酔っぱらい斯く語りき
久方ぶりに会った高校の友人がべろんべろんに酔った挙句なんの脈絡もなく「彼女がほしい」と言い出した。「何を今更」という言葉はすんでのところで飲み込んだ。だったら高校の時も大学でだって、お前の容姿ならば引く手数多だったはずだ。そうしなかったのはどうしてなんだと詰問したくなったが、相手は酔っ払いだ。どうせ、何を言ったところでどうせ明日には、否、家に帰るころにはもう忘れているのだから、真面目に相手したって意味がない。何より、その答えはすでに知っていた。
代わりにため息を一つ落とす。すると酔っ払いは眉根を寄せて、あから様に気分を害したポーズをとった。しかし何かを言ってくることはない。そういうところは高校時代から変わっていないんだな。何か悪いか、といった風に唇をとがらせてこちらを見てくる。ああ、これは本格的に酔っ払いだな。普段はこんなしぐさは見せない。そもそも、酒は強かったはずなので、こんなに酔っ払いになった姿なかなか見られない。
普段からかっこつけのこの友人は、弱ったところとか、情けない姿を見られるのをひどく嫌う。周囲から与えられたイメージを一生懸命に守ろうとしている。……、と、そう思っているのは本人だけで、不器用故にその内実はみんな知るところなのだが。ひた隠しに(しようと努力)しているのを知ったうえで、見なかったふりをしている友人たちはこいつに寛容なのか、それとも単に面白がっているだけなのかは測りかねるが(おそらく後者だろうとは思う)、とにもかくにも夏野が自分からこういうことを言い出す場面はなかなかにない。特に新名に向かってはそれが顕著だった。なので、こういう時のこいつの扱い方はよくわからない。優しくしてやればいいのか、それともそっけなくしてやればいいのか。とりあえず「夏野」と名を呼んでおいた。
「にーな」
と舌っ足らずに名前を呼び返してくる。女の名前みたいな苗字があまり好きではなかったのだが、夏野に呼ばれるのは存外に嫌いじゃなかった。
「にーな、おれはあいされたい」
夏野は朗らかな笑顔で言った。眉根に寄せた皺はもう姿を消していた。舌が回っていないので、全部の音をひらがなで発音したような響きだった。
「お前は十二分に愛されていると思うよ」
これはまごうことなく本心だ。どうせ忘れてしまうのだから、たまには新名も本心を言ってしまおうと思ったのだ。そう、こいつは愛されている。夏野が気が付いていないだけで、いろんな人からの好意をちゃんと受けている。
「みんなに好かれたって意味ないよ、好きな人に好きになってもらいたい。でも、もうつかれたから。おれのことを好きな人を好きになれたらよかったのに」
朗らかな笑みのままでそうやって、そういうことを言う。
「だから彼女がほしいのか」
「恋人みたいに、関係に名前があった方が安心するから。ずっとズルズル仲良しごっことか、自分がどんなに好きでも相手がどう思ってるかわからない。恋人なら、相思相愛を目標にお付き合いしますっていう意思表示が明確だ」
相も変わらず夏野は微笑んだままだ。仲良しごっこはもうおしまいだと、そういうことなのだろう。
「だからにーなにお別れをと思ったんだ。ちょっと嫌いになれるかなって思ってみたこともあったんだけど、ダメだったねえ。一度好きになったものは嫌いになれないんだよ。ずっと好き。にーな。だけどさようならだよ。」
ふざけるなと、思った。でもそれを言葉にする資格は新名にはなかった。夏野がずっと自分のことを好きなことは知っていた。本人は隠しているつもりだったのかもしれないが、周囲にはダダ漏れだったからだ。早くくっついてしまえ、と何度も友人たちにからかわれたものだ。夏野は気づかれていないと思っているのか、それとも新名が知っていて黙っていると思っているのか、それは定かではないが、その思いを夏野が新名に伝えることはなかった。言ってくれれば、必要としてくれれば、少しはどうにかしてやれたのにと思う。しかし、それを夏野に問うことはしなかったし、できなかった。それが自分の勘違いでない保証はなかった。一番怖かったのは、それをやんわりと拒絶された時だ。夏野が「にいな」と呼んでくれなくなるのを新名自身が一番恐れていた。しかし、それはきっと夏野だって同じだったはずなのだ。だから今までなあなあにして、なれ合いを続けてきたのだ。だけど目の前の夏野はそれを終わりにしたいと言った。笑みを浮かべながら。きっと罰が当たったのだ。新名はそう思った。
「あんまり驚かないんだね。もしかして知ってた?」
言うと夏野は机に頬を付ける形で突っ伏した。新名はうわごとのように彼の名を呼ぶのが精いっぱいだった。
「にーなが彼女作るたびに落ち込んで、別れるたびに喜んでたの知ってる? ずっと、ずーっとそうやって落ち込んだり喜んだりするのはすごく疲れるんだ……。だからもうやめることにした。にーなのそばから離れたら、おまえの生活なんて見えなければ、それで一喜一憂しなくなると思ったし、思ってたんだけど、それもそれでしんどくてさ」
十二分に知っていた。別にモテる方ではないが、彼女を切らさなかった理由の一つだった。新名が彼女を作ったと聞いたとき夏野が傷つくのをみて、まだ好かれていると安心したかったからだ。別れたと言うと喜ぶ顔を見て、罪悪感がなかったわけではないが、それでも、そんな方法でしか夏野の気持ちを確認する方法を新名は知らなかった。それでも夏野が離れることはないと、新名はどこかで高をくくっていた。そして、そのうちに、ちゃんと友人に収まれると思っていた。
彼女の愚痴を聞いてもらうのは言い訳だった。そうでもしないと、用事もないのに夏野を呼び出すことはひどくむつかしいことだったのだ。
「もうつらいおもいはしたくないんだ」
そういって夏野は目をつむった。
「にーなはズルいよ。俺のこと絶対好きにならないくせに離れてくれないんだもん。でも、それももう終わり」
いつの間にか手に持ったスマートフォンの画面を新名に差し出す。映し出されたのはよく知った自分の連絡先だった。それを夏野はためらいもせずに削除した。
「LINEもブロックする。っていうかもうしたよ。おれからにーなには、もう連絡できない。どうしてものときは連絡ちょうだい。……、きっとそんなことは起きないと思うけどね」
そういいながら夏野はいそいそと席を立つ準備を始めた。酔っ払いの手つきはふらふらながらもしっかりしたものだった。何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。今更だった。何もかも。
「……、夕希」
「なあに、春海」
夏野はいつも通りに返してきた。新名が夏野の下の名前を呼ぶと、それを境に夏野も新名の下の名を呼ぶ。苗字以上に女らしい名前は、彼女にすら呼ばれるのを拒んだ。それを夏野には許しているのだということを、本人は知らない。
「夕希待って、おねがい」
「……、何をまつの」
はっきりした口調だった。もう酔いがさめたのかな、と新名が思った瞬間、夏野は堰を切ったように喋りだした。
「春海、俺は十分待ったと思う。少なくとも、春海がちゃんと向き合ってくれるまでは待とうと思った。でも、お前が言わせてくれなかったんだよ。意気地なしの俺が、それでも言おうと思ってるのわかってて、だけど言わせてくれないのはいつだって春海だったでしょ」
その通りだった。肝心なところで勇気がないのは新名の方だった。それでも、夏野に幸せになってもらいたかったのだ。平平凡凡な幸せな家庭が、きっと夏野にはよく似合うだろうと、新名はずっと思ってきた。なんで自分なのかと何度問いかけても答えはわからなかった。かわいい奥さんと、子供と、それから夏野。それを叶えることは自分にはできないのだと、新名は知っている。どんなに自分が夏野を好きでも、それでも自分はよくたって、夏野が後ろ指をさされるのは許せなかった。結局のところ、新名の世界だって夏野を中心に動いていたのだ。
「夕希には、だって、幸せになってもらいたい」
「そんなのは俺が決める」
きっぱりとした口調で夏野は言い切った。こういうときの夏野は自分の意見をはっきりという。普段は静かに人の話を聞く側にいるが、しかし、自分の意志は明確に表すのが夏野だった。逆に、こういう時に何を言ったらいいのかわからないのは新名の方だった。
「好きな人が絶対に振り向かないのに後ろを追いかけるのはしんどい。心底惚れる人ができたら、試してみるといいよ。しんどくて、なんでこんなむなしいことしてるんだって思うから。あわよくば、俺の気持ちを体感してみればいいと思う」
これは本当にダメなパターンだ。失敗した、と新名は思った。思ったところでもう手遅れだった。本当にほしいものはこうして取りこぼしていくのだとでもいうように。友人ならずっとそばにいられると、そう新名は思っていたし、実際そうするつもりであった。しかし、それはもう叶わないらしい。
夏野のことは好きだ。しかし、親愛と友愛と、それから恋愛の違いは一体どこにあるのか。新名にはよくわからない。夏野に対して劣情を持ったことはなかったが、ただ一ついえることは、彼を失ったら新名は確実に途方に暮れる。これを恋愛だというにはあまりにも幼稚な気がしたし、親愛だというにも何か違うような気がした。その答えは考えても出なかったし、ここでタイムアップならば、一生答えは出ないのだろう。
待ってという言葉をどれほどの意を決して言ったのか夏野に伝わればいいのに、と新名は思った。
「春海に俺の事好きになってほしかった」
「とっくに好きだよ、ばかやろう」
こちらを見向きもしない夏野に向かって、思わず口からこぼれ落ちたのは本心だった。あまりに泣きそうな声で言うから、反射的に返してしまった。あっと、思った時には、夏野がばっとこっちをまっすぐ見ていた。それも、満面の勝ち誇ったような笑みで。
嵌められた、と思った。きっと夏野は酔っぱらいなんかじゃなかった。そう思わせるために演技していたのかもしれなかったし、これが彼の素なのかもしれなかった。
新名はもういちど、「ばかやろう」と言った。出てきた声は掠れていて、あまりにも覇気がなかった。