第三章
「まぁ、とりあえずこれでも飲んで」
「あ、ありがとうございます」
朝槻玲が借りているマンションの一室に、愛音の姿はあった。
先ほど彼女が魔女会議の尖兵に襲われ、なんとか逃れた時偶然朝槻が現れたのだ。朝槻は詳しい事情は聞かず、近くに家があるからと愛音を自室へ招待してくれたのだ。
「どうしたの? 変な薬とか入ってないから安心していいわよ」
「そういうわけじゃないんですが……」
コーヒーで満たされているマグカップを弄びつつ、愛音は思い切って聞いた。
「あの先生。さっきのあの……犬たちって、先生の造魔か何かですか?」
「まぁ〜そんなところかしら」
朝槻が頷いた。
造魔とは、魔女に魔力でもって使役させられている存在である。使役されている、といえば従者もそうであるが、その場合は双方の合意と従者にするための専用術式が必要である。造魔も術式を用いて操ることが主であるが、その精度や簡便さは従者契約のものとは雲泥の差が出るほど異なっている。
だがそれでも、複数の造魔を同時に(しかも遠隔地から)操ることは並大抵の技術ではできない。朝槻はそういった造魔の操作に関する技術は、魔女会議在籍時から抜きん出ていた。
「実はあの子たち使って、毎晩毎晩三嶋さんの様子も見させてもらってたのよ?」
「そう、ですか……」
自分で聞いておきながら、愛音は生返事だった。
今彼女の頭の中にあるのは、水無月のことだ。
司への『還魂の法』の魔力提供のために、夜な夜な人を襲っては魔力を奪う蛮行を繰り返してきた。無論、それに罪悪感がなかったわけではない。が、それ以上に司への贖罪が彼女をこうした行為へと突き動かしていたの。
しかし、身近の人物を──水無月由紀乃を毒牙にかけてしまったという事実が、急速に愛音へ懺悔の念をもたらしていた。
「三嶋さん」
「……えっ、はい。何ですか?」
「あなた大丈夫? もしかして疲れてるんじゃないかしら?」
「……そうかもしれないです」
実際、心理的疲労は感じている。先の出来事が、今まで抑圧してきたストレスを一気に解き放ってしまったのかもしれない。
朝槻は愛音へ労わるような目線を向け、告げた。
「魔力蒐集は、今夜限りにしましょう。魔女会議の連中に嗅ぎ付けられたんじゃままならないだろうし、これ以上は危険だわ」
「で、でも先生! まだ……」
まだ足りないはずだ。愛音は『還魂の法』が必要な魔力量が人間換算でざっと100人以上は必要だと、以前朝槻から聞かされた。愛音がアナテマで蒐集できたのは、せいぜい半分をやっと超えた60人くらいである。必要な量に達していない。
「その辺はなんとかするわ。確かに成功の確立は悪くなるけど……、奴らに計画を気づかれてできなくなることのほうが問題だわ」
「……たしかに、そうですね」
愛音は納得した。ともかく、最大の目的は司へ『還魂の法』を無事に行なうことだ。リスクが立ったのは正直不安だが、朝槻ならなんとかしてくれるだろう。そう思えるだけの信頼感を、愛音は彼女へ抱いていた。
「今日は遅くなったから帰りなさい。明日学校でね」
「はい。今夜は本当にありがとうございました」
愛音は朝槻へ礼を述べた後、足早に部屋を去っていった。司のことが心配なのだろう。
「……魔女会議。ホント邪魔ばっかりしてくれるわ」
彼女は苛立たしい様を隠すことなく、爪を悔しげに噛む。
「絶対、邪魔はさせないわ。……待ってなさい、すぐに呼び出してあげるからね」
「お嬢。報告済んだぜ」
シグムドはノートパソコンを操作しながら、エイルへと振り返った。彼女はベッドに腰掛け、いつになく難しい顔つきになっている(それでも瞳は眠たげに閉じかけられているが)。
彼が今し方まで行なっていたのは、魔女会議への状況報告である。
当然、魔女会議は世界には公にされていない非公式組織である。魔女や魔法など、現代科学が大半を占めている(と思っている)この御時世に、そんな異端な組織が屹然と存在できるはずなどない。様々な企業や団体を隠れ蓑にして魔女会議は、運営・稼動されており、連絡や報告もそういった箇所を経由して行なわれる。
そのため、魔女会議も現代科学の恩恵であるネットワークを実用できるに至っている。数世紀前までは考えられないほど便利な状況となった。
ちなみに、エイルがシグムドに報告を任せているのは、単に魔女と従者だからではない。彼女が機械オンチなだけである。
「………………」
「お嬢、どった? もしかして目ぇ開けたまま寝っちまったんか?」
「……起きてます」
返事が返ってきた。シグムドは安堵する。
彼女は油断するといつでもどんなことでも寝る。特に今は先の戦闘の直後だ。疲れて寝てしまっても不思議はない。魔女といえど、人の子である。働けば腹も減るし眠くもなる(彼女はいつも眠いが)。
「しっかし、良かったのかよアレ」
「……アレ、とは」
「あの異端者の餌食になった女だよ。救急車だけ呼んで放置って、適切な処置だったのか?」
シグムドがそう訊く。責める口調ではなく、純粋に疑問を吐露する口調だ。
「……現時点で、私たちが干渉するわけにはいきません。……上層部から浄化の正式な許可が下りれば、その場でも助けたでしょうが」
それよりも、と彼女は言葉を続ける。
「……あの造魔に見覚えがあるんです」
「あの犬っころどもか?」
「……以前、魔女会議にて他の魔術師たちと任務に当たった際、あの犬の造魔を使っていた人がいました」
エイルは記憶を掘り起こすように、ゆっくりと話す。
「……特に特徴らしいものがあったわけではないんですが、非情に統率の取れた優秀な造魔でした。複数の造魔を同時に、しかも効率よく扱える術式を用い、それによる奇襲・散策等々を得意とする魔術師……といえば」
「心辺りがあるんか?」
シグムドが尋ねる。エイルはしばし黙考するかのように瞳を閉じ、
「恐らく──でしょう」
その名を呟いた。
「……寝てたのか」
司は蛍光灯を真下から眺めながら、呆けた口調で言った。どうやら愛音と口喧嘩して部屋に戻った後、うとうとしてしまったらしい。
「全く……。最悪だな、僕は」
階下からは物音がしない。愛音は帰ってしまったのだろう。それはそうだ。あんな態度を取れば、嫌になるに決まっている。
もう彼女は、自分に愛想を尽かしてしまったのだろうか。
「……う」
そう考えた途端、胸に軋みが走った。発作だ。
「……愛音が、僕に」
手がガクガクと震える。嫌な汗がたらたらと流れ、息苦しい。視界も狭くなり、彼はベッドの上でうずくまった。
「そ、そんなのは……」
嫌だ、と口にしそうになり、唇を噛み締めてそれを堪えた。
我侭もいいところだ。彼女に枷をかけたくないと言いつつ、結局はこんなことになっても彼女の助けを請うのか。そんな自分勝手な本音に、苛立ちがまた生まれる。
でも、苦しい。痛い。辛い。助けて欲しい。
「あ、愛音……」
知らず知らずのうちに、その名前を出していた。どれほど自己嫌悪に陥ろうとも、司の中で愛音の存在はとても大きいものなのだった。
『──かさ! 司っ!』
誰かの声が聞こえた。薄皮一枚を隔てたようによく聞こえないが、この声は愛音だ。
『司、大丈夫!? 司ぁ……っ!』
狭くなった視界の中、司は瞳を涙で濡らしている愛音の姿が映った。
──なんでここ居るんだ? もう僕に愛想を尽かしたんじゃないのか?
喜びの裏返しからか、そんなことを思ってしまう。しかし彼の表情は、正直に安堵で緩んでいる。
「愛音……。さっきは、悪かった」
「司は悪くないわよ。私……全部私が悪いの」
まともに愛音の声が聞こえるようになった。彼女は懺悔するかのようにうなだれ、ゴメンゴメンと続けている。
愛音は時たま、自分の発作や虚弱体質を自分のせいと言う事がある。自分がちゃんと面倒を見てやれないから、という意味合いで司は受け取っていたのでそれほど深刻に捉えてはいなかったが、今日の彼女はいつもと違っていた。
「どういう、ことなんだ……?」
聞き返した。彼女がこれほどまでに深刻になるのだから、自分に関わる自分の知らない事情があるのだろう。しかし、彼女は押し黙ったまま、語らない。しばらく二人の間に沈黙が流れるが、
「……今はまだ、言いたくない。でも、明日……。うん、明日話す」
自分自身に言い聞かせているような、そんな口調である。とてもふざけているようには見えない。司は彼女の言葉を信じることにした。
「分かった。明日、だな」
+ + + +
「おはよう。……何だ?」
翌日。愛音とともに教室に到着した司は妙な空気を感じた。
クラス中が、沈痛な雰囲気で満ちている。級友たちの顔は一様に暗く、中には泣いている者までいる。
「なぁ、何かあったのか?」
手近に居る男子に尋ねる。彼はしばらく瞳を彷徨わせた後、意を決したかのように口を開いた。
「水無月さんが……、眠り病に罹ったんだってよ」
「なぁ……っ」
司は唖然とした。世間を賑わせている、しかし自分の身近には縁ないだろうと楽観的に捉えていた恐怖が、ついに忍び寄ってきたのだ。
「……そんなっ!」
司はそう呻いた。ここ最近の彼女との交流の多さから、彼の絶望は深かった。握りこぶしを作り、体中を震えさせる。
「なんか昨日、コンビニ帰りだったときに罹ったらしいぜ……。でもこりゃ病気っていうより、誰かに襲われたってのが正しそうな気がするよな」
びくっ、と愛音が肩を震わせる。そうした憶測は、前々から噂されていた。
眠り病の罹患者の共通点は、『夜出歩いていた』『人気のないところにいた』がある。
普通に考えれば人為的なものと考えられて然るべきだろうが、その場に第三者の痕跡が全くなかったため、これらの事件は奇病扱いとされている。
「……誰かって、誰だよ」
抑揚のない口調で司は男子に聞く。
「だから、そうかもしれねぇってことだけだって。お前だって知ってんだろ? こりゃ現代医学でも解明できない根治難題の奇病だった。人がどうこうできることじゃねぇ。ただそうかもって、ちょっと思っただけだ」
「……ホントにそうだったらいいのにな」
人為的なものであれば、どんなにいいだろう。司はそう思った。
これが奇病かなんかではなく、誰かの手によって恣意に行なわれたものであれば、それは即ちそれを仕組んだ犯人がいるということだ。そいつを恨めれば、どれほど楽になれるだろう。司はそんな暗いことを考えてしまっていた。
そして、その犯人ともいうべき人物が、今彼の傍らで暗い表情をしている少女であることなど、司は全く思いつきもしなかった。
(ごめんなさい……。水無月さん、ごめんなさい)
愛音は授業中、ずっと自分が毒牙にかけたクラスメイトに心中で謝罪を続けていた。
以前までの彼女ならば、罪悪こそ感じつつも必要な犠牲と割り切れていただろう。だが、それも限界だった。
生来、他者の痛みに敏感な少女である。そんな彼女が今まで、他者からの魔力蒐集を続けられていたほうが奇跡とも呼べる。
本来ならば、まだまだ彼女の苦行は続きはずであったが、朝槻から魔女会議の刺客を警戒して『還魂の法』の儀は早められることになった。そればかりは、正直ありがたい話だ。
(もう、あんなことしたくない……)
今にも、彼女の心臓は罪悪感で押しつぶされそうだった。愛音は早く朝槻から連絡が来ないか、そればかり考えてい。
だから、彼女は司が自分を気遣わしげな視線でちらちらと見ていることに、最後まで気づかなかった。
『放課後、旧校舎の入り口まで竜胆君と来るように(はぁと)』
朝槻玲は携帯で以上の文章を打ち、愛音の携帯へ送信した。
「ふぅ……。なんとかできたわね」
彼女がいるのは、以前から出入りしている古びた教室である。床には大きな魔方陣が描かれており、教室内を異様な空気で満たしている。
以前と違うのは、更に何層もの円が重ね作られていることと、教室内の空気がより濃いものとなっていることだった。
「あとはこれを……」
昨晩、愛音から返してもらった魔宝具・アナテマを紐解く。ページ内で踊っているルーン文字が意志を持ったかのように光輝を放ち、薄暗い教室をほんのりと照らす。
朝槻は何事かを高速で呟く。するとアナテマから魔力の奔流があふれ出し、魔方陣へと降りかかる。
不意に、今まで何事もなかった魔方陣へ変化が起きた。魔方陣を構成している魔石の粉が、光を放ち始めたのだ。
それと同時に、教室内の空気が──魔粒子濃度が何倍にも跳ね上がった。普通の人間ならば、立ち入っただけで息苦しさを感じてしまうような、そんな濃度。勿論魔力を知覚できる魔女とて、その濃度に思わず立ち止まってしまうだろう。
「さぁ、後は彼が到着するのを待つだけ……。うふふ、楽しみだわ」
空間が、陽炎のように微妙に揺らぐ。その中で、朝槻は怪しげな笑みを口の端から零していた。
+ + + +
「愛音。一体どこに行くんだ」
「いいから」
放課後となり、生徒たちの多くが帰宅の途に着き始める頃。愛音は司を連れて旧校舎へ足を運んでいた。
昼休み近くに愛音が朝槻から受け取ったメールには、『還魂の法』の儀を旧校舎の一室で行なうと記されていた。人目に付きにくく、かつ隔離された空間であり、条件をうまい具合に満たしている。愛音はうまい場所を選んだと、朝槻を心中で賞賛した。
旧校舎と新校舎は、わずか数百メートルしか離れていない距離にある。つい数ヶ月までは文化系の部活動が活動に使うこともあったが、老朽化や新校舎での活動場所が確保できたことから現在では使うことはなくなった。
「……もしかして愛音、ここに用があるのか?」
「そうよ」
旧校舎の入り口には、出入り禁止を促す看板が立っていた。その周りは単にロープが張られているだけであり、扉も封鎖されていない。入ろうと思えば、誰でも入ることが可能である。
事実、何度か素行のよろしくない生徒が何度か出入りをして、生活指導の先生から説教を受けたことは記憶に新しい。
「どんな用があるか知らないが、ここに入るのはまずいだろう」
司は困惑気味の表情で旧校舎を見やる。優等生というわけでもない彼だが、わざわざ学校側の規定に好きで反目するほどスレてもいない。立ち入り禁止の警告が出ているのにも関わらず、入る理由など彼にはない。
しかし無論、愛音は彼を伴ってこの中に入る必要がある。彼女は臆せずロープを跨ぎ、彼へ手招きした。
「マジかよ……」
愛音は確かに活動的な少女であるが、それでも禁止事項に面白半分で挑戦するような人間ではなかったはずだ。だから、彼女がここに用があるということは、真っ当でなおかつ深刻な理由があるのだろう。
「…………仕方ないか」
意を決し、司もロープを跨ぐ。どこかで教師が見てないかと周囲を見回すが、人の気配は感じられない。
「……んっ?」
彼は何か妙なものを感じた。運動部の掛け声が、全く聞こえてこないのだ。
この旧校舎から運動部が主に使っているグラウンドや部室棟は、校舎を挟んで反対側にある。しかし全く聞こえないということは考えづらい。新校舎にいるときは、それこそうるさいくらいに聞こえるというのに。
「…………気のせいか」
単なる偶然と思い、彼は愛音と共に旧校舎の扉をくぐった。途端、重苦しい空気が彼を迎える。
「……なに、これ」
愛音も何かを感じ取ったらしい。空気が肌に張り付くような錯覚に襲われ、目の前の廊下が歪んでいるな幻覚を視る。
司は分からなかったが、愛音はとある事実に気づき震えた。
「……なんて、濃い」
肌がちりちりするような錯覚を感じながら、愛音は司へ聞こえないように呟く。
この旧校舎の魔力濃度は、外とは比べ物にならないくらいに濃密だった。世界を構成する魔粒子が通常の何倍にも詰め込まれ、渦巻いている。
これが、『魔禍』なのだろう。愛音は身震いした。
彼女とて、魔禍の概念を知らないわけではない。世の理が歪められ、崩落していく事象をそう呼ぶ。魔法とは、そうした理を捻じ曲げて自らの望むものを得るものなのだ。
しかし、実際にそれを感じたことは今までなかった。所詮は魔法と縁遠い東洋の地──日本で暮らしていた魔女だ。それも当然なのだが、愛音は今自分が現実の世界に居る実感が、どうしても持てなかった。
これが、本来魔女がいるべき世界。
「……愛音」
不意に、背後から司の声が聞こえた。
「な、なに司っ!?」
狼狽する。よもや思索に耽っていて呆然としていたなどと、言えるわけがない。
「どんな用があるか知らないが、これ以上ここにいるのは危険な気がする。出よう」
彼も何かを感じ取っているのだろう。真剣な表情だった。
一瞬、彼に従いそうになるも、それではここを尋ねた意味がなくなる。愛音は頭を振った。
「それじゃここに来た意味がなくなるの。お願い、もう少しだけ黙って私に付き合って」
万が一、断られるようなことになれば、実力行使も辞さない覚悟で言った。司はしばし彼女の本気を見定めるかのように、じっと愛音の瞳を見る。
「……分かった」
「ありがとう。こっちよ」
二人は更に奥へと進む。
床は既にボロボロになっており、教室のドアもところどころが不自然に外れている。奥へ行くほど息苦しい雰囲気が強くなってくるが、我慢できないほどではない。無言で歩いていく愛音を追い、司は進む続けた。
一番奥まった教室の前で、愛音の足が止まる。プレートには「理科実験室」と書かれていた。片付けでもしていたのだろうか、教室の周りには机や椅子が鎮座している。
「ここか?」
「……うん」
愛音はドアに手を掛け、呼吸を整える。そして勢いよくドアを開き──二人は驚愕した。
「……何だこれは?」
部屋には怪しげな光が満ちていた。真っ黒な遮光カーテンをしているため夕陽は入らず、薄暗い空間と化している教室がその光に照らされいる。
教室の床の大半を支配しているのは、怪しげな光を放つ巨大な円陣だった。よく見るとその円陣は砕かれた石で描かれており、その石ひとつひとつがそれぞれに光を放っている。
そしてその円陣の向こう側に、朝槻玲の姿があった。
「朝槻先生?」
「いらっしゃい竜胆君。待ってたわよー」
異様な光景の中にいて、気の抜けたようないつもの保険教諭の声だった。司は一気に脱力する。
「とりあえず、説明してもらっていいですか?」
現実の光景とは思えないが、どうやらそれを否定できるものは何ひとつないようだ。ともかく、自分が納得できる何かが欲しかった。しかし、朝槻は司の質問には答えなかった。
「全部終わってから説明するからね。時間がないのよー。竜胆君、そこに寝てくれる?」
「いや、いきなりそんなことを言われてもですね……」
状況が理解できないのに、相手の言うとおりにできるわけなどない。ましてこの現実離れした教室の中である。何をされるか見当もつかない。
救いを求めるように愛音へと振り返る。彼女は無言のままで、微動だにしない。黙って朝槻に従ってくれ。そう言ってるように思える。
朝槻はともかく、愛音のことを信用しないことなどありえない。司は覚悟を決めた。
「ひとつだけ約束してくれ」
司は愛音へ言う。
「全部終わったら、ちゃんと説明してくれ」
「……分かったわ」
愛音は確かに、しっかりと頷いた。
司は無言で朝槻に言われた通り、円陣の上に仰向けになる。冷たい木の床が制服越しに素肌へと伝わり、ぞわっとした感覚を覚える。
「それじゃ、早速始めるわ」
朝槻は何事か、小声で呟く。それと同時に円陣の明滅が早くなり、淡い輝きも目を覆わんばかりの輝度となった。
思わず愛音は手で目を庇う。しかし、不意に瞼を透かす白い輝きが消えた。
そっと瞳を開く。そこには真っ黒に明滅する無数の腕が円陣より生えていた。真ん中で寝そべっている司は恐怖に慄くが、無数の腕は彼の四肢をがっちりと掴み、抵抗する術を奪う。
「先生! これはホントに『還魂の法』なんですか!?」
狼狽した口調で愛音が尋ねる。しかし朝槻は怪しげな笑みを浮かべたまま、彼女の問いに答えない。
「見てなさい三嶋さん。これから美しいモノが見れるわよー」
それでいて、その口調はいつもと変わらずだった。それが却って彼女の異常さを際立たせ、愛音は彼女への嫌疑の念を一気に膨れ上がらせた。
「さぁー、そろそろよ……」
朝槻は何もない宙を見つめる。愛音もそれを追う。
突如、何もなかったはずの空間に亀裂が入り、そこから怖気を誘う魔力の塊が這いずり出てきた。愛音は確かに、空間が震えるのを感じた。
「ちっきしょう。アイツら、どこにいやがる」
シグムドは一人、昨晩戦闘を交えた異端者たちの捜索を行っていた。
だが、昨日配置していた探知魔法は全て破壊されてしまったため、捜索は全くのゼロから始めなくてはならない状況になっていた。
自分の苦労が泡になってしまったシグムドは疲労を覚えずにいられないが、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。とりあえずは、再び探知魔法を張り直すことから始めている。
「人の苦労も考えやがれってんだ……と」
探知魔法を設置し終え、次のポイントへ向かう。既に陽が暮れ始め、帰宅を急ぐ学生やサラリーマンの姿が増える。そここの家々からは食欲を増進する匂いが漂い、彼の腹を喚かせていた。
「はぁ、腹減ったな。買い食いしてぇけど、そしたらお嬢が怒るしな……。あっ?」
ふと、彼は周囲の異変に気づいた。先ほどまで何人かの人影があったが、今自分がいる場所には人一人いない。帰宅ラッシュの時間帯であるはずなのに、それは異様な事象だった。
しかし、全くありえない話ではないかもしれない。気のせいだとか思い過ごしだとか思えなくもなかった。周囲に漂っている不穏な魔力がなければ。
「……なんだよ、こりゃ」
彼は視界を巡らせた。街中で一番大きな高校が近くにあった。そこを中心に、この魔力は漂っているらしい。
明らかに、自然な魔力の在り方ではない。
「お嬢に報告するだけのことだな、こりゃ」
今はどんな些細な情報も無視できない。彼は念話でエイルへの通信を試みようとしたが、その刹那、校舎から莫大な魔力の渦が巻き起こった。
「……こりゃ只事じゃねぇぜ」
彼は知らず知らずのうちに、身体を震わせていた。
「やったわ! ついに、ついに来たわよ!」
朝槻は狂喜乱舞した。ついに、自分の待ちに待った瞬間が訪れたのだ。
異界から悪魔を呼び寄せ、それを使役する。それこそが、彼女の野望であった。俗に召喚と呼ばれるこの魔法は、禁忌の中でも上位に位置する、禁忌中の禁忌である。
召喚のプロセスは、現世と異界を繋ぐために一時的に両界の境界を曖昧にし、召喚するものをこちら側へ引きずり出さなければならない。当然ながら、両界の境界がなくなり同化すれば、それは『歪み』となり魔禍となる。
それゆえ、秩序と理の保全を重んじる魔女会議から危険視された。彼女はそのため魔女会議を追われたのだが、そんなこと彼女にとってはどうでも良いことであった。自分に必要なのは自身の力のみであり、組織も機関も要らぬものなのだ。
「さてさてー、それじゃこれで」
朝槻は再び小声で詠唱する。どす黒い魔方陣から漆黒の壁が生じ、中にいた司ごと悪魔が閉じ込められる。
「いっくら悪魔でも、現世に定着するためには肉体が必要でしょ? ……提供してあげるわよ、その肉体」
「……あ、朝槻先生。先生は、そのために司を……?」
愛音は絶望に震えた身体を押さえながら、静かに尋ねる。それに対して、朝槻はこれ以上にないくらいの満面な笑みで答えた。
「そ。別に誰でも良かったんだけどね、偶然目の入ったのが貴方たちだったの。なんていうの、運命?」
「『還魂の法』で、司を助けてくれるっての嘘だったんですか!?」
「うん。大体私そんな術式知らないし、興味もないわ」
「……そ、んな」
愛音は虚ろな表情で膝から崩れ落ちた。彼女のこれまでは、全て朝槻に利用されるためにあったのだ。
世界をも敵に回すつもりだった。誰彼も犠牲にするつもりだった。そうしてでも、司を助けたかった。だが実際は助けるどころか、彼を生贄にするための手伝いでしかなかった。
それまで強がっていた愛音の支えが、一気に打ち砕かれた。膝から床へ崩れ落ちる。
「三嶋さん、見てなさい。もう少しで『悪魔』が見れるわよ」
彼女の言葉に従ったわけではないが、愛音も虚ろな視線で司を見やる。次元の切れ目から這い出た魔力の塊が、彼の周囲を浮遊している。あれが『悪魔』なのだろう。
「悪魔ってのはね、純粋な魔力の塊なのよ。私たちみたいに肉体を持たないからこの世界にはそのままではいられないんだけど、その悪魔を受け入れる器があれば存在を維持し続けることができるのねー。純粋な魔力だけの存在って、いずれ拡散して世界に溶けてなくなっちゃうからわけなの。分かる?」
分かるわけなどない。むしろ分かりたくなどない。それどころか、今の愛音はほぼ思考停止状態に陥っているため、朝槻の高説にリアクションを返す余裕など全くない。
その間に悪魔は彼の身体に取り付き、中に入り込もうとしている。どす黒い魔力の塊は徐々に司へと重なり、ついに悪魔の存在が司の中から感じられるようになった。
「ついに竜胆君の身体に入り込めたのね。さぁ、あともう少しよ」
その言葉が引き金になったかのように、司の身体に変化が生じた。
「お嬢。ここだ」
「……確かに感じます。肌をチクチク刺すような、重苦しい魔力を」
エイルは眠そうな眼のまま、校舎を眺める。先ほどシグムドが言った通り、全く人気がない。この周囲を圧迫するような魔力は、人を無意識に遠ざける人払いの結界である。
「……造魔といいこの結界といい、やはりこんなことができるのは彼女しかいませんね」
「因縁深いこったね、全く。で、乗り込むか?」
「……はい。昨日のようなミスはしません」
眠そうな瞳に、ほんの僅かな決意の光が宿る。エイルは校門から校内へ一歩を踏み出す。
途端、強烈な敵意が彼女を出迎えた。昨晩と同じ、犬型の造魔である。
「まだいやがったのか」
シグムドは舌打ちを鳴らし、エイルの前に進み出る。首元で纏わる金のチェーンが"グレイプニル"へと顕現し、彼女へ飛び掛ろうとする造魔を一薙ぎする。
「ここが本拠地なのは、もう疑う余地はねぇよな」
「……断定できます。"彼女"はここに居ると」
エイルの周囲に魔力を集約させた魔弾が数個生まれる。彼女を軸としてしばし公転をしたのち、造魔へ向けてそれぞれ独自の軌道を描き、一斉に飛び立った。それらは造魔へと殺到し、彼らを魔力の塵へと変えていく。
シグムドもエイルへ群がる造魔をけん制するように"グレイプニル"を振るう。敵は弾き飛ばされ、彼らに取り付くことができない。しかし造魔たちに焦りは見られない。否、焦りなどという『感情』自体が造魔にはない。ただ命令を履行、実行するためだけの存在である。
「数ばっかりじゃ、うちのお嬢はやれないぜ!」
シグムドが啖呵を切る。シグムドが敵の攻撃をいなし、エイルが魔弾で敵を駆逐する。このコンビネーションを崩すことができなければ、彼らにダメージを当たることなどできない。二人は瞬く間に造魔たちを一掃した。
「いねぇみたいだな」
「……はい。気配は感じません。それよりも、"彼女"を捜しましょう」
「了解」
二人は無人の校舎へと駆け出した。
「つ、司……?」
愛音は呆けた声を漏らした。彼女の目の前には、見慣れた虚弱の少年の姿がなかった。それに取って代わったのが、浅黒い肌と鋼のような筋肉、そして頭部から二対の角が生え出ている。虚空を射抜く瞳は赤く煌き、吐息を漏らす口からは鋭利な牙が覗いている。
司が悪魔に支配された、何よりの証拠だった。
「……せ、成功ね」
朝槻は歓喜の余り声を震わせた。その表情は恍惚で満ちており、彼女が司であった悪魔を見つめるそれは羨望の眼差しであった。
そして司──今や悪魔である彼は、感情の読めない表情のまま魔方陣の真ん中で棒立ちしている。動き出す気配は依然としてなく、よもや何か失敗したのだろうかと朝槻が心配する。
「悪魔、私の言う事が分かりますか?」
司の姿かたちをした悪魔が、ゆっくりと首を縦に振る。
今度こそ、朝槻は確信する。私は、悪魔をこの手で使役することができたのだと。
感動を抑えられぬまま、朝槻は悪魔へ最初の命令を告げた。
「手始めに、貴方の力を見せて頂戴。その娘を殺して」
「…………えっ?」
思考停止に陥っていた愛音は、彼女の言った台詞の意味を図れず、呆ける。突如、司の腕が愛音の首を剛力で締め上げてきた。
「っん!?」
女性として標準的な体重である愛音が片腕で軽々と掲げられ、それでいて彼女を締め上げる握力は弱まらない。これも悪魔が身体を支配しているからなのだろうか。
「やっぱり……凄いわ! 私の想像の斜め上をいってるわよ! この子、どんな力を持っているのかしら」
目の前で生徒が絞殺されかかっている現状を見つつ、朝槻は呑気のことを言っている。彼女は生徒を殺す禁忌感などないのか、ただ悪魔が愛音を締め上げる様子を見物している。
「……ぁ、ぇて」
愛音は必死に声を振り絞ろうとするが、声帯を押さえられているため声がうまく出ない。それどころか、徐々に意識が朦朧してきている。
彼女の瞳から涙が零れ出た。恐怖からではない。後悔と自己嫌悪からである。
この喉を締め付ける痛みは、自分への罰なのだ。盲目な信頼が招いた悲劇の断罪を受けなければならない。それが、今自分がなされていたことだ。
自分がどうなろうと、もはや構わない。だが、司だけは──。
+ + + +
(一体、何が起きてるんだ!?)
司は混乱の最中にいた。
いきなり円陣から無数の手が伸びたと思ったら、気づけば身体の自由が奪われ、しかも目の前では愛音が苦悶の表情を浮かべている。
それもそのはずだ。自由が効かなくなった自身の身体が、何者かの意思によって愛音の首を締め上げているからだ。
(なんで僕が、愛音を……)
事情は分からない。とにかく、止めなければならない。司は自身の身体を動かそうとするが、脳からの指令がどこかで遮断されているのか、自らの意思とは無関係に身体は動き続けている。
愛音の顔色は徐々に白を帯びてきている。呼吸も弱々しくなり、このままでは数分と持たずに彼女は絶命してしまう。
(……ぜ、つめい。死ぬ、のか?)
その事実に司は恐怖する。自分が、愛音を殺してしまうという事実に。
(そんなこと、絶対させるかよ!)
自分の身体に、自分とは別の何かが入り込んでいることには気づいていた。恐らくそいつが、今の自分の身体を操っている張本人で間違いないはずだ。
『おいっ、お前! 止めろ!』
司が制止を叫ぶが、その誰か──敵は意に介さない。意味が伝わっていないわけはないだろう。理解したうえで、あえて無視をしているのだ。
『畜生……。ふざけるな、ふざけるなよ』
司は苛立ちを隠せない。こうしている間にも、愛音は死へと一歩ずつ近づいている。もたついている暇などないのだ。
だが、司は愛音を助けるどころか、自分自身にも危機に立たされることとなる。そして、それは起こった。
『うっ……。な、なんだこれはっ』
形容するに難しい。だがあえて表現するのならば──自分という存在が蝕まれ、自己を喪っていく感覚を司は感じた。
『や、やめろ……っ』
司は自己の消滅に慄き、震えた。無論、身体は動かない。心が、存在自体が恐怖にくすんだのだ。
抵抗する意志が、自分を自分と認識する自我が、徐々に削られていく。あと数秒もしないうちに、竜胆司という存在はこの敵によって上書きされてしまうだろう。
『た、すけ……』
苦し紛れに呟いたその言葉が引き金になったのだろうか。
突然、自分を取り巻く周囲を暖かく優しい感覚が包んだ。
『…………司』
誰かが、そう囁いた。その声は、なんと自分という存在の奥底から聞こえてくる。
『誰だ? アンタは誰だ!?』
自分と敵。それ以外の第三者が自分の身体の中に潜り込んでいたらしい。そいつも『敵』かもしれない。司は敵意むき出しの口調で詰問する。
『……わたしはつかさ。つかさはわたし。おんなじ存在』
何を言ってるのか理解できない。こんなピリピリしている状況の中で、意味不明の言葉などまともに聞いていられるものか。
しかし……、と司は思う。何故か、その存在を他人と思うことができなかった。どこかで感じたことがあるような、それでいて懐かしいような、そんな妙な感覚。
(…………まさか)
ここ最近、見る夢。誰かが囁く夢。誰かが見つめてくる夢。
その「誰か」に、その存在はひどく似ている。
『わたしはどんなことがあっても、つかさを護るの。だから、安心して』
その言葉に、司は根拠のない安らぎを覚えた。ずっと以前から、自分は彼女──性別などないだろうが、司はその存在に女性的なものを見出した──を知ってるような感覚に陥る。
『あいつ、悪いやつ。すぐ追い出す。待ってて』
言うが否や、自分を包み込んでいた柔らかな感覚が体中へと広がっていく。自分を脅かしていた不快なものが取り除かれ、敵の存在すら薄れていく。
「……身体が、動く?」
身体の自由が、戻っていた。それと同時に視界がクリアになり、肌が空気を感じ、耳が音を聞き取った。
敵の存在は、跡形もなくなくなっていた。
『なぁ。アンタもしかしてツカサだろ!?』
司は心の中で自分を助けてくれた恩人へ語りかける。しかし、返事はない。それどころか、「もう一人の自分」というべき存在も感じられなくなってしまっていた。
その事実にわずかな寂しさを覚えつつも、
「……う、うぅ」
「愛音!?」
愛音のうめき声によって、現実へと引き戻された。
「うぅ……あっ」
愛音は自分の意志がまだあることに驚いた。朦朧とし、ひどく苦しいが、まだ自分は死んでいないらしい。
今、自分はどんな状況にいるのだろうか。彼女は床に投げ出されていた肢体ををのろのろと起こした。
「愛音!?」
自分を呼ぶ声。それはまさしく、司だった。
「……つ、司。ど、どうして?」
悪魔に憑依される以前と変わらぬ姿で、彼はそこに居た。彼は焦燥と不安がない交ぜになったような表情をしている。
──何をそんなに不安がってるんだろう。
そんなことを思ってしまうくらいに、彼女は呆けていた。それを体調不良と勘違いした司は彼女へ駆け寄ってくる。
「怪我はないか? 痛いところとかは? ……僕は、なんてことを!」
彼は愛音の前にうなだれた。懺悔の言葉をその口から漏らし、屈辱に身を震わせている。愛音には理解ができなかった。
「……司が、謝る必要なんて、全然ないじゃない」
喉を強く圧迫されたため、うまく声が出せない。だが、これだけは言わなければならない。
「……悪いのは、全部、私なん、だから。私が先生に、騙されなければ……。ううん、もっと前。私が司の前から、いなかったらそもそも」
「ふざけるなよ!」
涙声の叫び声が聞こえた。見れば、司は実際に涙を流していた。
「なんで、なんで愛音はいつもそうなんだよ! 僕の知らないところで自分ばっかり苦しんで、僕を助けようとするんだよ!」
「つ、かさ?」
愛音は戸惑いの声を上げるも、司の嗚咽は止まらない。
「頼むから、自分だけ苦しまないでくれ……。僕も一緒に、愛音と並んで歩きたいんだ」
愛音は真っ赤になった。こんな告白紛いのことを言われて、平然としていられるほど彼女は経験豊富ではない。狼狽して意味不明な言葉を口にしそうになる、その刹那。
「あー、二人とも。いい雰囲気んとこ悪いんだけどねー」
朝槻の声が聞こえてきた。愛音は視線を巡らすと、彼女はあくびれた風もなく飄々とした表情をしていた。
「ごめんねー二人とも。失敗しちゃったみたい。何が悪かったのかしらねー。召喚に使った魔方陣の構成? それとも憑依させる素体? どうだと思う?」
「どうだと、思うですって……!」
司は憤怒に声を震わせた。彼は立ち上がり、厳しい目線で朝槻を睨みつける。
「先生。どんな目的があったか知りませんけど、これだけのことをしておいて何も僕たちにないんですか!?」
「これだけのことって?」
あくまで何のことだか分からない、という朝槻の態度に、司の怒りは沸騰したマグマの如くにまで達していた。
「愛音を危険な目に合わせたってことです! 事と次第によっては、僕は黙ってないですよ!」
「だから、それがどうしたってのよ。私は私が好きなようなことをしただけ。それにあなたたちを利用しただけよ。何? 騙しちゃってごめんなさいって言えばいいの? じゃあ言うわ、ごめんなさい」
反省の色などまるっきし皆無の謝罪だった。朝槻の表情は不本意というより、理解に苦しむというものであった。
「……アンタって人は!」
噛みあわせた歯が削れるのではないか、と思うほど司は強く歯軋りした。その司の態度に、朝槻はぼりぼりと頭を掻く。
「あーもー面倒ね。こうなったらさっさと消えてもらいましょ」
朝槻の指先に魔力が集約する。燐光を纏った魔力が紫電を撒き散らす雷光へと変わり、彼女の指先で膨れ上がる。
「じゃあね、バイバイ」
これから二人の命を奪うとは思えないほどの軽い口調で朝槻は言い、無造作に雷光を放った。司は愛音を庇おうと前に出るが、彼は自分がこの雷光に打ち抜かれ果てることを想像する。
だが、そうはならなかった。
「……んぅ?」
雷光は見えない壁に阻まれたかのように、何もない宙で胡散霧消した。背後から愛音の苦しげな息遣いが聞こえ、振り返ると彼女は首元に下がっているペンダントを握り締めていた。
「……だ、大丈夫だった、司?」
「僕はなんともない。それより、愛音は何を……」
「障壁ね。しかもかなり純度の高いもの。それを瞬時に出せるなんて、三嶋さんはなかなかに筋のいい魔女ね?」
今し方殺そうとした相手の手際の良さに、朝槻は賞賛の言葉を送る。だが、その一秒後には怪しげな笑みが口の端に浮かんでいた。
「まぁでも、意味ないことよね。ここで消されちゃうんだか──」
突如、教室のドアを蹴破るけたたましい音が教室中に響いた。思わず振り返れば、見慣れない少女と男性がそこに居た。
+ + + +
「ようやくアタリだったぜ、お嬢」
「……まさかしらみつぶしに調べた教室の最後がアタリだったとは、私もよくよく運が悪いです」
「そう言いなさんな。見っかっただけでも儲けもんだぜ」
二人の闖入者は呑気なことを言い合いながら、魔力で汚染された教室へと足を踏み入れる。少女と男性──エイル・フォースミリアとシグムド──は朝槻の姿を認めると、目を眇めた。
「……見つけました。異端者イドゥン・アークダイル」
「その名前で呼ばれるのは久しぶりね。えーと、あなた誰だったかしら」
エイルがわずかに眉をひそめる。
「……エイル・フォールミリアです。覚えていないかもしれませんが、一緒に任務もしたんです」
「私、過去は振り返らない主義なのよ」
「……都合いいですね」
「それが私の長所よ」
朝槻──否、イドゥン・アークダイルはエイルからの追及に涼しい顔で答える。
「……イドゥン。貴女を魔禍に関与した重要参考人として、魔女会議に連行します。ご同行を」
「もし断ると言ったら?」
「……無理矢理にでも従ってもらいます」
眠たそうに揺らぐ瞳に、一瞬だけ強い光が宿る。それに呼応するかのように、シグムドが臨戦体勢に入る。
「変なことしようって思わないほうがいいぜ。数は二対一。どう見ても不利じゃねぇのか?」
シグムドが警戒しつつも啖呵を切る。だが、イドゥンは眉ひとつ動かさない。
「数なんて問題じゃないわ。いいことを思いついたもの」
「なんだそりゃ」
律儀に答えてやるほど、イドゥンも間抜けではないらしい。不意に彼女は何事かを紡いだ。
シグムドはすぐさまグレイプニルを抜き取り、その鎖を魔女へ投げつける。しかしグレイプニルの先端は彼女に素手で受け止められてしまう。
「なん、だと……?」
彼は呻いた。魔女とはいえ、基本的な身体能力は人間より何割か増し程度でしかない。そんな魔女が、魔宝具を素手で受け止めたのである。
「……まさかイドゥン。貴女」
「自分自身が素体なら、それが一番確実でしょ? なんで気づかなかったのかしら」
しかし注意深く見れば、イドゥンの手は人間のものではなかった。
醜くかさついた手には鋭利な爪が生え出ており、それは腕の中ほどまで続いている。
エイルはイドゥンへ問う。
「……自分自身を、悪魔への憑依体としたのですね」
「ご明察。これなら失敗することなんてないわ。これで、私の夢は叶うのよ!」
悪魔に侵蝕されながらも歓喜の笑みを浮かべるイドゥンを、司と愛音は畏怖の表情で見やる。
「アンタ、……頭おかしいぞ」
「何とでも。私は自分がやりたいように行動するだけ。例え自分自身を犠牲にしても」
愛音はハッとした表情になる。やり方や方向は違えど、かつて自分がしたことと彼女が今していることは、ほぼ同じである。
「これが、魔女の本質だったいうの?」
「…………えぇ」
愛音の呟きに、エイルは律儀に答えた。その間も、イドゥンの身体は悪魔による侵蝕が進んでいた。
身体全体は浅黒い皮膚に覆われ、髪は抜け落ち、その頭部には直角に二対の角が出ている。顎から除く牙は刀のように鋭く、気だるげだった瞳は切れ目の強い眼孔へと変貌する。
「…………これが貴女の夢、ですか。……悲しいものです」
エイルは同情的な台詞を投げかける。しかし、イドゥンにはそれを理解する脳すら残されていなかった。
召喚の儀によって引きずり出された悪魔は低級に位置し、それでもこの世界においては比類すべき存在を持たないほど圧倒的な魔力を誇る存在であるはずだった。
だが司の肉体から強制的に追い出された悪魔は、むき出しの魂のまま世界を漂ったため大きく力を減衰させてしまっていた。既に知能や理性などは失われており、その悪魔と融合したイドゥンも単なる動物と大差ない存在にまで陥っていた。
シグムドはここで初めて、司と愛音へ振り返った。
「お前ら二人がさっきの魔女とどういう関係か分かんねぇが、ここは生き延びるために協力しねぇか?」
軽い口調であったが、その強張った表情から事態は彼ら二人で凌げるものでないことが察せられる。司は迷うことなく頷いた。
「僕も状況は分からないけど、ここで死ぬつもりはない」
「話が分かる奴で助かったぜ。……そっちのお嬢はどうだ?」
司は愛音を見る。彼女は仇敵を見る目をシグムドへ向けていた。瞳に浮かんでいるのは純粋な敵意と憎悪。下手をすればこの場で戦いが起こるのではないかと懸念させるほどのものである。
「……あななたちに恨みはあるけど、その言い分はもっともだわ。司を死なせるわけにもいかない」
不承不承という体であるものの、愛音もシグムドの申し出に了解した。
「んじゃ、いっちょやんぜ! まず敵さんから一撃来っぞ! お嬢、防御!」
「言われなくたって!」
愛音が障壁を張るのと、悪魔と化したイドゥンの拳が飛んできたのは同時だった。
だがわずかに愛音のほうが早かった。拳の直撃が障壁に突き刺さるが、全く堪えた様子はなく強度は保たれたままだ。
「……大した障壁です。どこでそれほどの技術を?」
「別に、特別なことはしてないですっ」
エイルの質問に多少照れたようなぶっきらぼうの口調で愛音は返す。だがそんな会話を悠長にしている暇など、彼らにはなかった。
「……こんな大物を相手にするのは久しいですね」
次に動いたのはシグムドだった。魔力を纏った長鎖環が真っ直ぐに悪魔へと伸び、その巨体を幾重にも雁字搦めにする。その巨体にも関わらず、悪魔は身じろぎひとつ取れなくなってしまった。
その間に、エイルは身の内で練っていた魔力を一気に魔弾として解放する。霰のような途方もないほどの弾丸が悪魔を直撃し、その身体をボロボロにしていく。
だが、彼女の強度は舌を巻くものがあった。エイルとて本気ではなかったのだが、それでも致命傷を負わせることができなかったのだ。
「さすがは『異界』の悪魔ってか……。なかなかに手強いぜ」
シグムドがどことなく楽しそうな口調で、しかしグレイプニルを緩めることなく呻く。対するイドゥンは、己の身体を戒めている鎖を引きちぢろうともがく。それを制止させるようにエイルが再び魔弾を放つが、胴体に大穴が相手も動きは止まらない。
「ちぃ、くそっ!」
一旦、シグムドは拘束を解いた。グレイプニルの強度は確かに強い。だがそれは恒常的な力に耐え切れるものではないため、長い時間力を加えられ続けていると破損してしまうこともある。一度壊れてしまった魔宝具を治すことは、そう簡単なことではない。
戒めから解き放たれたイドゥンは、鬱憤を晴らすべくその拳を再び四人へ向かって振り下ろす。しかしこれも愛音の障壁によって阻まれた。
「う、くぅ……っ」
「愛音!? 無理をしないでくれ。辛いのか?」
「ちょ、ちょっと……。これやるのって、結構疲れるのよ。こんなに何回も連続して使うことなんてなかったし」
愛音が額に汗を浮かべ答えた。明らかに憔悴していることが分かる。先ほどの悪魔によって負わされたダメージが、彼女の体力を奪っていたらしい。
「くそっ、どうすりゃいい……?」
戦いは、既に人智の域を超えている。先ほどは協力すると言ったが、自分にできることなどほぼ皆無に等しい。司は絶望的な気分になっていた。
教室内を見回す。壁や黒板などには既に戦いの傷痕が残り、床には今だ輝きを放つ魔方陣が鎮座している。
(あの魔方陣は、まだ生きてるのか?)
異界から悪魔を呼び出した魔法陣。こちら側の「現世」とあちら側の「異界」を繋ぐ橋渡し的機能を果たしている。
現在もその機能が生きているとすれば、奴をあちら側へ追い返すことも可能ではないか?
「でも、どうやって……」
そこまで考えて、司は自分にそんなことができないことを思い知る。所詮は人間。悪魔と正面切って戦っている三人とは根本が違う。
──だが、突然脳裏に膨大な知識がなだれ込んできた。
魔女の存在。魔禍の概念。魔法の特異性。術式の法則。そして『魔女』の根本となる、魔力の操作。
司は、身のうちに流れる己の魔力の存在に気づいた。血液が血管を流れるように、自分という存在を軸に魔力が循環している。
(何だよ、これはっ?)
司は狼狽する。開き、と呼ぶにはあまりにも唐突だ。陳腐な言い方になるかもしれないが、「覚醒」とでも呼ぶべきだろうか。
(……ツカサか?)
膨大な知識の波の背後に、ちらつき人影がある。全く見覚えがなく、しかし違和感や敵意を感じずむしろ安堵と共振を覚える。
悪魔に憑依された自分を助けてくれた「彼女」だろう。
──『わたしはどんなことがあっても、つかさを護るの。だから、安心して』
その言葉は偽りではなかった。司は彼女へ心の中で感謝し、二人の闖入者へ言った。
「二人とも。ちょっとした考えがあるんだが、耳を貸してもらえないか?」
「……何でしょうか?」
エイルは眠たげな瞳で(しかし緊張感を保ったまま)司へ振り返った。
今だ、イドゥンへ決定的なダメージを与えられていない。戦況は拮抗したまま水平線を保っているかのように見えるが、戦闘慣れしていない人員をこちらは二人も抱えている。
このままではこちら側が苦境に立たされるのは時間の問題である。ゆえに、エイルは彼の提案に興味を持った。
「今からあの魔方陣の性質を逆転させて、あいつを異界へ送り返す。二人は時間稼ぎとあいつを上手く魔方陣の真ん中で誘導してほしい」
「…………貴方に、それができるのですか?」
エイルはわずかに驚いたような顔つきになった。この切迫した状況で出来もしないことを言う筈はないだろうが、魔方陣の性質逆転を魔女でもない彼に(そもそも魔女は女性しかなれない。ゆえの『魔女』である)出来るのか、という疑念が沸き起こる。
しかし、仮にここでこの提案の跳ね除けても、現状のまま両者ともに疲弊するだけだ。彼女は決断した。
「………………分かりました。貴方は魔方陣の性質逆転を急いでください」
「分かった」
司は愛音を伴い、魔法陣に立つ。その行動をさすがに不審に思ったのか、イドゥンの攻撃の矛先が司へと向けられる。だが、機先を制したシグムドにグレイプニルで動きを封じられる。
「おぉっと。そいつらには手を出すなよ。しばらくは俺が相手してやっからよ」
エイルと司の話を聞いていたシグムドも、彼らのサポートに回る。
一方、司は魔方陣の性質逆転を行なっていた。
『彼女』から得られた知識を総動員し、『異界からの召喚』としての機能を『現世からの転送』へと上書きする。
司の周囲から淡い光が生まれ、それらがゆっくりと魔方陣へと降り注ぐ。
「……すごい」
愛音は呆然とした口調で呟く。つい先ほどまで普通の人間であったはずの司は、今や自分以上に魔女の資質を身に付けていた。その能力に彼女は圧倒される。
「…………っ」
「司、大丈夫?」
「あっ、あぁ……。何とか」
よく見れば、司の表情は苦悶に歪んでいる。慣れない魔法行使が、普段より体力のない彼には苦痛なのは、誰の目から見ても明らかである。
「…………」
「あ、愛音」
「安心して。司ならできるから」
司の手を、愛音が両手で包み込んでいた。子をあやす母親のような挙措に、司は恥ずかしそうにそっぽを向く。
──周囲の風景が、ぐにゃりと歪んだように見えた。
「……変わった」
「えっ?」
「二人とも! そいつを魔方陣の中に!」
司がエイルとシグムドへ叫ぶ。
彼の意図を瞬時に読み取った二人は、イドゥンを魔方陣の中へ押しやる。彼女も司たちの謀りを感じ取ったのか抵抗するも、司たちの方が早かった。
イドゥンが魔方陣に入ったのを確認すると、司は詠唱を開始した。脳裏に浮かぶ語句を、一字一句読み上げる。言い馴れない言葉が多く口が上手く動かないためか、たどたどしい口調だ。
しかし、詠唱は効果を発揮し始めた。効果を書き換えられた魔方陣が光輝を放ち、中に踏み込んだイドゥンを光の檻へと閉じ込める。
「ウググゥッ……。ウガァァァァッッッ!!」
光に呑まれたイドゥンの影が、徐々におぼろげになっていく。絶叫しながらもがくも、強固な魔方陣の結界は彼女の拳を受けても微動だにしない。
────オオオオオオオオォンッ!
大気を震わす断末魔を最後に、イドゥンの影は光の中から消え去った。