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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

僕と猫とユーレイと

作者: 和島 弓

 受験にことごとく失敗して、家族から腫れ物を扱うように接せられるのがイヤになり、何もかもから逃げ出すように、僕は家を出た。

 とはいっても、身分は浪人生だ。

 お金なんてあるわけもない。

 ある程度は父さんも母さんも援助してくれるとは言っていたが、そういう甘えから己を断ち切りたいと家を出たのだ。頼り切ってしまっては意味がない。

 幸いにして、わずかばかりの貯蓄はある。

 だから、僕は自分の力のおよぶ範囲で何とかなりそうな格安の物件を探して回った。

 そして、運良く都心からさほど離れていない郊外にあるアパートの一室を借りることができた。

 「一年くらい前になるかねぇ。突然、みんな出ていっちまったんだよ。それ以来、入居する人する人、みんな一ヶ月くらいで出ていっちまってねぇ」

 「はぁ、そうなんですか……」

 「だからって別段、問題があるわけじゃあないからね。気長に使っておくれよ」

 マンガなんかに出てくる『意地の悪そうなおばあさん』を絵に描いたような大家さんは、人懐っこい笑顔でことあるごとに「やれやれ……」と言いながら、僕を二階の角部屋に案内した。

 松崎荘201号室。

 六畳一間の1K。風呂、トイレあり。それでいて家賃は相場の四割弱程度。

 窓の外からのぞく景色のなかで、薄紅色の花びらがひらり、ひらりと舞っている。庭先に植えてある一本の桜が満開に咲き誇っていた。

 民家の離れを改装したという質素なアパートの庭先にしては少々豪勢な気もしたが、口に出してはいささかの讃辞を述べることにした。

 「きれいですね、桜」

 「ああ、あれかい。ずいぶん前に住んでた新婚夫婦が記念にって植えていったんだよ」

 そうなんですかと適当に相づちを打って、僕はこの部屋が気に入ったという旨の話をして、とりあえずの入居金をいくらか支払った。いきなり家賃全額なんて支払えるはずもない。そこらへんは大家さんも理解していてくれているらしく、手付けにもならないわずかな金額で了解してくれた。

 そして、201号室の鍵を受け取ると、我が城となった畳六枚分の空間を改めて見渡してみた。

 さてさて……

 物がひとつもないというだけで、空間がこうも殺風景でだだっ広く感じるものだとは思わなかった。

 早いとこ家具を揃えたいところだが、懐具合がそれを許してくれない。

 「う〜ん……とりあえずはカーテンかな」

 この殺風景さをどうにかしたいと思った僕は、懐具合と相談した上で駅前のデパートまでカーテンを買いに行くことにした。ついでといっては何なんだけど、道すがらアルバイトでも探してみようと思う。バイトなんて探したこともないし、したこともないけれど、まぁ、たぶん何とかなるだろう。というか、何とかしなければならない。

 新しい生活へのちょとした不安と期待を吐き出すように、僕はちょっと嘆息をして部屋を出ようとした。

 すると、

 ――ガタタ……

 押し入れの方から物音がする。

 「ん?」

 それは誰もいないはずの隣の部屋からだった。

 おかしいなと思っていると、壁というか窓というか、ひょっとすると屋根からかも知れないけれども、とにかく猫の鳴き声がどこからともなく聞こえてきた。

 ああ、なんだ。

 猫か。

 そして、何の疑いも持たずに僕はデパートへ出かけたのだ。




 僕は小さな喫茶店での下働きの職を手に入れた。

 皿を洗ったり、注文を取ったりする補助的な仕事だ。

 楽な仕事とはいえないけれど、何よりまかないが出るのがうれしい。おまけに、ここの若いマスターがいい人で、ありがたいことに帰りがけに店の残り物を僕に持たせてくれたりするのだ。おかげさまでひもじい思いをしないですんでいる。非常にたすかっている。

 ――みゃあ

 バイトから帰ってくると、決まってヨウスケが出迎えてくれる。

 普段は松崎荘の屋根の上か、階段か、あるいは桜の根元で丸くなっているこの三毛猫は、バイト帰りの僕が食べ物を持っているということを覚えてしまったらしく、文字通りの猫なで声で近寄ってくる。

 くりっくりのまん丸い瞳が僕を見上げる。

 ……反則だ。

 あんなに愛らしい顔でおねだりをされたら断れるはずがない。

 僕は観念して、せっかくの食事をすこしだけ分け与えることにする。

 僕はこいつに『ヨウスケ』という名前を付けた。漢字で書くと『洋介』になる。

 松崎荘に住み着いているから『松崎洋介』だ。

 最初は、三毛猫だけに『ホームズ』にでもしようかと思ったのだけれど、それじゃあまりにひねりがない。何かいい名前はないものかと、僕はじっと『ホームズ』になりかけた三毛猫と睨めっこをしたものだ。真っ黒い瞳を覗き込んでいるうちに僕は中学の時のクラスメイトのことを思いだした。そいつはいつもヘラヘラしていて何かと面倒を起こしてはみんなにヒソヒソと笑われているようなヤツだったのだが、不思議と憎めないヤツでもあった。瞳が眩しいほどにキラキラと輝いているヤツだった。そういえば「いつか、おれは世界一周の旅に出るんだ!」と言っていたっけ。案外、いまごろ地球の裏側にでもいるんじゃないだろうか。

 瞳がすごく似ていた。それで僕は三毛猫に『ホームズ』ではなくて『ヨウスケ』と名付けることにしたのだ。

 そんな人間的な名前が気に入ったのかどうかはわからないが、ヨウスケはしょっちゅう僕の前に現れては、ふらっといつの間にか姿を消していたりする。

 とりあえずのところ、僕のことは気に入られているようだった。放っておくとヨウスケは部屋にまで入り込んできて、ちゃっかりくつろいでいたりするから困ったものだ。そんなところを大家さんにでも見つかったら、何と言い訳をしたものか。

 ま、でも、そんなヨウスケを僕は憎めないでいる。

 畳の上で三毛猫が丸くなって日なたぼっこをしているのも、ずいぶんと見慣れた光景になっていた。カーテンと段ボールの机だけの殺風景な部屋にあって、僕はヨウスケの存在にずいぶんと助けられているらしかった。どういうわけか、ホッとするのだ。

 ヨウスケと僕の同居じみた生活が、すっかり当たり前の日々になっていた。

 そんなある日、僕はある異変に気がついた。

 愛用のマグカップが定位置から毎日毎日少しずつ位置を変えているのだ。

 毎晩ちゃんと洗って、いつも同じ場所に置いているはずなのに、朝になるとあっちこっちに移動していたりするのだ。

 台所の右端だったり、左端だったり、スニーカーの横に置いてあったり、枕元にあったりと、それはもうバラエティに富んだ配置で、こうなるとマグカップがちょっとした途中下車の旅をしているみたいだ。

 いや、マグカップばかりじゃない。

 物という物が少しずつ少しずつ動いているようなのだ。夜眠る前と朝起きた後とでは、場所が違っていることがよくある。それは、ほんのわずかな変化ではある。だが、確かに動いた形跡があるのだ。

 最初はヨウスケのいたずらかとも思ったのだが、どうやらそうじゃないらしい。

 いや〜、世の中には不思議なことがあるもんだ……と、そんなひと言では、簡単にはかたづけられない。

 まさか、夜な夜なマグカップに手足が生えて、おもちゃのチャチャチャよろしく、ひとりで運動会でもしているというのだろうか。

 …………

 ……いやいや、そんなわけがない。

 我ながらおちゃめな想像をして、かわいいなぁと思ってしまった自分に突っ込みを入れつつ、僕は意を決して、一晩中部屋の中を観察してみることにした。




 徹夜なんてものを僕はしたことがない。

 一晩中起きていられるという自信なんてありはしなかったけれど、目安とされている量の五倍の濃さにいれた苦いだけのインスタントコーヒーを飲み干して、「さぁ!」と頬をばしばしと平手で叩いて気合いを入れてみた。

 ……まではよかったのだけど、三〇ワット球の薄明かりの中でじっとしていると、どうしようもなく眠たくなってくる。

 どれくらいの間、僕はマグカップを凝視できたのだろう。

 時間にしたら一時間とちょっとくらいはがんばれた気はするけれど、実際には十分も持たなかったのかも知れない。

 土壁に背を預けていた僕は、うっつら、うっつらといつの間にか船をこいでいた。

 はっとして辺りを見回した時には、幸いにもまだ夜のままだった。

 いけない、いけない、眠ってしまっては意味がない。

 と僕は慌ててマグカップが置いてある流し台の横に向かって目をこらした。

 …………

 ……ない。

 なくなっている。

 たしかに洗って、流し台の横に敷いたタオルの上に置いておいたマグカップは、そこにはなかった。

 しまった!

 決定的な瞬間を見逃してしまった。

 あ〜あ…と僕は自分のうかつさに嘆息して、消えたマグカップを探すことにした。

 昨日はスニーカーと一緒に並んでいた。

 一昨日はがらんどうな押し入れの中にちょこんとあった。

 今日はいったいどこに放置してあるのだろうと首を回していると、ふと、ほんわかと部屋中にコーヒーの香りが漂っていることに僕は気がついた。

 やっぱりインスタントだとカフェインの効果が薄いんだろうか、なんてことを考えていると、はたと僕の視線は奇妙なものにぶち当たった。

 マグカップが湯気を立てながら窓枠の中に浮かんでいるのだ。

 はて?

 僕は夢でも見ているのだろうかと、ゴシゴシと瞳をこすってみた。

 それでも、マグカップはやっぱり宙に浮かんで見えた。

 いや、

 いやいやいや、そんなはずはない。

 宇宙に散らばる星々はおろか空気中に漂う塵たち、それよりも圧倒的に小さな原子などの素粒子さえも従えて離さない万有引力の法則をこんなに、いとも簡単に無視していいわけがない。断じて。

 きっとこれは何かの誤りだと我が瞳を疑って、僕はまたゴシゴシと瞳をこすった。

 すると月明かりが差し込む窓枠の前には、さっきまではなかったはずの人の姿があった。

 若い女だ。

 それも、かなりの美人だ。

 流れるような黒髪が背面を覆っていて、わずかな隙間からのぞくのは白いシャツ。そこから一糸まとわぬ脚がすらりと伸びていて、何というか……実に艶めかしい。窓枠に肘をついたシャツの袖から伸びた細くて長い指が湯気を立てているマグカップ――それはまぎれもなく僕のマグカップだ――に絡みついて、形のよい顎がつんと、どことなく物憂げに外を眺めているようだ。

 思わず、僕は見とれてしまっていた。

 ドロボウにしてはあまりに堂々としているし、何より恰好が変だ。

 こういう場合、はたして、どのように切り出したらいいのだろうか?

 怒鳴ってみるべきだろうか?

 驚いて戸惑ってみるべきだろうか?

 それとも、ごく普通にあいさつをしてみるべきなのだろうか?

 「あ、起きたんだ」

 「あ、うん――」

 当たり前のように話しかけられて、僕は思わずうなずいてしまった。

 いや、そうじゃないだろ!

 「あたし、思うんだけどさー。夜の王さまっていうのがいてさ、ホットケーキにかぶりつくみたいに、きっとまん丸いお月さまを食べてしまっていると思うんだよね。だから、あんな風に毎日毎日欠けていっちゃうんだよ。しかたがないよね、あんなにおいしそうなんだもの。ねぇ、そう思わない?」

 だったら、月が満ちていく理由を知りたいものだ。と思ったけれど、僕は別のことを口にした。

 「……いや、食べ物じゃないし」

 すると、女はさぞがっかりしたと言わんばかりの顔を僕に向けた。

 「そんなことはわかっているわよ。夢のない男ね。だめよ、そんな凝り固まった頭で世の中を見てたら、おもしろくも何ともないわよ。若いんだからもっと柔軟に物事を見るようにしないと人生がつまらないでしょうに」

 何だって、僕は見ず知らずの女にこんなことを言われなければならないのだろうか。

 「……べつに人生なんて……おもしろかろうが、つまらなかろうが勝手に続いていくものでしょう」

 「あらあら、わかった風な口きいちゃって」

 「べつに、わかってなんかいないけど……てゆーか、あなた一体誰なんです?」

 一寸の沈黙の後、

 「ええッ?」と、ことさら大仰に驚いて、泣き崩れるように女は倒れ込んだ。

 投げ出された脚が白くて、目のやり場に困ってしまう。

 「そんなひどいわ。三週間もいっしょに住んでいるのに」

 「………は?」

 何をわけのわからないことを言っているんだ、この人は?

 僕はひとり暮らしをはじめたばかりなんだ。いっしょに住んでいる? そんなはずはない。ああ、そういえばヨウスケの奴はどこに行ったのだろう。こーゆー時にこそ番犬ならぬ番猫の出番だろうに。

 …………

 まったく、肝心な時にいないんだよな。

 そんなもんだよ。猫なんて気ままなもんだ。

 「ふぅん……」

 首を回してヨウスケをさがす僕を見て、女はくすりと笑ったようだった。

 「あたしのこと、何にも聞いてないんだ?」

 開いた口がふさがらないというのは、まぁ、こういうことをいうんだろう。僕はさぞかし間抜けな面でそれを眺めていたに違いない。それでも叫んだり、気を失ったりしなかっただけずいぶんとましな方なんじゃないだろうか。

 人間が宙に浮かんでいた。

 少なくとも人の形をしたモノがふんわりと浮かんで、僕を見下ろしていたのは確かだった。

 そして、それは絶世のほほえみと化して僕の両眼に滑り落ちてきた。

 背筋にぞっと冷たいものが流れ落ちるかのように、僕はごくりと唾をのみ込んだ。それは決して、素肌が透けて見えんばかりの薄衣一枚きりの美女が目の前にいることだけが原因ではないはずだった。

 すぅと鼻先に触れるか触れないかといった所まで顔が近づいてくる。

 僕はますます凝り固まったように動けなくなってしまった。

 そんな僕をどう思ったのか、宙に浮いた女の白くて細い腕がふわりと動いた。その指先には僕のマグカップがぶら下がっていた。

 「はい、これ」

 「あ、どうも――」

 差し出されたマグカップを僕は当たり前のように受け取った。

 そういえば、こいつを探していたんだっけ?

 なんだかもう、どうでもいいような気がしてきた。

 「他の人たちはあたしを見るなり、さっさと出て行っちゃったけど、あなたはどれくらいもつのかしらね?」

 うふふ、楽しみだわ。と言い残して女は壁の中へ、すぅっと消えていった。

 嗚呼、神さま仏さま、どうか僕にお教え下さい。

 ユーレイってヤツには足がついていなかったはずなのではないでしょうか?

 …………ま、応えてくれるだなんて期待はしてないけどね。

 窓からのぞく月に向かって、僕は深々と溜息を吐いたのだった。




 何事にもタイミングというのは肝心なことだと思う。

 人間だろうと猫だろうと、所かまわずとつぜん目の前に出てこられるのは心臓によろしくない。

 それがこの世ならざる者ともなればなおさらだ。

 「ねぇ、ねぇ、リョータ、なにしてんの?」

 「わぁ!」

 何の予告もなしに参考書の中から女の顔がニョキッと出てきたのだから、それはもう、僕はめいっぱい仰け反って驚きの声を上げてしまった。

 「な、なんで、そんな所から出てくるんだよ、リツ!」

 「ん〜、だって普通に出てきてもおもしろくないじゃないの」

 だからって、人が苦労して造った段ボール製の勉強机から出てくることはないだろう。未来からやってきたどこかの動物型のロボットじゃあるまいし……

 「おもしろくなくてもいいから、普通に出てきてくれ。だいたい、存在自体が普通じゃないんだ。せめて、言動くらいは普通にしてくれ」

 「あら、ならなおのこと凡庸であることは罪だとは思わなくて? だって、普通じゃないんだものねぇ。リョータ君のご期待に添えて、次からはもっと奇抜な登場のしかたを心がけることにするわ」

 「…………」

 僕はどうやら、余計なことを口走ってしまったらしい。

 己の失策に頭を抱えている僕を、頭上であぐらをかいてニタニタと眺めているこのユーレイ女は「柏木(かしわぎ)律子(りつこ)」という名前なのだそうだ。

 カタッ苦しいから「リッちゃん」て呼んでね、とも言われたが、とんでもない。ユーレイなんぞをちゃん付けで呼ぶのは正気の沙汰ではない。したがって、至極まっとうな人間であるはずの僕は、彼女を「リツ」と呼ぶことにした。

 「で、なにしてんの?」

 「どうだ、まいったか」と言わんばかりに不敵な笑みを浮かべてリツは僕の顔を覗き込んできた。

 ささやかな抵抗を試みて、僕はめいっぱい無愛想な顔をした。

 「見ればわかるだろう」

 「見てもわからないから、聞いてるんじゃないの。だいたい、こんなにいい天気なのに、いい若いもんがどこにも出かけないで部屋にこもったきりだなんて不健康よ。ほら、いまからでも遅くないから、さっさと青春しにいきなさい」

 青春て何なんだろう?

 などと一瞬考えてしまった自分がかなしい。

 てゆーか、何で悪いこともしていないのに悪人みたいに断定されなくちゃならないんだろうか。

 「……勉強してるんだ。邪魔しないでくれ」

 訳がわからないという風にリツは小首をかしげた。

 「勉強? 昨日の晩にもしてたじゃない」

 「そうだよ」

 「そんなに勉強ばっかしてたら間接からカビが生えて、そのうちに全身が毛むくじゃらの『妖怪人間カビダラケ』になっちゃうわよ」

 何なんだ、それは。『妖怪人間カビダラケ』って……

 それにしても、リツはどうにかして僕を外に連れ出したいらしい。

 迷惑なことだ。

 「カビが生えてもけっこう。とにかく、邪魔はしないでくれ」

 「なんで?」

 「なんでも」

 「どうして?」

 「どうしても」

 「理由になってないわ」

 「だろうね」

 「…………」

 「…………」

 「ぶ〜、つまんなぁ〜い」

 駄々をこねる子供のように唇をとがらせてそう言うと、リツは窓枠にぶらりと上体を投げ出した。

 「あー、空が青いわ。ほら、見てみなさいよ。まるで、魔法使いのおばあちゃんがほうきでぱっぱと掃いてしまったように雲がひとつもないの。こんな日に家にいるだけだなんて失礼だと思わないの?」

 あまりに独創的なたとえに僕は閉口しつつ、言われっぱなしなのもそれはそれで癪に障るのでささやかに言い返してみた。

 「何に対して?」

 「魔法使いのおばあちゃんによ」

 「…………」

 さも当たり前だといわんばかりにあっさりと返ってきた答えに、僕は思わず頭を押さえ込んでしまった。

 「……そんなに外に出たいんなら一人で行けばいいだろう」

 「あたしはダメ」

 「は? なんだよ、それ?」

 「ダメなものはダメなの」

 「人にさんざん外出しろって言っておいて、自分はダメってのはどういう了見なんだ?」

 僕はあからさまに怪しむようにリツを見た。

 この真っ昼間から騒々しくあらわれるユーレイに限って、お日さまがダメだなんてことはないだろう。

 それとも、どーしてもアパートから人を追い出したいのだろうか。

 リツは「はぁ…」と嘆息すると、気だるそうに頬杖をついた。

 「あたしはダメ。遊びに行きたいけれどダメなの。この建物、とゆーよりは敷地の外には出れないの。理由ならあたしが知りたいわ」

 ぶすっとつまらなそうに言い放つ。

 ああ、なるほど、と僕は妙に納得していた。

 「……地縛霊ってヤツか」

 独り言のように僕が言うと

 「そうなのかしら」とリツは我がことにしては無関心そうに応えた。

 「べつだん、ここに執着する理由なんて思いつかないんだけどね。気がついたら、そうだっただけなんだから」

 とは言っても、リツはこの松崎荘に対して何らかの強い思い入れがあることは確かなことだろう。だからこそ、外に出ることができないのだ。その鬱憤を人にあたって解消しようというのはやめてもらいたい。いい迷惑だ。

 そういえば、リツは一体なんでユーレイになってしまったのだろうか。

 そこら辺と何か関係があるような気がする。

 解決さえしてしまえば、外にだって出られるようになるんじゃないだろうかと僕は聞いてみたのだが、

 「知らないわ。覚えてない」

 少し不機嫌そうに、リツはそう応えた。

 何かを隠しているというよりは、想い出せずにイラついているっていう感じだ。

 しかし、怪しい感じもするといえばする。だからといって僕にどうこうできる問題ではないということに思い至って、僕は再び参考書に視線を落とすことにした。

 「ねぇ、コーヒーもらっていい?」

 不意にリツはそう言うと、ふわりと台所へ飛んでいった。

 「お好きにどうぞ」

 と僕は応えて、ふと、ひとつの疑問が脳裏に浮かんだ。

 応えてくれるものなどいやしないとわかっているけれど、思わず僕はそれを胸中で呟かずにはいられなかった。

 ユーレイがコーヒーを飲むのは尋常なのだろうか、それとも異常なのだろうか、と。




 駅前にあるメインストリートから二本ほど裏通りに入ったところにある雑居ビルの一角に、喫茶店〈洋風亭ゲイル〉はある。

 人間が人間らしく暮らすために必要な『衣・住・食』の内、もっぱら僕の『食』を担ってくれているのが、この奇妙なネーミングセンスを全面に押し出している小さな喫茶店なのである。

 要するに、僕はここでバイトをしている。

 ここのマスターはとても人がいい。

 三十歳そこそこらしいのだが、さっぱりとこぎれいにした風体でいつもニコニコしているので、五〜六歳は確実に若く見える。アルバイト募集の張り紙を見つけるなり飛び込みで面接を依頼した僕が、田舎から出てきたばかりで右も左もよくわからないという旨の話をすると、

 「そうかい、じゃあ明日からこれるかい?」

 なんて、あっさりと雇い入れてしまうあたり、人がいいとしか思えない。

 おかげで僕は「職」と「食」とを手に入れることができた。ありがたいことだ。

 「今日も一日ご苦労さん。はい」とカウンターを片づけていた僕の目の前に、ブラウンとクリームを足して二で割ったような色の液体が入ったカップが差し出された。カフェオレだ。ありがたいことにマスターからの差し入れというわけだ。

 「あ、すみません。いただきます」

 遠慮なく頂戴して、僕は砂糖を二つ入れる。疲れている時には甘いモノが欲しくなるというが、御多分に漏れず僕もその内の一人であるらしい。

 「どうだい、こっちの生活には慣れた?」

 ニッコリほほ笑んで、マスターはそんなことを聞いてきた。

 ずずずっと僕はカフェオレをすすって、六畳一間の殺風景な部屋を思いだした。段ボール製の勉強机とカーテンしかない、松崎荘201号室だ。

 「ん〜、まぁ、ぼちぼちですね」

 「ははは、一人暮らしは思っていたよりたいへんかい?」

 「ええ、まあ」

 実際、たいへんだ。

 勉強だけをしていればいいってわけじゃないのだから。

 そのことに気がついたのは、つい三日くらい前のことだ。モノがないはずの部屋が不思議と狭く感じるようになって、どうしてだろうと思いながらもさして気にも止めていなかったら、すっかり同居人と化してしまったリツに「散らかってるわね、リョータ。ちゃんと片づけをして、ゴミは毎週指定日に捨てなきゃダメでしょう。わかってる?」などと説教をくらってしまった。

 もちろん、そんなことはわかっている。

 掃除も洗濯も、やっていないわけじゃない。ただ、ちょっと忘れてしまう時がある、というだけだ。

 まぁ…、それは単なる言い訳なんだけれども。

 ともかく、バイトから帰って、勉強して、さらに部屋に居ついているリツとヨウスケの世話?までしていると、ついつい忘れがちになってしまうのだ。明日やればいいか、というのもある。

 何が言いたいのかというと、要するに、いまさらながらに母親の偉大さに気づかされて、僕は生きていくことの難しさを改めて痛感したわけだ。こう言うと、ちょっとばかり大げさな気もするけれど、ほんとうにそう感じたのだ。一人ですべてをこなすのは、けっこうなパワーがいる、と。

 思わずホームシックというヤツに陥りかけて、まだ早いだろうと自分自身を鼓舞したばかりなのだが、家事のことを考えると、ちょっと心が「く」の字に折れ曲がりそうだ。

 ああ、めんどうくさいなぁ……

 「それはそうと、はい、これ」

 すっと目の前にアイボリー色の封筒がすべり込んできた。

 一瞬なんだかわからなかったが、すぐにそれが何であるかを理解して僕はありがたく受け取った。手はなぜだか震えていた。

 「どうだい、はじめての給料は?」

 それは決して重くはなかった。だけど、軽くもなかった。

 なんとも奇妙な感覚である。

 「……なんか、うれしいですね」

 「そうかい、そうかい」

 手にした封筒の中身が自分のものであるという実感がなかなか湧いてこなかったのだが、それでもさっそく僕はその使い道を考え出していた。

 とにもかくにも家賃は払わなきゃならない。水道代と電気代も払わなきゃダメだ。あ、ガス代もか。ぜんぶ払ったらどれくらい残るのだろう。とりあえずテーブルが欲しい。もう段ボールの上で参考書を広げたり、食事をするのはやめにしたい。

 あ、そうだ。

 食器も買わないと。いつまでも共用じゃ不便だ。

 「あたしは気にしないけど」なんてリツは言っていたけれど、僕がまったくもって気にしているのだから困る。だいたい、一式しかない食器を僕が使いたいときに使われていては、気にするなという方が無理だろう。

 「いやー、わかる。わかるよ。なかなか実感が湧かないんだよね」

 封筒をじっと見つめて考え事をしている僕の肩を、マスターはぽんぽんと叩いた。

 「じゃあ、自分への褒美に何か買うといいよ」

 「褒美……ですか」

 「そ、ケーキとかさ。普段、買わないものを買ってみたりすると、ああ、お金が手に入ったんだなって実感するから」

 「なるほど、そうですね」

 別段、実感が欲しいというわけじゃあない。むしろ、家具一式がどこからか、わいて出てこないかと願って止まないところなのだけれど、こんな気分を体験できるのも一生に一度だけなのだから、ちょっと無駄使いするのもわるくはないかなという気がしてくるのだから不思議だ。

 「じゃあ、『ティラミスタルト』をください」

 マスターは一瞬、僕の言ったことがわからなかったようだ。「ん?」と質問を聞き返すように僕を見つめ返してきた。

 「まさか、うちで買っていく気かい?」

 「ええ。なんせ、普段できないことですからね」

 「ハハハ、確かに」

 マスターは肩をすくめて苦笑してみせると「ちょっと待ってて」とカウンターの奥へ消えていった。

 『ティラミスタルト』は『シチューでコトコト煮込んだハンバーグ』にならぶ〈ゲイル〉の人気商品だ。正式名称は『しっとり焼き上げたチーズタルトにココアパウダーをたっぷりふりかけました』というやたらと長い商品名なのだが、イタリアデザートの『ティラミス』にそっくりだということで常連さんたちはそうやって呼んでいる。

 僕は『ティラミス』というデザートを聞いたことはあっても、見たことも食べたことなかったので、たいがい売り切れてしまうこの人気商品に以前から興味があったのだ。今日は珍しく『ティラミスタルト』が三切れも売れ残ってしまっていたので、これ幸いにと申し出てみたわけだ。マスターは、その内の一切れをテイクアウト用の小箱に入れて戻ってきた。

 「はい、お待ちどう。おまけも付けといたよ」

 僕は780円をきっちり払って『ティラミスタルト』が入っている小箱を手に入れた。手にしてみるとそれは、思っていたよりずっと重かった。マスターは、一体おまけに何を入れたんだろう。

 「そういえば、瀬尾君の家はここから遠いんだっけ?」

 「まぁ、歩いて四十五分てとこですかね」

 「じゃあ、近くはないね」

 同情するようにマスターは言った。

 「そうですね。でも、けっこう良いところですよ。庭先には桜があって」

 「へぇ……」

 ニヤリとマスターの顔が歪んだ。

 なんだか、いたずらを仕掛けた子供の笑い顔にそっくりだった。

 「紅桜かい?」

 「ええ」

 「知っているかい? 桜の木の下には……」

 「死体が埋まっている、なんて言わないで下さいよ」

 僕が先回りして言ってしまうと、いかにもがっかりした様子で、マスターは肩を落とした。

 「なぁんだ。知ってるんだ」

 「なぁんだ、じゃないですよ。それ、古典中の古典ですよ」

 「ハハハ、それもそうか。それに、もうとっくに葉桜になってるしね。雰囲気まるでなかったか。いやぁ、ざんねんざんねん」

 まぁ、マスターはそう言って残念がっていたけれど、実際に死体が埋まっていたとしても、僕にとってはいまさら驚くようなことじゃない。なんせ、こちとらユーレイなんぞと同居をしているのだ。むしろ、埋まっていたら埋まっていたで妙に納得してしまうんじゃないだろうか。

 「いやぁ、ざんねん、ざんねん」なんて言いながら笑うマスターの横で、桜の下で、白いシャツ一枚きりの姿で眠るリツの姿を想像してみて、シャレになってないなぁ、と僕は溜息まじりにカフェオレをすすった。




 「……ただいま」

 暗闇に向かって、僕はそう言っていた。

 なんだって、誰もいないはずの部屋に向かってわざわざ帰宅を告げなければならないのだろうと、胸中で愚痴をこぼしながら僕は電灯のスイッチを入れた。パッと四十ワット球の明かりが部屋を灯す。

 あれ、ヨウスケはいないのか? と、さして広くもない部屋を、僕は首を回して見わたした。僕が帰るといの一番に、何か食べるものを寄こせとやってくる三毛猫が、今日に限っては、まだあらわれていないのだ。どこかで、ひろい食いでもしているのだろうか、と思った矢先だ。

 「あら、いい香り」

 「うわっ!」

 いいかげん慣れてもいいと思うのだけれども、足下から突然、ニョキッと生えてきた顔の半分を『ティラミスタルト』が入った小箱の中に突っ込んでいるリツに、僕は驚きの声を上げていた。

 「だ、だから、そういう登場の仕方はやめてくれって言っただろう!」

 「ねえ、これ、どうしたの?」

 「…………」

 早鐘のように鳴る胸を押さえながら僕は抗議したのだが、それはあたかもなかったかのように無視され、僕は胸中で深々とため息をついた。

 「……買ったんだよ」

 「あら、リョータも少しは気が回るようになったじゃない」

 「なんで?」

 「だって、あたしに買ってきてくれたんでしょ、これ」

 あいかわらず白いシャツ一枚きりの格好でリツはふわりと僕の背後にまわると、その細い腕を投げ出して僕の肩にしなだれてきた。

 「ありがと」

 そして、何を勘違いしているのか、ふッ…と耳に息を吹きかけるようにリツはいたずらっぽく感謝の言葉をささやいた。

 少しくすぐったくて、首筋のあたりがぞくぞくッと波打つようだった。

 その感覚を追い払うように僕は身震いをして、同時に肩にしなだれているリツの腕を払い落とした。

 「何言ってんだよ。こいつは僕が買ってきたんだぞ」

 言ってしまってから、なぜだか僕は罪悪感を感じていた。うれしそうにしていたリツを裏切ることになってしまうことへの、それは恐れのようなものだったのだろう。他人からの期待に背くというのは、それがどんなに些細なことであろうとも良心にチクリと針が刺さったような気分にさせられる。気持ちのいいものじゃない。

 僕は恐る恐る振り向いて、リツを見た。

 リツはどんなにがっかりしているのだろう、と。

 ところが、どっこい。

 「そんなのわかってるわよ」と、リツはけろりとしていた。

 むしろ、いたずらに引っかかった憐れな被害者をケタケタと笑うような、そんな微笑を浮かべて僕を見下ろしていた。

 「いや〜ね、ムキになっちゃって。ちょっと、からかっただけじゃない。これだからモテない男はダメね。すぐ、その気になるんだから」

 人を小馬鹿にしたような言い方に、僕は少しカチンときた。

 「誰がモテないって?」

 ムッと顔をしかめた僕の鼻先を「ほら、見なさい」と、リツの人差し指が弾いた。

 ぱちんと小気味のいい音がして、僕は仰け反るように少し赤く腫れた鼻先を押さえた。

 「な、何するんだ…よ……」

 文句の一つでも言ってやろうと思ったのだけど、それは言葉半分で音にならず舌の上で空気に溶け込んでしまった。

 思いっきり頬をふくらませて、怒った顔をしているリツに出会ってしまったからだ。

 その鬼気せまる雰囲気に気圧されて、僕は思わずたじろいでしまった。

 ……てか、何でコイツが怒ってるんだ?

 「いいこと、リョータ。そんなんじゃダメよ。全ッ然、ダメ。もっと、知性とユーモアにあふれたリアクションをしなくちゃ。そんなアリンコも見向きしないような反応ばかりしていたら彼女なんてできないし、ましてや、お笑い芸人になんて八百光年かかったってなれやしないわ。いつもいつも、あの手この手で鍛えてあげているというのに。ああ、オネーサンはとても悲しいわ」

 まるで、どこかの舞台で悲劇を演じるかのようにまくし立てるだけまくし立てて、よろよろと崩れ落ちるリツを、僕はぽかんと眺めることしかできなかった。

 眼前のユーレイが何を言っているのかを理解するのに、すくなからずの時間を要したのだ。

 おそらく、僕のこめかみはひくひくと青筋を浮かべていたに違いない。

 ……まぁ、百歩譲って彼女ができないのは認めよう。現実に、いま彼女がいないのは事実なのだから認めよう。

 しかし、だ。

 「誰が、お笑い芸人だ!」

 「あら、違うの?」

 ケラケラと笑いながら、しれっとリツはのたまわった。

 「ま、そんなことはさておき、せっかくなんだから、お茶にしましょう。ほら、リョータ。いつまでも棒みたいに突っ立ってないで、さっさと準備しなさい!」

 クルクルと僕のまわりを飛翔して笑っていたリツは、ふと思い出したように段ボールの机の前に座り込むとバンバンと机を叩いて、ウェイターを呼び寄せるがごとく僕にオーダーを下した。

 なんというか、僕は間髪を入れないリツの変わり身の速さに、言葉を紡げなかった口を陸に上がった鯉のようにぱくぱくとさせていた。

 それは、さも間の抜けた様子であっただろう。

 「なに? どうしたの? そんなに呆けてばっかりいると間抜け面が板についてはがれなくなっちゃうわよ」

 「うぐッ……」

 さすがにそれはイヤだなぁ、と僕はしかたなくお茶の支度に取りかかった。

 ヤカンに半分くらい水を入れてガスコンロの火にかける。沸くまでは五分くらいはかかるので、その間にタルトを出してしまおうと小箱を開けてみると、二等辺三角形に切り分けられたタルトの横に小さな袋に入った茶色の粉末がぽつんと添えられていた。スプーン大さじ三杯くらいの量ではあったが、それは確かにふわりと喫茶店の香りを放っていた。

 ゲイル特製ブレンドの挽きたてコーヒー豆だ。

 マスターの言っていたおまけというのは、これのことだったのだ。

 このささやかな贈り物に、僕は感謝しつつも困ってしまった。というのも、僕の家にはコーヒー豆をドリップする道具がないのだ。

 このまま放置しておくしかないかと、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばそうとすると、横から急須がひょっこりと顔を覗かせるではないか。はてさて、こんなものが僕の家にあったのかと、わずかに記憶のページをめくっていると、急須はカタコトと自己主張するかのように振動をくりかえした。

 こんなことをしでかすのはひとりしかいない。

 「うちにはパックの紅茶とインスタントコーヒーしかないのは知ってるだろう?」

 僕がそういうと、呆れたように溜め息を吐いて急須を動かしていた人物――というかユーレイが姿をあらわした。

 「何いってんの。せっかく挽きたての豆があるんだから、これでコーヒーを煎れるのよ」

 「え?」

 疑問符に濁点をつけたように、僕はあからさまにイヤそうな顔をしていたことだろう。

 急須でコーヒーを煎れるだなんて聞いたことがない。

 そうやって、いぶかしんでいる僕をリツはせせら笑うように軽く小突いた。

 「なぁに、そんな顔して。ダメよ、常識に囚われてばかりいては。ようは、お湯にコーヒーの成分を抽出して、飲みやすいように濾過すればいいんじゃない。そうでしょ?」

 そうでしょって言われても、たしかにその通りではあるのだが、はたしてそんなにうまくいくものだろうか。だが、人間というのは、なかなかどうして奇妙な生き物である。いわれてみると、いったいどんなモノになるのかという好奇心が湧いて出てきてしまって、それを試さずにはいられなくなってしまうらしい。

 結局、僕はコーヒー豆を急須の中に放り込んでしまっていた。




 意外と言えば意外な発見だった。

 急須で煎れたコーヒーは、想像以上にコーヒーであったのだ。

 カップの底に濾過しきれなかった粉末が沈殿していて、いささか飲みづらくはあったのだけれど、それは立派にコーヒーであったのだ。

 そのことをゲイルのマスターに話してみたら──もちろん、リツのことは伏せたままで──まったく何てこともないように肯定されてしまった。

 「変わっていると言うことはないよ。そういう飲み方をする地方もあるらしいからね」

 「へぇ、そうなんですか」

 「うん。どこだったか忘れてしまったけれど、そこでは鍋で煮出したりするそうだよ」

 「さすが喫茶店のマスター、詳しいですね」

 「いや、それほど詳しいってわけじゃないんだよ。うん、昔の彼女がね……好きな飲み方だったんだよ」

 少しためらうように微笑を浮かべて、マスターは言った。

 古傷でもえぐってしまったかなと思いながらも、僕は質問を投げかけた。

 「その彼女は、いまどこで何をしているんですか?」

 別れた相手のことを訊くというのも変な話だとは思ったが、気になったのだからしかたがない。

 案の定、マスターは瞳を見開いて僕を見た。

 それは睨みつけるようでもあり、困惑しているようでもあった。

 「さてね。しきりに留学したいと言っていたから、今ごろ、どこかの国で学業にでも勤しんでいるんじゃないかな。でも、なんで、そんなことを訊くんだい?」

 「ちょっとした興味ですよ。そんな変わった飲み方を知っていて、それを好きだという人は、いったいどんな人なのかと」

 一瞬、僕の脳裏には、あの神出鬼没で妙に独創的なたとえをするユーレイの姿が浮かんでは消えた。

 どういうわけだか、マスターの『昔の彼女』と『リツ』の姿が似通っているように思えてしまったわけだ。

 さんざんな想像だと思う。

 マスターの元彼女さん、すみません。などと、ちょっと謝ってみたりする。

 「そうだね……とても元気な娘だったよ。いつも笑っていてね。彼女の笑顔には、ずいぶんと助けられたものだったよ」

 「それなのに別れたんですね」

 「うん……まぁ、いろいろあってね」

 思い出してしまったことを後悔するように、力なくマスターは頷いた。

 その顔が本当に哀しそうで、僕は思わず言葉を失ってしまった。

 今さらながら、そんなことを訊いてしまった己の迂闊さに嫌悪を抱いていたのだ。

 わずか数秒ではあったが、沈黙という重苦しい空気が僕とマスターの間に横たわった。

 「ああ、ごめん、ごめん。つまらない話をしてしまったね」

 「いえ、僕の方こそ詮索するようなことを訊いてしまって、すみません」

 「まぁ、うん、思い出と言えば思い出だからね。気にしないでいいよ。それより、今日はもう上がっていいよ。お疲れさん」

 「あ、はい。お疲れさまです」

 僕は軽く頭を下げて帰宅の準備に入る。

 そして、去り際にマスターが何やらメダルのようなものを手にしてのぞき込んでいるのを目撃していた。

 遠目ではっきりとはわからなかったが、それは懐中時計で蓋の裏側に女性の写真が貼り付けてあるようだった。写真の女性は少女のような笑顔を浮かべているようで、僕はそれがマスターの元彼女の写真なのだと確信していた。

 マスターはまだ彼女のことが好きなのだろうか。

 それとも、ただ単に未練がましいだけなのだろうか。

 どちらにしても、別れた彼女の写真を肌身離さず持っているというのは後ろ向きで、どこか薄ら寒い執念すら感じてしまう。だが、そんなことは僕にとって有益でも無益でもない。

 どうでもいいことだ。

 せめて、どうかマスターに新しい恋でも訪れますようにと祈ってみて、他人の心配よりも自分の心配が先だろうにと、溜息をついて、僕は帰宅の徒に着いていた。




 いつものように帰り着くと、その日にかぎって、なぜだか部屋に明かりがついていた。

 誰もいないはずの松崎荘201号室にだ。

 電気を消し忘れたか。という疑念よりも先に、リツが何やらイタズラを仕掛けているに違いないという考えが脳裏をよぎる。

 うーん、なんだか帰るのが億劫になってきたなぁ……と窓から漏れ出る明かりを眺めていると甘えるような鳴き声が足下から聞こえてくる。

 見るとヨウスケが僕の足に──というより食料の入ったビニール袋にすり寄っていた。

 「現金だなぁ。今日が給料日で、ふんぱつしてツナ缶を買ってきたのがわかってるみたいだな?」

 僕の独り言に当然だと言わんばかりに一声鳴くと、ヨウスケは前足を上げてツナ缶を要求した。

 「そんなに慌てなさんな。食事は部屋に戻ってからさ。どうせ、付いてくるんだろ?」

 言葉というよりも僕の表情を読んだのか、ヨウスケは逡巡するように201号室の窓から漏れ出る明かりを見上げてから、ふたたび僕の顔に視線を戻して、またまた201号室の窓を見やると、プイッとそっぽを向いて歩き出してしまった。

 すっかり青々とした葉を生い茂らせている桜の根元に辿り着くと、ヨウスケは大きなあくびをして背中を丸くした。

 そうして、そのまま眠ってしまったようだった。

 一部始終を眺めていた僕は、改めて我が小さき城の窓へと視線を移して溜息をつくしかなかった。

 あの明かりの中では、いったいどんな惨劇が待ちかまえているのだろうか、と。

 足が鉛のように重たく感じるのは、きっと勘違いではないだろう。

 そして、

 「……ただいま」

 重々しい扉を開いた先に待っていたのは、別室と見間違おうばかりに整理整頓された──めちゃくちゃ散らかっていたはずの──僕の部屋と

 「おかえりなさい。食事にする? お風呂にする? それとも、あ・た・しにする? なんちゃって、きゃッ!」

 なぜか、裸にエプロンという装いで出迎えたリツの姿であった。

 僕の手から重力に引かれてビニール袋が滑り落ちたのは言うまでもないだろう。

 「……なにをしているんだ?」

 「あら? 見て、わからないの?」

 小馬鹿にするようにクスリと笑うと、やたらとエプロンに隠れた部分を強調して、踊るようにリツは身体をくねらせた。

 そりゃあ、見ればわかるさ。

 ああ、わかってるとも。

 だけど、僕が訊きたいのは、そういうことじゃない!

 怒鳴りたい気持ちを押さえるために、僕は大きく深呼吸した。

 「……すまない。訊き方を間違えた。一体全体、どーいうつもりで、こんなジョーダンをしでかすんだ?」

 いささか怒気のこもった質問に、しかし、リツは臆することなく「意外ね」とでも言わんばかりに胸を反らせてのたまった。

 「ジョーダンなんかじゃないわ。あたしは、いつだって本気よ。本気で、リョータをからかっているんだから!」

 そんなことをめいっぱい力強く宣言されても困るのだが……

 僕は、その場にくずおれそうなほどに肩を落とした。それはもう「肩を落とす」という表現の見本として絵に描かれても不思議ではないほどに脱力したものだ。

 「……いや、それをジョーダンと言うんじゃなのか?」

 まったく、いつになったら、このイタズラ好きのユーレイを言い負かせるのだろうか。

 そんな、僕の心情を知ってか知らずか、リツは一瞬、考え込むように天井を見上げて、

 「そーね。そーとも言えなくもないわね」

 などと、しれっと言い切ってみせたりするのだ。

 ああ、もう……と改めて肩を落とした矢先だ。

 リツの細い腕が僕の首に投げかけられ、絡め取るように身体を寄せてきた。

 そして、甘い吐息で耳元にささやきかけてくる。

 「そんなことより、ねぇ。お願いがあるんだけど?」

 「お、お願い?」

 ぞくぞくと背筋が震えて、思わず僕は聞き返してしまった。

 まったくもって、いやな予感しかしない。

 「そ、新しい服が欲しいんだ。お給料入ったんでしょう? 買ってちょうだい」

 は?

 服…?

 服が欲しいと言ったのか、このユーレイは?

 「……いやいや、待て待て、おかしいだろ。それ」

 「なにが?」

 「だって、いつもシャツ一枚でふわふわ浮いているだろ。なんで、いまさら服が必要なんだ?」

 あら?と、僕の首を支点にして、リツは僕の前面にふわりと回り込んだ。

 「へぇー、あたしには、こんな薄布一枚必要ないと言うのね。そう、わかったわ。リョータがそんな変態趣味の持ち主だったなんて、さすがのオネーサンも今日の今日まで気付けなかったわ。でも、しょうがないわね。それじゃあ、これからは毎日、毎時間、毎分、毎秒、布一枚纏わぬ姿でいることにしましょう。リョータがそうして欲しいって言うんだもん。しょうがないわよね」

 やたらと脚の付け根あたりにかかっているエプロンの裾をぴらぴらと翻しながら、さも不本意そうにリツは言うのだが、どー考えても誘導しているのは、そっちだろうに。

 僕はもう何度目になるのかわからない溜息をついた。

 「どーして、そーなる? 大体、どーしたってんだ。急に服が欲しいだなんて……」

 言い終わるか否かのところで、リツはびしっと人差し指を押っ立てて、僕の眼前に突き出してきた。

 「いいこと、リョータ。リョータは忘れているかもしれないけれどね。あたしはユーレイなんてやっているけど立派な女なのよ」

 「そんなことは、わかっているよ」

 てか、忘れられるわけがない。

 裸同然の格好で目の前をふわふわとされれば、いやでも意識してしまう。

 「だから、あたしだって、すこしはお洒落がしたいなー、て、思うときくらいあるのよ。そして、それが今なのよ。だから、かわいい洋服を買ってちょうだい。お化粧品を買い揃えろって言わないだけマシだと思いなさい!」

 妙な論理に納得しかけて、僕は頭を振った。

 「うん。いや、百歩譲って、その要望を受け入れなければならないとして、」

 「買ってくれなきゃ、毎晩、枕元に立つわよ」

 「突然、そんなユーレイらしいことを言われても、まったくもって、恐くも何ともないよ。でも、毎晩、枕元に立たれるのは困る」

 妙な夢でも見て、うなされそうだ。

 「じゃあ!」と喜んで抱きつこうとするリツを僕は制した。

 「だけど、予算がない」

 「なんで? お給料出たんでしょう?」

 「まぁ、ユーレイなんてやっているリツは忘れてしまっているのかも知れないけれどね。人間はパンのみで生きているわけじゃないってことさ」

 言って、面倒ではあるが、家賃、光熱費、その他もろもろの必要経費を差っ引くと、いったい、いくら残るのかという僕の哀しいまでの経済状況をきっちりと説明して見せた。まったく、マイナスにならないのが不思議なくらいの微々たる資産しか残らないことがわかると、さすがのリツも理解したのか、不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。

 「ふん! なによ、この甲斐性なし!」

 などと、捨てゼリフを吐いて、ふわふわと壁の中へ消えていったのだ。

 「………」

 ……やれやれ、だ。

 とにかく一息入れようと、僕はヤカンで湯を沸かしにかかった。

 インスタントのコーヒーとマグカップを用意しながら、せっかく買ってきたのだから、あとでヨウスケにツナ缶を届けてやろうかと考えていると、カタコトと窓を揺らすものがある。

 「……まったく」

 大抵のことには驚かなくなっていたつもりだが、さすがに少々、僕は驚いていた。

 窓を揺らしたのは風でも、ましてやへそを曲げたリツでもなかった。

 ベランダにあるずんぐりとした影に向かって、僕は苦笑を漏らさずにはいられなかった。

 そこにいたのは、庭先にある桜の木の下で眠りこけているはずのヨウスケであったのだ。

 何というか、恐ろしいほどに鼻のきくヤツである。

 窓を開けてツナ缶を差し出すと、三毛猫は「よく気付いたな」とでも言わんばかりに一声鳴いて、当たり前のようにツナ缶に顔をつっこんだ。

 うまそうにオイル付けのツナに食らいついている頭をひと撫でして、僕は庭先の桜を見ながら、奇妙に思ったことを口にしていた。

 「おまえ、どうやって、ここまで登ってきたんだ?」

 二階にある松崎荘201号室のベランダには外から登るための梯子も階段も当然ない。そこは身軽な猫の身だ。忍者よろしく、ひょいひょいと飛んできたのかもしれないが、そうだとしても、そうそう簡単に登ってこられるような場所ではないだろう。

 僕の率直な疑問に対して、当然ながらヨウスケが返答するはずもなく、ツナを頬張るばかりである。

 ま、そうだよな。と誰に言うでもなく一人頷いていると、ヤカンから蒸気が勢いよく噴き出して、湯が沸いたことを知らせる。

 ちょっとだけ慌てて、火元へ走り寄った。

 しかし、その時になって、用意していたマグカップが消えていることに僕は気が付いた。

 不思議だな……などと、思いはしなかった。

 こんなことをするヤツを、僕は一人しか知らない。

 「あ、砂糖とミルクはいらないから」

 案の定、のほほんとした声が背後から聞こえてくる。

 振り向くと、いつもの白いシャツ一枚きりの格好に戻って、リツが僕のマグカップを抱えながら、お湯が注がれるのを待ちかまえていた。

 僕は一言二言、何か言ってやろうかと思ったのだが、何事もなかったかのように「ん、どうしたの?」と小首をかしげてふわふわと浮かんでいるリツに、ただただ白旗を揚げることしかできなかった。

 要するに、黙ってマグカップにお湯を注いでいたのだ。




 今更ながら奇妙なものだと、僕は思ったものだ。

 それは家賃を払いに、大家さんの所へ行ったときのことだ。

 松崎荘の真横にある平屋の一戸建てが、大家さんの家である。もともと、松崎荘は大家さんちの庭を切り崩して建てられたアパートなので、徒歩一分圏内だというのは当然と言えば当然なのだが、家賃を振り込みではなく手渡ししなければならない身としては、実にありがたい立地条件である。

 天気の良い昼下がりということもあってか、大家さんは軒先で日向ぼっこをしていた。その傍らには熊のように大きな犬があくびをしていたりする。この大家さんちの犬は『ハチ助』――体格の割には大人しいヤツなのだが、如何せん、その体躯を目にするとついついビビってしまう。何となくだが、威圧的に感じるのだ。

 それでも無駄に吠えたりしない賢い子、とのことなのだが、十分に警戒しつつ、大家さんに挨拶をして家賃の入った茶封筒を手渡した。

 「おや、わざわざ、すまないね」

 大家さんが顰めっ面にしか見えない相貌の眉尻だけで笑って、茶封筒の中身を吟味して帳簿をつけている間、僕は熊並の犬と視線を合わせていなければならなかった。

 それで、なのかは分からないが、僕は思いも掛けずに妙なことを口走っていたのだ。

 「大家さんは犬派なんですね」

 「?……見たらわかるだろう。でなきゃ、飼ったりなんかしないさね」

 「あ、あはは……ですよね」

 どうにも気まずく笑ってみせると、ハチ助が馬鹿なことを聞くなと言わんばかりに大きなあくびをした。

 ちなみに、僕は犬派でも猫派でもないぞ。とハチ助のあくびに向かって胸中で言い訳をしてみる。ま、何の意味もないのだけれど。

 「でも、猫にも懐かれたりしたりするんじゃないですか?」

 このとき、僕の脳内ではヨウスケが「みゃあ、みゃあ」と鳴いていた。

 「猫は好きじゃないからね。近づいてきたら追い払っちまうよ。なんで、そんなことを聞くんだい?」

 大家さんの顰めっ面が一瞬、鋭く僕を睨み付けたような気がして、僕は慌てて愛想笑いを浮かべた。

 「いやぁ、よく見かける猫がいるんで、大家さんが世話しているんじゃないかと思っていたんですけど、違うんですね」

 「……ああ、猫なんて世話しやしないよ。あいつら、ほっとくと勝手にどっかに行っちまうだろう?」

 「ええ、そうですね」

 まったくまったく、その通り。猫なんて、勝手気ままなもんですよ。と激しく同意していると、タンスの奥から思い出でも引っ張りだしてきたかのように「ああ、そういえば……」と大家さんがつぶやいた。

 「孫娘が猫を飼っていたことがあったね。もう、ずいぶんと前のことだけど」

 「お孫さんが、一緒に住んでらしたんですか?」

 意外な、新情報である。

 「まあね。でも、言ったろう。ずいぶんと前のことさ。家出してきたから、しばらく、そこのアパートに住まわせてやったのさ。それで、寂しさを紛らわせるためなのか隠れて猫を飼ってたんだよ。あれで隠しているつもりだったんだからねぇ」

 どこか懐かしそうに、寂しそうに語る大家さんを見て、僕はなんだか聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと、少しばかり後悔していた。

 「その…お孫さんとは……」

 言いよどむ僕に、大家さんは案外あっけらかんと応えてくれた。

 「さてね。ある日、突然、消えちまったんだよ。転がり込んできた時と同じようにね。いま頃、どこで何をしているんだか……」

 「……元気だといいですね」

 「そうだね」

 ふぅ…とアルバムを閉じるように息を吐いて「そんなことより」と大家さんは、僕に向き直った。

 「あんたは、猫なんか飼ってないだろうね?」

 はて?

 いつの間にやら、居着いてしまった三毛猫は飼っていると言うのだろうか。などと考えながら、僕は首を横に振っていた。

 「あはは…まさか、そんな余裕はないですよ」

 だろうね。と訝りながらも大家さんは納得してくれた。




 桜の木の下には死体が埋まっている。と最初に言い出したのは誰だか知らないが、まったく、迷惑千万な言葉を残してくれたものだ。

 夏の嵐が過ぎ去った後に、それは出てきた。

 松崎荘の庭先にある桜の根元、ヨウスケがよく昼寝をしている、その場所の土が雨で流されて白骨が現れたのだ。

 最初、それは木の根の一部なのではないかと思えるほどに薄汚れて土塊に埋まっていたのだが、ヨウスケがここを掘れと言わんばかりに「にゃあ、にゃあ」と鳴いてくるので、仕方なしに、僕はそこを掘ることにした。

 真夏の真っ昼間に、である。

 まったく、我ながらお人好しだなぁ。とは思うが、毎日毎日、通りかかるたびに「にゃあ、にゃあ」鳴かれては、気にするなという方が無理というものだ。

 そんなわけで、大家さんにスコップを借りて、そこを掘り進めてみると、程なくしてそれが人骨であることが素人目にも想像ができた。

 なぜならば、生前に身につけていたであろう衣服の残骸が絡みついていたからだ。

 当然と言えば当然だが、そこから先は一一〇番の出番である。

 警察関係者がわらわらとやってきて、白骨化した遺体を、それこそ頭の先から爪の先まで発掘して連れて行ってしまった。

 僕は、まぁ、それが『柏木律子』の成れの果てだと思っていたのだが、どうやら違っていたようだ。

 僕がそれの素性を知ることになったのは偶然なのか、必然なのか、あるいは運命のイタズラとでも言うべきなのだろうか。

 残暑という言葉がおこがましいほどの日差しがまだ、僕らの頭上に降り注いでいる。

 それは、そんな一日の終わりが近づいている時であった。

 いつものように僕は『ゲイル』でバイトをしていた。

 最後のお客が帰って、さて、片付けをしよう。と思ったそのときだ。

 『CLOSED』の札を掛けたはずの扉が開いて、数人のスーツ姿の男が入ってきた。

 「あ、すみません。今日はもう閉店なんですよ」

 と、お定まりに僕が言うと、スーツの一人が「申し訳ありません」と手帳のようなモノを開いて見せた。

 「店長さんはいますか?」

 ……桜の代紋入りの手帳なぞ、初めて実物を目にした。

 「あ、えっと……ちょっと待ってください」

 そう言って、奥にいるマスターを呼びに行き、事情を説明する。

 「……そうかい」

 わずかな逡巡があって、それだけを言ったマスターの顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、それでいて、今にも泣き出してしまいそうな曇った笑みを浮かべていた。そして、後片付けはいいから早く帰るように。明日からは来なくていい。店は閉じることになるだろうから。との旨を手短に語ると、今日までの給料だと何枚かのお札を僕に、無造作に手渡してきた。「今日まで、ありがとう」とおざなりにさえ聞こえる謝意の言葉と共に。

 そうして、軽く身だしなみを整えたマスターがスーツ姿の男たちの前に出ていった。

 その後のことを僕は知らない。

 その前に、帰宅させられたからだ。

 だから、ここから先は、人づてに聞いた話だ。

 松崎荘の庭にある桜の根元に眠っていた白骨化した遺体は、()()()()という女性のモノで、彼女はゲイルのマスターの奥さんであったのだそうだ。何という運命のイタズラか。ゲイルのマスター、すなわち三輪喜(よし)(はる)は三年前まで松崎荘に住んでいたというのだ。夫婦そろって。

 いったい、どんな気分なのだろうか。

 些細な夫婦けんかで殺してしまった奥さんを、住んでいたアパートの庭先に埋めておいて、その目と鼻の先で働き続けている――というのは。

 ましてや、そこに住んでいるという者を雇い入れるというのは。

 狂気じみている。と言ってしまえば、それまでだが、はたして、今の僕自身がそうではないと言い切れるのかと問われると、ちょっと自信がない。

 というのも、僕はまたしても桜の根元を掘り起こしている。

 夜中に一人で、スコップを片手に、ザクリ、ザクリ、と土を掘る姿は、異常で異様な光景であろう。

 そんなことはわかっている。

 それでも僕は、それこそ取り憑かれいるかのように、腰まですっぽりと地中に埋まってしまうまで一心不乱に掘り進め――

 …………そこで、一匹と一人に出会ってしまったのだ。




 松崎荘の庭先では、一本の桜が春の訪れを祝うように花弁を開いている。

 あれからというもの咲き誇る桜を目にすると、ついつい、その根元には『誰』が眠っているのだろう?――と考えてしまう自分がいる。

 深呼吸をするように、余計な思考を頭蓋から放り出そうとして、頭を振る。

 すると、いつの間にか、ヨウスケが足下にすり寄って来ていて、みゃー、みゃーとエサを要求してくる。

 まったく、この三毛猫はますます厚かましくなっていく。

 「わかった、わかった。あとでツナ缶を持ってきてやるから、ちょっと待ってな」

 いささか面倒だなと思いながら僕が言うと、

 「コンニチハ」と声を掛けられた。

 見ると、どこかの書道家が書いたであろう「ござる。」とプリントされたTシャツを着ている金髪の青年がニコニコ顔で近づいてくる。彼の名前はポール。三ヶ月前くらいから松崎荘の103号室に住んでいるアニメと忍者が大好きなフランス人だ。

 「こんにちは。今日も『お(アニメグツズ)』探しですか?」

 「ハハ、ソーデスネ。ソーイウ亮太ハ、オ花見デスカ?」

 言われて僕は苦笑するように桜を見上げて、次いで己の足下を見た。そこには腹を空かせた三毛猫がいるはずなのである。

 「いいえ。バイト帰りですよ」

 「オー、ソーデシタカ。オ疲レサマデス」

 ポールは何事もなかったように笑顔を振りまいて出かけていった。

 僕は足下のヨウスケに向かって肩をすくめて見せてた。

 「……やっぱり、見えていないんだな」

 ヨウスケがどうでもいいと言わんばかりにあくびをして、桜の根元で丸くなる。

 松崎荘には住人が増えた。

 ポールの他には、ドクロのアクセサリーで全身を飾り付けている自称ミュージシャンに、片言でしか日本語をしゃべれない水商売の女性がいる。庭先から遺体が出てきたワケあり物件なだけあって、集まってくる人々も、一癖も二癖も、何というか、アクの強い人たちである。

 ま、僕も、その一人ということになるのだろう。

 そうそう、僕はまだ?浪人生?をやっている。建前上だけれど。

 というのも、最近では無理をして大学に行かなくてもいいかなぁ…なんて、考えるようになってしまったからだ。そもそもが家を出る口実でしかなかったので、こうして一人暮らしが出来てしまっていると、当面はこのままで、身の振り方でも改めて考えてみようかな、なんて思ってみていたりするわけだ。

 とにもかくにも、この一年で経験した様々なことが僕自身の価値観を大きく変化させてしまったのだ。

 同意を求めて、その原因の一つに問いかけるも、そいつは気持ち良さそうに昼寝を決め込んでいる。

 「まったく……」と、桜を見上げる。

 その先には、雲一つない青空が広がっている。

 『……魔法使いのおばあちゃんがほうきでぱっぱと掃いてしまったように雲がひとつもない』

 「こんな日には、しかたがない」と二の句を継ぐよりも、一字一句違えず同じ台詞を被せてきた誰かさんに向かって、僕は溜息を吐いていた。

 そんなことをするヤツを、僕は一人しか知らない。

 「……無断で、背後に浮かぶのはやめてもらえるかな」

 クスクス、と堪えた笑いを漏らしたソレは、ぐいっと突き出した腕を僕の首に巻き付けてきた。

 「あらあら、冷たいことを言うのね。あたしとリョータの仲じゃない」

 「いったい、どんな仲だっていうんだ?」

 巻き付けられた腕を取り払って言うと、白いシャツ一枚きりの女はふわりと僕の目の前に回り込んで、意地の悪い笑みを浮かべた。次いで、すらりと伸びた人差し指で自分を指さして、間髪を入れずにそれを僕に差し向けた。

 「ユーレイと、取り憑かれた人、じゃない」

 さも楽しそうに言うと、リツはケタケタと笑いながら僕の周りを二度三度と飛び回った。

 そうなのだ。

 僕はこの、元地縛霊に取り憑かれてしまったのだ。

 何がどうして、そんなことになってしまったのかと、取り憑いた当人に聞いてみたところで、返ってきた応えは「わからないわ」だ。

 「なんでかっていわれても、そうなってしまったものは、しょーがないじゃない。こっちだって、そんなつもりは毛頭なかったんだし。まー、思い当たることと言ったら、あれね。ちょっとばかり、リョータの将来のこととか心配してたからかしらね。この子は、この先どうなるのかしら? ちゃんと、お笑い芸人になれるのかしら? なんてね」

 誰が、いつ、お笑い芸人を目指したんだ。と抗議をしつつも、そんな理由で取り憑かれてしまったとあっては、まったくもって、たまったもんではない。たまったもんではないのだが、何というか。あれだ。

 暖簾に腕押し。

 糠に釘。

 何を言ったところで、どうにもならないのだ。たぶん。

 無駄に騒ぎ立てて、時間と労力を浪費する必要はないだろう。僕はもう、ハンズアップするみたいに溜息を吐くしかなかった。

 「ところで、今度はどこに連れて行ってくれるのかしら?」

 「はい?」

 「だって、リョータくんは、そのために勉強もしないでアルバイトに勤しんでくれているんでしょう。オネーサン、感激だわ」

 さも当然とばかりに言うので、僕は少しばかり頭にきていた。

 「このふわふわ浮いている人は何を言っているのかな? 勉強はそれなりにやっているし、僕がバイトをしているのは生活費のためだって、いつも言っているだろ。だいたい、先週、古都に満開の桜を見に行ったばかりじゃないか」

 「そうそう、あの古い街並みと咲き誇る桜の時間的コントラストはなかなか興味深い光景だったわ。でも、わたしとしては、ちょっと湿っぽい感じがしたのよね。なもんで、今度は海にしましょう。南国の海よ」

 「だから、先立つものがないって。だいたい、海に行ったところで、リツは泳げないだろう?」

 「あらあら、誰が泳ぎたいなんて言ったかしら? 大海原を眺めに行くのよ。それとも、ナニかしら、オネーサンの水着姿でも想像してしまったのかしら?」

 ふわふわと僕の周りを飛びながら、リツがセクシーポーズの真似事をする。

 シャツの付け根から伸びる白い脚を直視できずに、僕は思わず顔をそらしてしまった。

 「……悪いかよ」

 「あらあらあらあら……当たり前だけれど、リョータも男の子してるのね」

 ことさらに、ケタケタと笑い転げて、リツは妙な感想を述べた。

 「……ふんッ」

 ばつが悪くて、鼻を鳴らして僕がそっぽを向くと、ヨウスケが伸びをするように一鳴きして、こっちを見た。騒がしいと、抗議をするかのようだ。

 「あ、ほらほら、ヨウスケくんも海に行きたいって言っているわよ」

 「いや、言ってないだろう」

 「そんな瞳をしているわ」

 「僕には、昼寝の邪魔をしてくれるな。と訴えているように見えるけど」

 「見解の相違ね」

 しれっと曰うリツに、僕は溜息交じりに応えていた。

 「あー、ま、考えておくことにするよ」

 「なにを?」

 ふふん。と期待混じりの視線が頭上から滑り落ちてくる。

 「……海に行くことを、だよ」

 「ええ、是非にも考えておいてもらおうかしら」

 勝ち誇った笑みを浮かべると、リツは丸くなっているヨウスケに向き直った。

 「ああ、でも、ヨウスケくんは留守番だからね」

 そりゃそうだ。

 ヨウスケは松崎荘の外には出られないんだから。

 言われた当の三毛猫はすっかり昼寝に勤しんでいて、その周りでは桜の花びらが、ひらりひらりと舞って、鼻に、頭に、背中に、と少しずつ降り積もっていく。そのまま桜色の雪だるま、ならぬ、猫だるまになってしまうのではないかと思いもしたのだが、それは杞憂というものであった。

 ちょっとばかり目を離した、次の瞬間にはヨウスケは僕の足下で、餌をよこせと、みゃー、みゃー、鳴いているのだ。

 「あらあら、ダメよ。ヨウスケくんは、お留守番て言ったでしょう?」

 そして、何を勘違いしたのか。対抗するようにリツが僕の背中に垂れ寄ってくる。

 そう。

 僕はこの、一匹と一人に取り憑かれてしまったのだ。そして、その状況を楽しんでいる自分がいるのも事実である。

 だから、なのか。僕は、一匹と一人を桜の下で眠らせたままにしてしまっている。

 奇妙な愛着、愛執、情にでも突き動かされてしまったのだろうか。

 狂気じみているとは思う。

 しかし、長い人生、こうやってちょっとばかり寄り道するという一時があってもいいのではないかと思っている。

 リツやヨウスケと違って、僕にはまだ未来がある。

 それこそ、魔法使いのおばあちゃんが箒で掃いた青空のように、まっさらな未来が待っているのだ。



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