とある姫君の一生
従者と駆け落ちした姫君の娘は、果たして本当に皇族と言えるのだろうか。
目の前にかけられた花嫁衣装を見て、私はぼんやりと考えた。
私は明日、和平の証として敵国の王に嫁ぐ事になっている。
従兄弟である、年若い今上帝には娘がいない。
先の帝だった叔父の養女である私が唯一、嫁げる姫なのだ。
皇族の汚点と言われた娘でも、事情を詳しく知らない他国にとっては同じ価値のある「姫」である事に変わりない。
郊外の離宮で育った私の存在を知る者はほとんどなく、別れを惜しんでくれたのは教育係のお婆だけだった。
「姫様」
物思いにふけっていると、ふと、小さな呼び声が耳朶を打った。
窓の外を見やれば、庭先の白木蓮の下、藍染の衣を纏った青年が佇んでいた。
髪や肩には白い花弁が幾つも積もっている。
逞しい外見に不似合いないでたちに、思わず笑みがこぼれた。
「もう、エンたら。来ていたのなら、声をかけてくれれば良いのに。待ったでしょう?」
「いやぁ、窓から見える姫様のお姿があんまり美しかったので。声をかける機会をしばらく逃してしまいました」
そう言ってエンはにっと口角を上げると、おもむろに腕を広げた。
窓枠をまたいで飛び込もうとするも、少しよろけてしまう。
結果として、エンは半分押し倒される形で、私を腕に収めた。
「あれ、姫様、かなり重くなりました?」
「お前、相変わらずの減らず口ね。久しぶりに会ったんだから、少しは優しくしてくれても良いのに」
「俺はいつでも優しいですよ。嘘をつくのが苦手なだけで」
何故か得意げなエンの頭を小突いて、その首に腕を回す。
エンは私を胸に抱え、木の下につないであった馬に乗せた。
「どこに行きましょうか、お姫様」
「うふふ、色々な所を見てみたいわ。街なんて、もう十年近く行ってないもの」
「では、仰せのままに」
今日、私は、従者であるエンと駆け落ちする。
皇族の顔に泥を塗った母と同じ様に。
エンが馬を走らせるのと同時に、一陣の風が木蓮の枝を大きく揺らす。
甘やかな香りの白い花弁が舞う中、私は十年過ごした離宮を始めて離れた。
》》》
エンの馬はしばらく野を駆けた後、小さな町にたどり着いた。
夕暮れ時の町は賑わっていて、色鮮やかな真新しい衣に身を包んだ若者たちが、嬉々と往来を歩いていく。
もしも、両親が流行り病で亡くならず、豪奢な馬車が迎えに来なければ、私も町娘としてそこに加わっていたのだろうか……。
甘味屋でエンを待ちながら、私は往来に飾られた様々な形の灯篭と花かごを忙しく眺めた。
「今日、春の到来を祝う花祭りなんですって。何でも、今日想いを交わした男女は永遠に一緒に居られるそうですよ」
小走りで戻ってきたエンは、開口一番、緩みきった顔で言った。
「馬はどうしたの?」
「宿に置いてきました。だって、あいつ、糞ばっかするんですもん。姫様も俺との口づけの最中に、そんな光景、見たくないでしょ?」
「それは、そうだけれど……。お、お前、またからかったわね!ひどい!!」
「ちょっと、姫様、叩かないでくださいよ!ちゃんと、待たせたお詫びに良いものを買ってきましたから!」
私の拳を避けながら、エンがそっと髪に触れてきた。
簪の様なものが髪にさされたのだと気づく。
首をかしげると、ほのかに甘い香りが香った。
「カリン?」
「ええ。よくお似合いですよ。生花ですから、すぐ枯れてしまうんですけどね。まぁ、折角花祭りなんですし、楽しみましょうよ」
「……そうね!私、さっき、いろんな出店が出ているのを見たの!食べてみたいものがたくさんあるわ!」
「ええー、姫様、これ以上重くなられるのはちょっと……俺、腕が折れちゃいますよぉ」
そう言って、わざとらしくしなを作るエン。
私より頭二つ分くらい大きい男が小指を立てる様子に、白目で返す。
互いに顔を見合わせ、私はエンに抱えられながら、往来の色鮮やかな真新しい衣に身を包んだ若者たちに加わった。
》》》
私が肉巻きを一つ、飴で作った兎を二羽、花弁を混ぜ込んだ餅を三つ食べ終える頃には、すっかり夜が更けていた。
遠くでは管弦の音に合わせて、若者たちが思い思いに踊っている。
川辺に腰を下ろせば、人々の願いを乗せた花灯篭がくるくる回りながら流れているのが見えた。
「姫様、お疲れになられましたか?」
「ちょっとだけね。でも、エンの方が疲れたでしょう?ずっと私を抱えたり、おぶったりしなくてはならないのだもの」
「まぁ、重いっちゃあ重いんですけど、抱えている内に重い理由が分かりましたし。役得ってやつですよ」
「もう、また酷い事を言う。でも、役得って?」
「それはほら……。昔と比べると、大分お育ちになりましたから」
「……どこを見ているのよっ!」
私の胸元に視線を落とすエンに掴みかかる。
その拍子にエンは私の手首を掴み、懐に抱き込んだ。
文句を言おうと顔を上げれば、流れる花灯篭の薄明かりでほんのり揺れるエンの瞳にぶつかった。
何も言えなくなった私の髪に、エンの長い指が差し込まれる。
反射的に目を閉じたものの、暫く経っても期待していたものは降ってこなかった。
「……申し訳ありません、姫様。痛かったですか?」
そっと体を離される。
それでようやく握られていた手首が赤くなっていた事に気がついた。
臆病者。
その言葉は、結局喉奥に飲み込んだ。
「……平気よ。ね、それよりこれからどうしようか考えない?だって、宮から持ってきたお金は、その内なくなってしまうでしょう?お金を稼ぐ方法を考えなきゃ」
「そうですねぇ、俺が得意なのは武芸くらいですし……。用心棒をやる、とか?まぁ、姫様が許してくださるのなら、山賊になるのも悪くないですし」
ニヤリと笑って、エンは元から切れ長の瞳を一層細めた。
山賊になったエンの姿を想像してみる。
悪人面だから、虎の腹巻なんかも着こなしてしまうかもしれない。髭も似合いそうだ。
「もう、そんなに笑わないでくださいよ。姫様はどうなんですか?やりたい事とかあるんですか?」
「そうねぇ、小物屋さんとか?」
「夢がないですねぇ」
「そんな事はないわ!私の父さんと母さんも一緒に小物屋さんを営んでいたもの。とても楽しそうだったわ。母さんが刺繍した手巾や小物を父さんが売っていたの。春になったら紅花を一緒に摘みに行って、紅を作ったり、白粉を作ったりして……。私もよく手伝ったわ」
目を細めると、母の作った紅の甘い香りをぼんやりと思い出せる気がした。
けれど、記憶の中の父と母の姿は、年を追うごとに霞んでいった。
昔はそれを嘆き悲しんだりもしたけれど、今はただため息が溢れるだけだ。
「へぇ……。それも良いですね。でも姫様は不器用だからなぁ。商売にならないかもしれませんねぇ」
私が父母の思い出話で落ち込んだと思ったのか、エンがわざとおどけて言った。
暫く笑いあった後、私はゆっくりエンの肩に頭を乗せた。
「……追っ手、来ないわね。お婆は多分、私がお前と一緒だって気づいてると思うけれど」
「まぁ、長い付き合いですしね。初めて会ったの、俺たちが九つの時でしたっけ。そうやって数えると、もう八年も一緒にいるって事になりますね」
「そうそう、離宮の裏山の桜の木の上で会ったのよね!お前が突然下から呼びかけるものだから、私、驚いて、枝から落ちそうになったのよ?」
「ああ、それで、姫様の開口一番が用を足したい、でしたもんね。いやぁ、印象深い出会いですよ」
「だ、だって、自分で降りれなくなったんだもの!それで、ずっと我慢してて……。抜け出して来たものだから、お婆には中々見つけてもらえないし……」
「まぁ、姫様は昔から大分お転婆でしたもんねぇ。突然従者になれ!とか言い出すし」
「お前と一緒に遊べて楽しかったのよ。それで、お婆が従者になればずっと側に居られるって言っていたのを思い出したの。でも、お前は中々離宮に来れなくて……」
「だから、一緒にいる代わりに、十つの時、姫様と結婚の約束をしたんでしょ。まぁ、その後は俺も少し、後悔しましたけどね」
「え」
「大変だったんですよ?姫様が離宮から離れられないから、俺、とにかく理由をつけて離宮に行かなくちゃいけなくて。痛風なので療養に行きたいです、って俺が言い出し始めた時の父上の顔は一生忘れられませんね」
「……私も後悔したわよ。お前は、年々可愛げがなくなるし、口は悪くなるし、どんどん会いに来てくれなくなるし……」
くつくつと小憎らしく笑うエンが小憎らしくて、思わずむくれる。
最初は一月に一度。
その後は、半年に一度。
最後は一年に一度すら会えなくなった。
けれど、寂しかったと素直に伝えるのは癪で、私はエンの手の甲をつねったり、逞しい腕をねじったりした。
「……姫様の足が駄目になったのは、十一の時でしたね」
暫くされるがままでいたエンが、唐突に言った。
伏せた目元には濃い影が落ちており、表情は伺えない。
花灯篭を乗せて流れる水音だけがしんと響いた。
「そうね。でも、それ以降、歩いたりしなくてすむ様になったもの。こうしてお前に抱えてもらえるし、楽なものよ」
勤めて明るい笑みを浮かべて見せる。
十二の時、エンが持ってきた菓子に毒が入っており、私が誤って食してしまったのだ。
その後、何とか生きながらえたものの、私の足には麻痺が残り、歩く事は出来なくなった。
御典医には、将来、子供も望めないだろう、と言われている。
その事を、エンも知っている。
「でも、俺は、一生、姫様に償いきれない。今回の事も……」
「私は、それでも、エンが生きててくれて良かった。エンが甘いものを嫌いで、良かった。毒なんかで殺されなくて、良かった。それ以上の事って、ないもの」
うつむいたエンの頬を両手で挟み上げ、唇の端に口付けた。精一杯だった。
「……思い出話の続きをしましょうよ、ほら、十二の時に、エンが馬から落ちて、肥やしを敷いたばかりの花壇に頭から突っ込んだ事とか」
「いえいえ、俺なんか姫様の偉業と比べるとまだまだで。俺としては、十三の時、姫様が刺客を刺繍針で撃退した時の事の方が断然話がいがありますね。同じ男としては、本当に肝が冷えましたよ。股間を刺すなんてよく思い付きましたね?」
「あら、エンが浮気したら同じ目に合わせてあげる、って私、その時に言った筈よ?もちろん、体験してみたいなら、させてあげるけれど」
「それはご勘弁。大体、俺が駄目になったら、困るのは姫様で……」
「ちょっと!!その話はおしまい!!十四の時に、お前が単身で帝を反乱軍から救った話をしましょう!!あれは本当にかっこ良かったわ!!ええ!!」
「そんなあからさまに話をそらさなくても。まぁ、でも、俺としてはその時の姫様の方が勇ましく思えましたね。夜、衛兵を指揮して倍も数がいる賊を離宮から退けたらしいじゃないですか。姫様が敵じゃなくて本当に良かったって思いましたもん。針も兵法も使えるなんて……」
「針の話はおしまいって言ったでしょう!!」
照れ隠しにエンの胸元を揺する。
その拍子に、袂から金象嵌の小刀が落ちた。
黒い柄には金の昇竜。花灯篭の揺れる光を受けて、ほのかに輝いている。
龍紋を戴けるのは。
この国に、一人しかいない。
私の視線を遮るようにエンは小刀を掴むと、慌てて袂に隠した。
「……それで、十五の時に、お前は東宮に入ったのよね」
エンの襟を掴む指から力が剥がれ、知らずの内に顔を俯けていた。
恐らく、とても恨みがましい声音だったに違いない。
けれど、止められない。私の口は勝手に動いていた。
「その半年後、お前は軍権を要する将軍家の長女と婚約したわよね。帝が翌年に崩御されたから、婚儀は先送りになったけど、今年の初めに無事、即位された。噂では、新帝陛下は烈火のごとき手腕で朝臣をまとめ上げ、更に前皇后派の外戚勢力を根こそぎ排除なさったとか。生母を陥れたという前皇后は、先日、「病」で亡くなられたのよね?」
エンが何か言いかけるのを遮り、私は早口でまくし立てた。
「まだ、お祝いを申し上げていなかったわね。悲願を成就された事を先に申し上げた方がいいかしら、それとも母の仇討ちが叶った事を申し上げれば良いかしら?どちらにしろ、めでたい事に変わりないわね、新帝陛下」
言い切って、顔を上げる。
習慣的に口角が上がっていた。
こんな時でも笑みを浮かべてしまうのは、きっとお婆の姫君教育が成功した証だろう。皮肉も随分上手になった。
「夏明姝」
名前で呼ばれ、肩が大きく跳ね上がる。
怒ったのだろうか。怒らせてしまったのだろうか。嫌われてしまった…だろうか。
「私は、何度も言った筈だ。駆け落ちを、誠にしても良い、と。今宵限りの「ごっこ遊び」で終わらせると言ったのは、あんただ」
恐る恐る合わせたエンの瞳には怒りではなく、ただ、暗く、重たげだった。
「私は……私は、恵まれた環境で、十七年生きてきたわ。貰える愛は少なかった。貴方の父は私を疎んじていたし、たまに会う従兄弟たち、宮女や宦官も……みんな私の出生を蔑んでいた。それでも、私は衣食住に不自由やくここまで育ったわ。お婆には家族の様に大切にしてもらえたし、お前にも、会えた」
「……誰も、あんたに叔母上の尻拭いを求めてはいない。あんたが、あんな……もう七十五を過ぎたハンの妃になる必要はないだろう」
「私だって、足が悪いわ。お互い様よ。それに、私にしか、母さんの咎は償えないわ。本当は、母さんがハンに嫁ぐ予定だったのだもの。母さんが出奔したから、辺境は荒れ、十年以上も戦が続いた。佞臣が跋扈し、民は重税と戦火に耐え切れず、何度も反乱を起こした。この国は、今存続の瀬戸際に立たされている。……そうでしょう?なのに、私のわがままで、何千万の兵や民に心中してくれとは言えないわ」
唇が震える。
もしも、彼が身分の低い側妃の息子でなく、母を死に追いやった皇后への報復を志していなければ。
もしも、いつかの春、桜の下で質素な身なりの少年を衛士の子と間違えて、従者に召抱える、などと言わなければ。
もしも、先の帝が離宮に行幸し、裏山で狩りを催さなければ。
もしも、出会わなければ……。
「俺は、姫様に出会えて良かったです」
いつの間にか、エンの口調は私が慣れしたしんだものに戻っていた。
最初は二人だけのごっこ遊び。
冷静に考えてみれば、皇子に、東宮に、帝に……私の様な傍系の娘を姫と呼ばせるなんて狂った話だ。
けれど、いつの間にか習慣として染み付いてしまった。
「……叶うことなら、本当に姫様の従者になって、ずっと側にいられればって……何度も、何度も思いました。姫様が一言言って下されば、俺は将軍家の娘との結婚なんてすぐにやめます。天下に、後世の史書に暗君だと罵られても、姫様を皇后にしたかった。子供が出来なくったって良い。今だって、姫様が望んでくれるなら、すぐにどこかに連れ去りたいです」
それは出来ない事だと、私たちは何よりも分かっている。
今も、互いに駄々をこねているだけだ。
彼は皇子として生まれ、血の滲むような努力を重ね、玉座に上り詰めた。
皇家の姫として教育を受けてきた私にも、それがどれ程重たい事か分かっている。
「迎えに行きます」
「嘘は苦手、って言ってなかった?」
「嘘じゃありません。絶対です」
「でも、結婚の約束も反故になってしまったもの。お前の信用度は低いわ」
「それも、本当にします」
「……お前は、嘘つきね」
私だけを写す黒曜石の瞳は濡れている。
気づいていないのか、エンは瞳から千切れる涙を拭う事もせず、私の頬に指を伸ばした。
そのもったいぶった動作に堪えられなくなって、私はエンの頬を力任せに引き寄せた。
歯と歯がぶつかり、血の味が舌先に広がる。
それでも構わず、私はエンの唇を他方向から噛んだ。
「本当にじゃじゃ馬ですね。噛めば良いってわけじゃありませんって……。こういう風にするんです」
その言葉と共に、不器用な熱が口内に滑り込んだ。
なるほど。これが口づけの正しい方法なのか。
どちらも拙く、もう少し練習が必要に感じる。
しかし、徐々に頭が朦朧としてしまい、私はエンの懐に情けなく倒れこんだ。
「ヒューお熱いねぇ。末長く幸せでいろよーこんちくしょう!」
何人かの酔漢が通りがかりに、冷やかしていく。
辺りにはいつの間にか幾対もの若者たちが思い思いに寄り添い合っていた。
私たちもきっと、彼らと変わりなく見えているのだろう。
今はそれだけで、十分だ。
》》》
『どうしよう、エン。また戦で大勢の人が死んじゃったわ。私、聞いたの。こうなったのは、全部母さんのせいだって。私、生まれてこない方が良かったのかしら……』
『違いますよ!それは、帝が国をしっかり治められないからです。俺はいつか、立派な皇帝になって、みんなを幸せにします。そうしたら、もう誰も姫様の悪口を言いません』
『本当?』
『ええ、約束です』
明け方、離宮に戻る道中で、うたた寝の間に懐かしい夢を見た。
庭の白木蓮はほとんど散っており、私はエンと別れた後、しばらく朝露に混じった甘い香りを楽しんだ。
特に大きな騒ぎになっていなかったのは、お婆のおかげだろうか。
花嫁衣装の前に行儀良く立っていたお婆は、私を見るなり、少し寂しげに微笑んだ。
「おかえりなさいませ、姫様。婆としては、そのまま帰ってこなくても良かったのですが。で、どうでしたか、初夜の具合は……」
「お、お婆ったら!!そんな事はしていないわ!!おしゃべりしていただけよ!!だって、嫁いできた姫君が乙女でなかったら、異国で恥を晒す事になるもの。ただでさえ、足が悪い上に子供が産めないのだから、これ以上そんな事は……しないわ」
「そうですか。案外、帝も意気地なしですね」
「もう!!この話は終わり!!早く支度しましょう!!」
羞恥に燃えながら婆の支えで、鏡台の前に腰掛ける。
私の髪に挿していたカリンはすでにしなびており、髪に残ったほのかな香りも間も無く消えてしまうだろう。
「姫様はきっと、お幸せになられます」
「ふふ、なあに、予言?」
「いいえ、確信ですよ。民間で言われている、カリンの花言葉をご存知ですか?」
婆が私の耳元に小声で囁く。
『一生に一度の恋』だなんて。
エンもキザになったものだ。
胸が温かくなるのを感じながら、私は花嫁衣装に袖を通した。
》》》
昭華元年。
慶文帝の義理の妹であり、従姉妹でもある明姝姫が第十二代目ハンの正妃として、西黎国に嫁いだ。
二十年後、慶文帝は自ら軍を率い、幾度の交戦の後、西黎国と正式な同盟関係を築いた。
その際、亡き第十二代目ハンの妃であった明姝姫は本国に帰還した。
慶文帝は生涯かけて国政の改善に尽くし、後に華王朝の中興の祖と讃えられる名君となった。
また、慶文帝は庄仁皇后死後、再度、皇后を迎える事はなかった。
そのため、子のいなかった慶文帝は五十の時に帝位を甥に譲り、その後間もなく病死した。
史書において明姝姫の記述は少なく、帰還後の記述はほとんどない。
野史には彼女が従者と一女をもうけたと記されているが、後世では母である承陽姫の記述と混同されているのではないか、という見方が一般的である。
史書に記された資料は少なく、ましてや慶文帝病死後——ある田舎町に老夫婦が一人娘と営む小物屋が出来た事なんて——書かれている筈がないのである。
ただ、その田舎町で古くからあった『この日に思いを交わした男女は永遠に結ばれる』という伝承は、『想い人にカリンの花を贈ると永遠に結ばれる』というものに変わったとか何とか。
真偽の程は分からない。