末期がん、ガラス窓ごしの祈り
「約束はしたくないの」
彼女の第一声は、案外そっけないものだった。
「だってすぐいなくなるでしょ。あなたも私も」
もう何か月も切っていないのであろう長い黒髪をゴムで縛りながら、
痩せて薄くなった体がこちらを向く。
白い壁と小窓で覆われた風景の中で、その時は彼女だけに色がついて見えた。
「こうして歩けるうちは話し相手になってもいいけど」
「本当か、ありがとう」
「別に、あなたも暇なんだろうなと思っただけ」
短い会話だった。楽しくお喋りするような雰囲気でも無かったから。
末期がん患者が死を待つための終末病棟、
ホスピスで、俺たちは出会った。
*
がんの宣告をされたのは、確か四か月くらい前だったと思う。
正直ここに入ってからは曜日感覚が全くないので詳しくはわからないが。
告げられた当初は、何を言われているのか全く理解できなかった。
高校を卒業し、バイトも初めて体験して、あんなに大学生活に胸躍らせていたのに。
家に帰ってきたら、今までそこまで親密でもなかった家族が妙に優しくて。
母さんなんか夕飯の途中に泣き出して大変だった。
いざ病院に入って、自分の部屋に置いてあるベッドを見た時、
「ああ、俺ここで死ぬんだ」って初めて気が付いた。
医者が言うには全身にがんが転移した状態らしく、もう薬も効果が無いという事だった。
俺は、ただうなずくしかなかった。
*
ベッドから体を起こすと、いつもと変わらない病室の真っ白な景色が俺を迎えてくれた。
朝早く起きて、夜も早く寝る。
味の薄い院内食を食べて、本やマンガを読んだりして過ごす。死ぬまで。
自室で過ごすのにも飽きた。
スリッパを履き、ドアを開けて廊下に出る。
「図書室」と書かれた部屋の前まで進むと、彼女がいた。
「おはよう、章二くん」
「おはようございます、円さん」
軽く頭を下げて会釈する。
実はこの人、身長145cmでありながら俺の二つ先輩の大学生である。
声も高めだし最初は中学生かと間違え、怒られた。
腰のところで束ねた長髪と、大きい瞳が印象的な人だ。
控えめに言って、容姿は整っている。
「君とは長い付き合いだね」
「まだ2か月くらいじゃないですか?」
他愛もないやりとりをしながら、扉を開ける。
図書室特有の乾いた紙の匂いを感じながら、俺たちは本棚を周った。
「この図書室って、結構色んなジャンルの本置いてるよね」
「そうですね、マンガも借りられますしね」
「なんか毎日図書室来てる気がするね」
「そうかも、ですね」
実際そうだ。俺たちは毎日図書室に来ている。
なぜならこの院内には、カラオケも無ければ喫茶店も無い。
高校生と大学生が二人で暇をつぶせる場所が、ここ以外に無いのだ。
「ねえ、少年」
「はい」
円さんは少し背伸びをして手を伸ばし、本棚からライトノベルを三冊取り出した。
表紙には、どれも俺と同じ年代くらいの女の子が描いてあった。
「こういう女の子って、高校生的にはどう思う?」
「どうって……」
「こう、好み的に」
「セクハラですか?」
ニャハハ、と円さんがいたずらっぽく笑う。
たいがい俺を「少年」と呼ぶ時の円さんはろくな事を考えていない。
「おばさんは若い子にセクハラする権利があるからね」
「無いですし、そもそも円さんはおばさんじゃないでしょ」
「ありがとう少年。おばさんは嬉しいよ」
「はあ……」
猫のような人だ、と思った。
いたずらっぽくやってきて、気まぐれに行動する。
……もっとも、この人も前はここまで明るくなかったが。
俺の身長の上まで本に囲まれた部屋の中を、彼女に付いていくようにして歩く。
蛍光灯の白い明かりが、やけに不健康に俺たちを照らした。
「老後のお金をためる方法の本もあるね。
私たちは老後心配しなくていいからラッキーじゃん」
「……ですね」
「そろそろ休憩室行く?」
「行きましょうか」
毎回二人で散歩するときは、図書室→休憩室の順に回ることになっていた。
どっちが言い出した訳でもないが、そういう習慣に自然となった。
すれ違う看護師さんに会釈を返しながら、俺たちは廊下を歩いた。
よく清掃が行き届いている代わりに、いつも消毒薬の匂いがする廊下。
スリッパで歩くと、ペタペタと音が鳴る。
「なんか、白い院内着つけてるし足音ペタペタ言うし、もう幽霊みたいだね」
「まだ生きてるでしょ、円さんも俺も」
「わかんないよ?私、もしかしたら幽霊かも」
「……シャレになんないんでやめてください」
そう注意すると、円さんは寂しそうな、悲しそうな顔で
「ごめんね」とだけ呟いた。
「……そろそろ着くね」
「そうですね」
休憩室の木で出来た扉が、目の前に見えてきた。
この休憩室は他の部屋とは違って、病院が古かった時のまま運用されているらしい。
この部屋は看取ってきたのだ。何人も。
ギィという音と共に重たい扉が開く。
中はこじんまりとしていて、お茶とお茶菓子、それに革張りの大きなソファーのみがあった。
いつも俺たちはここでお茶を飲みながら、昔あった楽しい出来事や、院内での話をする。
未来の話は、しない。それが俺と円さんとの暗黙の了解だった。
今日は何の話が出来るだろう。
もう間もなく人生が終わる俺にとっては、円さんとの他愛もないお喋りだけが救いだった。
「今日はね、少年に頼みたい事があるんだよ」
「何ですか?」
円さんは俺に柔らかく笑いかける。
その表情はしばらく浴びていなかった陽光の様で、少し眩しい。
「私自作の小説を、読んでほしいんだ。よければ感想も欲しい」
「小説、ですか」
少し驚いた。
円さんは読むだけではなく、書く人でもあったのだ。
元々本が好きという事で円さんと仲良くなったから、本が好きなのは知っていたが
まさか文才もあったとは。
いつも優しく、時に面白くて賢い彼女の書いた小説を読みたい。そう思った。
あわよくば、彼女の内にある思いを知りたい。
そう考えたのは、よこしまだろうか。
「いいですよ、読みます」
「やった、読者第一号ゲットだぜ」
小さくガッツポーズした彼女は、少し愛らしい。
身長のせいではなくて、元々愛嬌がある人なのだろう。
「はい」
円さんは持っていたポーチから原稿用紙の束を取り出して、俺に渡してくれた。
200字×20枚の束。4000文字だから、短編にあたるだろう。
「読んでくれてる間、ちょっと昔話しててもいい?」
「いいですよ。というか是非。聞きたいので」
「そう?そんな、大した話じゃないけどね」
円さんはそう前置きして話し出した。
「私ね、子供の頃から小説が大好きで。将来は小説家になるって決めてたの。
でもこんな病気になっちゃったから、一回は諦めようって思った。
どうせ死ぬし、そもそも私文才無いしって思ってたし。
でもね……」
円さんはそこまで言い終わると、顔を苦しそうに歪ませた。
その姿はあまりに壊れそうで、こちらにその痛みが伝わってくるようだった。
「書くの、やめらんなかったんだ。
才能が無くても、もう残された時間があとわずかだって
分かっててもやめられなかった。
小説が好きとか嫌いとか以前に、もう私と小説は、
こう……ぴったりくっついちゃってるんだろうなって」
病気になって気が付くなんて、皮肉だよね。
円さんはそう笑って……静かに、ただ静かに泣いた。
その横顔は厳かな像のように綺麗で、でもガラスのように脆かった。
もう何も言わない円さんにかける言葉も見つからなくて、俺はただ原稿のページをめくった。
中に書いてあった小説は、素晴らしかった。
書きなれた自然な文体。多彩かつ読む者に訴えかける表現。
そのどれもが、俺の心を掴んだ。
身内のひいき目などではなく、心から本当にそう思った。
やめてくれ。そうも思った。ただでさえあなたは素敵な人なのに。
文章まで素晴らしかったら、俺は、あなたを……
よぎった思考を振り払うように、原稿用紙を机に置く。
「円さん、小説素晴らしかったです」
「……本当?」
「嘘つかないですよ、こんな真面目なとこで」
「……読んでくれてありがと、章二くん」
彼女のその笑い方は、どこか頼りなくて。
支えてあげたい、なんて傲慢にも思った。
「毎日、休憩室で読みますから。毎日書いて、持ってきて下さい」
「ん、なるほど?こりゃ敏腕編集だ」
捕まっちゃったなあ、なんてほがらかに笑う円さん。
その顔にうっすらと残る涙の跡を少しでも、薄く出来たら。
「円さん、明日も同じ所に集合でいいですか」
「了解。じゃあ新作、持ってくね」
お茶菓子を少しつまみながら、間延びした時間の流れを二人で過ごす。
心地いい、でも確実に終わりに近づいている、そんな流れ。
きっとあなたは、俺の思いに気が付かない。
でも、それでいい。
俺があなたより早くいなくなるかもしれないんだから。
*
きっと章二くんは「気が付いてない」と思ってるんだろうな。
私、そういう勘はなぜか鋭いんだよね。
なんで、私みたいな人生終わったおばさんなんか相手にするかな。
お茶菓子をつまみながら、章二くんの顔を見つめる。
ここに来る前はサッカーやってたって言ってたっけ。
プロになるのが夢だったんだよね。すごいなあ。
最近食欲が無いから、こうして少し食べてもすぐ自室で吐いちゃうんだよ。
もうすぐ終わりなのかな、って死ぬことについて考えることも増えた。
まあ、病室にいても暇でしょうがないからね。
章二くんがどう思ってるか知らないけど、私はさっきの言葉に救われたよ。
毎日読みますなんて、嬉しすぎて本当に死んだらどうするのよ。
がんになって良かったなんて、微塵も思わない。
胸に水は溜まるし、痛いし、手術も怖いしで。
やりたいことだって、小説以外全部やめたし。
でもね、章二くん。
私は君と出会えて、結構幸せでした。
人生で一番か二番くらいには嬉しい出来事だったよ。
「そろそろ出ますか、円さん」
「うん、また明日ね」
願わくば、私たちに明日が来ますように。
いいや、私はどうでもいい。
ちょっと不器用で、すごく優しい。
そんな彼に、明日が来ますように。
……それと、私のこの気持ちが、彼に伝わりませんように。
約束なんか、したくたってできないから。
「「どうか、あなたの将来に虹がかかりますように」」
読んで頂きありがとうございました。