第一章
彼は夢を見ていた。ここ最近、繰り返し見る夢。
何もない空間にぽつねんと自分が立ち尽くしており、そこへ『誰か』がやって来るという、至極単純で内容の薄い夢である。
が、それを彼はつまらないと到底思えない。その正体の分からない『誰か』という存在に、彼はとても親近感を抱いていた。
姿かたちは分からない。曖昧模糊とした気配のみが彼の周囲を漂い、取り巻いているだけである。男なのか女なのか、そもそも人間なのか、それすら分からない。
彼は、その『誰か』を見たいと思った。
彼は、その『誰か』に触れたいと思った。
彼は、その『誰か』の名前を呼びたいと思った。
が、それは叶わない。
いつも夢は「そうしよう」と決意したその瞬間に、覚めてしまうのだ。
そして今日もまた、夢の世界が崩落していく。幻想が現実に上書きされ、無の世界が朝の光へと染められていく。
「────っ」
目覚める瞬間、彼はその『誰か』に囁かれたような気がした。
+ + + +
竜胆司は、瞼を射抜く朝日に目を覚ました。
「……今日も眩しいな」
身体をベッドの上に起こし、自分の体調を確認する。心臓の鼓動は規則正しいリズムを刻んでおり、動悸の余韻や倦怠感もない。ほっ、と胸を撫で下ろした。
時計を確認する。現時刻、朝の7時。標準的な高校生としては割りと早起きになるだろうが、彼には毎朝の仕事がある。
着替えを済ませ、キッチンへ降りる。窓の外でさえずるスズメの鳴き声や車が往来するエンジン音以外、一切の物音がない空間だ。人影もなく、さしも彼一人だけがこの家にいるように思える。
しかし、それは事実だ。
竜胆家は父子家庭である。母は司が幼い頃に亡くなり、父はそんな母の意志を継いで息子を男手ひとつで育て上げた。つい半年ほど前まではとある事情から家にいることが多かったが、ここ最近はその反動からか満足に家にも戻って来れないほどの多忙な日々を仕事に費やしている。
そんな事情からか、彼は標準的な男子高校生より家事に長け、特に調理に関するスキルはその他諸々の能力より抜きん出ていた。
「昨日は豆腐だったらか、今日はわかめとネギでいこうかな……。あとオカズはアジの開きに筍の煮物に……。あっ、白菜漬けてたんだっけ」
こんな台詞すら、するっと出るぐらいである。
台所がにわかに活気付く。司一人の手によりコンロがフル稼働し、炊飯器が始動。グリルにはアジの開きが二枚投入され、鍋にはたっぷりとお湯が張られる。その間、彼は蛇口下の物置にしまっていた壷を引っ張り出し、中に漬けてあった白菜を試食する。
「……しょっぱい」
合格点である。
鍋から聞こえる、お湯が茹る音がいい具合になった。味噌と出汁と具材を投入し、グリルを開き魚の具合を確認する。油が泡を立て弾けており、司満足の絶妙なる焼き加減である。筍を煮ている鍋は沸点に達し、早く中身を確認しろといわんばかりにピーッ!! と音を立てる。確かめるまでもなかったが、中の筍は箸でやすやすと貫通できるほど柔らかくなっていた。
「あっ……忘れてた」
司はエプロンを外し、和室へ向かった。
そこには仏壇があり、20代半ば女性の遺影が鎮座していた。司の母である。毎朝、母の遺影へ線香を上げるのが彼の日課だった。
そして母の遺影の隣りには、彼女とは別の位牌がもうひとつあった。しかし遺影はない。それには理由が当然ある。
チーンと輪を鳴らす。司は心の中で二人へ語りかける。
──母さん、ツカサ。最近はいい天気だな。僕の体調はすっかり安定してる。心配しないでくれ。
ツカサとは、双子として産まれるはずだった片割れである。
詳しいことはよく知らないのだが、父の話によると心電図ではしっかりと二人の影があったはずなのに、いざ出産してみると司しかいなかったという。
当時は病院でも七不思議に数えられたという、奇妙な出来事だったらしい。
そのため、性別も分からず名前も付けられていない。だが司はその片割れに自分と同じ名前を付けた。本来だったら傍にいたはずのきょうだいを、少しでも感じたいという思いからだった。
──ピンポーン。
インターホンが鳴った。
感慨に耽っていた司が立ち上がる。玄関へ向かうと同時に、外から鍵が解除され扉が開いた。
「おはよう、司。ご飯もう出来た?」
「おはよう愛音。もう少しだから待っててくれ」
愛音と呼ばれた女子は、司の通う学校指定の女子制服を身に付けていた。
身体つきは女子としては平均的(だと、司は思っている)なのだが、彼女は他の女子より圧倒的に目立つ部分があった。
眩しい銀の髪と翡翠の瞳を、しているのだ。
三嶋愛音は、隣り家に住む同級生である。幼少の頃からの知り合いで、かれこれ7年ほどの付き合いになる。
彼女は昔、海外からこの町へと引っ越してきた。母はおらず、父と二人だけだったようである。母は外国人なのか、前述した特徴を持っており、神秘的な印象を放っていた。幼い子ども心ながら、その少女の可憐さに惹かれていたこともあった。
どのようなきっかけがあったのか今となっては覚えていないが、愛音とは互いの家を往復するくらいの仲になっていた。しかも互い片親で多忙と来ている。二人は助け合いながら、今日まで生活してきた。
(まぁ多分に、僕のほうが愛音に迷惑掛けてるだろうな)
謙遜ではなく、これまた事実である。
彼は幼少の頃、何か大きな事故に巻き込まれた後遺症として、体質が弱体化してしまった。その際の記憶はないため、他人から聞かされた伝聞情報のみしかないが、相当ひどいものだったらしい。
その虚弱体質ぶりは非情なまでに徹底しており、体育の授業に参加するなど持ってのほか、軽い駆け足や階段の昇降ですら息が上がるほどである。起床時に具合や心拍音を確認することも、それゆえの癖だ。
愛音は昔からの付き合いであるので、そんな彼の体質のことも承知だ。彼女は嫌な顔せず、文句ひとつ言わずこんな自分に付き合ってくれていた。正直、彼女の助けがなければ司の生活は大変厳しいものであっただろう。
だから、というわけではないが、彼は主に食生活の面で彼女を支援していた。毎食、可能な限り司は愛音を食事に誘っている。彼女が来なければ一人で食事をするようになるし、案外一人分の食事を用意するというのは面倒なのである。
「もうそろそろできるから、食卓の準備とか頼めるか?」
「うん」
愛音は勝手知ったる我が家とばかりに、戸棚から茶碗や皿を取り出しテーブルへ並べる。ここ数年、日常となっている光景である。二人にとって、真新しいものではない。あっという間に、テーブルは料理でいっぱいになった。
「いただきます」
「いただきます」
司がテレビの電源を入れる。生真面目なニュースキャスターが、機械的に淡々とニュースを読み上げている姿が映った。朝のニュースを見ながらの朝食は、二人の日課である。
はぁーっ、と味噌汁を一口すすった愛音が溜息をつく。
「コレ飲むと、あぁ朝なんだなーって感じがするわよね」
「そう言って貰えるとこっちも作りがいがあるってもんだ」
「このアジの開きもサイコーよね。柔らかいんだけど、程よく固いし」
「結構気を使うとこなんだ」
「それにこの白菜漬け。いい具合にしょっぱいからオカズにもってこいじゃない」
「今年に入ってすぐに漬けたやつだからな」
愛音の賞賛の言葉に、司は笑みを零す。日課になってしまっているとはいえ、こうして礼を言われるのは嬉しいものである。
『続いてのニュースです』
司はテレビへ視線を転じる。ニュースキャスターは机の書類をめくり、次の記事を読み上げた。
『ここ最近多発している『眠り病』の、新たな被害者が確認されました。昨晩新たに被害にあったのは7人。これで合計52人もの患者が出たことになります。病院当局は原因究明に全力を挙げていますが、いまだ成果は上げられておらず──』
唐突に、テレビの画面がブラックアウトした。見ると、愛音が顔を俯かせてリモコンを手にしていた。
「ごめん。私このニュース嫌いなんだ」
顔を上げないまま、彼女はぽつりと呟いた。先ほどの朗らかさは何処かへ消えており、司はそんな彼女へ何も言わず、ただ黙って白菜の漬物を頬張った。
ここ数週間、原因不明の奇病『眠り病』と呼称されるものが流行している。夜、人気のない場所で倒れている人が数多く発見され、その大半の人間は命に別状がないものの、深く長い昏睡状態に陥っているという、実に奇怪な現象が巷を賑わせているのだ。
「……ご、ごめん」
客観的にみれば司に非はないものの、彼は謝る。だが愛音は俯いたまま、無言。食卓は凍結空間と化した。
リリリッ、とその空間を破る電子音。据え置きの電話からの着信音だ。司はこの場から逃げるように椅子から立ち、受話器を取った。
「はい、竜胆です」
『おぉっ、司。俺だ俺、分かるだろ?』
「……オレオレ詐欺ですか?」
『おいこら息子、父の声を忘れたのか。んぅ?』
受話器の向こうからは、朝からテンション高めの声が聞こえてきた。司の父である。
彼は商社の中間管理職を務めており、家に戻るのは一ヶ月に一回、あるかないかぐらい多忙な人物である。
「朝から何だ?」
『何って、お前の声が聞きたかったんだよ。父さん、親バカだから』
「……自分で言わないでくれ」
『夜も寂しいんだぞ? 身体が疼いて熱くてまだ夏にもなってないってのに俺は』
切った。何やら不穏当な単語が聞こえたが気のせいだろう。父が阿呆なのは今に始まったことではない。
再び電話が鳴った。たっぷり10秒待ち、出る。
『おい息子。あんまり父をないがしろにすると怒るぞ』
「息子にセクハラ発言する父なんか僕は知らん」
『冗談だっての冗談! なんたってお前はそう気難しい性格になったかなー』
「……普通の人間の反応だ」
少なくとも司はそう信じている。
「それはそうと、なんか用があったんじゃないのか?」
『おぅ、忘れてたぜ。今度の日曜に戻れるって言ってたけど、ダメになった』
「そう」
淡白な口調でそう言うと、父は拗ねた声で返す。
『なんだよぉ。もっと残念がれよぉ。父さん帰ってこないんだぞぉ。寂しがれよぉ』
「一生帰って来なくていい」
こんな子どもみたいな父がいては、面倒を見るのが大変である。
『あーそうだな。愛音ちゃんとにゃんにゃんできねーからな。おっと父さん気がきかなかったな。でどーだ進展』
切った。司は耳まで顔を赤くして、電話回線を引っこ抜く。これでもセクハラ親父からの電話はかかってこない。ちなみに携帯にはかけてこないよう、着信拒否にしている。
とはいえ、司は父を嫌ってはいない。むしろそうでないからこそ、今し方の電話での応酬のようなくだらないやり取りもできるのである。
リビングへ戻ると、既に気分を取り直していた愛音が司を待っていた。
「どうしたの司? 顔赤いわよ」
「……何でもない」
「何でもなくないでしょ。また体調が崩れたのかもしれないじゃない」
愛音が詰め寄ってくる。司と彼女との距離はもはやゼロにほど近く、加えて先ほど父が唆したことも手伝って、司は激しく狼狽した。
「い、いいっていいって! ほらほらほらっ! 早くしないと遅刻するぞ!」
「まだ8時前だけど……」
「もう8時前なんだよ! はいごちそうさまでした! 後片付け!」
無理矢理に朝食を打ち切り、司は皿の上に鎮座した料理たちを冷蔵庫へ叩き込んだ。
+ + + +
二人の通う高校は、竜胆家から歩いて20分ほどの距離である。
別段時間がかかるというほどの距離でもないが、司の身体が弱いこともあり「遅刻を焦って走る」ことを避けるため、二人は早めに出かけることを心がけている。
二人は身支度を終えると、揃って家を出た。春から夏へかけてのこの時期は、暖かさと暑さが入り混じった微妙な気温が続いており、太陽の日差しも強かったり弱かったりと、なかなかはっきりしない。だが、身体の弱い司としてはこの時期は過ごしやすくて良い。
「司。ホントに大丈夫なの?」
「だから大丈夫だって。さっきのは……違う」
一日一回、必ず行われる問答である。司の身体を気遣う愛音としては、いついかなるときも彼の体調には敏感だ。
「何があったのよ。変態電話? パンツ何色とかって聞かれたの?」
「ち、違う……」
たしかにそれも嫌である。でも、あの電話の内容も変態電話と同じくらいのものじゃなかっただろうか?
「ホントに、なんともないのね?」
「うん。なんともない」
「……なら良し」
ようやく愛音は納得したのか、司への追及を止めた。彼へ背を向け、歩き出す。
愛音と二人での登下校は日常化している。彼女曰く体調不全の司を見守るためなのだが、今のところ登下校で不調を訴えたことはない。だが、精神的安定という面で彼女の存在は、司にとってはありがたいものであった。
司にも友人と呼べる人間は何人かいる。しかし愛音ほど、真摯に自分の虚弱体質と付き合ってくれる人間はほとんどいない。そんな彼女を、司は誰よりも信頼している。
ただ、若干お姉さん気取りのところは少しばかり閉口したくなるところであるが。
「おはよう三嶋さん」「うぃーす竜胆」
学校へ近づきにつれ、クラスメイトたちから朝の挨拶をかけられる。司は微笑を持って、愛音はおざなりに返事を返す。
「おぅ、夫婦のご登校だぞ」「仲良いよなーお前ら。結婚しろ」
……学校に近づきにつれ、くだらない言葉もかけられる。司は困惑、愛音は憮然を貫く。
なんとか昇降口まで到着し、二人の所属する2年E組へと向かう。その途中途中でもクラスメイトたちからくだらないことを言われるが、全て無視した。
「おはよー」
教室へ着くと、大半の生徒たちが揃っていた。時計を見れば、始業ベル10分前。早めに家を出たつもりだったが、道中のんびりしていたため、ごく標準的な到着時刻になったらしい。
「おはようございます、竜胆君」
「おはよう、水無月さん」
司の隣席の女子・水無月由紀乃が声をかけてきた。愛音を除く異性の友人の中で、彼がわりかし付き合いのある少女である。
「三嶋さんもおはようございます」
「うん、おはよう」
自然な笑顔で愛音も返す。水無月は他のクラスメイトたちと違い、自分たち二人をからかうようなことをしないので、変に警戒する必要がない。
「竜胆君、具合はどうですか?」
「悪くはない。最近は調子がいいんだ」
「そうなんですか、良かったです」
ほっ、と水無月が胸を撫で下ろした。彼女も愛音と同様、自分の虚弱体質を真摯に案じてくれる人間の一人である。
依然、周囲からは、
「あー竜胆が三嶋以外の女とお話してるぞー」「奥さんキレるぞー」「DV起きるぞDVー」
頭の悪い台詞が飛んできている。「えぇっ。そ、そんな」と水無月は狼狽し、「……アイツら脳みそ腐ってるわ」と愛音は嘆息する。もちろん、司も取りあうつもりなど毛頭ない。あんなことを言う連中に真面目になっても仕方がないことを、彼は長年の経験から知っている。
そんな三人の頭上で始業のベルが鳴った。それまで教室中にちらばっていた生徒たちは各々の席へと戻る。ほどなくして担当の教師が教室に姿を現し、退屈な一日がスタートした。
昼休み。
校舎が喧騒に包まれる中、愛音は弁当箱(司が作ったものだ)が入った巾着を持ち、保健室へと向かっていた。
携帯電話を操作している彼女が見ている画面には、保険教諭・朝槻玲が送ったメールが映っている。内容は、「昼休みに保健室へ来るように」というもの。
保健室前に着いた愛音は、擦りガラス越しに人影があることを確認し、扉を開いた。
「先生、失礼します」
「あー、いらっしゃい三嶋さん。待ってたわよ」
よれよれの白衣に分厚い眼鏡、口に爪楊枝をくわえてぼさぼさの髪をしたこの女性こそ、この保健室の主である朝槻玲である。
それなりに身なりを整えれば美女になれるであろう女性だが、自身の容姿に全くの興味がないこの保健教諭は、栄養ドリンクをラップ飲みしながら愛音を出迎えた。
「三嶋さんも飲む? すっぽんマムシエキス」
「……いりません」
朝槻からほのかに匂う強烈なエキス臭に愛音は顔をしかめつつ、彼女が薦めた丸椅子に腰掛ける。
「朝槻先生、用件はあのことですよね?」
「そそそっ。私が言わなくても分かってるじゃなーい。さ、見して見して」
朝槻は瞳をキラキラと輝かせ、愛音へと手を伸ばす。愛音はそんな彼女へ巾着袋で隠してきた一冊の本を手渡した。
漆黒の闇を体現したかのような真っ黒な装丁の洋書だ。厚さは電話帳並みで、重さも手のひらにズシッとくるくらい重い。朝槻はそれを捲る。パラパラと静かな保健室にページを捲る音のみが響いた。
不意に、それは起きた。
朝槻の手にしている洋書から、光が漏れ出した。彼女が目で追っている奇怪な文字群から成る文章が、意志を持ったかのように光輝を放つ。
「……うん、結構集まったじゃない。感心感心」
バタン、と本を閉じる。光は消失し、保健室は現実の光景を取り戻した。
「この調子ならあともう少しじゃない。頑張ったかいがあるってものよ」
「別に……褒められても嬉しくないです」
教師からの賞賛の言葉に、愛音はバツの悪そうな表情となった。朝槻が賞賛している内容とは、世間一般から見れば到底褒められるものではなく、しかし愛音にはどうしてもやらねばならないことであった。
「魔力蒐集も残りわずか……。私の作ってる『還魂の法』の術式ももう少しで完成だから、あともうひとふんばりよ」
朝槻の口から零れた言葉は、実に非現実的な単語だった。普通の生徒ならば、この先生は頭のネジが緩いのではないかと苦笑するものだが、愛音は苦笑も嘲笑もせずただ彼女の言葉に頷いた。
「しかし早いものね、三嶋さんと知り合って。もう数ヶ月も一緒な気がするわ」
「まだ一ヶ月も経ってないです」
二人の出会いは、本当に偶然であった。登校して早々、体調不良を訴えた司を愛音が保健室へ連れて行き、そこで臨時の保健教諭として保健室にいた朝槻と出会ったのが、そもそもの始まりだ。
「全くー。驚いたわよ私。貴女ちっちゃい頃に、愛しのカレのために『結魂の法』してあげたんでしょ?」
「い、愛しのカレとか言わないでください!」
「まぁそれはいいけど。でもそれって相当すごいことよ。そんじょそこいらの鍛錬積んだ魔女だって、そんなことできないんだから」
「……ま、まぁ。でもそれは、母さんが遺してくれたものを使っただけですから。別に私自身の力なんかじゃないです」
「それでもよ。三嶋さんにはそれを制御する力があったってことじゃない。ホントホント、びっくりだわー」
二人は互いにしか分からない不可解な単語を織り交ぜながら会話を進める。第三者が耳にしても、間違いなく意味のある会話と理解することは難しいかもしれない。前提条件としている知識が、愛音と朝槻の両者にしかないためである。
「あぁ。それとねー」
ふとここで、にやけら面をしていた朝槻の表情が一瞬、強張った。
「焦らせるようなことを言うかもしれないけど。……あんまりのんびりしてられないかもね」
「どういうことですか?」
「魔女会議が動くかもしれないからよ」
愛音の表情も険しくなった。そこに浮かんでいるものは、憎悪・嫌悪・負の感情だ。可憐な少女の表情は暗い感情に歪めら、彼女は不快そうに呟いた。
「……あいつらが、なんで?」
「『結魂の法』も『還魂の法』も、世の理を歪める悪しき因果だからじゃないの?」
朝槻が投げやり気味に言う。彼女も愛音ほどではないが、その『魔女会議』という詳細不明な概念に不快感を持っているらしい。
「あいつらの言い分って分かんないのよねー。『世の理の保全』だとか『秩序の安寧』だとか。そんな抽象的なこと言われたって困るっていうのよ」
フン、と朝槻は鼻を鳴らす。
「人を救える手段があるってのに、それを行使するのが悪だっていうのかしらね?」
「そうです!」
愛音は叫んだ。奴らの言い分はそうなのだ。曖昧模糊とした確証のない理論を振りかざし、自分たちの持つ力に枷を嵌めさせている。それが私利私欲を警戒してのことならば、まだ納得もできよう。だが──。
「……司が助けられるってのに、あいつらの言うことなんて聞いてられないわ」
歯軋りしながら、彼女は搾り出すように言った。朝槻は頷く。
「その意気よ三嶋さん。とにかく、事は急を要するわ。お互い、頑張りましょう」
まるで区切りをつけるかのように、昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
「あっ、もう……」
「そろそろ教室に戻ったほうがいいわよ」
「はい。それじゃ先生、また」
「はいはい〜」
手をひらひらと振り、朝槻は脱兎の如く保健室を駆け出していった愛音を見送った。
だから、愛音は気づくことができなかった。
朝槻の口元が笑んでいたことに。
「私用事あるから、先に帰ってていいわ。寄り道とかしないでまっすぐ帰るのよ」
小学生に言い含める母親のような言葉を司へ言い残し、愛音は教室を飛び出していった。
「……僕は子どもか」
そんな愚痴が零れるのも無理ない。
取り残された司は級友たちと別れの挨拶を交わし、教室を後にする。放課後を向かえ活気付く校内は、陽気にはしゃぐ生徒たちで溢れかえっている。
つい一ヶ月ほど前までは朝の登校と同じく、愛音と下校もともにすることが常だった。だがここ最近は一人でどこかへ行ってしまうことが多い。司はそれを知らされていないが、彼は特にそれを気に留めなかった。恐らく、彼女にもしたいことが見つかったのだろう。
そもそもこの数年、彼女は司へかかりっきりであった。それこそ、自分の身を削るほど献身的に。そのためか、司は自分の存在が彼女を縛りつけているのではないかという、かすかな恐怖にも似た感情を心の底に宿していた。
だから、なのだろう。時として司は、自分の分を越えた行動に出てしまうことがあった。
「ふぅ……」
疲労の溜息を漏らし、司がやってきたのは自宅と学校の中間にある公園だった。
夕暮れにはまだ早いが、既に頭上にある太陽はオレンジ色に変わりつつある。影は足元に長く伸び、公園で遊んでいる子どもたちの数もまばらだ。
司は人気の少ないランニングコースへと向かう。よく登校時、朝のジョギングに興じる老人などが使っているのを見かける場所だ。
彼は鞄を傍らに置き、上着を脱いだ。軽く身体をもぐして、彼は──駆け出した。
「う、くぅ……」
しかし、10秒と持たず彼は失速した。まだまだ気持ちは走れるというのに、身体はこれしきの駆け足で疲労を訴えている。
身体に鞭を入れる。まだだ、まだいける。これしきのことで、音を上げてたまるか──。
「っ!?」
だが、分を越えた無謀な挑戦は仇となった。疲労にふらついた足がもつれ、ジョギングコース上に司はみっともなく顔面から転倒した。
ツン、と鼻の奥から血の気がする。顎はヒリヒリと痛み、体中は気だるい疲労感で身じろぎすらするのも辛い。
「……ふ、うぅ、う」
自身の虚弱体質は無論承知である。しかしそれでも、司は自分がいつまでも他人の手を借りなければならない自分の不甲斐なさに抗いたかった。打ち勝ちたかった。
だが、一度も勝てた試しなどない。それどころか、自身の弱さを再確認しているだけにしかならず、忸怩たる思いに囚われるだけだった。
悔しいの余り、彼はみっともなく大粒の涙を瞳から流した。
+ + + +
「司ったら、また無茶なんてして……」
時刻は夜の10時。愛音はカーテンの隙間から、司の部屋の様子を伺っていた。カーテンは締め切られており、人影が揺れている。恐らく勉強をしているのだろう。
彼の部屋は愛音の部屋の丁度向かいにあり、大声を出せば話もできるほどの距離である。
「あれほど無理はするなって言ったのに」
それは夕食のことだ。いつもより明らかに疲弊している司に愛音がその理由を問うと、「なんでもない」と一点張りで理由を語らなかったのだ。
時折、司はこうして意固地になることがある。恐らく自分の不甲斐なさに苛立っていることが原因なのだろうが、そういう態度を取られるたびに愛音はひどく沈痛な気分になる。
頼られないことの寂しさも勿論だが、それ以上に自分の罪悪感が胸の奥で軋みを上げていることが強い。彼があぁなってしまったのは自分のせいなのだ。だから、一日も早く彼を元通りに治さなければならない。
例え、他人を犠牲にしようとも。
「……そろそろ行かなきゃ」
愛音は部屋の電気をつけたまま部屋を出た。以前電気を消したところ、あまりに早いと思われた就寝に心配になった司が電話をかけてきたことがあったのだ。
しかし、今彼から連絡を受けるのはよろしくない。致し方ないとはいえ、これから彼女がやろうとしていることは、あまり褒められた行為ではないからだ。
家を出て、今日司も訪ねた公園に入る。春と夏の境目であるこの時期特有の、生暖かい風が彼女の肌を撫でた。
愛音は懐から母が遺してくれたペンダントを取り出す。翡翠色に金で文様が彫られた意匠の品が、鮮やかな光を宿し始める。
しばし明滅を繰り返し、ペンダントの文様が宙に浮かび上がる。それらは光の粒子へと変わり、シャワーのように愛音へと降り注ぐ。彼女の身体全体を覆うほどの光が消えた後、そこには奇怪なローブを身に纏った愛音の姿があった。
黒を基調としたそのローブは、ところどころに金の刺繍があしらわれている。身体全体をすっぽりと包むその服装は、さながら中世ファンタジーの魔女を彷彿とさせるが、彼女は紛うことなき『魔女』の血脈を持つ者なのだ。
──魔女。
世界の理をその魔力で持って捻じ曲げ、作り変え、自侭に操ることができる力を得た『人でありながら人ならざるものとなった存在』である。
その紀元は遥か太古から存在し、人類がその他動物たちの頂点に立ち社会を構築していく裏で、魔女やそれに属する者たちも独自の世界を作り上げていた。
しかし、魔女はその力ゆえに世界の表舞台に立つことを自らに禁じていた。彼女らはそれぞれに日陰で各々の気が赴くままに、世界と在り続けていた。
「今日は暗いのね」
愛音が空を仰いだ。星はなく、月も出ていない。公園の敷地内は灯りで煌々と辺りを照らしているが、そこから一歩でも外れればほぼ暗闇のみが街中を支配している。
黒衣──護衣と呼ばれる、防御の術式を織り込まれた魔宝具──をはためかせて、彼女は跳躍した。一瞬、足元に光が現れるもすぐさま消失し、人間の脚力ではありえない飛翔でもって軽々と電柱へと着地した。
そして再び跳躍し、電柱を踏み台にして次々と夜の町を渡る。陽はとうに沈んでいるが、人の数は決して少なくない。それらは群れることなく、各々気ままに思い思いの行動を取っている。愛音にとっては、何とも好都合なことである。
「……あの男が狙い目ね」
愛音はそのまばらの人々の中から、適当に一人の男へ狙いを絞った。その男の周りから人が少なくなるのを待つ。ほどなくして、彼は人気の少ない路地へと入った。
愛音が動いた。彼女は小脇に抱えていた洋書──魔宝具・アナテマを抱えなおし、電柱から跳躍した。男の目前へ着地、対峙する。
男はいきなり飛び降りてきた彼女の存在に気味悪さを覚えたのか、不審げな表情を浮かべ後ずさりしている。
愛音はそんな男へ構わず、抱えていたアナテマを見せ付けるように開いた。奇怪な文字群が躍っているページを高速で捲り、真っ白のページが現れる。
途端、そのページから光が迸った。次いで、対峙した男から滲み出すように光が漏れ出し、それは空白のページへと吸い込まれていく。男の表情は苦悶に歪み、身体を苦痛に喘がせる。その様を、愛音は努めて平然と眺める。
アナテマの能力──それは第三者から魔力を強制的に蒐集することである。蒐集された魔力はアナテマ本体に貯蔵され、その蒐集の成果はページが奇怪な文字──ルーン文字で満たされることで確認できる。
魔力を奪われた人間は、その程度によるが場合によっては死に至る。そうでない場合でも、ひどい疲労感や倦怠感、長い昏睡状態へ陥ることもある。
ここ数週間で頻発している奇妙な現象、通称「眠り病」の元凶は、三嶋愛音であったのだ。
唐突に、男が糸の切れた操り人形のように倒れた。それと同時に愛音もアナテマのページを閉じる。男から漏れ出ていた光は止まり、それらも全てアナテマへと吸い込まれる。
愛音は倒れた男を見た。失神しているようだが、肩が上下していることから絶命していないことだけは分かる。もちろん、殺さないように加減はしたのだから当然だが。
しかし下手をすれば殺したかもしれなかった行為の結果に、愛音はわずかながらも安堵と罪悪感を覚える。やはり必要であるとはいえ、こんな行為は気分の良いものではない。
「……ご」
めんなさい──と謝罪の言葉を呑み込む。この言葉がいかに心無いものであるか、彼女自身はよく知っている。
(さっき私誓ったじゃない。アイツのために他人を犠牲にするって)
倒れ伏せた男を一瞥し、愛音は再び跳躍した。