第四話 僕は彼女を
部室に向かう途中、上条と大澤と話していたことが頭の中に浮かんできた。
本多莉々奈さん。
高校2年に進級してすぐに、彼女は転入してきた。とても変な時期だ。
担任の山中先生が朝のホームルームを行うべく教室に入ってくると、その後ろを氷の上を歩くような滑らかさで、彼女は教室に入ってきた。
山中先生は教壇に手をつくと、ごほんとわざとらしい咳払いをひとつし、
「今日からこのクラスに転入することになった本多だ。みんなよろしくな」
と言って、口元に笑みを浮かべていた。
彼女は窓から差し込む陽によって黒髪をキラキラと宝石のように輝かせていた。
陽光の反射によって真っ白な線を作るその髪は腰下まで届き、揺れるたびに水面に揺らめく穏やかな波のような様相を見せていた。
制服から伸びるすらりとした彼女の肢体。繊細ながらも着くべきところにはしっかりと肉付いており健康的だった。
髪色と同じ長いまつ毛の下には、ぱっちりとした大きな瞳が輝き、すっと通った鼻筋と小ぶりながらもぷっくり魅惑的な唇は自然な潤いを湛えていた。
白い光に照らされた彼女の美しさは、現実から切り離された幻のように感じた。
「本多莉々奈と申します。皆様、よろしくお願いいたします」
彼女は長い髪を少し気遣いながら、ゆっくりとお辞儀して心安らぐような笑顔を向けた。
発せられた言葉はその笑顔と相まって、耳がぞわぞわするほど甘く切な響きを持っていた。
僕は彼女の声を聞いた途端、どくんどくんと激しく胸が鼓動した。
血液の脈動がはじけるように体中を跳ねまわる。
それがうるさいくらいに耳にこだました。
たった一言。
彼女のたった一言で僕は一時たりとも彼女から目が離せなくなっていた。
僕が彼女から受けた刺激は、五感から受けた刺激というよりも脳へ直接訴えかけてくるような感覚だった。
「来週には席替えするが、本多はとりあえずそこの席な」
山中先生が指し示した席は、僕の席からは随分と離れた場所だった。
先生の言葉を聞いた僕は、残念な気持ちと少し安心した気持ちが交錯した。
彼女の噂はあっという間に学校中に広がった。
授業の合間の短い休憩時間でさえ彼女を一目見ようとクラスに押しかけてくる輩がしばらくの間は絶えなかった。
「やっば! 顔ちいさっ!」
「髪、凄い綺麗なんだけどっ! どうやったらあんな風になるの……」
「つけまつ毛かな? え、うそ、本物!? ええっ! 長すぎでしょ!」
「脚長すぎっ!! モデルとかやってんのかっ!?」
「おい! 声かけてこいよ!」
「ふざけんな! 無理ゲー過ぎんだろっ!」
小声で話しているつもりなのかもしれないが、教室の入口は毎時間毎時間騒がしい事この上なかった。
彼女とお近づきになろうとする勇気ある生徒もちらほら見かけたが、意外なことに彼女に声をかけるのは女子生徒ばかりだった。
男子は女子以上に彼女に関する噂話をしていたのだろうが、こういう時の男というものは情けなかった。
あまりにかけ離れた存在というものを前にして、自らの立ち位置を必然的に理解させられてしまうことを恐れたのだろう。
彼女に直接声をかける男子生徒はほとんどいなかった。
男たちは小さなプライドを少しでも守ろうとしていたのだ。
もちろん僕もその仲間だった。
ただ、初めて彼女を見たこの日から、僕は彼女を意識しないではいられなくなった。
それだけは間違いがなかった。
それは単に彼女の美貌が異性として魅力的だったから、というわけではない。
そのしぐさ、その表情、その声音、それら彼女が発するすべてが僕に違和感のようなものを感じさせていたからだ。
彼女が発するその違和感が、僕の頭の奥の方にずっと引っかかり続けていた。