第二章
朝。愛音がいつものように朝食を摂るため、竜胆家へ向かおうと玄関を出ようとしたその時、
「誰かしら、こんな朝っぱらから」
据え置きの家電が鳴った。折角の朝食に遅れるのは不満だが、無視するわけにもいかない。渋々、彼女は露骨に嫌悪感丸出しの表情で受話器を取った。
「はい、もしもし」
しかし声には微塵も出さない。相手に失礼だろう。だが彼女はこの時、電話に出たことを後悔した。
『あぁ、愛音か。良かった出てくれたのか』
聞きなれた男の声。しかし不快を催す声。今すぐ受話器を叩きつけたい衝動に駆られつつも、愛音は努めて冷静な口調で訊いた。
「……なんか用?」
『何だとはないだろう。僕は父親なんだから、娘の声を聞きたいと思うのは当然だろう?』
「私は全然思わないわ」
受話器の向こうの相手は、愛音の父であった。彼も司の父と同じく、多忙ゆえに家に長く帰れない人間である。
いや、帰らないようにしている人間だ。少なくとも、愛音は自分の父親をそう見ている。
「ここ数週間電話もなくて顔を見せなくて、それで父親なんだから当然? っていう言い分はどうかと思うわ」
愛音の口調は冷たい刃のようだった。父親への好意や敬意は欠片もなく、あるのは嫌悪と不快感のみである。
『…………』
そんな彼女の言葉に愛音の父は黙り込む。普通、娘がこんな不遜な態度を取れば父親としても強く出るものだろうが、彼にはそれがない。
娘に甘いわけではない。娘を信頼しているわけでもない。
父は、娘を恐れているのである。母がいなくなってから、彼はずっとこの調子だ。
今も行方知れずの愛音の母は、北欧出身の魔女会議の魔術師であった。父も同じく日本出身の魔女会議で働く諜報員であったため、二人は組織内で出会い、結ばれ、愛音という子を成した。
その後も、愛音の母と父は魔女会議にて活動を続けていた。娘も産まれ、順風満帆といった人生を歩んでいたが、とある任務中に母の失踪という不幸を持って、唐突に歯車は狂い始めた。
その後父は魔女会議を辞め、事情の分からない愛音を伴って日本へと戻った。愛音は母のいない寂しさを抱えたまま、事情を知っていながら何も語らない寡黙の父と過ごし、今に至る。
「それに何か言いたいんなら、家に戻って言えばいいじゃない。……それもと、電話じゃないと話もできないの?」
母の失踪は既に7年以上前のことだ。しかしいまだ、父からは何も語られない。
何かを隠している父の不自然な態度もさることながら、自分を避けているような素振りを見せているところが更に気にくわなかった。愛音が自分の父を嫌っている理由は、そうしたところから来ている。
『その、さ』
毅然とした態度を装いつつも、怯えた口調で父は言葉を紡ぐ。
『……分かってもらえないかもしれないけど、僕はいつでも娘の心配してる。それは、絶対嘘じゃない』
「……そう」
なぜキチンと向き合って話そうとしないの──。愛音はやりきれない気分で父の声を聞く。
自分だって、父を嫌いたくはない。母がいなくなった以上、唯一の肉親なのだ。なのに、父は一体何に怯えているというのだろう?
『……学校に遅れるとマズいよね。じゃ』
唐突に、電話は切られた。愛音はしばし受話器を持ったまま立ち尽くし──、すぐさまそれを戻して竜胆家へ向かった。
「愛音、なんかあったのか?」
司は朝食のときから、不穏な空気が愛音から流れているのを感じていた。
彼女は食事の時も憮然とした表情をしており、口数もいやに少なかった。普段は自分の作った調理にあれこれ感想を言ってくれるものだが、それすらない。彼女は間違いなく、不機嫌なのだろう。
原因はそれほど多くない。司が知っている情報の中で、愛音が最高に不機嫌となるものといえば、父親のことである。
彼女の父親嫌いは筋金入りだ。思春期特有の反抗心とは明らかに違う、暗い負の感情を伴った嫌悪である。司とて、時たま父親を鬱陶しく思うこともあるが、それ以上に(決して表立って言わないが)感謝と敬意を抱いている。片親の子どもは大抵このような感じであるはずだ。
「別に。何でも」
愛音の表情は、今だ憮然としたままだ。司と目を合わせようともしない。こうなると司の手に余る。余計な刺激を与えないほうがいいだろう。
こうして二人は無言のまま、学校を目指す。一見司を完全に無視しているように見えるが、彼女は先行しつつも司との距離を付かず離れず保っている。こんな時でも、彼女は司の身を案じているのだ。
だが、近づくのは躊躇われる。今の愛音は抜き身の刃のように危険極まりない。
それは他の人間にも分かるのか、いつもあるだろう頭の悪い冷やかしも、今日ばかりは飛んでこなかった。毎日こうだとありがたいのだが。
「あっ、竜胆君おはようございます」
校門前に到着すると、偶然水無月と出くわした。彼女は司を認めると、清楚な顔立ちをが若干綻ばせ、はにかんだ笑顔を浮かべる。
「おはよう水無月さん」
「…………おはよう」
それに対して司は微笑で、愛音は素っ気無い言葉で返した。
「……み、三嶋さん。今日は機嫌悪いみたいですね」
「あぁ、今はあんまり話しかけないほうがいい。電子レンジに入れた卵みたいになる」
「おっかないですね……」
まさに的を得た例えだ。愛音の頭上にはピリピリとした電気が弾けている──ように見えるほど、機嫌がすこぶる悪い。触らぬ神に祟りなし、である。
だから、司は愛音の口の端がわずかに──不満げに歪んでいたのを、見抜けなかった。
+ + + +
一人の青年が、病院の廊下を静かに歩いている。
その風貌は明らかに日本人とは異なっていた。出身を特定するのは難しくても、少なくとも日本人ではないことは間違い。その青年が、静かに歩を進めていた。
彼はチラチラと通り過ぎる病室を盗み見している。そこには皆、生気を失って呆然としている患者ばかりがいた。応対している看護士たちは戸惑いの表情を浮かべており、狼狽してばかりいる。無理もない。
「……こりゃぁ、間違いなく『魔禍』が絡んでんなぁ」
小さく青年が呟く。先ほどから感じる患者たちの魔力の少なさからも、その信憑性を高めている。どう考えても、単なる病気などではない。
「お嬢に報告しねぇと」
端正な顔立ちでありながら、口から飛び出す言葉は若干粗野であった。だが、本人にとってそれは瑣末なことである。青年はチラチラと自分の様子を伺っている看護士たちの視線を感じつつ、ロビーへと戻った。
午前の早い時間帯であるためか、人数はまばらで椅子もほぼ空席である。その中に、金髪淑女の姿があった。彼女は背もたれに深く腰掛け、瞳を閉じていた。寝ている、のである。
「……どこでも寝るよなぁ、お嬢は」
青年は困惑と苦笑を同量に含めた微妙な表情を作った。
「お嬢、お嬢」
青年は軽く肩を指で叩く。線の細い少女を乱暴に起こせるはずもなく、彼は極力強い衝撃を与えないように彼女を眠りの国から呼びだす。
「………………なん、でしょうか、シグムド」
うっすらと瞼を開けた淑女──エイル・フォースミリアは、青年をそう呼び琥珀色の瞳で見つめる。普通の男であれば心を射抜かれそうなその眼差しを、しかしシグムドと呼ばれた青年は平然と受け止めた。
「病院の中、ひと通り見て回ったぜ。議長らの言う通り、この町で騒がれてる『眠り病』って奇病の正体……『魔禍』だ」
「…………そうですか」
今し方起きたばかりなのに、再び眠ってしまいそうな危うい様子でエイルは答えた。瞼は完全に開かれておらず、今にも眠りの世界へと舞い戻ってしまいそうな感じだ。
「……具体的には、どんなことが分かりましたか?」
「患者となっている奴らの魔力が、異様なまでに少ねぇ。とりあえず命に別状はねぇぐらいは残ってっけど、明らかに人為的に魔力を摘出されたみたいだ」
「……魔力の強制摘出は、そう珍しいことではないですね。何を成し得るにも、…………魔力は必要なものですから。しかも、…………それが大掛かりなものであれば、なおのこと」
ところどころつっかえているのは、眠気に勝てず意識が途切れてしまったからである。
慣れない人では会話するだけで苛立つだろうが、付き合いの長いシグムドは特に何を感じるまでもなく、彼女の話に耳を傾けている。むしろ、シグムドは彼女を微笑ましい表情で見やっていた。父親が娘を見守る、そんな様子に似ている。
「……この事態を引き起こした魔女は、何を目的としているのか……。気になるところです」
「とりあえずは、ここを出ようぜ。ここで出来ることはもうやっちまったし」
「……もう一眠り、してから」
「そんなんじゃ夜になっちまう。寝るんならホテルでもいいだろうし、なんだったら待ってても良かったんだぜ?」
「…………従者だけに働かせて、眠りこけるわけにはいきません」
今にも眠ってしまうそうな様子で言われても、説得力は皆無である。しかしシグムドは気にもせず、くくくっと笑いを漏らす。
「従者想いの主人なことで」
「……はい。そうです」
眠たげな表情のままに、エイルは断言した。
「ま、とりあえずこっから出ようぜ」
「…………眠い」
「我慢しな」
無理無理エイルを立たせ、手に引いていく。眼をこすりシグムドに連れて行かれる様は、父親に引率された娘に見える。そんな二人を、誰も魔女会議の魔術師と従者などと疑う者はなかった。
「どうにかならないかな……」
司は一人、難しい顔つきで弁当をつついていた。
彼が残っている教室は人がまばらにおり、大半の生徒は食堂へと向かっている。昼休みは閑散としていることの多い教室は、人ごみが苦しい体質の司にとって、安心できる場所である。
しかし、そんな彼の表情は険しい。理由は愛音にあった。
彼女の不機嫌は昼になった今でも解消されておらず、クラスメイトたちはそんな彼女の様子に恐れ戦いている。
ちなみに、教室に愛音の姿はない。例によってどこかへ出かけているらしい。そのためか、クラスメイトたちの表情も若干和らいでいるように見える。
「あれ、竜胆君じゃないですか」
「水無月さん」
声をかけてきたのは隣席の少女だった。先ほど教室を出て行ったので食堂へ行ったのかと思われたのだが、手には購買部で入手してきたと思われるパン類がある。
「ちょっと聞いてください。ひどいんですよ」
拗ねた口調で彼女が言う。
「どうしたんだ?」
「私が食堂行く前に化粧室に寄ったら、宮園さんや栗原さん、私のこと置き去りにして食堂行っちゃったんですよ。ひどくないですか?」
「それはひどいな」
なんとも他愛ないことであったが、別段そういう「しょうもない話」が嫌いではない司は、苦笑しつつ相づちを打った。
「だから今日は教室で食べます。今日一日はあの二人とは口聞きません」
「まぁ、ほどほどにな」
本気ではないことは彼女の口調から簡単に分かる。だから司も苦笑が浮かんでしまうというものだ。
「ところで……、三嶋さんはまだ機嫌が悪いんですか?」
「そうらしい。今はどこかに行ってるみたいだけど」
「ちょっと、怖いですよね……」
声をひそめつつ、二人は会話する。よもやと思うが、気づいたら後ろに立っていた、ということもないとは言い切れない。
「ところで。折角なんだし独り身同士で食事でもしないか?」
「そうですね。薄情者な宮園さんや栗原さんは私を見捨てちゃいましたからねー」
ここにはいない二人に嫌みったらしく、それでいて拗ねた風に水無月はそう言い、司と机を合わせる。
「うあっ、おいしそうです。これって竜胆君のお母さんが作ってるんですか?」
司の弁当箱を覗き込み、水無月が感嘆した口調で尋ねる。
「母はいない。父はあんまり帰ってこないから家事とか料理とかも、全部自分でしてる」
「えっ、いないって……」
失言だと思ったのだろう。水無月は顔を伏せ、表情を曇らせた。
司からしてみれば、今更母親がいない現状を不幸などと思っていない。他人からそう思われるのも決して良いものではないが、自身が気にしていないのに他人に気に病んでもらうのは、正直心苦しいことだ。
「……良かったら食べるか?」
「えっ?」
「美味い自信はある。他人に食べてもらう機会って、なかなかないからな」
慰めにもならないかとは思ったが、気を利かせて司は自分の弁当を水無月に見せた。
玉子焼き、野菜炒め、プチトマト、焼き豚の切り身、そして白米。男子高校生が作ったとは思えないほど、見栄えの良いデコレーションだった。水無月が感嘆の溜息をついたのも頷ける。
「じゃ、じゃあいただきます」
遠慮がちにゆっくりとした仕草で、水無月は司の弁当から玉子焼きを一切れ摘み取り、口へ運んだ。しばしの租借の後、彼女の目が輝く。
「すごくおいしいです!」
「ありがとう」
新鮮な反応だった。愛音も料理を褒めてくれるが、初めて食べた人がくれる感想というものは、やはりより嬉しいものだ。
「立派ですね竜胆君は。いいお嫁さんになれますよ」
「僕は男だ……」
眉間を指で押さえながら呟く。確かに線の細い体格をしているが、竜胆司は紛うことない日本男児である。
「……三嶋さんが羨ましいですよ」
「ん? なんだって?」
「い、いえいえなんでもないですよ! あぁ、もう一個ください!」
小さな呟きを誤魔化すように、彼女は再び玉子焼きを持っていく。まとめて数個も。
「こ、こらっ! 僕の食べる分を残せよ!」
「いいじゃないです。竜胆君は食べたければすぐ作れるんだし!」
「そういう問題じゃな」
ガラリ、と教室の引き戸が開かれた。司は水無月の頭越しに愛音の姿を確認し、思わず口をつぐむ。
「どうしたんですか、竜……」
その様を不思議に思った水無月も、司の視線を追い口篭った。対して愛音は、二人が自分を注視していることに不満げな表情を作る。
「何?」
「い、いや。なんでもない」
険悪な雰囲気が教室中に立ち込める。そのまま時間が凍り付いてしまったかのような錯覚に囚われ始め──、それを破るように予鈴のチャイムがなった。
愛音は二人を一瞥せずに自分の席へと戻る。司と水無月は安堵の溜息をついた。
「あー、埃くさっ」
薄暗い空間に、わずかな陽の光だけが差し込んでいる。宙には光に反射された埃が舞っており、朝槻が動くたびに埃が流される。
取り壊しが決定した、旧校舎の一室である。昼休みの時間を利用し、朝槻はここを訪ねていたのだ。
当然の如く人気はない。そもそも立ち入りが禁じられているため、人がいないのは当たり前だ。
だがそうした場所だからこそ、人の目に触れたくないことを行うには、絶好のポイントなのである。
「換気したいけど、そうするわけにはいかないしねー」
独りごちながら、朝槻は埃まみれの床に何かを撒いている。粉々に砕かれた、石の欠片である。
だが、ただの石ではない。魔力を含有した平凡な魔道具──魔石だ。それらが円を描くように、朝槻の手によって床へ振りまかれている。
よく見れば、今描かれている円の下には、今日以前に作られたと思われる円もある。その下にも更に円があり、今描かれているものと合わせると、合計三層にもなる円が魔石の粉によって描かれていることとなる。
砕かれた魔石は、塵と見分けが付かないほどの微細な大きさとなってしまっているため、万が一風でも吹き込めばすぐに散ってしまう。ここ数週間の成果は、文字通り風のように消える。
だから、いくら埃臭かろうが、蒸し暑かろうが、息苦しいだろうが、魔力濃度が濃かろうが、窓を開けるわけにはいかないのだ。
「……もう、充分な頃合ねー」
魔石を撒きおえた朝槻が、自らが描いた円──魔方陣を眺めながらそう呟く。彼女が描いているのは、還魂の法を行うために使用する陣である。
──還魂の法。
文字通り魂を返す法であり、死した人間の魂や、何らかの要因で身体を離れた魂を強制的に身体へ戻す魔法だ。後者の例ならともかく、前者の例は世の理に反する事象であり、魔女会議にて禁術の烙印を押されている。
当然、かつて魔女会議にその籍を置いていた彼女が、それを知らぬわけがない。だが、助けられる術を持ちつつも、黙してその命を失わせることのほうが大罪のような気がする、という建前を彼女は持っていた。それを除いても、禁忌に触れるという行為そのものが、彼女の楽しみなのだが。
人の魂とは、それ自体が純粋な魔力の塊である。しかしそれらは、肉体を纏わなければ世界中に漂っている魔粒子と結びついてしまい、個性を失って同化してしまう。それを防ぐため、魂を保護する空間を作らなければならない。
『結魂の法』によって繋がれた魂を一旦切り離し、それを再び肉体へ定着させる。それが『還魂の法』のプロセスである。
一旦切り離した空間にて魂を保護するために必要な空間は、一切の魔粒子の侵入を許してはいけないため、堅固たる障壁とそれを生み出すのに必要な膨大な魔力が要る。
「あとは三嶋さんが頑張ってくれれば……」
ほくそえむ。楽しみだった。
自分の描いた魔方陣が動き出し、輝き、自らの願望が成就することを。
「早く会いたいわ……」
目を細めて虚空を見やる朝槻は、夢見る少女のようであり──狡猾な悪魔のように見えた。
+ + + +
「ごちそうさま。食器、私が洗うわ」
竜胆家での二人の夕食が終わり、愛音が食器を手に席を立った。若干表情が険しいが、昼間までのつっけんどんな態度に比べれば、相当機嫌は良くなっている。
結局彼女の不機嫌の原因は分からずじまいだったが、回復の兆しが見えたのだから問題はない。司は食後の緑茶を飲みながらそう思った。
基本的に、料理を司が作って愛音が片付けるという分担となっている。愛音が料理を作れないということもあるが、彼女が司に余分な負担をかけたくないと思っているためである。当初は遠慮していた司も、彼女の強引な押しに負けてその役割分担を了承した。
愛音がキッチンで食器を洗う音を聞きながら、司はテレビのリモコンを手に取った。電源を入れる。生真面目なキャスターの姿が映った。
『……現在までの眠り病患者の数は総勢61名にものぼっており、現状でも全く原因の究明が進んでいない状況です。病院関係者による記者会見でも新しい情報は発表されることなく──』
電源を落とした。
ニュースでは依然として『眠り病』の情報ばかりが流れている。司自身も無関心なわけではないのだが、愛音がこの話題を極度に嫌がるため、あまり見聞きしないでいたのだ。
しかし、彼は考えてしまう。彼女がそこまで嫌がる理由を。
(僕のことなんだろうか)
自惚れかと思ってしまうものの、そうでなければ彼女がそこまで過敏にならないだろうと確信している自分がいる。嫌なことだ、と司は思った。
自分という人間は、彼女に支えられなければ満足に生活することすらできない。そんな自分を悔しいとも思うし、そんな自分につき合わせてしまっている愛音へ申し訳ない気分になる。
しかしそれを口にはしない。以前そんなことを言ったところ、烈火の如く怒られたのである。
『何だって自分のことそんな風に言うの!? 司が自分のこと信じてやらなきゃ、誰もアンタを信用なんてしてなんかくれないわ!』
自分自身を卑下していた司への叱責だった。そう言われた事実が、なおのこと彼を意気消沈させていた。
彼女は強い意志をもっている。自分とは全然違う。本当なら、一緒に居ていいはずではない。それでも彼女にすがってしまうのは……何故だろう?
「……ふぅ」
こんなことを考えていても詮無い。愛音が皿洗いをしている間に風呂掃除でも済ませようと、ソファを立ったその瞬間、
「──ぅあう」
一瞬、意識が遠のいた。次いで身体の自由が利かなくなり、堪らず司は床に崩れ落ちる。発作だ。
『司っ!? ちょっと司大丈夫!?』
愛音の叫び声と皿が割れる音が聞こえる。が、それも薄い壁越しに耳を当てているような感覚だ。床一面しか映っていなかった視界に、愛音が飛び込んできた。彼女が自分を抱きかかえているのだ。
『どうしたの、また発作!?』
『みたい……だな』
やり切れない気分である。正直、こうして彼女に助けてもらえるのを司は嬉しいと思っているが、この感情自体が司自身のプライドをズタズタにしている。
「あとのことは私がやるから、もう休んだほうがいいわよ」
「……そうする」
やっと声がまともに聞こえるようになった。ややぎこちないが、身体も自分の言うとおりに動く。司はのろのろと起き上がった。
「司。足フラフラしてるじゃない。私が……」
「結構。部屋なんてそんな離れてないんだし」
そう言ってから司は驚いた。意図してないほど、語気が強かったのだ。しかし司は愛音へ振り返ることなく、そのままリビングを後にする。
部屋に戻り、ベッドに頭からダイブする。今のは完全なる八つ当たりだ。愛音からの厚意を仇で返すようなことをしてしまった自分が恥ずかしい。
司はやり切れない思いを抱えたまま、瞳を閉じた。
「お嬢。今戻ったぜ……って、まだ寝てるんか」
ホテルのチェックインルームへと戻ったシグムドは、ベッドの上で丸くなっているエイルを見つけた。
彼女は昼食を摂ってすぐに眠ってしまい、シグムドはその間に周辺調査と探知魔法の設置のために街中を回っていた。
その時間、優に6時間以上。つまりに、シグムドの主人は6時間以上もの間昼寝をしていたのである。
「……ったく、よく牛にならねぇもんだ」
しかし、別段驚くべきことではない。彼女はいつもこうなのだ。
シグムドは頭を掻きながらベッドへ近づき、布団を駆け直してやる。
こうして見ると、魔術師と従者というより父と娘の関係のほうがしっくりくるのだが、この二人は魔女会議に籍を置く正真正銘の魔術師と従者なのだ。
──魔女会議と呼ばれる機関は、多くの魔女を擁する互助協会である。
魔女は例外なく、世の理を歪める力を持っている。その力はあまりにも強大で、それらが自侭に使われ暴走すれば、抑えることは極めて困難なことだろう。
そんな自分たちの力を危惧した魔女たちは集い、自然にできたのが魔女会議である。
その目的は、世の理を故意に捻じ曲げようとする異端者の駆逐や、魔禍によって歪められた地区の浄化などがある。
魔女会議に在籍する魔女は魔術師と呼ばれ、任務遂行のためのあらゆる権限を与えられている。そしてその魔女を補佐し、守護する力を与えられた者は従者と呼ばれる。
現在、エイルとシグムドは魔女会議上層部からもたらされた、パンドラの瞳による魔禍予見の現地調査を命じられている。
パンドラの瞳は、世界に現存する魔宝具の中でも最高位の物品であり、世界中に渦巻く魔力の流れを読み取って魔禍の発生特定と予見を見ることができる。
だが、それができるのは魔女会議最高責任者である議長のみだ。
権限はもとより、制御できる力も彼女しかいない。だが、その的中率はこの数百年で一度も外れていない。今回も、見事にこの街で起こっている『眠り病』と呼称される魔禍が、パンドラの瞳により特定された。
もっとも、諜報員も有しているので地道に調査するという手段も取れるが、諜報員はただの人間だ。彼らに与えられているのは、魔女会議という存在を世界から隠蔽させるための情報操作であったり、機関運営のための資金調達である。
「……しかし、何も分からねぇな」
シグムドは椅子に腰掛け、そう呟いた。
街中の魔粒子の流れは正常だし、歪みも見つからない。病院に搬送されている人間以外には何の以上も見られず、探知魔法からの警告も一切ない。
「予見ってことだし、まだ起きてねぇってことか?」
パンドラの瞳は魔禍を予見することもある。しかし分かるのは場所と規模程度で、どんなことが起こるのか具体的なことは分からない。運がよければ未然に防ぐことも可能だが、事前情報皆無の状況ではそれもほぼ不可能な話だ。
つまるところ、何か起きるまで待ちの状態でなければならない。歯痒い話だ。
「…………」
むくっ、と何の前触れもなしにエイルが目を覚ました。上体を起こし、寝ぼけ眼で(といっても、いつもと同じだが)辺りを見回す。シグムドの姿を認めると、
「……帰ってたんですか、シグムド」
「ついさっきな」
「……何か、分かりましたか?」
「なんも。このままじゃ何か起きるまでどうしよもなさそうだぜ」
肩を竦める。何時間も外を歩き回って成果がなかったのだ。さぞかし失望されることだろう。
「…………そうですか。それじゃまだ寝てます」
「おいコラ! そろそろ起きねぇか!」
だがエイルは気にしなかった。それよりも、自身の睡眠欲を満たすことが最優先事項らしい。
三大欲求のバランスが明らかにおかしいこの少女は、いつでも暇さえあれば所構わず眠ってしまうほどの万年眠り姫なのだが、魔術師としての実力は魔女会議でも五指に入るほどのものである。
が、普段はそうしたものがまったく伺えない。本人もそれを気にしていないので問題はないと思うが。
「……そうですね。せめて晩御飯を食べてから」
「そうじゃねぇだ──」
刹那、シグムドの脳裏を微量な刺激が走った。
窓から外を見やる。微量な刺激が波のように彼方から流れてくる。その波の発信源は、彼が仕掛けた探知魔法のある方角と一致している。
「……シグムド」
エイルは凛とした口調で従者を呼んだ。いまだ眠気に揺らぐ瞳をしているが、その奥の瞳は強い意志を宿している。魔術師としてのエイル・フォースミリアの、本気の現れだ。
「あぁ、やっとこさ仕事だぜ」
シグムドはそう呟き、口元に笑みを浮かべた。
+ + + +
「なんだのオマエー、この髪黒くねーぞ。日本人じゃねーな」
「ってか、人間じゃねーんじゃねーの?」
「化け物ー! 化け物おんなーっ!」
夕暮れの公園にて、一人の少女が男の子たちに取り囲まれていた。どちらも10歳になったばかりの子どもだが、取り囲まれている少女の風貌は明らかに日本人とは異なっていた。
陽光を弾く銀色の髪に宝石のような翡翠色という容姿は、人目を惹くと同時に無垢であるがゆえに残酷な子どもの好奇心を刺激するのには、あまりにも充分すぎた。
今こうして彼女が多くの男子から苛められているのも、そうした理由からだ。
少女はただ瞳を固く閉ざし、耳から入ってくる不快な言葉を聞き流していた。言い返せるほど口達者でなく、殴りかかれるほど度胸も据わっていない。彼女にはただ、堪えるしかなかった。
一人の少年が助けに入るまでは。
「やめろよ!」
少女を包囲している人垣へ突進してきたのは少年だった。彼女を苛めている男子たちと同年代らしいが、彼らのように少女を嘲るような笑みはない。純粋に非道を憎む真摯な正義感のみがある。
「なんだよおめー。ヒーロー気取りかよー。キメー」
「カッコつけてんじゃよーっての。イタイって」
「正義の味方ってダサくね?」
苛めに加担している少年たちが口々に彼をなじるが、彼は一切ひるまなかった。そのつまらない結果に少年たちは露骨に不快な表情を作るが、その一秒後に彼らは驚愕する。
少年が問答無用とばかりに、いきなり殴りかかってきたのだ。何の準備も身構えもできなかった一人はもろに顔面を強打され、鼻を押さえながら蹲る。
「ってめぇ、何しやがんだよっ!!」
「ボコってまえ!」
いじめっ子の関心は少女から少年へと移った。彼は相手が多勢にも関わらず果敢にいじめっ子へ拳を振るう。しかし物量差はいかんともし難く、彼の全身には殴打の痕跡が次々と刻まれていく。
「…………っ」
少女は自分が助けられているよう実感が沸いていないのか、目の前で繰り広げられている乱闘を、ただ呆然と眺めている。
「こんのぉっ!!」
少年の拳がいじめっ子リーダーの顎を強打した。瞳が憎悪の色に染まる。激情に突き動かされ、ついに彼は最悪の手段を取ってしまった。
リーダーは少年の首根っこを万力で締め上げ、石造りの階段へと押し付けた。下手をすればそのまま少年は頭から階段を落ちてしまう、そんな状況になっている。
「おいこらぁっ! 謝れよこの、あぁっ!?」
「……っぐ」
「この腫れた顎に謝れってんだよぉ!? 落っことすぞ!」
リーダーの目は理性の光を失っていた。周りにいるいじめっ子ですら、その狂気に気圧されている始末だ。しかし彼はそれに気づかない。自分の目の前で苦しみ悶えている少年を更にいたぶることのみが脳の大半を占めており、それ以外のことなど全く考えられていない。
それが、リーダーに組み伏せられている少年の悲劇を生んだ。
「──あぁっ?」
「──えっ?」
「──っ」
リーダーの力が、僅かに緩んだその瞬間だった。そこから反撃に転じようと少年が身じろぎした途端、彼の身体は万有引力の法則に従い階段から落下した。頭から。
ゴツゴツ、と石段に頭を打ち付ける音が公園内に響き渡る。20段から成る階段を滑り落ち、少年の落下はようやく止まった。彼は身じろぎひとつせず、頭部から恐怖を喚起させる赤い体液を垂れ流している。
「……うぁぁっ。やっちまったぞ」
「どうすんだよ、アレ」
「お、オレは知らないかんなーっ!」
いじめっ子たちは、我先へと逃げ出していった。リーダー格の少年も、仲間たちがほぼ逃げ出してから事の重大さに気づき、「うぁぁっ」と足をもつれさせながら逃げていった。誰も銀髪の少女を振り返るものなどおらず、結果取り残されたのは動かない少年と少女のみとなった。
少女はのろのろと階段へと歩み寄る。下を覗く。少年が血だまりの中で倒れていた。
今更になって、少女の身体を震えが襲った。自分が原因でこうなったことを、やっと脳が理解したのだ。慌てて階段を下り、彼の元へ駆け寄る。瞳は力なく閉じられ、身体は微動だにしていない。
いくら10歳になったばかりの子どもでも分かる。彼は──。
(死……んだ? 私の、私のせいで?)
体中の震えが一層強くなった。罪悪感が身体を縛りつけ、呼気を荒くする。涙腺が刺激され、じわじわと瞳が溢れてきた。
「……っ、ごめん、なさい」
涙は止め処なく溢れ出、彼女の白い頬を濡らす。懺悔の言葉を少女は紡ぐも、当然ながら少年はそれを聞くことはない。
少女はひとしきり泣いた後、涙を拭った。既に公園を通り過ぎる風は冷たく、夕陽も沈みかけている。少女は決意の光を瞳に宿すと、首から提げていたペンダントを手に取る。翡翠色に金の文様が彫り込まれている意匠の品だが、可憐な少女にはあまり似合っていない。
彼女はそれを両手で包み込み、静かに何事かを呟いた。途端、彼女の周囲に淡い光が生まれる。それは薄暗くなっていた公園を優しく照らし、倒れている少年をも包んでいた。
今は行方の知れない母が、自分に託したものの一つ。消え行くものの魂を繋ぎ止める魔法、『結魂の法』である。
魔力により構成された糸が魂と肉体を結ぶことで、再び命を与えるものだ。そのため、死後時間が経ってからでは効果は得られない。懸命の治療空しく死した者を救う、緊急的措置としての位置づけの魔法と考えるのが正しい。
周囲を舞う燐光からキラリと光る糸が虚空を漂う。そのひとつが一際光る欠片──今にも消えそうだった魂を探し当てた。
愛音はその糸を手繰り寄せ、少年の肉体と結びつける。魂が身体の中へと吸い込まれ、徐々に彼から魂の息吹が感じられるようになった。
「……良かった」
安堵の溜息とともに、安堵の涙も溢れ出た。その涙を頬に受ける少年の瞳は、緩やかに開かれていた──。
愛音は目の前で地に伏せている中年男性を見下ろした。男は既にアナテマに魔力を奪われており、わずかに呼吸のために身体を上下させているのが彼の唯一の動作である。
愛音の精神状態は、これまでにないほど最悪であった。
今までだって罪悪感を感じたことなどない。自分のしている行為は他人に被害を与えているという自覚もあったし、犠牲の上に司を助けることが果たして正しいのかどうか迷っている。だが、それ以上に彼を助けたいという意志が、押し込めていた負の感情を浮かび上がらせつつあった。
それもこれも、夕食で司からそっけない態度を取られてからである。
まるで彼の態度は、自分を拒絶していたかのようである。一時の反抗心であるかもしれない、という合理的かつ倫理的の推測も、今の彼女には思いつくことすらない。それぐらい、彼女は落ち込んでいた。
いつになく、アナテマを携える腕が重い。辛い、とすら思う。だが弱音を吐くわけにはいかない。
司が虚弱体質になってしまったのは、自分のせいなのである。
愛音が10歳になったばかりのこと。母から引き離され、慣れない日本暮らしをしていた彼女はよく苛めのカモとされて、その日も大勢の男子たちに取り囲まれていた。
今日も彼らが飽きるまで、自分は罵られ続けるのだ。絶望で身じろぎすらできずにいた時、助けに入ってくれた少年がいた。その少年は愛音を庇いいじめっ子たちと乱闘を演じ、その結果、階段から突き落とされ死んでしまった。
愛音はとっさにその少年へ『結魂の法』を施し、彼を蘇生させた。その後、傷も癒え問題は何もなかったと思われたのだが、彼の身体は元通りとはならず、虚弱な体質となってしまったのだ。
こうなってしまったそもそもの原因は、不完全だった魔法を不用意に使った自分のせいで間違いない。ならば、自分が彼を──竜胆司を支えなければならない。
それが、三嶋愛音が竜胆司と行動をともにしている理由である。──それ以上でもそれ以下でもない。
「……また誰か来た」
人の気配を感じる。愛音は隠れようともせず、その人間の気配を探った。月のない夜に黒衣を身に纏っているし、幻惑の術もかけてある。自分の正体がバレなければ、それで問題ない。どうせ相対したその後、相手は魔力を奪われて意識を失ってしまうのだから。
物陰から姿を現したのは自分と同じ体格の少女だった。顔はよく見えないが、それは幸いである。相手の素性など知らなくて構わないし、変に気が迷ったらいけない。愛音はすぐさまアナテマを紐解いた。
ページから光が迸り、相対する少女からも光が滲み出る。少女は驚愕に目を見開き、くたっと膝から崩れ落ちた。彼女から蒐集した魔力がアナテマへ吸い込まれ、ルーン文字となって刻み込まれる。
愛音は若干顔を苦渋に歪めた後、倒れた少女を一瞥してその場を立ち去ろうとして──、再び振り返った。一瞬見えた顔が、自分のよく知る人物に酷似していたのだ。
いや、よく知るなどと他人行儀だ。その少女は、
「み、水無月さん……」
後悔の念が彼女の心臓を這い回る。先ほどまで抱いていた決意は砂のように流れ去り、身体に震えが走った。
だから、彼女は気づけなかった。すぐそこまで自分とは別の魔女が来ていたことに。
突然、彼女の身体が何かに束縛された。
「はぁ……。全く人使いの荒い母親です」
ほんの少し前。水無月由紀乃はコンビニから出て溜息をついていた。
彼女の両手には今し方の買い物でできた荷物が大量にある。夕食後、母親に頼まれたものだ。
「大体明日でもいいものばかりじゃないですか。わざわざ夜に出かけさせるほどのことじゃないですよ、ホント」
ぶつくさ文句を垂れつつ、帰路に着く。
彼女が買い物に行ったコンビニから自宅までは、歩いて十数分の距離である。しかし、たかだかその程度の距離だからといって、夜歩きが安全とは言えない。
むしろ、ここ最近の『眠り病』の流行もある。水無月が独り言を呟いているのも、そうした内心の不安を押し隠すためなのかもしれない。
「ふぅ……」
否、それだけではなかった。彼女の表情からは、何かを思い煩っていることが伺える。
かくして、その内容とは。
「竜胆君はあぁ言ってますけど、実際はどうなんでしょうね」
隣席のクラスメイトのことであった。
昼。彼にそれとなく愛音との関係性を聞いてみようと思い接近した。結局、自分が恥ずかしくなってうやむやにしてしまったが、司の狼狽具合から察するに決して浅いものではないだろう。
「付き合っている、とか……。あぁ、いえいえそれは」
自分の妄想に自分で否定をする。大丈夫だ、そこまでの関係はないだろう……多分。だったら、自分にもチャンスはあるはずだ。
竜胆司は、クラスの中では病弱のもやしっ子という位置づけとなっている。だが人当たりも良く開放的な性格のため、悪い見方をされることなどない。
だがそれでも、彼をそういう対象で見る人間は、果たして自分以外にどれだけいるだろうか?
水無月は、三嶋愛音を除けばほぼいないと確信している。
「……よし」
何かを決意するようにそう呟くと、帰路を急ぐ。
それが、意識を喪う寸前までの彼女の記録だった。
「……やっと尻尾を捕まえました、異端者」
眠たげな瞳をした金髪淑女──エイル・フォースミリアが緊張を孕んだ口調で呟いた。
彼女の目の前には、シグムドが手にしている長鎖環で雁字搦めにされている魔女がいる。銀髪に碧の瞳が驚愕で見開かれている。彼女の傍らには、犠牲者と思しき同年代の少女が力なく倒れている。
「だ、誰……?」
異端者の魔女が、震える声で尋ねる。エイルは告げた。
「……魔女会議の魔術師、エイル・フォースミリアです。こちらは従者のシグムド」
「よぉ」
エイルに紹介されたシグムドが、片手を挙げ呑気な口調で答える。しかし全身にみなぎっている緊張は全く解かれていない。
「魔女会議……!」
その言葉を聞いた途端、異端者の表情が変化した。憎悪、憤怒、敵意──負の感情である。だが、エイルは斟酌せずに続ける。
「異端者。貴女には魔禍首謀の嫌疑が掛けられています。審問への出頭を要請します」
「誰が……あなたたちなんかに!」
魔女が鎖の中で苦しげに悶える。金の鎖を握っていたシグムドを腕を力強く引くと、女を戒めている鎖が一層強く締め上げられると同時に、彼の手元から発せられた光が鎖を伝い魔女へ直撃した。
「うぅっ!」
苦痛に顔を歪めた。シグムドの魔宝具、"グレイプニル"の放った雷撃である。
この金色に輝く長鎖環は、彼がエイルと契約した際に精製されたものである。伸縮自在で鞭のように扱え、魔力を纏わせることもできる、攻守に優れる武器である。
「無駄な抵抗は止めた方が身のためだと思うぜ」
シグムドはグレイプニルを緩めることなく言う。異端者の魔女が満足に動けないことを確認すると、エイルが彼女へ歩み寄った。
「……詳しいお話は本部で聞かせて頂く事にしましょう。いつまでもここにいては目立──」
それは唐突だった。シグムドのグレイプニルに何者かが噛み付いたのだ。
「なっ!?」
犬だ。しかし普通の犬とは違う。その瞳に宿している光は紛うことなき、殺意であったのだ。犬は渾身の力で鎖に牙を突き立てるが、ただの犬に魔宝具が破壊できるわけもない。意図は不明だが、無駄なことだ──とシグムドは黙考する。
だが、その目算は翻された。グレイプニルがギチギチと軋みを上げ始めたのだ。
「な……何だよこいつは」
犬は歯茎から鮮血を流しながらも、何かに憑かれているかのように牙を突き立てている。シグムドは鎖を振るい、犬を弾き飛ばす。
それと同時に、鎖で束縛されていた魔女が自由の身になった。彼女は一瞬の戸惑いのあと、すぐさまその場から跳躍する。
「くっ、待て!」
追おうとするシグムドの前に、再び犬が立ちはだかる。そこでやっと気づいた。グレイプニルを噛みしだく顎力にその狂気を宿した瞳。普通の犬ではないことは一目瞭然である。
「……これは……造魔ですね」
「あの異端者のか?」
「……誰かのかは分かりませんが、私たちの邪魔をするならば敵です。……シグムド、これらを撃退します」
言うが否や、エイルは動いた。指先を犬型造魔に向け、魔力を放つ。魔弾は過たず造魔へ命中し、撃破した。
「……まだ反応はあります。このまま追えば──」
「お嬢! まだいるみたいだぜっ!」
異端者の魔女を追おうとした二人の前に、更に造魔が現れた。しかもその数は一匹二匹ではない。十匹は優にいる。
造魔たちは犬の面影を持つためか、エイルたちを凝視し唸り声を上げる。
「邪魔だっ!」
先に動いたのはシグムドだった。グレイプニルを振るい、造魔を鞭打つ。造魔は弾き飛ばされ、ボーリングの球がピンを倒すように他の造魔を巻き添えにする。
エイルも魔弾を放ち、次々と造魔を屠っていく。俊敏に動くものにも確実に魔弾を命中させ、造魔は見る間に数を減らしていく。
しかし造魔も馬鹿ではないのか、複数が一気に全方位からエイルを囲むように襲い掛かってきた。
「……考えますね。……しかし、その程度ではまだまだです」
彼女の周囲を、魔力の燐光が取り巻く。それらは魔弾となり、様々な軌跡を描いて全方位から迫り来る造魔を一匹残らず叩き落した。
魔弾は単純かつ低級な攻撃魔法であるが、それに応用の幅を持たせ様々な局面で扱えるのは、魔女会議の中でもエイル程度のものである。そもそも、魔女が扱える魔力というものは自身の中で生成されたもののみである。大気中に存在する魔粒子を干渉させて魔法を起こすことは、上位技術に値する。
「お嬢。これで全部始末できたみたいだぜ。でもよ……」
「……はい。……完全に、逃げられてしまったみたいですね」
全ての造魔を始末し終えた頃、二人は異端者の反応が完全に途絶えてしまったことに気づいた。