第八話 傾く陽に艶やかな彼女の唇は
使い古されてきた学生カバンを肩にひっかけ部室を出た。
部室のカギを閉めつつ彼女が座っていたベンチをちらりと横目でみやると、彼女の姿は既になかった。
僕はカギ返却をするべく2階にある職員室へと向かった。
疲れはあるが、明日は土曜日であるという喜びが大きいのか嫌がらせともいえる走り込みや片付けをした後でも、気分は悪くない。
「失礼します」
僕の声が静かな職員室に無機質に響いた。
時間が時間だけに職員室には3名しか教師がいなかった。その誰からも返事はない。
気恥ずかしさからキーボックスにさっとカギを掛け、適当に一礼をして職員室を後にした。
職員室から1階に降りる途中、踊り場に強い光が刺していた。
陽はかなり落ちてきていたが、窓から差し込む濃い橙色の陽の光は目に痛いくらいの強さだった。
まぶしさで目を細めた。夕陽の近くには雲が薄くかかり、その雲が今までみたこともないほど見事に真っ赤に染められていた。
「綺麗だなぁ」
一瞬立ち止まりなんとなく呟いた。そんな自分にふと恥ずかしくなり、ごまかすようにたたたんと駆け足で1階に降りた。
その勢いにのったまま自分の靴箱に向かう途中、隣の下駄箱の列、奥のほうに女子生徒の横顔が見えた。
視線だけでその生徒を追うと、そこにいたのは先ほど部室前の広場に座っていた本多莉々奈さんだった。
相変わらず一糸乱れぬ姿勢で立っている。
凛と立つその姿は夜の展示場に並ぶ美術品のように彼女の周りだけが静寂に包まれていた。
何をしているのだろう? やはり誰かを待っているのか?
そんな事を考えながら下駄箱から靴を取り出し適当に放った。
すると雑に扱った罰か靴はころんころんと縦に横に面白い様に転がり、数歩先で裏返って止まった。
……やれやれ。ため息をつきながらその靴を拾おうと屈んだその時だった。
「部活、おつかれさまです」
透明感のある甘く柔らかな声が頭上から聞こえた。
声の主に反射的に顔を向けると、そこには変わらず凛とした雰囲気を纏っているものの、頬を少し染めた本多莉々奈さんが立っていた。
そんな彼女がいじらしいほどに可愛いらしく、僕ははっきりとわかるくらいに彼女に緊張した。
「え……あ……」
頭が真っ白になり言葉が何も出てこない。
真正面から彼女を見ることすらできずしどろもどろしている僕に、彼女は首をかしげ微笑んだ。
「これからお帰りですか?」
さらさらと髪を流しながら僕を見つめる彼女は、夕日に照らされていることも相まって幻想をみているような美しさだった。
僕の鼓動は跳ね上がり、緊張が体中を脈打った。
魅惑という麻薬の濁流に飲み込まれないよう彼女から視線をそらした僕は、何か答えねばと喉から声を絞り出す。
「そ、そうだけど……?」
絞り出された声はかすれていた。おまけに体の至る所から変な汗が噴き出してくる。
「あ、あ……ええっと……。本多さんはまだ帰らないんですか……!?」
少しの無言の間にすら耐え切れず咄嗟に繋げた言葉はなぜか敬語になってしまった。
恥ずかしさが緊張を増幅させた。
普段男同士で話している時は周りに合わせて『莉々奈ちゃん』と馴れ馴れしく呼ぶような事もある。
だが実際はほとんど接点のない僕と彼女。
その彼女が今目の前にいる。とてもではないがそんな呼び方をできるような相手ではないことを肌で感じていた。
間近で見る彼女はそれくらいに異様な清潔感と美しさを携えていた。
そんな僕を見透かしてか彼女はとても柔らかな声で言った。
「私もそろそろ帰ろうかなと、思っていたところなんです」
彼女ははにかむように微笑を浮かべた。
「そうなんだ……。そうだよね……時間遅いしね。僕もとっとと帰るかなぁ……あはは」
緊張の渦に飲み込まれていた僕は、この場をどうしたらよいのかわからないという不甲斐なさから無駄に頭を掻いたり、見るものもないのにきょろきょろと視線を泳がせたりしながら早口気味に言った。
「じゃ、またね……」
軽い会釈と下手な作り笑いで彼女の前を通り抜けようとした。
「………あっ! 待って!」
慌てた様子で彼女は僕を呼び止めた。
その声にびくりと立ち止まり、僕はぎこちなく首だけ回して彼女を見た。
僕と彼女の視線が交錯した。が、すぐに彼女は視線を落とし、俯いて黙ってしまった。
一瞬の沈黙が流れた後、彼女は勇気を出したかのようにぱっと顔をあげた。
「あの……もしよかったらお食事にでもいきませんか?」
「へ……っ?」
彼女の頬は明らかに紅潮していた。
僕の目をまっすぐに見つめる瞳には、何かはわからないが決意のようなものすら浮かんでおり、彼女の潤いのある唇は沈みゆく太陽の陽に照らされ、艶やかで魅惑的だった。
その唇は少しだけ震えていた。