねえなあ。良しっ! じゃあお前は今日からナナリィーだ! 名無しよりはだいぶマシだろ」
「ナ、ナナリィー?」
少女は不思議そうに首を傾げる。名前なんてどうでも良い10年間なのだ、ナナシィーもナナリィーも大差ない気がしたのである。
「そうっ、ナナリィーだっ! なあに直に慣れるさ。ほら、ついて来な。先ずは風呂と着替えだな!」
たった今ナナリィーに生まれ変わった少女は、半ば無理矢理、手を引かれて歩き出す。体力差も体格差も大き過ぎて実に困っている。
オマケにスーツの女とズダボロの少女の組合せがすれ違う者に疑問を抱かせる。
「ま、待ってぇ~」
「んっ? どしたん?」
小さな身体で精一杯の声を絞り出すナナリィー。女は少し面倒臭そうな顔を向ける。
「………あなたのお名前を聞いてない」
ナナリィーにそう言われた女は、瞬間ハッとしてから少しだけ吹いた。もっともな言い分である。
「あ、そっかあ。これじゃまるで人さらいだな。悪ぃ悪ぃ、俺の名は『ジェシー』だ。俺も元々名無し、友達になろうぜっ!」
ジェシーは自分の非を詫びつつ、ボサッボサの頭をくしゃくしゃにしてからナナリィーを抱えると歩幅も軽やかに歩き出した。
二人が辿り着いた先には、白い石造りの大きな建物があった。1階はロビーの様になっていたが、そこにいるのは美しい受付嬢でない。
強面の男達がジェシーと同じスーツ姿で、悠々《ゆうゆう》と煙草を吹かしていた。
けれど彼らはジェシーを見るなり煙草を消して「お疲れ様です」と挨拶をしてゆく。
そんな男達に目もくれずにズカズカと歩みを止めないジェシーである。
「此処だ、入んな」
ジェシーが指したその先には、一流ホテルの様な立派な扉があった。彼女はナナリィーの返事を待たずに、扉を開くと後ろから背中をポンッと押して中へと入れた。
「わぁ……」
そこには1人で暮らすには余りにも広い空間が広がっていた。装飾の施された大きな窓にはグレーのカーテン。
テーブルや椅子も同様な装飾が施されていて、ホコリ一つ無い。
そしてダブルサイズだと思われるベッドには、枕が一つしかなかった。
「ごめんな、枕はこれしかないんだ。でも、これだけ広けりゃ一緒に寝られるだろ」
「え、えーーっ!? 私、此処で寝ていいの!?」
そう言ってウインクを寄越すジェシー。ナナリィーにして見れば驚天動地、夢を見ている気分である。
「そうだよ、今日からお前は俺と暮らすんだ。ジェシーとナナリィー、何か語呂も良いし歳の離れた妹みたいなもんだ。この部屋の物、何でも好きにしていいぜ」
ジェシーがクローゼットを開けて、ひっくり返す様に中の洋服を次々に引っ張り出してゆく。
「あったあっ!」
随分長い事眠っていたらしい水色のワンピース。明らかに今のジェシーが着れるサイズではない。
「悪ぃな、今これしかないんだ。俺がガキの頃着てたお古だ」
勝手にナナリィーの身体にあてがい「よし、サイズだけは大丈夫そうだな」と付け加える。
さらにナナリィーが来ている服を全て脱がせると、自身も服を脱ぎ捨て、一緒に浴室へ入っていった。
最早ジェシーの思うがまま、お気に入りの人形の様に、無造作にゴシゴシと洗う。中々石鹸の泡が立たないので、ついムキになって力が入ってしまう。
身体を洗う………自分でするのもやって貰うも久しぶりだ。前に洗って貰ったのは何時だろう、ちょっと思い出せそうにない。
さらにそのまま散髪が始まった。とても無造作ではあるが、何も手入れの出来なかった長い髪を切って貰うのは、大変に心地が良い。
「ほらっ、おいで。入んな」
先にジェシーは浴槽に浸かるとナナリィーにも入る様に勧める。まるで生まれ立ての子羊の如く両脚を震わせながら浴槽へと向い、よじ登る様にようやく浴槽に入れた。
「あ、あ、あったか~い」
久しぶりの湯の温かみに思わず笑みが零れる。気がつくと涙まで零れていた。
「あ、あれ? ………私、嬉しいのに。こんなに嬉しいのに泣いてるの?」
そんなナナリィーを見たジェシーは、こみ上げるものを押さえるために、目頭を強く押す。そして少女の身体を強く抱擁した。
ジェシーの豊満な胸に小さな頭が埋もれてしまう。
「ナナリィー、もう泣く事すら忘れていたんだな。よしよし……いっぱい泣きな。ぜ~んぶ俺が受け止めてやんよ」
「じぇ、ジェシー、ウワァァァアン!」
強かに泣くナナリィーから、もう初対面の遠慮は失せた。初めて人間として扱って貰えた。そう実感出来た瞬間であった。