ジョシカクファンタジー
久しぶりに筆を取りました。
女が真赭の大地を蹴っていた踵を止めたのは、空の茜が藍に圧され、月が頭上にその鱗粉を振り撒き始めた頃であった。濠、と風が鳴る。粗朴な生成りの貫頭衣が女の身体に纏わりつき、豪奢な曲線が露わになる。腰まで波打っていた柔らかな白金の絹毛が吹き上がり、その貌の周りに陽光を形作る。
もしここに生熟れの男のひとつでもあったのなら、高僧の一筆と見粉う柳眉の下の、灰簾石の耀きに圧倒されたことだろう。縁を飾る毛は求愛する孔雀の広がりを見せ、白磁の瞼に引かれた一筋の襞がその張りを誇張する。なんの色も乗せられていない。鋭く細められて尚過剰な煌きを誇るこの宝玉に、そうした人為的な装飾は何より余計なものだ。あるいは、すっと伸びた高い鼻梁の先に坐す、薄桃に色づいた牡丹に目を奪われるかもしれない。その膨らみは高潔さを感じさせた瞳とは対象的で、膠でも塗りつけたような生々しい粘膜の照りを湛える。花弁が綻び、その内側から覗いた歯列は正しく真珠であった。
しかし、ここに男はいない。女が見据える先に咲くのは七人の女。
皆一様に、紫紺の長い亜麻布を身体に巻きつけ、胸元と腰を留めただけの衣を、無防備に風にたなびかせている。七人ともが、繻子の滑らかさを持った褐色の肌に、爹児を思わせる艶やかな黒髪をしていた。前髪は丁寧に真ん中で分けられ、三編みに編み込まれて額から蟀谷へと流れているが、向き合っても幼気なその眉目に行き遭うことはない。載せられた花冠から前に薄布が垂れ、個の存在を消しているのである。
「夜の娘ジボラよ、よくぞ来られました」
中央の女が口を開いた。そのたった一声の何と透き通り涼やかなことか! どんな竪琴もこれほどの音を奏でることはあるまい。ジボラと呼ばれた灰簾石の女が恍惚と瞳を潤ませたのも当然と思われた。
「久しぶりね。随分と他人行儀じゃない」
だがその恍惚は一瞬であった。ジボラはすぐさま頬を引き締め、低い声で唸るように応えた。肉厚の唇は歪み、眉が吊り上がる。静かな怒気を孕んだ視線は真っ直ぐに中央の女へと注がれていた。肌を刺す沈黙、ジボラの呼気だけが時を刻む。返事はない。彫像のような横顔を赤く染めていた夕陽の名残は徐に引いていき、やがて僅かな月明かりを頼るのみとなる。
すると、返事の代わりに、玲、と音が鳴った。見れば、七人の女たちの足首には衣と同じ紫紺の縄が結わえ付けられており、縄ひとつひとつの真中には大きな金の鈴が下がっている。鈴の音は、中央の女が片足の縄を解いた音だった。玲、と再び鈴が鳴る。自由になった羚羊の足に、左右の女が跪き沓を履かせた。それは華奢な女に不似合いな、武骨で薄汚れた皮沓であった。
「神の守り手として、試練に打ち勝ち、神威を背負う覚悟はおありですか」
「当然よ。この日をずっと待ってたんだから」
「良いでしょう」
中央の女が花冠を外す。薄布がはらりと地面に落ちた。
「これより齋妃の試を行います」
言葉を紡ぐや再び固く閉じられた、楚々とした唇は柘榴の紅。瀟洒な艶が褐色の肌に良く映えた。その上に聳える細い尾根を辿れば、絢爛たる大粒の翠玉。月明かりを写すだけでこの煌めきに足りるとは思えぬ、自らの内を碧の炎に燃やしているかのような宝玉は、控え目に伏せられた漆黒の簾の尋常ならざる長さをもってしても覆うことができないでいる。柔らかな穹窿を描く両眉の間は金の六芒星で飾られているが、この女の嬋娟たる面立ちに比べれば金など砂礫に等しい。
「変わってない……やっぱりあんたなのね、齋妃は」
ジボラは寸刻、齋妃の顔を凝然と眺めたのち、顔を伏せ、掠れた声で小さく呟いた。
痛みをこらえるような面持ちのジボラをよそに、女たちが動き出す。齋妃は外した花冠で器用に髪を結い上げると、胸元から蝋燭を取り出して残りの六人に手渡した。受け取った者から順に歩みを進め、丸く並ぶ。寥々と鳴り響く鈴の音が止むと、そこには女でできた六角形の闘技場があった。
―― 「闘技場」。そう、ここは闘いの場である。
齋妃と呼ばれるこの国の最高神官。その謂れは千年の昔に遡るという。
豊かな木と水に囲まれ、長く静謐な世の恩恵を享受していたこの国は、突如として「白き者」の侵略を受けた。民は迎え撃とうとしたが、もはや装飾品と化していた剣を戦慄く手に取ったところで蛮族の強襲にかなうはずもない。多くの男が命を落す。国には女と子供ばかりが残された。
だが兵を失っても戦は終わらなかった。白き者の目的は理想郷への移住であり、そこに彼ら以外の人間の姿など望まなかったのである。さながら種蒔き前の虫追いの如く、白き者は民の命を潰していった。
頼るものもなく逃げ惑う日々が百を数えた頃、光明は差した。七人の女が立ち上がったのだ。
その女たちは強かった。予期せぬ逆襲に戸惑う白き者を次々薙ぎ倒す。同胞の血に濡れた剣を奪い、雄叫びを上げて首を刈る。そして六人を率いていた女が、驚く民を振り返って婉然と微笑み、告げた。我々には武神の加護がある。武勇に男も女もない。立って戦え、国を取り戻せと。
その言葉に奮い立ち、民は手に手に武器をとる。七人だった小さな集団が、やがて強大な軍勢となった。
かくして、女たちの軍勢は白き者を打ち払った。以来、この国では男女分け隔てなく武術を修めることを是とし、七人の女を神官に据える。神官は純粋に強さによって選ばれ、武神の妃として毎日を武術修行と神前試合に捧げる日々を送る。正妃たる齋妃はその頂点に立つ最高神官にして大元帥、文字通り「神の守り手」なのである。
さて、神聖かつ孤高の齋妃だが、その地位は絶対不可侵ではない。真に強き者こそが武神の妃たりえるとの教えから、神官に選ばれなかった者も、名乗りを上げて挑むことができる。勝てば次代の齋妃、敗すれば死罪……それこそが「齋妃の試」。
女たちが一斉に蝋燭に火を点け、橙の朧な光に闘技場が照らし出されると、ジボラは決然とした顔で髪を結い上げ、その中に入った。遅れて、齋妃が静々と歩み寄る。向かい合う黒白の花、双方無手である。
「はじめ」
六人の誰かの声を合図に、ジボラは両腕を顔の前に構えた。すぐさま小気味よく拳が放れる。右、左、右右……当たらない。勢いをつけて大きく右、続けざまに左、右……齋妃は軽く首を傾げるだけでその全てを往なした。
しかしジボラは笑う。探り程度の攻撃が当たっているようでは齋妃ではないのだ。腰を落とし、足首の発条を効かせて飛び跳ねながら間合いを測る。斗々、とジボラの足音が薄明りに響く。そこから拳を繰り出しては引き、繰り出しては引き、齋妃の周囲を舞う。安定した拍を刻む足音を舞楽にして、鮮やかにその胸の凝脂を揺らす。ジボラの動きに合わせて、齋妃も舞い踊る。飛び散る汗が雲母と煌めき、無数に描かれる細腕の軌跡を追う様は仙境の宴。風を、大地を絶えず鳴らし、生成りと紫紺が追い合う様は極楽の幻。
百手の拳が放たれるも、双方、濡つ玉貌に傷なし。土埃が四の脹脛を汚すのみ――と、跳躍! ジボラが腰を逸らして大きく後ろに跳躍。着地するや否や踏み込み、半回転して大きく蹴り上げた! 蛮、と脇腹の肉を打つ大音。顰む眉を仰ぎ見、ジボラは笑みを深める。
再び跳躍、半回転して蹴り、間もなく拳! 拳、拳、拳! 蹴り上げたことで体幹を揺るがすこともなく、不安定な体勢からの乱打。さりとて齋妃がただ受け続けるはずもない。ジボラの猛攻に息を合わせて殴る、殴る!
「なんで守らないのよ」
「貴方もでしょう」
両者猛攻、攻勢一辺倒で防御らしい防御がなかった。致命的な攻撃のみを躱し、あとは打たれるままにして只管打ち込む。蛮、蛮、蛮と音が重なり、白珠の肌に、黒絹の膚に、千紫万紅の花が咲く。
「当たっても痛くないとでも言いたいわけ?」
「まさか。こんなに固い拳はそうありません」
会話の最中も途切れぬ打ち合いに、次第に激しくなる二つの吐息が艶を添える。そう、齋妃とて余裕を失いつつあった。ジボラは格下といえど、この「試し」に挑めるだけの猛者である。そして稽古や試合にあるような時間の区切りがこの儀式にはない。猛者と打ち合い続ければ疲れもしよう。
ジボラは悟った。悟ったのは己の強さだ。本の数刻の打ち合いが、武神の妃から、余裕を持って圧倒するという選択肢を取り上げていた。どれだけの傷を負おうとも、早く倒し切ることを誓わせたのである。
ジボラは奮い立った。ここから先は、疲労との戦いだ。蓄積する打撃に体力が尽きれば嬲り殺される。そうでなくとも集中力を欠き致命打を避け損なえば即、斃れる。体力と気力を求められるこの戦いにおいて、ジボラには若さがあった。持久戦となれば優位に立てる。
――だが、眼前の敵はそんな安い算段が通用する相手ではない。
果てしなく続く乱打が途切れた、並の武人であれば見逃すような隙。その隙に、齋妃は突如屈んだ。ジボラの拳が空を切る。息を呑んで下がろうとした時には既に細長い両腕が腰へと回されていた。
すぐさま剥がそうと側頭を殴りつけるも、華奢な体躯を無視した過大な重圧がジボラの腰に襲いかかる。
「あんた、組技系か!」
沈黙が肯定を示す。壮絶な打ち合いがジボラに誤解させていた。打撃を極めたジボラと互角に打ち合える齋妃もまた、打撃系であると思い込んでいた。しかし、ここへきての組みつき。それは組技こそが切り札であると告げていた。大地に飲み込まれるとしか形容できないほどの重圧。ジボラは呻き、何とか拘束を解こうと細指を剥がしにかかるが、その力は己の肌に癒着しているかという程であった。
突っ張っていた膝が限界を迎え、ジボラはついに崩れ落ちた。腰を抱いていた腕が脚へと入れ替わり、仰向けのジボラの腹に腰が下ろされる。そのまま覆いかぶさり、首元へと延ばされる細指……だが反射的に突き出した拳は玉肌に触れることなく静止した。齋妃は、殴り上げるジボラに息を合わせて、その手首を思い切り掴んだのである。
ジボラは息を呑み、慌てて掴まれた右手の指先をもう片方の手に絡める。右手を剛力が襲ったのはほとんど同時だった。拮抗する力。齋妃はジボラの体側へと移動し、本格的に肘を延ばしにかかる。左手でそれを阻止するのは至難の業だ。ジボラの背中を冷汗が伝う。このままでは腕を折られる。利き腕を失った状態で武神の妃に闘いを挑むことなど……
かぶりを振って、歯を食いしばる。勝つためにここに来たのだ。元より無謀な闘いであることは承知している。ジボラは齋妃の強さを知っていた。そう、ここに来る遥か前から。
彼女に出会ったのは、物心ついて間もない頃だった。ジボラの記憶は暴力に始まる。罵声と共に投げつけられる土塊の嵐。涙でぼやける視界の端には、所在なさげにこちらを見やる母親の姿。その姿も赤い靄に隠れる。土塊の中に石が混じっていて、ジボラの瞼を切ったのだった。助けを求めようとして、やめる。母親ですらこの状況を容認しているというのに、一体誰が手を差し伸べなどするだろうか。ジボラは力なくその場にうずくまった。土塊の中に石が増えていく。痛みが恐怖を加速させていく。掠れる声で許しを冀い、石を投げる者たちの気が早く済むことを只管に祈っていた。
すると、突如として石が飛んでこなくなった。代わりに聞こえる怒号と悲鳴。まだ肩を震わせながら恐る恐る顔を上げると、そこには一人の少女の姿があった。少女は一人で6人の男を相手どり、あっという間に全員を大地に薙ぎ倒した。暴力を上塗りする暴力。その主が徐に近づいてくるのを見て、ジボラは頭を擦り付け泣き叫んだ。
「ごめ、ごめんなさい!」
「……何の許しを乞うているの?」
「わからない、けどごめんなさい、もう許して」
「大丈夫、私はあなたを殴らない」
「ほんと……?」
「本当よ。ほら、あなたをいじめていた奴らはもう倒したわ。」
「ありがとう……」
「いいのよ」
少女が見せた笑顔を見て、ジボラは心が震えた。見続ければ目がつぶれるのではないかと思うような衝撃的な何かがそこにはあった。美しい、という言葉の意味を真に理解したのはこの時だったであろう。そのまま立ち去ろうとする少女の手を、ジボラは無意識につかんでいた。
「何?」
「あの……名前、名前は?」
「私はアディラ。あなたはジボラね?」
「知ってるの?」
「見ればわかるもの。でも私は、あなたが『白き者』だとは思ってない」
「白……」
ジボラは自分の手を見つめた。この村で、自分と同じ肌の色を見たことはない。
「ジボラ、その肌の色は悪いものじゃないわ。だから、自分に非があるわけでもないのに謝るのはやめなさい」
「でも、石を投げられたら?」
「投げ返せばいい。強くなればいいのよ、ジボラ。自分がやった以上にやり返してくる相手には、誰も手を出さないわ」
唯一自分を対等な人間として扱った彼女に、ジボラはなついた。連日、身を守る術、立ち向かう術を教わった。そして何より、語り合い笑い合うということを、ジボラは彼女のもとで初めて知った。二人でいれば、生きることは楽しい。二人でいれば、世界は美しい。これからはいつまでも一緒にいよう。そう思った。
だがそれはほんのひと月の夢であった。
「さよならよ、ジボラ。ここへはもう来られない」
「どうして!」
「神官に選ばれたわ。神殿で一生を過ごすの。出られるのは戦の時だけ」
「そんな、ひどい!」
「ひどくないのよ。これで私は、家族を一生食べさせることができる。だから、私の人生は、もういいの」
――頭の中でその声を思い返した瞬間、掴んでいた指の一本が外れて、ジボラは今自分が闘いのさなかにあることを思い出した。手が汗でぬめる。アディラの胸に抱かれた右腕は感覚を失い、かかる力はいよいよ強くなる。残りの指も長くはもつまい。ジボラは逡巡ののち、ついに意を決して手を離した!
目の端を通りすがる玉容に驚愕の色が浮かぶ。それを無視してジボラは素早く身体を左に回転。右腕が下敷きになるのもかまわず、頭で相手の腿を押さえつける。
「私は負けない。自分の人生がどうでもいいはずがない。あんたが齋妃なんかじゃなくて、ただのアディラだってこと、思い出させてやる」
アディラは脚でジボラの首を締めるべく腿を動かそうとするが、微動だにしない。可笑しなこと、首の力が脚の力に勝るなどということがあるだろうか? 否、これは単なる首と脚の押し合いではない。ジボラは今、自らの身体を顧みることなく全体重と肩の力を全て首に乗せている。外からは見えないが、右耳は圧し潰され流血していることだろう。それでもジボラは押した。右耳に煩いほどの痛みを、左耳に煩わしいほどの呻きを聞きながら、只管に押した。押しながら好機を待っていた。
――するり、と下敷きになっていた右腕が抜ける。首を求めて藻掻きすぎたアディラの動きと滑る二人の汗が、ジボラの右腕を解放した……半回転! ジボラはすかさず上体を起こしアディラの上に馬乗りになる!
鈍、と濁った大音が響いた。岩の拳が生肌に降り下ろされた音。続けさまに鈍、鈍鈍。切れた額から赤い飛沫が上がる。斑に染まった顔の真中、ぎょろりと見開かれた両の眼は悪鬼の形相。痺れの切れぬままの右手で淡々と、ただ単調に拳を打ち下ろし、打ち下ろし……
「止め」
唐突に女の声が響き、振り上げられた右腕が静止した。耳を掠めるは乾いた風の音のみ。衣擦れが、呻きが、止んでいた。
「勝者、ジボラ」
ジボラは膝元を見下ろす。そこには血に濡れ、脱力し、白目を剥いたアディラの顔があった。額の六芒星はもはや判然とせず、齋妃は、触れ難き武神の妃の姿はそこにはない。肉によって形作られたひとりの人間があるのみだ。ジボラは息を呑んでその首に手を当て、脈があることを確認するや、一筋の涙を零し、安堵の微笑みを浮かべた。そしてアディラの両目に翠玉の煌きが戻ると、ごわついた髪を撫で、頬に口付けを落としたのだった。