プロローグ
男は走っていた。
何者かが自分を追い立てている。見えない恐怖が背中を押している。男はただただ、焦燥に駆られアスファルトを蹴っていた。
人通りの少ない裏路地に入る。
馬鹿げている。そう自分を嘲笑した。こんな人気のないところへ入ったら、どうぞ襲ってくださいと言ってるようなものではないか。
だが足は、止まることなく走り続けている。
とどのつまり、彼は錯乱状態であった。所構わず道があれば入り込み、背後から駆けてくる恐怖を振り払おうとする。だがそれはなかなか叶わない。
はぁはぁはぁっ、と男が膝に手をついた。動きが止まった。ついに彼の身体が疲労に白旗を揚げてしまったのだ。
心臓がバクバクとやかましい音を立てている。酸素が不足している身体へ、血液を早急に送るため心臓が活発化している。しかし、それ以上に恐怖と緊張がない交ぜになって彼の胸を揺さぶっている。
カツ、っと路地のアスファルトを叩く音が聞こえた。
自分以外の、何者かの足音だ。間違いなく、自分を追い詰めた相手だった。
恐怖ゆえの好奇心で、彼は顔を上げその相手の顔を見た。
死神を具現化したような漆黒の黒衣を身に纏った人物が、そこにいた。
だが、その体躯は小さい。流れるような長い銀髪はとても細い線をしており、袖口から覗く肌は瑞々しい白さを放っている。こんなときだというのに、男はその人物に魅入られていた。
しかし、その人物が再び動き出すとその魅了の魔法はとけ、再び恐怖が去来する。今度こそ間違いなく、男は確信した。自分は、死の恐怖に怯えているのだと。
逃げろと脳が命じる。しかし身体は恐怖に屈指、指ひとつ動かない。唇は青ざめ、歯がガチガチと嫌な音を立てる。
涙で滲む視界の中で、死神もどきは男に向かって手にしていた本を開き掲げた──。
「これで25人目……。なのにこれだけなの……」
男が死神もどきと思っていた少女は、黒衣を揺らしながら手にしていた書物を紐解いた。彼女の黒衣と同様の黒に装丁されたハードカバーの中は、幾重にも奇怪な文字列が羅列されている。
普通の人間では内容を判別することなど不可能だが、少女にはこれの意味しているものが分かるのか、頁を注視しながら紙を捲っていく。
頁を中ほどまで読破した少女は本を閉じ、立ち上がった。
眠ることを忘れた町の灯りが憂いを帯びた少女の顔を照らしている。風が腰まで届く銀髪を嬲り、翡翠色の瞳は屹立するビル群を見下ろす。無人のビルの屋上に屹立している少女は、一見しただけで日本人でないことが明らかである。
彼女は北欧系の母を持つハーフであり、それと同時に自らが本来の人間に有り得ない能力を秘めていた。
「まだまだ足りないわ。あと十数人分は集めないと……」
そう独りごち、左腕へ視線を落とす。少女が付けるにはあまりにも質素な腕時計は、深夜の11時を差していた。
「今夜はもうひと頑張りしよ」
視線を空へと転じた。月のない闇夜を見つめながら、彼女は意識を集中させて身のうちを流れる魔力を練る。周囲を淡い光が取り巻いた。その光は徐々に少女の足元へ集まり、彼女が光の円盤へ立っているかのような構図となった。
少女はその円盤を蹴るように跳躍した。人間の常識を遥かに超えたジャンプ力で彼女は宙を舞い、向かいのビルの屋上へと着地した。
しかし時を置かず、再び跳躍する。彼女は次々とビルを飛び跳ね、夜の町へと消えていった。