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真っ黒な海に沈む僕の心を君が

作者: 天樹菜々

拙い表現、言葉。もはや文章とは呼べるものではないかもしれませんが、呼んでいただけると幸いです。

 今でもこれで良かったのかと、自問することがある。

 あの日、あの時、あの子を助けたことは果たして本当に正しかったのかと。

 

 その度私は自答する。

 あの日、あの時、あの子を助けたことが私であるための証明なのだ。私が生きていてもいい唯一の証なのだと。


 例え、彼にこの気持ちが届かなくても―――


 * * *


  『今日、八月五日は真夏日となる予定ですので、水分補給を忘れずに熱中症に気を付けて下さい』

 小さなテレビの中から、やけに化粧の濃いアナウンサーが言っているのが聞こえてきた。

 確かに今日はとても暑く、じめじめとした空気が僕の体を包んで離れようとしない。僕は近くにあった、どこかの球団のマスコットが描かれた団扇を取り、汗だくの体を扇ぐ。

 「暑い」

 扇いでみたものの、やはり真夏日の暑さには勝てなかった。

 「仕方ないか」

 僕は最近節約していたエアコンを使うことにした。夏になって、エアコンばかり使っていると電気代がばかにならないが、今日ぐらいならいいだろう。そう自分に言い訳をして、リモコンに手を伸ばす。

 (また三日坊主になってしまったな)

 そんなことを思いながらリモコンのディスプレイを見る。そこには三十六度と表示されていた。さすがに暑すぎる。

 急ぎ、冷房のボタンを押す。が、エアコンは反応しない。

 「嘘だろ」

 もう一度押してみるが、結果は同じだった。

 「くそ。こんな時に」

 リモコンを床に放り投げ、布団から体を起こす。時計の針は午前九時をさしていた。

 テレビの中には先程とは違う、化粧の薄いアナウンサーが映っており、何が楽しいのかクイズに答えていた。汗一つ書いていない様子を見るにエアコンをガンガンに効かせているのだろう。羨ましい限りだ。

 僕は再び団扇を扇ぎ始めた。無意味だとは分かっていてもやらずにはいられない。

 「あいつ起きてっかな」

 「この暑さだから寝てもいられないんじゃない?」

 「それもそうだな」

 シャツをたくし上げ、露わになった腹を団扇で扇いでいると全開にしていた窓から何やら知った声が聞こえてきた。

 「部屋どこだっけ」

 「ここだよ。さすがに憶えろよ」

 インターホンが鳴った。玄関の前では男女の楽しそうな声が聞こえる。

 セールスや新聞配達員以外で僕の家なんかに来る人物で心当たりがあるのはあいつらしかいない。

 「おーいナツ!起きてるんだろ?出て来いよ!」

 「出てきなさい!」

 「待ってろ!」

 ただでさえ暑いのに、暑苦しいやつらが来た。

 僕は重たい腰を上げて玄関に向かう。汗でシャツがびしょ濡れだったが、あいつらに身だしなみなんて気にする必要はないだろう。

 玄関に向かっている最中も、ドンドンと強めのノックが響いていた。その音に苛立ち、乱暴に鍵を開けると二人は勢いよく飛び込んできた。

 「暑かった~ってあっつ!!」

 「中の方が暑いじゃねーかナツ!エアコンつけろよ、熱中症になるぞ?」

 二人は好き勝手言いながら、好き勝手に僕の部屋に入り、好き勝手に部屋を漁り始めた。

 「あらら、エアコン壊れちゃってるじゃん」

 「お!良い物あるじゃ~ん」

 「あ、私バニラね」

 女の方、藤井岬はエアコンのリモコンを探し。男の方、佐々木佑は冷蔵庫を漁る。

 見慣れた光景、いつもの光景。日常になってしまったこの光景。僕はこの日常にうんざりしていた。

 テレビの中の赤の他人に、照り付ける太陽に、壊れたエアコンに、執拗に絡んでくる二人に、一人を望む自分に。

 

 いつの日に、何が原因で。

 その答えは、約六年前に遡る。


 * *


 俺にとって、俺たち五人にとって大切な場所。

 何かあればそこに集まり。何かあればそこに集まり。何もなくてもそこに集まる。自然と俺たちを惹きつける何かが、海にはあった。


 「なあ、夜の海って気にならね?」

 今日も、何の合図も約束もなく、ただ海に集まった俺たちは防波堤に並んで座っていた。

 暇を持て余すように足を揺らしていると、雄太がそう言った。

 「た、確かに。き、気になるかも」

 雄太に賛同するように、仁が頷く。

 気の弱い仁は五人の中でただ一人、防波堤に体育座りをしていた。

 「だろ!やっぱ俺たち気が合うなぁ仁!」

 「う、うん。そうだね」

 いつも明るく元気な雄太と気が弱く小さな仁。一見すれば正反対の人間で、反りが合わないようにも見られがちだがそんなことは無く、五人の中でも特に仲良くしている。

 「ふふ」

 じゃれ合う様につつき合う二人を見て、俺の隣に座るつかさが笑った。

 つかさは五人の中の唯一の女の子。いつの間にか俺たち四人の中に溶け込み、いつの間にか仲良くなっていた。不思議な子だ。

 「お!つかさも気になるか!さすが分かるやつは違うな!空汰はどうなんだよ」

 「え?僕かい?僕も気になる・・・かなぁ?えへへ」

 五人の中にはもう一人不思議な奴がいる。それが今笑った空汰。いつもニコニコとしていて何を考えているか分からない。本当に何も考えていないだけかもしれないが。

 「なんだよ空汰!結局どっちなんだよ」

 「えーっとね。じゃあナツと同じ意見にするよ」

 「え?俺か?」

 「うーん」

 急に俺に振られて驚いてしまった。そうだな。

 安全面で考えるとやっぱりやめておいた方がいいだろう。なにせ俺たちはまだ小学生だ。何かあった時、自分たちではどうすることもできない。

 俺は反対しようと顔を上げた。すると、俺の方をしかめっ面で睨むように見てくる雄太がいた。

 口では何も言っていないが、何を言おうとしているのか顔に書いてある。

 「はぁ、分かったよ。俺も賛成だ」

 「うん!さすがは俺の友だ!」

 俺が言うと、雄太は立ち上がり背中をバンバンと叩いてきた。思ったより痛い。

 「よし!それじゃあ作戦決行は明日の午前零時。各自ここに集合!」

 「「「「了解」」」」

 こうして俺たちは夜の海を見に行くことになった。


 俺たち五人はいつもこんな感じだった。

 雄太が何かを提案する。それに仁が賛同し、つかさと空汰が不思議に笑い、俺が反対しようとして諦める。

 こんな日常が楽しかったし愛おしかった。それ故に、急にこの幸せな時が奪われるなんて思いもしなかったんだ。


 *


 当日の夜中、時間は確か午前零時。親が寝静まってから僕はベッドがから抜け出し、パジャマのまま静かに家を出た。幸いなことに、海は家から近く、歩いて行ける距離だったから自転車の音で親を起こしてしまう心配はなかった。

 小学生の俺にとって、夜というものは不思議で、新鮮だった。毎朝通る通学路は、しかし朝のように気持ちのいい空気も、爽やかな風も感じられない。夏なのにやけに冷たい空気と囁くような風、加えて数メートル先の闇がいかにもな感じだった。だが、それらさえも不思議で新鮮なものだと捉えてしまった俺は、後戻りなんて言葉は一切浮かんでこず、闇の中へと歩き続けた。

 海へと歩きながら、何か面白いものは無いかと辺りをきょろきょろしていると、一つ。やけに俺の目を引く電柱があった。電柱には一枚の張り紙。何故か目に留まったそれは、子猫のかわいらしい写真とその猫の特徴、それと電話番号らしき数字の羅列が書かれてあった。紙は所々濡れたような跡があり、子猫がどれだけ飼い主に愛されているのかが分かる。俺には関係のないことだったが。

 人の不幸はいつも話題になりやすいもので、この時の俺も四人との話題するためにガラケーで貼り紙の写真を撮って、再び海へ歩き始めた。

 街灯が段々と少なくなり、月明りと星明りだけが道を照らすようになり始めた頃、潮の香りが鼻をくすぐった。この香りだけは夜でも変わらないみたいだ。

 (あいつらはもう来ているだろうか)

 防波堤に立ち、友達を探す。約束通りなら既に来ているはずなのだが。

「おーいナツ!こっちだ!」

 周りを見渡していると、少し離れたところから声が聞こえた。声の主の姿は、暗くて確認できないがおそらく雄太だろう。

 「今行くよ」と声を掛け、雄太のもとに駆け寄る。近づくにつれて雄太の不機嫌そうな顔が見えてきた。

 「どうした?そんな不細工な顔して。他の奴らはもう来ているんだろう?」

 雄太の顔と、雄太以外の面々が見当たらないことが気になり聞く。すると、雄太は不機嫌そうな顔のまま答えた。

 「じゃんけんに負けたからお前を待ってたんだよ。他の奴らは海に入ってる」

 「海か」

 海を見た。

 夜の海は、顔を隠した太陽の代わりの月の光を反射している。月の光はとても弱々しく、海も弱々しく見えた。色だって石油と同じ濁った色をしている。

 こうして客観的に言葉を並べると、決して綺麗だとは思えない。だが、夜の海には昼の海には感じられない不思議な魅力を感じた。と、同時にそれと同じくらいの恐怖も感じた。美しいものにはトゲがあるとはよく言ったものだ。わざわざトゲの中に手を突っ込むあいつらには恐怖心は無いのか。

 「おーい!!ナツが来たから帰ってこーい!!」

 雄太が隣で大きな声を張り上げて海に入っている奴らを呼び戻す。

 「・・・」

 が、返事は無い。

 雄太は小さく舌を打ち、もう一度叫んだ。

 「仁!!つかさ!!空汰!!さっさと上がってこーい!!!」

 「・・・すけて!」

 「「!!」」

 声が聞こえてからの俺たちの行動は早かった。

 まず、雄太が海に飛び込み、次に俺が飛び込む。さっきまでの恐怖心が嘘のように思えるほど、友を助けるという使命感に満ち溢れていた。

 (速く。速く!)

 雄太と俺は声がした方向にめがけて全力で泳いだ。本当にこっちの方向で合っているのか、どれだけ離れているのかは分からなかった。ただ、泳ぐことを止めようとは思わなかった。止まったらあいつらにたどり着けないような気がしたから。



 僕はこの時自分が取った行動を後悔したことはないし、する気もない。自信をもって正しいことをしたと言える。世間は当たり前のように「間違っている」と、あたかも自分は正しいという態度で豪語するだろう。だが、やはり友を見捨てるなんて出来なかった。

 どうして後悔していないのか、それは友を見捨てなかったからという理由だけではない。なぜなら反省すべきところはそこではないと分かっているからだ。もしあそこで僕が反対していれば雄太も渋々止まってくれただろう。僕は四人のブレーキ役でもあったから。でも今回ブレーキは役目を果たさなかった。五人を破滅に導いたのは僕だ。



 夜の海は、沖に行けば行くほど荒れていった。波は段々と高くなり、速くなる。小学生が荒波に抗えるはずがなく、気が付けば俺は海の中に沈んでいた。

 波は俺の体を掴み、海の底へと引きずり込んでいく。海水をたっぷり吸い込んだ服は、着衣泳の時の何倍もの重さでまとわりついてきて海面から俺を遠ざけた。

 (あぁ、もうだめだ)

 そう思ったときにはすでに体は抗うことをやめていた。

 死を受け入れた人間というのはあまりに冷静で、抗うことを諦めた僕は弱々しい月明りを頼りに周りを見渡した。何を目的として見渡したのかは分からないが、あるいは自分の死を看取ってくれる誰かが居てほしかったのかもしれない。

 だが、俺の目は思わぬものを映し出した。

 俺の目に飛び込んできたのは、俺と同じく海の底に沈んでいく4人の人影。雄太、仁、つかさ、空汰だった。

 彼らの意識は途絶えてしまっているようで、誰一人としてピクリとも動こうとしない。きっと、もう助からない。「ごめん」そう口に出してみるが、返ってくるのは海水だけ。


 俺は悔しかった。

 いつまでも仲良く、馬鹿やって楽しい時間を過ごすんだと信じていた。だからこそ退屈な毎日も朝が来るのが楽しみだったんだと思う。

 なのに、それなのに。今、俺の目の前でその希望が散ろうとしている。それなのに俺は何もしてやれない。

 一方で、こんな結末も良かったのかもしれないと思ってしまっている自分もいた。

 五人がだんだんと散り散りに別の道を歩み始め、ばらばらになってしまうよりは、五人のままでいた方が良いのかもしれないと。


 そんな甘えた考えは、小学生の幻想は、俺たちの日常は、無残にもあっさりと潰えた。


 不意に体が軽くなり、海面がすごいスピードで近づいてくる。自分が浮いて行っているという事実に気が付いたのは、体が完全に海から出た時だった。肺の中に空気が入ったときはどんなに幸福に感じただろうか。生を諦めていたはずなのに不思議だった。

 夢中で空気を吸っていると、いつの間にか自分が砂浜の上にいることに気が付いた。そのことが分かった瞬間に背中に感覚を感じる。砂のサラサラとした感覚。背中全体で感じる地面がこんなに恋しく、愛おしいものに感じられるのはもう死ぬまで無いだろう。そうであってほしい。

 空気、地面、こうした地上での恩恵があることの安心感からか、それとも死の淵から帰って来たことからくる疲労感からか、俺は眠気に襲われた。瞳は月明りさえ拒もうとし、深い闇へと誘おうとする。

 

 朦朧とする意識の中、俺は人魚を見た。


 彼女は半分眠ってしまっている俺の傍らに座り、俺を見つめている。そして涙を流していた。ぼんやりとした意識と視界でははっきりと見えていなかったはずなのだがどうしてそう思ったのか。彼女の髪から滴る海水がそう思わせたのかもしれない。

 (きれいだな)

 これは夢なんだと思った。彼女の美しさがそう思わせた。

 (なんだ、夢なのか)

 人魚はこんなにも美しいのかと思いながら、俺は深い無意識の中に落ちていった。頭の中に反響する「ごめんなさい」という声を聴きながら。


 数日後、僕が家の近所の病院で目を覚ましたとき、四人は僕たちの日常から姿を消していた。


 * *


 僕はあの日から人魚を恨んでいる。一人を望んでいる。

 

 友達なんて必要ない。

 実際、今僕は佑と岬の二人に自分の時間を潰され、あまつさえアイスまで貪られようとしている。

 友達なんて害だ。

 

 僕は二人からアイスを取り上げて睨む。すると、二人は揃って溜息を吐いた。

 「僕は僕のアイスを食べさせるつもりはないし、エアコンは見た通り故障中だ。用が無いなら大人しく帰れ。毎日毎日迷惑なんだよ」

 二人の態度に腹が立った僕は静かに言った。

 二人は僕の言葉に驚いたのか、心外に感じたのか、顔を見合わせている。そして、また揃って溜息を吐きやがった。こいつらの息の合い方はたまに頭にくる。

 「なあナツ。俺たちはお前のそういう、人が好きじゃないですよみたいなオーラが割と好きだし、別にそのスタンスを変えろとは言わない。けどな?さすがに約束を忘れられたら俺達だって傷つくってもんよ。なぁ?」

 「うんうん」

 約束。

 そう言われて記憶を呼び起こしてみる。が、僕にそんな大層なものをした覚えはなかった。

 元々友達を作らないようにしている自分にとって、同年代の人間と約束をする機会なんて皆無に等しい。だから約束をしたら忘れないはずだ。それに僕は約束なんてまずしない。それがきっかけで関係ができたと思われても困るから。

 きっと二人の勘違いだろう。そう、思いたかった。

 「僕はお前らと約束なんてした覚えはないんだが」

 試しにこう切り返してみた。すると二人は再三、溜息を吐いた。次いで、何か小声で相談したかと思えば二人で芝居じみたものを始めた。

 「よっ、俺、佐々木佑」

 そんなこと知っている。

 「私は藤井岬。よろしくね」

 今更何を言い出すんだこいつらは、頭でも狂ったのか。

 そんなことを思う反面、二人の下手くそな芝居のセリフには聞き覚えがあった。その時に二人もいまぐらいぎこちなくて、用意された台本の言葉を読んでいるような感じだった。

 「・・・深石ナツだ」

 しばらくして、佑が掠れるような低い声で僕の名前を言った。

 ひょっとして今のは僕のまねだったのだろうか。僕の名前を言っていなければ分からないレベルだ。

 「おう、知ってる。何ヵ月同じ教室にいると思ってるんだよ」

 「ねぇナツ。海行こうよ海!もうすぐ夏休み!」

 思い出した。 

 この会話は、確か夏休みに入る二週間前の会話だったはずだ。

 僕の覚えでは、この時俺と二人はただのクラスメート、赤の他人だった。そんな一度も言葉かわしたことのないやつらに声を掛けられて、僕は心底驚いていたし鬱陶しく思っていた。

 「僕もお前たちの名前くらいは知っている。けどな、名前を呼び捨てにされるほどの仲では絶対にないし、礼儀知らずなやつと海に行こうなんて思わないな」

 そうだ、この時僕は確かに断った。しかも割と高圧的な態度で。友達と呼べるような親しい人間を作りたくなかったから。

 人魚事件以来。小学生時代も中学生時代も、今に至るまでそのような人間を作らないように努力してきた。

 「あ~楽しみだなぁ。いつにしよっか」

 「そうだな。三日とかいいんじゃないか?」

 「私その日部活!佑も知ってるはずだよ。ワザと言ってるでしょ!」

 「あはは、悪い悪い。五日だな」

 「うん。その日は大丈夫」

 「よし!じゃあ五日に決定!」

 二人の会話はここで途切れた。最後の二人だけの会話は聞き覚えが無かった。きっと僕から離れながらにでも二人だけで話していたのだろう。

 今日の日付を思い出す。確かけばけばしいアナウンサーが八月五日だと言っていた気がする。今日が二人にとっての約束の日だってことか。

 思えば、二人からしつこく話しかけられて、部屋に押しかけられるようになったのもこの次の日からだったか。約束した気になっていたから、僕が何度突っぱねても話しかけて、部屋に押しかけて来たのか。


 「な!?」

 「ね!?」

 僕に向けられた二人の顔は、いわゆるドヤ顔といわれるものなのだろう。達成感としてやったりといった感情が顔からひしひしと伝わってくる。

 「さすがにこれは横暴だろ」と、言ってやりたかったが、二人は僕が約束したことを『思い出した』と思っているはずだし、今更反論してみたって無意味に気力と体力を失ってしまうだけだろう。それにこの事が終われば二人も僕から手を引いてくれるかもしれない。

 「分かった。行けばいいんだろう」と、淡い期待を抱いて僕は海に連れて行かれてやることにした。


 *

 

 電車に乗ると、もれなく訪れる一定のリズムの振動は僕の鼓動とうまくかみ合って心地よく体を揺らす。静かに流れていく青々とした空は、大きな入道雲を浮かべていて、とてもすがすがしい気持ちにしてくれた。

 向かいの席に座る二人、佑と岬は案外常識があるらしく、そわそわしながらも騒ぎ立てる気は無いようだった。

 二人が静かに並んでいる様子は、なかなかどうして様になっていた。元々美形である二人は学校ではもてている。二人がいつも一緒にいるのは単に仲がいいだけらしく、恋仲ではないらしい。

 どうしてそんな勝ち組の二人が、いつも一人でいた僕なんかを無理やり友達にしようとしているのか。一緒に海に行こうとしているのか。その理由はなんだろうか。

 いろいろな可能性を模索していると、岬が小さく、息を零すようにつぶやいた。

 「海」

 岬の言う通り、車窓の外には一面真っ黒の海が広がっていた。窓越しにでも反射する太陽光は、海の底知れぬ黒さに吸い込まれて光を失っていた。

 「きれいだ」

 「うん」

 二人はやはり同じ意見のようだ。

 この海の何処に魅力を感じていっているのか分からない。いつもこいつらの言っていることは分からない。


 *


 直接みる海は、果たして窓越しに見た時と何ら変わらず黒く濁っていた。直接見ればあるいは、と思ってみたが希望はただの希望でしかないらしい。

 浜辺や海の中で遊んでいる人達はみんな笑顔で、僕のようなロウテンションの人は誰もいない。

 石油と同じ色をした液体の中で水をかけ合い、泳ぎ、笑い合う人間の集団。それだけで僕は吐き気がした。僕は来るべきではなかった。今更後悔してももう遅い。

 「それじゃあ行ってくるぜ!」

 「くるぜ!荷物番よろしくぅ!!」

 佑と岬は、それだけ言い残すと海に行ってしまった。

 (荷物番か、ありがたい)

 荷物番。

 普通の人が聞いたらつまらない雑用に思えるかもしれない。だが、僕にとってはありがたいことこの上なかった。あんな液体の中に身を投じるなんて御免だ。

 

そんなことを考えながら、荷物番をするための準備を進めた。パラソルを開き、レジャーシートを広げる。そして、その上に荷物を置けば完成だ。

僕は完成したミニ避暑地に寝転がり、目を閉じた。人がいるところの荷物を盗む奴なんていないだろう。だったら寝て、暇をつぶしてしまうのが一番だ。そう思っての行動だった。

 一つの感覚、視覚を失った海水浴場はとても騒がしかった。聴覚が失った視覚を補おうとしているのだろう。周りの声が、笑いが、さっきよりも鮮明に聞こえてきた。

 『お兄さんお兄さん』

 騒がしい雑音の中で、一際近くではっきりと聞こえる声があった。

 兄を呼ぶにはあまりに他人行儀すぎないか、と心の中で勝手に思ってみるが、他人の事に口出しするつもりはない。

 『お兄さんお兄さん』

 声が少し近くなった。僕の方に近づいてきているのだろうか。

 それにしてもどうして兄貴は返事をしてやらないんだ。もどかしい。

 「どうして返事をしてくれないんですか」

「痛っ!」

額に強めの刺激を感じた。

 痛みで反射的に目が開き、視覚が戻ってくる。

 しばらく光がある世界から離れていた僕の瞳は、強すぎる夏の日差しに襲われて、次は真っ白な世界に迷い込む。しかし、すぐに抜け出して一人の少女を映し出した。

 この真夏に似合わず真っ白な肌の少女は、腰まで伸びる髪を束ねることなく自然に流している。が、とてもきれいで手入れが行き届いているのが分かる。

 顔だちも整っていた。目つきは鋭くも柔らかくもない、いわゆるジト目で、涙袋が大きい。鼻筋もまっすぐで、小さく主張する鼻は、いい意味で日本人らしさを醸していた。もったいないと言えば子供らしさを感じない程の無表情だが、そこも愛嬌と言ってしまえば問題ない。それほどの美しさだった。

 この子は将来美しい女性になる。女性関係の事に疎い僕にそう思わせてしまう彼女は凄い。子供でなければ・・・いや、少なくとも今の僕がそんなことを考えることは万が一もないな。

 「お兄さんお兄さん」

 どうやら初めからやりたいらしい。

 「どうした」

 彼女は表情を変えない。ん?いや、これは喜んでいるのか。

 「お兄さんは海に入らないですか?」

 「ああ、泳ぎたくないからな」

 「そうですか。それならどうして一人で海に来たですか?」

 無表情のまま少女は聞いてくる。ん?いや、これは不思議そうにしているのか。

 「別に一人で来たわけじゃない。ほら」

 海を探し、浜辺を探して、少女にも分かるように佑と岬のいる方を指さす。

 二人はいつの間にか周りの人を巻き込んでビーチバレーをしていた。あいつらのコミュニケーション能力はどうかしていると思う。

 「お友達、楽しそうですね。お兄さんも誘ってあげればいいのにです」

 表情を変えないまま、いや、彼女は怒っているようだ。腰に手を当てて頬を膨らませている。

 子供特有の上からの目線の言い草だったがそこもかわいいというものだ。それに、少女は僕のために怒ってくれている。そのことは素直に嬉しかった。

 さあ、どう弁明したものか。下手に言えば彼女はさらに怒るかもしれない。

 もしくは弁明なんてしなくてもいいかもな。実際あいつらは僕を一人残し、石油の中で楽しんでいるのだから。

 「あいつらは・・・」

 「あいつらは?」

 僕はあいつらがどうして僕を海に誘い、友達になりたがっているのかを電車の中でずっと考えていた。そして、一つの可能性に辿り着いた。それを目の前の少女にいった所でどうなるのだろうか、そう思ったが、どうにもならないのなら話してもいいだろうという結果に至った。

 「あいつらは偽善者なんだよ」

 「?」

 少女は不思議そうに首を傾けたが僕は構わずに続けた。

 「あいつらは自分たちのために僕を海に誘ったんだ。僕と一緒に遊ぶためじゃない。クラスの中でいつも一人の僕を、さも助けるかのように声を掛け、半ば強引に友達だと言い張る。そうすることで自分は正義の味方だと勘違いさせているんだよ。自分に」

 「??」

 少女は右から左に首を傾け直す。

 これが僕の出した『どうして僕なんか』の可能性であり、『お兄さんを誘わない』理由だった。

 他にも色々な可能性を模索してみたが、これ以上にしっくりくるものは思いつかなかった。

 しかし、少女はこの可能性に納得いかないご様子だ。聞き終わった今も首は左に傾いている。

「・・・でも、一人だったお兄さんに声を掛けてくれたんですよね?それはお兄さんにとって嬉しかったことではないんですか?」

 少女は容姿だけでなく頭と心も整っているらしい。将来有望だな。

 確かに彼女の言う通り、佑と岬が一人でいる僕の事を放っておけなくなってしたことなのかもしれない。でもそれは結果的に僕の為になっていないんだ。

 これこそこの娘に言っても仕様がないことだな。

 「そう・・・だな」

 結局僕は納得したフリをすることにした。

 僕の返事を聞いて少女は満足したようだ。相変わらずの無表情でブンブンと首を縦に振っている。その姿がとても微笑ましかった。

 

 ふと、疑問が浮かぶ。 

 どうしてこの娘は一人なのだろうか。どうして僕に話しかけてきたのだろうか。

 「なあ、ああ―――」

 「海子です」 

 「海子ちゃんか。珍しいな」

 「よく言われます」

 少女は言われなれているようで、特に気にしている様子はなかった。失言かと思ったが杞憂だったみたいだ。

 「海子ちゃんは何をしているんだ?せっかく海に来たのに僕なんかに話しかけて。お母さんかお父さんはいないのか?」

 僕は再び目を閉じ、聞いた。周囲の音が鮮明に聞こえる。その中の海子ちゃんの言葉を逃さないように彼女の言葉だけに耳を傾ける。

 「実は私泳げないです。今日は・・・兄に会いに来たです」

 そういう海子ちゃんの声色は少し悲しそうに聞こえた。

 どうせ無表情なのだろうと、右目だけ開いてみてみた。すると、海子ちゃんはただただ悲しそうな表情を浮かべていた。 

 「おっ」

 驚いて声が出てしまった。

 僕の声に気付いた彼女はすぐに表情を戻した。

 「そ、そういうわけで、今日の私の目的は海ではないのです」

 「ククク。そうか」

 無表情のまま、照れくさそうに顔を赤らめる海子ちゃんが可笑しくて笑ってしまった。

 笑ってみると、自分の笑い声に違和感を感じた。笑い方でも変わっただろうか、それとも今更声変りとか。いや、ただ久しく笑っていなかったから聞きなれていないだけだろう。

 「何が可笑しいですか」

 「いや。で、お母さんかお父さんは?」

 「パパと一緒に来たですが、どうやらパパは今迷子のようです」

 「ククク」 

 「私は迷子じゃないです。決して・・・たぶん」

 「そうかそうか。ククク」

 自分はこんなにも笑えるんだな。初めて実感した。

 恐らく、今笑えているのは目の前にいるのが海子ちゃんだからだ。と言っても彼女が特別というわけではなく、年齢が離れているからということだ。

 高校生という身分上、関わりを持つ機会がある他人は、殆どが同い年かその前後。海子ちゃんのように小さな女の子や男の子と接点を持つようなことは無い。

 出会って十分も経っていないけど、会えてよかったと思う。

 

 ところで、僕は楽しいが海子ちゃんは笑ってくれているだろうか。

 気になって目線を頭上に移動させる。彼女は残念ながら通常の無表情だった。

 (楽しそうに笑ってはくれないのか)

 そう思うと一人で笑っているのが申し訳なく思えてきた。海子ちゃんが機嫌を損ねないうちに口を閉じ、ついでに目も閉じる。 そうしようと思った。

 

 しかし、視界の端に映り込んだ違和感がそれをさせてくれなかった。

 

 目を閉じるのも憚られるような強烈な違和感。それは海子ちゃんによって発見された。

 「猫だ」

 海子ちゃんはある一転を見つめ、何の感情の変化もなくそう言った。 

 海子ちゃんは猫を見つけると、その猫に向かって歩き始めた。声を掛けて止めようとしても止まる気配はない。

 彼女を一人にするわけにはいかず、僕も立ち上がった。すると、その猫はどこかに向かって歩き始めた。まるでついて来い言っているかのように。


 僕は、海子ちゃんと猫についていく間、どうしてこの猫に強烈な違和感を感じたのか考えていた。

 見た目はただの猫。顔つきも、毛の色もありふれた普通の猫。どこかで見ただろうか。

 ああ、思い出した。

 この猫はあの人魚事件の日、目良い猫として貼り紙がされてあった猫だ。特に証拠は無いが確信できた。


 猫は時折、僕たちがちゃんと付いて来ているかを確認するように振り返ってくる。その度に三秒ほど立ち止まり、また歩き始める。何度も振り返る猫は、どこか不安そうに見えた。

 海子ちゃんは猫が振り返るたびに猫に手を振っている。もしかしたら、猫は不安に思っているんじゃなくて、海子ちゃんに呆れているのかもしれない。そう考えるとまた笑いがこみ上げてきた。

 

 『ふふふふーん♪ふふふふーん♪』

 しばらく海岸沿いを猫について歩いていると、どこからか鼻歌が聞こえてきた。

 とても綺麗で透き通るような声。心地よく僕の鼓膜を撫でる。

 誰かが歌うそれは、どこかで聞いた事があった。曲名は確か・・・

 「パートオブ―――」

 「パートオブユアワールド」

 「え?」

 声は少し前から聞こえた。大体猫の歩いていた辺りから。

 咄嗟に顔を上げる。当たり前の事なのだが、言葉を発したのは猫ではなかった。そこにいたのは一人の少女。と言っても海子ちゃんではなく、別の誰か。

 歳は僕と同じくらいだろうか。髪は肩にかからないくらいに揃えられていて、真っ黒だ。顔は外国人っぽく、鼻が高くて目が大きい。そして、何よりも魅かれるのが声。一声聞いただけでも美しいことがわかる。

 しかし、いや、やはりというべきか。やはり神は平等主義のようだ。

 

 彼女は車椅子に座っていた。


 ギプスや包帯が巻かれていない所を見ると怪我ではないようだ。

 彼女の足が生まれつき動かないのかそうでないのかは定かではないが、僕には彼女の魅力を打ち消すために科した神の悪戯の様に思えた。

 

 「パートオブユアワールド・・・歌ってた曲の名前・・・です」

 「あぁ、そうだっ――でしたね」

 危ない。ついため口を使ってしまうところだった。

 それほどまでに彼女の腰は低く、申し訳なさそうにしていた。体も縮めてしまっていてとても小さく見える。

 

 そんな彼女の肩に猫が飛び乗った。そして、ニャー。

 「わわっ。もう、トマリ。ありがとう」

 彼女は猫と会話でもできるのだろうか。いや、そんなまさか。

 一瞬僕に変な考えがよぎるが、あまりに現実味を帯びていない話で、すぐに考えるのを止めた。人魚の話も現実味は帯びていないのだが、実際自分で見たのだから、別に自分だけを棚に上げているつもりはない。

 しかし、僕とは違って海子ちゃんはまだ夢見る小学生だった。

 「お、おおおお姉さん。猫さんとお喋りができるですか?」

 そんな質問をする海子ちゃんの表情は、無表情のはずなのだがとても興奮しているように見える。なんて感情豊かな無表情なんだろうか。

 「ふふふ。えぇ、できますよ。できますとも。ねぇ、トマリ?」

 「ニャ」

 「い、今なんと?」

 「名前が知りたいそうです」

 「おぉー。私は海子です。成瀬海子。よろしくです」

 「よろしく海子ちゃん」

 「ニャア」

 「あ、今のは私でも分かるですよ?こちらこそ、でしょう!」

 「ぶぶー。可愛い名前だ。でした」

 「おおーー」

 しばらくこんな会話が続いた。海子ちゃんや猫と話す彼女はとても楽しそうで、僕と話した時のような申し訳なさそうな顔は一度もしなかった。

 単に年齢的な事もあるだろうか、果たしてそれだけだろうか。子供が好きなのかもしれない。 

 いや、それはどうでもいいか。


 三人、もとい二人と一匹の会話の中でわかったことだが、猫と話せるらしい彼女の名前は小玉日葵。年齢は十六で僕と同じ高校一年だそうだ。猫のトマリとは長い付き合いでかれこれ十年以上共に過ごしているんだと。もしかしたら迷い猫の張り紙を出していたのも彼女かもしれない。

 「あ、えっと。その・・・すみません」

 ふとしたタイミング。二人と一匹の会話が途切れたタイミングで小玉さんはいきなり僕に謝って来た。当然のごとく申し訳なさそうな顔に変わっていた。

 そんなに僕は不機嫌そうな顔をしていただろうか。

 「別に謝る必要はないよ」

 「そ、そうですか。すみません」

 謝ることは小玉さんの癖なのだろうか。でも、海子ちゃんとの会話の時にはそんな素振りは見られなかった。

 どうして僕の時だけ。それとも同年代の人が苦手なのか。僕だって同じだしありえなくはない。そう思って僕は一人で納得した。


 納得したとき、すべてが僕の中で一致した。

 この子は僕と同類だ。

 

 僕は確かに友達を作りたくなかったはずだった。佑と岬は勝手に言っているだけだし、海子ちゃんは友達と呼べるような年齢ではない。ただ、小玉日葵という人物だけは少し違った。仲間と群れるという本能が無意識的に働いてしまったのだろう思う。


 「僕は別に怒っていない。だからほら、謝らなくていいんだって」

 僕はそう言って左手を小玉さんの前に差し出した。

 「は、はい。ナツさん」

 彼女はやっと申し訳なさそうな顔を止めてくれた。

 笑って、僕の手を両手で包み込んでくれた。たったそれだけの事だったのだけど、僕はとても嬉しかった。

 「あはは。もっとフランクな握手のつもりだったんだけど」

 「え?えっと、すみません」

 「だから、謝らなくていいんだって」

 「あ、そうでした。すみませ――」

 「プッ!クククク」

 言いかけて小玉さんは自分の口を手で押さえた。その行動が可笑しくて笑ってしまった。彼女も僕につられてくあ、エヘヘと笑っている。その姿がなんとも可愛らしかった。

 「あ、そうだ。なんて呼べばいいかな。小玉さん?日葵さん?」

 「何と呼んでくださっても大丈夫ですよ。でも、私的には・・・その・・・マリと、呼んでほしい、です」

 小玉さん、もといマリの語尾は小さくて聞き取りにくかった。恥ずかしかったのだろう。なんというか、小動物を見ている気分になる。

 「わかったよマリ。僕の事は、あーさっきナツって呼んでたな。どうして僕の名前を知ってたんだ?名前言ったか?」

 「え、えーと!それは、その、ほら!トマリが教えてくれたんですよ!」

 マリは焦っているように見えた。何を焦ることがあるのか知らないが、彼女には彼女なりの事情があるのだろう。別に言及するつもりはない。

 「ふーん。そう。トマリがね」

 「そ。そうです」

 でも、本当に誰に教えてもらったんだろうか。海子ちゃんも僕の名前は言っていなかったと思うし・・・本当に猫が。いや、そんなまさか。

 「お兄さんお兄さん」 

 僕が不思議に思っていると、ツンツンと腕をつつかれた。つついたのはもちろん海子ちゃんだ。

 「どうした海子ちゃん」

 「私も会話に混ぜて下さいです。つまらないです」

 海子ちゃんはそう言って無表情のまま頬を膨らませて見せた。

 「悪い悪い。仲間外れにするつもりはなかったんだ」

 申し訳ないことをしたかな。

 そう思い僕は、頬を膨らませた海子ちゃんを抱きかかえ、肩車をしてやる。すると頭の上から、おおー。と感嘆の声が聞こえてきた。

 

 しばらく肩車をしていると、

 「あ、いたいた。おーい海子。パパだぞー」

 間抜けな声の痩せ程った中年のおじさんがやって来た。

 ビーチには不似合いな白衣を着たその人は、海子ちゃんに手を振り、彼女の名前を呼んで、自らをパパだなんて宣っている。危ないやつだ。僕はそう判断した。

 「海子ちゃんちょっと降りててな」

 肩に乗っている彼女を地面に降ろし、中年のおじさんに歩み寄ろうとした。が、僕よりも前に駆け寄った人物がいた。

 それはまさしく海子ちゃんだった。

 「パパじゃないですか。全く、どこに行ってたんですか」

 海子ちゃんはおじさんをパパと呼んだ。なんの躊躇いもなく、当然のように。

 「心配したです」

 そういうと、海子ちゃんは「ん」と両手を精一杯上に伸ばして抱っこをせびっている。これが知らない男にする行動だろうか。どうやら彼は彼女の父親で間違いないらしい。

 僕はホッとしていた。それは、隣で「ふう」とため息をついているマリも同じようだ。

 僕たちが安心していると、海子ちゃんの父親が彼女を肩車して歩み寄ってきた。

 歩み寄ってくる彼を見て、マリの腰が引けている。まだ警戒しているのかもしれない。

 「どうも。うちの海子がお世話になりました」

 そう言って、海子ちゃんを落とさないように軽く礼をしてくる。

 そんな彼は、一言でいえば細長い。高身長で細身。猫背なのだが、それでも百八十ある僕よりも背が高い。髭には無精髭が目立つ。

 年頃の女の子はそういう父親を嫌うものだと思っていたが、海子ちゃんはそうでもないらしい。

 「私、この子の父親の成瀬海といいます。よろしく」

 僕たちに自己紹介する海さんは、へへへと笑っていた。気持ちのいい笑顔だった。

 「深石ナツです」

 「小玉日葵です」

 僕たちも挨拶をする。それは、僕にとってはとても久しくしていなかったことで、少しこそばゆい。

 マリも海さんの笑顔で警戒が解けたらしい。それくらい爽やかで、裏を感じさせない笑顔だった。

 海さんはというと、少し眉を動かし、また笑顔に戻った。

 「海子を見ていてくれてありがとう。この子は目を離すとすぐにいなくなってしまって」

 今度は自嘲気味に笑う海さん。その顔は海子ちゃんのそれと似ていた。やはり親子ということか。

 「いえ、僕たちも海子ちゃんといて楽しかったですから」

 「はい。こちらこそお礼を言いたいくらいです」

 「そうですかそうですか。それは良かった」

 うんうんと頷き、またへへへと笑う海さん。彼は海子ちゃんを肩から降ろして、頭を撫でながら「海子も楽しかったか?」と聞いていた。 

 「はい」と返事をする海子ちゃん。その顔を見て、海さんはまた笑う。

 仲がいいんだな。二人を見ていると自分も笑顔になれた。隣を見ると、マリも僕と同じようだ。 

 

 海さんは、僕たちが二人を見ていることに気が付いたのか、恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いて、僕たちに向き直った。

 「私たちはこれで帰ろうと思います。今日は本当にありがとう。またお礼をしたいから、連絡先教えてくれないかな」

 海さんは言いながら、白衣の懐から手帳とペンを取り出して僕たちの方へ差し出してくる。

 「え?あ、分かりました」

 受け取ったのはマリ。困惑しながらも、さらさらと不規則な十一桁の数字を手帳に書いている。手帳を手にもって書いているせいか、ペン先は安定せず、踊っているようだ。

 「はい。ナツさんの番です」

 マリから手帳を受け取って、僕は自分の電話番号を書いた。

 「どうぞ」

 「どうもありがとう」

 海さんは二人の電話番号が掛かれた手帳を大事そうに懐にしまった。

 「それでは二人とも。またいずれ」

 そう言って海さんは海子ちゃんと手を引いて来た道を帰り始めた。だが、海子ちゃんは帰りたくないのか不満そうな顔をしていた。

 海さんにトボトボとついて行きながらも、ちらちらと僕たちの方を振り返ってくる。やはり無表情だが、どこか寂しそうな顔だ。

 「海子ちゃん。寂しそうですね」

 隣でマリが呟いた。

 「君にもあの子の表情が見えるのか」

 「ええ、もちろん。海と、私たちと離れたくないのでしょうか」

 「そうだろうな」と言いかけて止めた。なぜなら、海子ちゃんのある一言を思い出したから。


 『今日は・・・兄に会いに来たです』


 海子ちゃんはそう言っていた。だったら帰ろうとするのはおかしいじゃないか。

 「あの!」

 咄嗟に声を掛けた。海さんはゆっくりと僕たちに振り返る。

 「どうしたんだいナツ君」

 「お兄さんは・・・海子ちゃんのお兄さんには会われないんですか」

 マリはキョトンとしていた。当然だ、彼女はこのことを知らないのだから。

 海さんは凄く驚いていた。そして、悲しい顔に変わった。

 「それは、海子が言ったのかい?」

 海さんのトーンは、さっきよりも低くなっていた。さっきまでの明るい笑顔を浮かべた海さんは、そこにはいなかった。

 「え、ええ。海子ちゃんは兄に会いに来たと」

 「そうか」

 海さんは海子ちゃんに目を向けた。彼女は少し震えているだろうか、俯いて何かを我慢しているように見える。海さんの手を握り締めて。

 海さんは僕らに背を向けて、海子ちゃんの視線に合うようにしゃがんだ。何かを海子ちゃんに語り掛けているようだが、僕がいる位置でははっきり聞き取れない。だが、怒っている様子ではなさそうだ。

 「あの、どういうことですか?」

 左の耳に僅かな息遣いと、透き通るような声が掛けられる。マリの声は不安そうだった。さっきまで明るく笑っていた二人が、今は僕の一言で一変してしまったのだから無理もないだろう。

 「僕が君に会う前、海子ちゃんは僕に話しかけてきたんだ。どうして海に入らないのか、って。僕は荷物番をしていたから海に入っていなかったんだけど、海子ちゃんはどうなんだ?って聞き返してみたんだ。そしたら兄に会いに来たって。それ以外の事は知らない」

 色々と端折ったが、これで状況はわかるだろう。

 マリは「そっか」とまた呟いた。だがそれにしては、不思議そうな顔をしていた。

 

 「お兄さんお兄さん」

 マリの顔を見ていると、太ももに感触を感じた。見ると、いつの間にか僕の足元に海子ちゃんが来ていた。

 彼女の目元は何故か赤くなっていた。

 「私たち今日は帰ろうと思うです。兄にはまたこの場所に来た時に会える・・・です」

 それだけ僕たちに伝えると、僕らに何も言わせない気なのか、走って海さんの所まで行ってしまった。 

 「海子ちゃん、泣いていましたね」

 「ああ」

 僕たちは哀愁漂う親子の背中を見送った。


 *


 どのくらいそうしていただろうか。僕たちはその場に呆然と立ち尽くしていた。何のやり取りもせず、ただ無言で。

 しばらくすると佑よ岬が僕を探しに来た。二人は少し怒っていて、荷物が盗まれたらどうするんだだの、いなくなって心配しただの言っていたがすぐに許してくれた。申し訳なく思う。

 「で?ナツさんや、その隣の美人さんは誰かね?」

 「誰かね?」

 佑が意地悪く横腹を肘で小突いてくる。岬もいつものノリで同じようなしぐさをしている。

 マリと言えば「美人さんだなんてそんなぁ」なんて言いながら顔を赤らめている。何を本気にしているんだか。

 「この人は小玉日葵さんだ。ついさっき知り合った」

 僕は彼女の方に手を向けて紹介する。

 「こんにちわ、日葵です」

 マリは車椅子を動かし、二人にの前に出て、上半身だけで会釈をした。その態度は僕の時のような低姿勢ではない。

 「ほうほう日葵ちゃんか。なるほど」

 「ふむふむ」

 何かを考えるように顎に手を当てる二人。そして、何を思ったのかマリの体をじっとりとねっとりと眺め出した。

 マリの周りをぐるっと一周回り、もう一周回る。さらには下から上からといろんな角度から眺める。はたから見たら完璧に変態の類だ。

 「え!?ちょっとなんですか!?」

 マリは身の危険を察知したのか、白くて細い二本の腕で体を抱きしめるようにしている。が、それも意味はないようだ。さすがに見ていられない。

 「その辺でやめとけ、可哀想だろ」

 言いながら二人とマリの間に割って入る。

 立ち尽くす佑と岬。二人の目は点となり、口は大きく開いて閉じる気配がない。

 どうしてしまったのか。僕が何か変な事をしただろうか。多少の不安を感じていると、佑が開いた口を開いた。

 「お前、ナツ、お前、おまえぇーーー!!」

 言葉がうまく言葉に出来ないといった様子で僕の名前を連呼する。顔はみるみる笑顔に変わり、今にも泣きそうだ。

 岬は依然としてぼけっとしている。

 「なんだよ佑。気持ち悪いな」

 とにかく、抱き着こうとしてくる佑が気持ち悪かったから突き放した。

 「だってお前、他人なのによおー!この、お前ー!!」

 にもかかわらず再び抱き着いて来ようとする。しつこいやつだ。でも、不思議と今までのような不快感は感じない。これも海子ちゃんやマリと出会った影響か。

 「ねえ。ナツ?何があったの?ねえねえ」

 今度は正気に戻った岬がゆっくりと近づいて来た。表情は読み取れない。無だ。

 「別に何もない。あったとすれば―――」

 自分と同じ境遇の人間を見つけた。などと言って、マリがいい気分でいられるだろうか。そんなはずがない。友達がいない自分と同じなんて不愉快のなにものでもない。

 「あったとすれば、マリの歌が懐かしかったことくらいだ」

 僕は誤魔化した。

 僕の答えを聞いた佑と岬はキョトンとしていたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、

 「そっか」

 「よかったわね」

 そう言ってくれた。

 二人の目は、顔は本当に嬉しそうな顔をしていた。何を嬉しがることがあるのか僕には分からない。

 「そ・れ・よ・り!もうあだ名で呼んだり呼ばれちゃったりしてるのかよこの野郎!俺たちの事もあだ名で呼べ!」

 「私はミサちゃんでいいわよ」

 二人は悔しそうに、それでも楽しそうに笑いながら頭をワシャワシャとしてくる。鬱陶しいが、今は許してやろうか。


 「あ、私行かないと」

 僕の髪が何本か抜け落ちたところで、マリが言った。

 気付いていなかったが、いつの間にか日は傾いてしまっていた。

 海は紅に染まり、空の向こう側は暗みだしている。僕たちもそろそろ帰らなければならない時間だ。

 「僕たちも帰ろう」

 「そうだな」

 「そうね」

 結局、僕たちはその場で解散。三人と一人は全く真逆に進み始めた。

 マリが帰ろうとしたとき、車椅子でちゃんと帰れるのか不安になり「一人で大丈夫か?」と聞いたが、にっこりとした顔で「はい!」と帰って来た。杞憂だったようだ。

 マリと会えなくなってしまうのは少し寂しいが、友達は作らないと決めたのだ、これで良かったのかもしれない。自分に言い聞かせて連絡先も聞かずに別れた。

 

 帰りの電車。

 目の前の二人は相変わらず仲良くお互いにもたれ合って寝ている。感傷に浸り気味の今の僕には目に毒だ。

 「こいつらとなら」

 いや、駄目だ。

 僕は二人の姿を目に入れないようにと、電車の揺れに身を任せて目を閉じた。


 *


 一週間後、補習期間が始まった。

 期間中は、普段のような授業ではなく、その日受ける授業を自分で決めて受けることができる。さらに、授業を受けなくてもよく、授業の時間を自習に当ててもいい。その代わり学校にはいなくてはいけない。

 といっても、僕の学校はそこそこ優秀な進学校で、大学進学を目指している奴らが大半だからサボるような連中はほぼ居ない。

 しかし、どんな場所にも馬鹿は居るもので、

 「俺はまだ将来なんてなーんも決めてないな」

 とか言う楽観主義の奴もいれば、

 「私はこの学校で優秀なイケメンを見つけてその人に嫁ぐの」

 とか言ういい年したメルヘンで夢見がちな乙女もいる。

 佑と岬だ。


 そんな二人だが、サボることなく補習には来ている。前にどうして補習に出てくるのか聞いた事があった。

 「俺はやりたいことが決まった時に勉強してなくてそれができないってことが起きないようにするためだ。後悔はしたくない」

 「私は優秀な人材を見極めるためよ。その為には自分もある程度知識がないとね。馬鹿だったら相手が馬鹿なのかどうかも分からないもの」

 と言っていた。なんだかんだ言って二人にはちゃんと芯が通っている。最後まで芯が折れないのだが。

 ちなみに、僕も岬の探し求める優秀な人材の候補の一人らしい。何も嬉しくはない。


 「それじゃあ今日の補習は終わりだ。みんな気を付けて帰るように」

 古文の授業を受けていた生徒は一斉に立ち上がり、思い思いの行動を取り始めた。ほとんどが帰宅するか部活に行くか。残った少数派の僕たちはというと、

 「よーナツ」

 「おっすナッツッツ」

 「何だよ岬。そのナッツッツてのは」

 「君が私をミサちゃんて呼んでくれないから私があだ名で呼んでやろうと思って」

 「どっちにしろあだ名で呼ばないからナツに戻せ」

 「ちぇー」

 僕等の会話に佑は苦笑した。と、思うと急に「あ」と何かを思い出したように顔を僕に近づけてきた。

 「そんなことよりもビッグニュースだ」

 「そうそうそうなのよナツ!ビッグニュースッス!」

 二人とも何やら興奮した様子だ。鼻息を荒げて目をキラキラとさせている。

 「何だよ」

 「とにかくついて来い」

 僕はゆうに手を引かれ、椅子から立ち上がった。すると、岬が手で僕の目を覆い、視界を奪う。

 「ここまでする必要があるのか?」

 「あるのよ!」

 岬がそう言うと、佑が手を引いて歩き出した。


 なんとなくの感覚で、今自分がどこにいるのかを探ってみているが、今はどこだろうか。自分の感覚を信じるとすれば職員室の前だ。

 「失礼しまーす」

 佑が扉を開けると同時にそう言った。やはり職員室で間違いないらしい。

 「ほら、入って入って」

 後ろから背中を押される。どうやら僕も入らないといけないようだ。

 目を隠された上代で職員室に入るなんてどんな仕打ちだ。

 さすがに職員室の構造までは覚えていない。

 大まかに、1年、2年、3年の担当の先生が何処に固まっているかと自分の担任の席ぐらいはわかるが、それ以外は全く分からない。

 佑はある席の前で止まった。唯一誰の席か分かる席、担任の席だ。

 「じゃあ外すね?」

 岬が耳元で呟く。

 「あぁ」

 岬の手がどけられ、視界が復活する。

 「あ」

 「エヘヘ。久しぶりです」


 目の前には、両腕に包帯を巻いたマリがいた。


 マリの話によると、どうやら僕たちの学校に転校してくることになったらしい。で、今日は転校手続きをしに来たのだそうだ。その時にたまたま佑と岬に出会い、話し、僕にドッキリを仕掛けようという流れになった。確かに本当に驚かされたが、わざわざドッキリにしなくても良かったのではないだろうか。

 それにしても、と岬がマリに声を掛けた。

 「すごい偶然ね!たまたま同じ海で出会って、同じ学校でも出会うなんて」

 もしかして運命かも。なんてメルヘンな事を言っている。どうして女という生き物はこうドラマが好きなんだ。

 「そんな言い方すっと、二人の間に百合の花が咲いているのかと思われちまうぞ」

 僕が女に不満を抱いていると、佑があきれたように言った。だが、口の端では笑っている。

 「ま、そんなことにはならないだろうがな」

 佑は岬の肩をポンと叩くと、手をひらひらさせながらどこかへ行ってしまった。しかも高笑いしながら。

 僕にはあいつが何をしたいのかが全く分からない。

 岬はどうだろうかと、彼女の方を見る。彼女の顔は赤くなっていた。恥ずかしそうに斜め下を見ていた。

 「どうかしたのか?」

 心配になって聞いてみた。すると、

 「うるさい!」

 そう怒鳴られ、殴られた。

 気が付けば岬は走り去ってしまっていた。

 「理不尽だ。そうは思わないか?マリ」

 「いいえ。ちっとも」

 マリにはそう言われた。僕はどうすればよかったのか。分からない。

 「それより」

 僕は積極的に話を変えることにした。

 僕が今、一番気になっていることを聞くことにした。

 「どうしたんだよその腕。前はそんなもの巻いていなかっただろ」

 気になっていたのはマリの両腕。腕の付け根から指先まで、綺麗に巻かれている。

 「おかしいですか?」

 僕が質問したはずなのだが、マリは質問で返してきた。

 おかしい。何の話だろうか。見た目、包帯の巻き方・・・これ以上思い付かない。

 「僕は何もおかしいとは思わない。寧ろきれいにまかれていると思う」

 「え?あ、エヘヘ。ありがとうございます」

 一瞬何の話をしているか分からなかったようだが、包帯の事だと分かってくれたらしい。だがこの反応を見るに包帯の事ではなかったようだ。いったい何の話だったのか。

 答えはマリが言ってくれた。

 「でも、そのことじゃないんです。私がナツさんと再開するまで約一週間でした。その間にこんな・・・姿になってしまって。滑稽でしょう?私のこんな姿」

 そう言う彼女の顔は、とても暗く感じた。

 彼女の顔の暗さには見覚えがあった。忘れはしない、海と同じ色だ。

 「本当は見られたくなかったんです。でも、あなたに会いたい気持ちが勝ってしまって、この学校まで来ちゃいました・・・すみません」

 ますますマリは海に近づいていく。僕の嫌いな色に、近づいていく。

 嫌だ。

 「マリ。君の今の姿は滑稽なんかじゃない。包帯が巻かれた程度で滑稽なんかになるものか。それに、僕に会いたくてこの学校まで来たってことは、佑やマリ、僕と再開したことは偶然じゃないんだろう?そのことは・・・その・・・」

 『嬉しい』の一言が言いたかった。でも、出てこなかった。しばらくこういった感情とかけ離れた生活をしていたからかもしれない。

 この間が、マリをまた暗くしてしまうだろうか。そう思ったが杞憂だった。

 「エヘヘ。そうですか。ナツさんは優しいですね」

 彼女の顔は少し明るくなった。


 *


 次の日。

 マリはうちのクラスにやって来た。

 補習期間が明けてからクラスに入るのが普通だと思うのだが、担任が、今からクラスに馴染んでおかせるという粋な計らいをしたらしい。

 

 投稿初日のマリは緊張していた。まるで僕と初めて会った時くらいに腰が低く、今にも誰かに向かって謝りそうだ。

 「え、えっと・・・その。小玉・・・ひ、日葵でひゅ。よろしくお願いします」

 マリが途切れ途切れになる言葉を無理やり繋げたような自己紹介を終えると、パラパラと小さな拍手が起こった。基本うちのクラスはこういうイベントに興味がない。例えそれがどんなに美人でも、車椅子でも、腕に包帯がまかれていても。

 そういった意味ではマリはこのクラスでよかったのかもしれない。特別変な事をしなければ、自分に干渉されにくい環境なのだから。

 ただ、例外もいる。

 うちのクラスの馬鹿二人。佑と岬は、二人そろってスタンディングオベーションだった。それにはさすがにマリも恥ずかしそうにしていた。顔が真っ赤だ。まあ真っ暗よりはましか。

 「はいよろしくね、小玉さん」みんな仲良くするように!で、小玉さんの席は―――あそこ、あの卑屈そうな顔をした奴の隣ね」

 と、担任が意地悪そうに笑いながら、こっちを指さす。僕の隣の席は、あらかじめ椅子がどかされていた。

 マリは素直に僕の隣の席に移動してきた。

 彼女は小さな声で「よろしくお願いします」と、周りに言っていた。僕には言ってこなかった。

 

 マリは、最初は周りの男子から質問をされていた。だが、そいつらも興味が薄れたのか、昼休みに入るころには周りには佑と岬以外誰もいなかった。

 「ねぇねぇ。どうしてこっちに?」

 「ねぇねぇ。どうしてこの前は海にいたの?」

 「ねぇねぇ。彼氏はいるの?」

 「ねぇねぇ。今度家に遊びに行ってもいい」

 佑、岬、佑、岬の順だ。

 佑と岬は僕とマリの席に集まり、彼女に質問攻めをしている。しかも割とどうでもいい質問ばかり。これには周りのクラスメートも迷惑そうな顔をしている。 

 「えぇっと・・その、父の仕事の関係で。それから海にいたのは最後に地元の海を見とこうと思って。それから彼氏は・・・その、いません。それから都合が会う日ならいいですよ」

 それでもマリはすべての質問に答えた。どうやら彼女は今の雰囲気が嫌いではないらしい。

 マリの答えを聞くと、二人はさらに質問をした。やがて、満足したのか自分たちの席に帰っていった。

 「疲れないのか。あいつらの相手をしていて」

 気になって聞いた。

 僕はあいつらとわりといつも一緒にいるから慣れているが、初めはあいつらといると強制的に色々な話をさせられて疲れたものだった。だからマリは大丈夫だろうかと心配になったのだ。

 「全然です。私、友達とかいなかったのですごく楽しいです」 

 「そうか」

 マリの返事を聞いて、なぜか僕は寂しいと思った。どうしてかは自分では、はっきりとはわからない。ただ、友達を作らないようにしている自分自身が思ってはいけないことをマリは思い、口に出している。その事実がそうさせているのかもしれない。


 次の日からもマリは元気だった。僕に見せた暗い顔が嘘みたいだった。

 学校にいること自体に喜びを感じているみたいで、何か些細なことがあると逐一僕か佑か岬に報告してくる。

 それに、僕たち以外にも友達ができたみたいで、たまに車椅子を押してもらっている姿を見かける。その時にマリはとても楽しそうに笑っていた。

 

 どうやら、マリは僕と同じ人間、人種ではないみたいだ。僕と彼女は、友達になるべきではないということだ。

 それに、そろそろあいつらの命日だ。友達なんて作っていたら、あいつらにどんな顔で会えばいいんだ。いや、会うことなんて自分が許さない。


 * 


 小学生の事件。

 当時は話題になり、全国区で報道され、一人生き残った僕はたくさんの記者たちに質問をされた。中には、どうしてそんな質問ができるのか分からない程えぐい質問もあった。例えば「どうして君だけ生き残ったのかな。もしかして君がやったんじゃないの?」なんて質問もあった。

 しかし、この時の僕には誰の声も届かなかった。


 親友の死。


 この事実を頭でも心でも受け入れられず、自分がどうしてたくさんの人に囲まれているのかも分からないまま。鬱陶しそうに記者たちを睨んでいた記憶がある。

 それでも、時は着実に進んでいき、とうとう四人の送別式が行われた。

 両親に小学校の制服を着せられ、式場に連れていかれた。この時自分がどこに向かっているかわらかなかったし、何をするために出かけているのかもわかっていなかった。ただ、両親の只ならぬ雰囲気は読み取れた。

 式場に着き、葬式が始まった。珍しい服を着た髪の無いおじさんが、何を言っているのか、ぶつぶつと呟いているな。当時はそのくらいにしか思っていなかった。

 時折、金属のはじかれる音がした。周りの人達は、ある場所を見つめて泣いている。何がそんなに悲しいのか、僕は泣いていないぞ。なんて思っていた。

 

 坊さんのお経が終わり、焼香が始まった。

 僕の番になり、席を立ち上がる。何をしていいのか分からず、前の人をまねることだけを考えて、前の人だけを見ていた。

 前の人が焼香を終え、横にずれる。すると、僕の目の前に親友の四人。親友だった四人の写真、遺影が現れた。ここでようやく理解した。あいつらは死んだんだ。もういないんだ。

 すんなりとそのことが頭の中に入って来た。僕はその場に泣き崩れた。


 この日から僕は人魚を恨んでいる。

 いつか見つけ出してやる。そう思っている。そして、この憎しみを忘れないように、毎年、命日には四人に会いに来ることにしている。


 今年は危なかった。

 佑と岬、マリに出会い、心を許しそうになっていた。特にマリ。正直、半分心を許していた。

 毎日のように話しかけてくる三人。実際楽しかった。いいぬるま湯に浸からせてもらった。だか、それも今日までだ。

 

 僕は四人の墓がある墓地の前まで来ていた。今はまだ補習期間中だが休みを取っている。

 四人の墓はそれぞれ別々の場所にあり、一つ一つ回っていく。

 入り口に一番近いのは大和。大和の墓はとても目立つ場所に立っていた。まるで俺を見ろと言っているかのようだ。

 大和には毎年煙草を一本持ってきている。生前、大人になったらかっこよく煙草を吸うんだと言っていた。まだ吸える歳ではないが、それも生きていたらの話だ。

 次は仁。と言っても大和の隣に立っている。大和と仁の家族が話し合った結果、こうなったらしい。仁は家でいつも大和の話をしていたから、と。

 仁には酒を。いつかの正月に、大人たちが飲む酒を仁はじっと見つめていたことがあった。後で、酒が飲みたいのかと聞いてみると、恥ずかしそうにしながら笑って頷いた。

 次はつかさ。つかさの墓は大和と仁の墓とは少し離れた場所にある。でも、二人の墓からもちゃんと見える場所にある。

 つかさにはブレスレットを毎年持ってきている。つかさは毎日ブレスレットを付けていた。しかも日によって違うものを。特別思い入れがあるわけじゃなかったようだが、付けていない日は無かった。

 最後は空汰。空汰の墓は一番奥にある。でも、ちゃんと三人の墓から見える。離れていても、それだけで十分だった。

 空汰には小説を。あいつは本を読むのが好きだった。あいつの部屋にはたくさんの本があったし、学校では図書室が一番好きだった。


 空汰の墓の前まで来た。

 本を供え、手を合わせる。しばらく目を瞑っていた。事件の光景を思い出しそうになって、思い出し切る前に目を開けた。僕にとって四人との事はいい思い出にしておきたい。事件の事なんて思い出したくない。

 毎年来ているから、もう涙はでない。こみ上げてくるのは怒り、憎しみ、悔しみ。負の感情ばかり。

 「すまない」

 一言残し、その場を去ろうと振り返った。すると、こっちに誰かがやってくるのが見えた。どこかで見たような細身の体に、この場に似つかわしくない白衣を着ている長身の中年男性。その人は僕に手を振った。

 「やあ。久しぶりだねナツ君」

 「お久しぶりです海さん」

 海さんは一人で来ているらしく、海子ちゃんは見当たらない。彼の左手には一本の鉛筆と手書きのナンプレの問題が握られていた。

 「海さんも墓参りですか」

 「まあね」

 「失礼ですが、どなたの?」

 「ちょうど、君が参っていた子のさ」

 そういって海さんは空汰の墓を指さした。

 「は?」

 海さんは僕を通り過ぎ、空汰の墓の前にしゃがみ、持っていたものを供えた。そして、手を合わせてしばし目を閉じる。

 「この子はいつも私にクイズを出してとせがんできた。中でも、数学の問題は特に喜んだ。ナンプレとかね」

 言いながら海さんは立ち上がる。

 「あの、空汰とはどのような関係で?」

 自分でも声が震えているのが分かる。

 「・・・」

 海さんは溜息を吐いた。長い、長い溜息。そして、息を吐き出すように言った。

 「私の息子だよ」

 全身の鳥肌が立つのが分かった。ざわざわとして気持ちが悪い。それだけじゃない。頭がくらくらする。

 「あの日、君と会った日。海子が探していたのは空汰なんだ。ナツ君」

 その場に倒れ込みそうになるのを辛うじて堪える。

 海子ちゃんは死んだはずの兄を探していて、それは要するに空汰の死を受け入れられずにいるということで、今でも海に行けば会えると思っているということ。

 「すみませんでした」

 理解したとき、咄嗟に頭を下げていた。海さんの顔を見れなかった。

 僕のせいで息子を亡くし、娘は今は亡き息子を探している。それは嫌でも息子の死を再確認させられてしまうということ。

 しかも、目の前には息子を殺した張本人がいる。どんなに辛く、憎いことだろうか。

 「僕のせいで、息子さんは。空汰は」

 怒られる。そう思った。今にも泣きだしそうだった。

 しかし、海さんは声を柔らかくし、話し出した。

 「海で私が君の名前を聞いた時、すぐに空汰の友達だった子だと分かったよ」

 だから少し眉が動いていたのか。

 「確かに、空汰が死んで、君一人だけが生き残ったと聞いた時はどうして空汰は死んでしまったんだと思った」

 やっぱり怒っている。怖い。責められるのが怖い。自分の存在が否定されるのが怖い。

 「でも、どうして君が生きているんだとはならなかったよ。もちろん、海で会った日もね」

 「・・・」

 「質問させてくれ。どうして君が謝るんだい?君が一人生き残ったから、そう思っているのかい。私が、どうして君だけが生き残っているんだ。そう君を責めると思ったのかい。もし、そう思っているなら顔を上げなさい」

 海さんは僕の肩に手を置いた。僕は言われたとおりに顔を上げる。まだ、海さんの顔を見るのが怖い。


 ふいに体が何かに包み込まれた。その何かは、少しコーヒーの香りがして、ざらざらとしている。そして、なぜかすごく安心できた。

 涙腺が刺激される。鼻の奥がツーンとする。

 「生きていてくれて、ありがとう」

 その言葉で、涙が止まらなくなった。


 

 一しきり泣いた後、僕と海さんは別れた。

 彼は申し訳なさそうに「泣かせてしまったね」と言っていたが、僕が大丈夫だと言うと、へへへと笑っていた。

 墓地からの帰り道、海子ちゃんの事を考えていた。海さんはありがとうと言ってくれたが、彼女はそう言ってくれるだろうか。。今は大丈夫かもしれないが、歳を重ねて成長し、兄がいないという事実を理解したら、どうだろうか。

 マリはどうだろうか。佑や岬は。僕が4人を死なせてしまっていて、一人だけのうのうと生きていると知ったら。そんな奴と付き合っているなんて知ったらどう感じるだろうか。僕ならすぐに縁を切るかもしれない。

 考え出すと、嫌な想像が止まらない。段々と今の自分が嫌になって来た。そして、こんな状況にした人魚が憎くて仕方がなかった。


 *


 翌日。

 僕は今日も学校を休んだ。

 マリたちに会うのが怖かった。実は僕がどんな人間かを知っていて、責められるのではないかと思った。

 今日は何も考えたくない。

 僕は一日を寝て過ごすことにした。今日は幸いなことに涼しい気候で、壊れたエアコンでも寝て過ごすには必要ないだろう。


 

 どのくらい時間が経っただろう。目を覚ませば空は赤みを帯びていた。外で子供たちの「ばいばーい」という声が聞こえる。夕方だ。

 一日何も食べていなかったから異常なほど空腹を感じる。僕は布団を出て、冷蔵庫を開けた。

 「そういえば」

 最近買い出しに行っていなかったことを、空になっている冷蔵庫を見て思い出した。

 「仕方ない、外で済ませるか」

 今晩の夕食はラーメンで決まりだな。

 服を着替え、顔を洗って財布と携帯を持つ。携帯を手に取ると同時に携帯が震えた。画面には佐々木佑の文字。

 携帯のロックを解除して、電話に出ようとすると、履歴に佐々木佑の文字がずらっと並んでいた。嫌な予感がする。

 とにかく電話に出ないと。通話のボタンをタップしようとしたその時。


 ――ドンドンドンドン――


 玄関がすごい強さで叩かれた。

 「ナツ!!おいナツ!!!」

 佑の声だ。焦っているのが分かる。

 急いで玄関を開けた。すると、そこには汗だくになった佑が立っていた。息が上がっており、膝に手をついて肩で息をしている。 

 「どうしたんだよ佑」

 「うるせえ!なんで電話に出ねんだよ!!」

 「なんでって―――」

 「とにかく来い!!!」

 佑は僕の手を掴み、走り出そうとした。しかし、僕は佑の手を振りほどいた。何をされるのか、もしかしたら僕がどんなやつなのか気付かれたのかもしれない。そう思うと怖くなった。

 「なんでだ。どこに連れて行こうとしてるんだ?」

 自然と視線が下がる。

 佑と目を合わせられない。

 「おい」

 次の瞬間、顔を掴まれて無理やり視線を合わさされた。

 佑の目には、焦りと怒りが混じっているように見える。

 「な、なんだよ」

 弱々しく言い返してみるが、視線が泳いでいるのが自分でもわかる。

 が、佑の言葉で不安なんて吹き飛んだ。

 「日葵ちゃんが倒れた」 

 それを聞いた僕は走り出していた。佑を突き飛ばし、思いつく病院に全力で。

 どうして自分が走っているのか分からない。友達なんて、そう思っていたはずなのに。この時の僕にはそんな考えは頭にはなかった。

 「おい、おい!待てナツ!」

 後ろで佑の叫び声が聞こえる。

 「なんだ!」

 僕は叫びながら振り返った。

 「こっちだ!」

 佑は僕の手を引いて、僕が走っていた法と逆方向に走り出した。その先にはタクシーが停まっていた。

 僕と佑はそれに乗り込む。

 「中央病院まで」

 「はい」

 運転手は愛想が悪く、ただそれだけ言うと車を走らせた。

 「いいか、落ち着いて聞けよ」

 佑が僕に言った。そんなことを言う佑も大分焦っているように見えた。

 「日葵ちゃんが倒れたのは今日の補習時間中だ。授業を受けている最中に突然倒れた」

 突然倒れた。ということは、それまでは体調が悪そうには見えなかったということか。だったらなぜ。

 「すぐに救急車を呼んで運ばれた。付き添いで先生と岬が救急車に乗ったが、救急車の中でも意識は戻らなかったらしい。今は中央病院のベッドで寝ている」

 「マリは、大丈夫なのか?」

 「ああ、一応命に別状はないらしい」

 「そ、そうか」

 その言葉を聞いて少し安心した。

 とにかく、早くマリの顔を見たかった。


 それからしばらく会話はなかった。

 僕はとにかくマリの事ばかり考えていた。たとえ大丈夫だと分かっていても、心配なのは心配だ。

 「お客さん、着きましたよ」

 そうしているとタクシーが病院に到着した。

 お金を払い、タクシーを出る。病院の入り口には不安そうな顔をしている岬がいた。

 彼女は僕たちを見つけると、笑って手を振って来た。

 「早く早く!!」

 そうせかされて急いで彼女のもとに向かう。

 「なんで電話に出ないのよ!何やってたの!」

 合流すると、彼女はまず僕に向かってそう言った。

 岬の怒声が、僕の犯した罪を責めているみたいで怖い。目を合わせられない。

 「すまない」

 また声が震える。まともに話すことができない。

 「ねえ」

 次の瞬間、顔を掴まれて無理やり視線を合わさされた。

 岬の目には、怒りと不安が混じっているように見える。

 「な、なんだよ」

 弱々しく言い返してみるが、視線が泳いでいることが自分でもわかる。

 が、岬の言葉で不安なんて吹き飛んだ。

 「日葵ちゃんが目を覚ました」

 それを聞いた僕は走り出していた。岬の手を解き、病院の中へ。

 「日葵ちゃんは五○六号室だよ!」

 「分かった!」

 僕はマリの元へ走った。

 マリの部屋の前に着いた時、僕の息は上がっていた。

 それほど走っていないはずなのに。やっぱり、マリに会うのが怖いからだ。

 それでも僕はマリに合わないといけない気がした。

 

 ――コンコン――


 ノックをする。しかし、返事はない。

 もう一度ノックをしようとすると、中から歌が聞こえてきた。

 「Wouldn't you think my collection's complete?―――」

 ドア越しで小さい声でしか聞こえないが、とても綺麗で澄んだ声。こんな声なのはマリしかいない。

 しばらくドアの前で聞いていたかった。ドアを開けてしまうと歌が止まってしまうそうで嫌だった。

 僕はドアにもたれかかり、目を閉じた。耳を澄ませてマリの歌を聞いた。

 終わるころにはマリに会う恐怖なんて消えてしまっていた。

 「終わったか?」

 僕が目を開けると、目の前には佑と岬がいた。

 優しい顔をして、僕を見ている。

 「ああ、終わったよ」

 二人にそう言って、ドアをもう一度ノックした。


 ――コンコン――


 「どうぞ」

 中からマリの声が聞こえた。その声を聞いてドアを開ける。

 中には、マリはいなかった。

 正確に言うと、中には人魚がいた。少なくとも僕にはそう見えた。だが、瞬きをした次の瞬間、人魚は消えてマリがそこにいた。

 「こんにちはみなさん」

 そういうマリの声はちゃんとマリのものだ。

 「やあ日葵ちゃん」

 「ちゃんとナツを連れてきたよー」

 佑と岬はマリだと言っている。

 

 きっと僕の見間違いだ。きっとそうだ。

 

 「よお」

 僕はマリに声を掛けた。

 はじめは怖く、不安だったものの。今では大丈夫そうだ。

 彼女は体を起こし、ベッドの上に座っていた。下半身は毛布で隠れているが、見た感じだとどこが悪いのか分からない。両腕にまかれていた包帯はまだ巻かれたままだが、腕がいたくて倒れるということは考えにくい。

 「こんにちはナツさん。心配かけてごめんなさい」

 そう言って彼女はいきなり、ベッドに座ったまま頭を下げてきた。と言っても、以前のような申し訳ない態度ではなく、フランクな謝り方だ。少しうれしい。

 「いや、いいんだ。それにそんなに心配していない」

 僕が言うと、マリはクスッと笑う。

 「何が可笑しいんだ?」

 「いや、汗かいていますから、走ってきてくれたんだなって思って、うれしくて」

 彼女は窓の方を向いた。

 綺麗な黒髪が小さく揺れる。同時に僕の心も揺れた気がした。

 「な、なあ」

 つい声を掛けてしまう。

 「はい」

 彼女は僕たちに背を向けたまま応えた。

 「お前・・・」

 この質問をしてもいいのだろうか。してしまったら何もかもが変わってしまうのではないか。そんな気がしていた。

 

 僕の中の昔の心が囁く。『聞け』

 僕の中の現在の心が囁く。『聞かなくてもいいじゃないか』

 どっちの心が正しいのか僕には分からない。でも、あの四人を蔑ろにするのだけは嫌だった。

 

 「お前、人魚・・・か?」

 その場の空気が静まった。

 佑は驚き、岬はポカンとしている。マリの表情は見えない。

 少しして、佑が口を開いた。 

 「お、お前って冗談言えるんだな」

 それに続いて岬が口を開いた。

 「な、ナツってかわいいこと言うんだね」

 確かに、人に見える何かに「人魚か」なんて聞けばそう思われても仕方がない。

 そんな中、マリだけは反応が違った。

 「・・・」

 マリは何も答えない。

 背を向けていて表情が見えない。もしかしたら笑っているかもしれないし、泣いているかもしれない。

 「おい、マリ?」

 「・・・ナツさん。私が人魚なわけ、無いじゃないですか」

 彼女は振り返った。

 綺麗な黒髪が小さく揺れる。同時に僕の心も揺れた。

 (彼女がきっとそうなんだろう)

 彼女の表情がそう思わせた。

 振り返った彼女は笑っていた。目に大きな涙粒をためて、目を充血させながら。

 

 彼女のこの反応はなんだ。

 もしかして本当に人魚なのか。そうでないとこの反応に納得がいかない。

 分からない。マリが分からない。

 

 「そっか。分かった。変な事を聞いて悪かったな」

 そういいながらも僕はもやもやしている。

 頭の中をぐるぐると二つの単語が巡る。

 

 マリ 人魚

 

 いくら考えたって答えが見つからない。

 答えを見つけようとすれば、また新たな疑問が生まれ、また思考する。答えを探すだけ無駄なイタチごっこ。

 僕はそれをせざるを得なくなっていた。

 「いえいえ。大丈夫ですよ」

 微笑む彼女の顔に涙はもう見えない。

 「なあそっち行ってもいいか?」

 もう少し彼女に近づけば答えが見つかるのか。

 答えを探す手がかりが少しでも欲しくなった僕は、何を根拠にかそう思った。

 「ええ、どうぞ」

 微笑み、マリは僕の要求を受け入れる。

 そうか、と小さく笑って彼女の所へと行こうとした。すると、目の前に一つの影が現れた。

 「やいやいやいやい!!」

 岬だ。

 「どうして、こう君たちは私たちを置いてけぼりにするかなぁ!特にナツ!!」

 「え、僕?」

 岬がぷんぷんしながら僕に指をさす。

 「何か人魚とか変なこと言ってるし、日葵ちゃん泣かすし!」

 「な、泣いてないですよ!」

 マリが必死に首をぶんぶんと横に振っているが、ちゃんと目の下に涙の跡が残っている。探偵風に言うと、証拠はもう挙がっている。

 「何が言いたいんだ?」

 要するに岬は何を望んでいるのか。

 「私たちも会話に混ぜなさい。もちろん私にもわかる話をしてね」

 胸を張って言うことじゃないと思うんだが。

 「まあ岬さん。とっても寂しがり屋なのね。かわいい」

 マリの方から聞こえた。でも、マリの声じゃない。マリはこんな気持ちの悪い声をしていない。

 「なによ佑!あんただって混ざりたいくせに!」

 「ははっ。確かにその気持ちはあるがな、今回はパスだ。俺のナツを連れてくるという任務は終了した!」

 佑がマリのベッドの後ろから出てきた。やっぱり佑だったか。

 いつもの佑だったら問答無用で会話に入ってきそうなのに。話をややこしくされないから僕にとっては好都合だが。

 「それじゃあ元気でね日葵ちゃん。さ、帰るぞ岬」

 「え、ちょ、ちょっと。ま、また明日ね!」

 最後に「何するのよ」と文句を言っているのが聞こえた。

 マリの方に向き直るとマリは笑っていた。僕の視線に気付き、顔を上げた。

 「やっぱり楽しい人たちですよね」

 「ああ、そうだな」

 「あれ?いつものナツさんなら否定するのに」

 「そうだったか?」

 「そうです。でも、今のナツさんの方が好きです」

 「・・・そうか」

 

 それから少しの間、話していると、ドアがノックされた。

 「はい!」

 マリが応える。すると、ドアが開いてナースさんが「昼食です」と言いながら入って来た。

 ナースさんは、見た目不愛想な顔をしていて笑わなさそうだ。

 彼女は、ベッドについている机をマリの前に出してその上に昼食を置いた。

 昼食は、いわゆる病院食というものだろう、消化が良さそうで味が薄そうなものが多かった。

 「あ、あの!」

 不意にマリが、思い出したようにナースさんを呼び止めようとした。しかし、その時丁度扉を閉めて出ていくところで、マリの声は届いていなかった。

 「どうしたんだ?呼び戻してこようか」

 マリの態度に感じた僕は、そう言って扉に向かった。

 「いえ、いいんです」

 歩き出そうとすると、マリとは思えない程弱々しい声が聞こえて立ち止まる。

 「それに、どうせばれることでしたので」

 「え?」

 マリの声は凄く小さかった。聞き取るのがやっとで、いつも綺麗な声をしていたマリの声は震えていた。僕はマリのその声を聴いて、どうしてか胸が締め付けられた。

 「ナツさん。昼食を食べさせてください。あーんってやつです」

 「ど、どうしたんだよ急に。飯くらい自分・・・で・・・」

 やっと、やっとマリの異変に気が付いた。

 どうして気が付かないのか不思議なほどおかしな異変。もしかしたら近すぎて分からなかったのかもしれない。

 「お前、腕が」

 「えへへ、気付いちゃいましたか」

 それに気が付いた時、彼女の笑顔がやけに痛々しく見えた。

 

 マリの腕は、手は、動いていなかった。ピクリとも、動いていなかった。


 手は今日会った時から動いていない。ずっと力が入っていないようにだらりとしている。 

 「えへへ、そういうことなんです。えへへ」

 マリはずっと笑っていた。

 いつも笑うような顔で、いつも笑うような声で。でも、それはただ似ているだけで本物じゃない。

 「ナツさんには大切なものってありますか?」

 唐突にマリが聞いていた。何の脈絡もなかったその質問に僕は戸惑ったが、その答えはすぐに見つかった。

 「昔はあった。今はないよ。亡くなってしまった」

 「そうですか」

 僕の答えを聞くとマリは悲しそうな顔をした。僕に同情したのか、それとも大事なものがない僕を哀れんだのか。

 「お前にはないのか」

 僕は聞き返した。別に本当にマリの答えが聞きたかったわけじゃない。聞かれたら聞き返すのが常識だと頭の中で勝手に思い込んでいるからなのか、反射的に聞いていた。

 「私ですか。そうですね、『声』ですかね」

 マリは自分の声を改めて確認するように、ゆっくりと答えた。一言一言を噛みしめるように聞こえた。

 「歌が好きだからか?」

 マリの歌はやけに印象に残る。それは歌を聞いたタイミングの問題かもしれないが、それだけじゃないのは確かだ。マリの歌声はとても美しいと思う。少なくとも僕はそう言い切れる。

 「ええ。いつまでも歌っていたいと思います」

 マリの言い方は少し変じゃないだろうか。これじゃあまるで、

 「いつか歌えなくなるみたいな言い方だな」

 僕が冗談半分に言うと、マリは苦笑した。いや、自嘲した。

 「そうなるかもしれませんね。でも、その時までに『声』よりも大切だと思えるものができていたら、私はきっと何の心残りなくいられるでしょうね」

 今度はにっこりと笑った。また偽物の笑顔。

 僕はマリの笑顔に耐えられず、おもむろにスプーンを握り締めてスープをすくい、マリの口に運んだ。

 「あ、ありがとうございます」

 マリは素直にスープを口に含み、咀嚼する。

 僕はまたスープをすくって運ぶ。またすくって運ぶ。

 「スープばかりですね」

 マリが小さく呟いた。

 「これで、泣いても涙が枯れることはないだろ」

 僕も小さく呟く。

 マリは静かに泣いた。スープを飲んでは泣いた。


 *


 月曜日。

 憂鬱が心をめぐり、朝起きるだけで疲れる日。

 

 今日も補習がある。

 マリの見舞いに行ってから三日目の朝。

 時計を見ると午前五時。いつも通りの時間。目覚まし時計は午前七時に掛けたはずなのに、体内時計は優秀だ。

 今から二度寝をする気分にもならずに布団から体を引っ張り出す。顔を洗い、トーストを焼いて、制服に着替える。テレビをつけてニュースを見ながらパンを頬張り、何も考えずにただボーっとする。そして、時間が来たら家を出る。

 玄関のカギを開けて出ようとすると、電話が鳴った。画面を見ると知らない番号。佑と岬は番号を知っているからその二人ではない。では誰か、誰でも面倒くさいことには変わりないからそんなことは問題ではない。

 しばらくすれば諦めてくれるだろう。そう思ってポケットに入れて家を出た。

 案の定、しばらくするとコールは止んだ。しかし、また鳴り出した。

 「ちっ」

 小さく舌を打って電話に出た。

 「はい」

 「おっと。掛け直した方がいいかな?」

 僕の声は相当不機嫌だったのだろう。電話の相手は丁寧に聞いてきた。

 こんなに相手の事をきずかった口を利けるの人物を僕は二人しか知らない。マリと海さんだ。そして、声が明らかに男性だからこれは海さんだ。

 「すみません海さん。今で大丈夫です」

 「そっか。それじゃあ」

 こほんと一息つき、海さんは本題に入った。

 「今度家に来ないかい?海子のことの礼をしたいんだ」

 「はぁ」

 そういえばそんなことを言っていたな。今の今まで忘れてしまっていた。

 「明日はどうだろうか?と言っても、私の予定が明日くらいしか空いていないから選択の余地はないんだけどね」

 海さんはへへへと笑う。相変わらず聞いていて悪い気はしない。

 「明日でも大丈夫ですよ」

 「そうかそうか!それは良かった。それじゃあ明日の朝に迎えに行くよ」

 「いえ。僕が行きますよ。住所さえ教えていただければ」

 「そうかい?悪いね。生憎と夕方は忙しいからね、助かるよ」

 「メモしますんで、言ってもらって大丈夫ですよ」

 「それじゃあ―――」

 意外と海さんの家は近かった。最寄りの駅から三つ駅を行くと、すぐ近くに見えるような位置に立地しているようだ。

 「では、十六時程には着くと思いますので」

 「うん」

 「失礼します」

 僕が電話を切ろうと携帯を耳から離すと、

 「あ、ちょっと」

 と、携帯から聞こえてきた。

 「は、はい」

 慌てて携帯を耳に当てる。

 「明日、日葵君も連れてきてね」

 「え?」

 「彼女にもお世話になったからね。それじゃあ頼んだよ」

 そこで電話は切れた。

 一方的に電話を切られ、しばらく耳に機械的な音が一定のリズムで響いていた。

 

 海さんがマリを誘うのは当たり前のことだ。

 あの日海子ちゃんと一緒にいたのはマリと僕だから。でも、マリを海さんの家に連れて行くのは無理だ。マリは今も入院中だし、足はもとより腕も動かない。

 そのことを海さんは知らない。

 今からでも電話して謝っておくか。

 そうは思ったが僕から謝るのはどこかずれている気がしたし、今は学校に遅刻しそうだったから後回しにすることにした。


 *

 

 放課後。

 いつものように佑と岬が俺の元に駆け寄ってくる。

 「ねえねえ。私たちが帰った後、日葵ちゃんと何話したの?」

 岬が少し不機嫌な顔で聞いてきた。

 どうして不機嫌なのかは知らないし、別に知りたいとも思わない。

 「・・・別に」

 マリの腕の事を話そうか迷ったがやめた。こういうことは勝手に他人の口から伝えてほしくないだろう。それに本人は俺にも隠そうとしていたくらいだ、この二人に伝えたら怒られるかもしれない。

 「本当にぃ?」

 「本当だ。なんでもない、ただの世間話だよ」

 岬は何かに納得していない様子。腕を胸の前で組んでじっと僕の目を見つめてくる。その視線に耐えられず、佑の方に視線をそらすと、何故か佑はニヤニヤと笑っていた。まるで俺は分かっているぞと言いたそうな顔だ。

 「なんだよ」

 その顔に少し腹が立って声を掛けた。すると、

 「俺は分かってるぞナツ君」

 予想通り過ぎてなにも面白くない。そして腹が立つ。

 「なあ、マリの連絡先を知らないか?」

 佑の言葉を努めて無視し、今度は岬に声を掛けた。

 僕の言葉を聞いて、岬の眉間にしわが刻まれた。どうしてよ、と言いたそうな顔だ。

 「どうしてよ」

 そう来ると思った。

 「・・・別に」

 俺とマリと海さんとの事情を説明するのはいささか面倒くさい。

 そう思って僕は適当に返事をした。すると、岬の眉間のしわがさらに深くなった。

 「・・・」

 岬は眉間にしわを寄せたまま動かず、腕を組んで仁王立ちしている。そして、何かの答えに行きついたのかメモ帳の切れ端に電話番号らしき数字を書いてどこかへ行ってしまった。

 「どういうことだ?」

 すかさず佑に聞いてみる。

 佑の顔はまだニヤニヤと腹の立つ顔をしていた。

 「理由に気づけないお前は鈍い男だとだけ言わせてもらおう」

 それだけ言うと佑は岬の後を追いかける様に教室を出て行った。

 気付くと周りには誰もいない。教室に残ったのは僕とメモの切れ端だけ。

 いつもはもう少しにぎやかな教室がこれだけ静かだと虚しさを感じるが、電話をかけるにはちょうどいい。

 僕はメモの切れ端を手に取り、書かれている番号を打ち込んでいく。最後まで打ち終わるとコール音が教室に響いた。

 

 ―――プルルルル―――

 ―――プルルルル―――

 ―――プルル―――

 

 三コール目で応答した。

 「はい」

 電話の相手の声はとても綺麗だった。これは間違いなくマリだ。

 「もしもし。ナツだ。マリか?」

 不要の質問だったか。

 「あ、ナツさんですか?知らない番号だからビックリしました。そう言えば連絡先交換していませんでしたね」

 電話の相手がエヘヘと笑う。マリで間違いない。

 「今、大丈夫か?」

 「ええ、大丈夫ですよ。寧ろ暇なくらいです」

 電話の先からマリの息遣いが聞こえる。マリはクスクスと笑っているようだ。

 今日のマリは機嫌がいいらしい。そう思うと、どこか嬉しくなっている自分がいた。

 「今日の朝、海さんから電話が掛かって来たんだ。明日うちに来てくれって」

 「へー。良かったじゃないですか」

 「他人事みたいに言ってるがお前も誘われたんだぞ」

 「え!?」

 どうして、と聞きたそうな返事だ。でもどうしてとは帰ってこない。恐らく自分で理由を考えて、答えを導こうとしているんだ。

 「私も海子ちゃんと一緒にいたからでしょうか」

 これがさしずめ答え合わせといった所か。どこかの二人とはだいぶ違う。

 「そういうことだろうな。どうなんだ?外出とか」

 ダメもとで聞いてみる。入院中だし、表面では笑っているが腕が動かなくなって辛い思いをしているはずだ。

 「いいと思いますよ。一日くらいなら。別に病気ではないですし、痛みもありませんから」

 予想外にいい返事が返って来た。

 どうやら入院と言っても、体を休めているだけで、多少なら外出しても大丈夫らしい。海さんの家は病院からも近いから好都合だ。

 「そうか、なら明日学校が終わったら迎えに行くよ」

 「はい、ありがとうございます」

 「それじゃ」

 

 ―――プープープー―――

 

 電話から定期的に変な音がする。この音が僕を現実に引き戻し、視界に夕方の教室を映し出した。電話をしていたときはマリの声に集中していて教室が見えていなかったみたいだ。

 教室に一人残る僕。電話が切れた途端に孤独を感じた。まるで、独りでいる僕を、頭上から他人の目で見ている気分になってくる。そして、他人の目から見える僕の姿はやけに小さく惨めだ。

 どうしてこんな気分になってくるのか。それはきっと、マリが人魚かもしれないと心のどこかで考えているからだ。

 

 体が重い。取り敢えず今日は帰って早く寝よう。

 結局僕は独りなんだと、そう思う。

 

 *


 タクシーに乗って病院に向かう。窓から見る空は快晴、綺麗な夕焼けが街を覆っている。そんな広い空が僕の小さな心を浮き彫りにしているみたいで少し怖かった。

 病院に着くと、愛想のよさそうな男のタクシードライバーが言った。

 「兄ちゃん。彼女さんでも入院してんですかい?元気出しなよ、そんな暗い顔してちゃあ見舞いされる方も暗くなるってもんでさ。明るい顔で、な?」

 彼は両手の人差し指で自分の頬をグイッと上げて笑って見せる。彼の顔は笑顔が似合っていた。

 「はい。そうですね、ありがとうございました」

 僕は彼に待っておくように伝えて車を出た。病院に入ろうとすると、笑って生きようぜと後ろから聞こえた。本当に明るい人だ。

 

 エントランスに入るとまず耳に入って来たのが、壁についているテレビの音。

 『―――んじつはとても気持ちのいい日でしたが、二週間後には大きな勢力を持った台風が日本を直撃するとの事ですので、今から準備をしておくといいでしょう。それでは次の―――』

 どうしてテレビの音が聞こえるのか、それにやけに大きく聞こえてくるのか。不思議だったが、エントランスに人が全然いないからだと気が付いた。 

 そんなことよりもマリに会わないと。

 僕は一直線にマリの病室に向かって歩いた。

 「あの。ナツさん?」

 すると、エントランスにいた一人から声を掛けられた。

 聞き覚えのある声。というよりマリだ。

 「マリ?そんなところにいたのか。病室にいるのかと思った」

 「い、いえ。一番目立つところにいようと思って。まあナツさんは気が付かなかったみたいですけど」

 彼女は心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。僕は咄嗟に目をそらしてしまった。

 「と、とにかく行こうか」

 「はい」

 僕はマリの車椅子を押して、再びタクシーに戻った。

 

 「おや?やっぱり彼女さんでしたか」

 タクシーの傍まで行くとドライバーの彼が窓から顔を覗かせていた。

 興味津々の目でマリと僕を見てくる。

 「か、彼女じゃありませんよ。私なんかが・・・」

 彼に彼女と言われて恥ずかしかったのかマリが俯いてしまった。

 「いやいや謙遜しなさんな。あんたは魅力的だと思いやすぜ?なあ兄ちゃん」

 「え?あ、ああ」

 ドライバーの彼は僕を見てニコニコとしていた。きっと彼氏っぽい返事を期待しているのだろう。でも僕はマリの彼氏じゃない。

 とりあえず僕は曖昧に言葉を濁した。ドライバーは少し苦笑いをして車のドアを開ける。

 僕はマリを抱きかかえて車の席に座らせて、車椅子を畳み、トランクにしまう。僕はマリの乗った反対から車に乗り込んだ。

 「やっぱり彼氏っぽいねえ兄ちゃん」

 ニヤニヤとするドライバー。顔を赤らめるマリ。溜息を吐きたくなるな。

 「出してください」

 車は発進した。

 

 *

 

 タクシーの中でも、電車の中でも、成瀬家に向かう道のりも特に変わったことはなく。何気ない会話。何気ない沈黙。心地のいいものだった。

 気が付くと目的地まで来ていた。まるで何もなかった空間に、それがポンと出てきたかのような感覚だった。

 しかし、何気なく出てきたにしてはそれは、成瀬家はびっくりするほど立派なものだった。

 立派な門が僕たちを迎えてくれた。その奥に見える建物は、家と呼ぶには大きすぎだ。

 「大きいですね」

 「すごいな」

 僕たちが成瀬家の有様に唖然としていると、何処からか声が聞こえてきた。

 『やぁ二人とも、よく来てくれた。今遣いの者を出すからちょっと待っててね』

 海さんの声だった。どうやら門構えのどこかにカメラとマイクが供えつけられているらしい。それに遣いの者を出すとか言っていたが執事でもいるのだろうか。

 「ようこそいらっしゃいました。成瀬様がお待ちです。さぁどうぞ中へ」

 その通りだった。

 黒い制服を身にまとった若めの男性が僕たちを迎えに来た。

 はっきりと執事と分かる立ち振る舞いと格好。まるで俺が執事だと主張されている気分になってくる。

 海さんは正真正銘のお金持ちなのだろう。何をすればこんなにもお金を稼げるのか聞いてみたい。

 そんなことを思いながら門をくぐり、家に入ると、玄関の奥には大きなホールのような空間が広がっていた。そして、その中央には笑顔の海さんと相変わらず無表情の海子ちゃん。無表情だが彼女は嬉しそうにしている。

 「ようこそ我が家へ。今日はゆっくりしていってくれ」

 海さんは僕たちに近づいてきて、僕の手を握り、そう言った。そして、マリの手を握ろうとしたとき彼は異変に気が付いた。

 「日葵君。君は腕が・・・動かないの、かい?」

 前に会った時にはマリの腕は動いていたからきっと驚いているのだろう。海さんの顔はとても痛々しい顔をしていた。顔のバランスは崩れて今にも泣きだしそうな。どこかに痛みを感じているみたいな顔だ。これが同情、共感。すぐにそう分かった。

 「気にしないで下さい」

 「そうか。確かに私が気にしたってこれは日葵君の問題だからね」

 海さんはマリに向かって言っているように、きっと自分に言い聞かせていたんだと思う。いつもの海さんの顔に戻った。

 「ささ、こっちだ」

 海さんは僕たちの前を先導し始めた。

 海さんが僕たちに背を向けて初めて気が付いたが、海さんの背中には海子ちゃんがくっついていた。今は僕たちの方を振り返って手を振っている。相変わらずの無表情で。

 「やっぱりかわいいですねぇ海子ちゃん」

 マリが頬を緩めて笑った。その姿がとても可愛らしい。

 僕は黙ってマリを押し続けた。

 (マリは人魚かもしれない)

 ふと、この言葉が頭の中をよぎった。今は考えても仕方ない。自分に言い聞かせてもその言葉は頭から離れない。

 

 頭の中で色々な言葉を反射させていると、海さんはある部屋に入った。その部屋はシンプルで、真ん中に木製のテーブルと、それを囲むようにして置かれた椅子。あとは少し装飾のための絵画や花瓶があるだけ。

 海さんは僕とマリを隣同士に座らせ、自分は海子ちゃんを膝の上にのせて僕等と向かい合う様に座る。

 「久しぶりだね二人とも。元気だったかい?って、少なくとも日葵君は元気ではないかな」

 「はい」と、簡単には言えなかった。それはマリも同じようで、何も言わずに下を向いている。

 「?」

 何も言わずに首を傾げる海子ちゃん。何かあったのかと聞きたそうだ。何故か前のように積極的に聞いては来ないが特に理由は無いのだろう。小学生の気まぐれかなにかか。

 「そっか。詳しい話を聞かせてもらってもいいかい?それとも、一人ずつの方がいいならそうするが。もちろん君たちが話したくないのなら無理強いはしないよ」

 僕はアイコンタクトを取ろうとマリの方を見る。マリはまだ下を向いていた。

 「僕は大丈夫です。むしろ海さんに聞きたいことがあります」

 「そうか・・・日葵君も気が向いたら話聞くよ。僕が言うことじゃないと分かっているが、人に話を聞いてもらって楽になることもあるよ」

 マリは俯いたまま「はい」と答える。話すか話さないか迷っているのか。表情からは読み取れない。

 「それじゃあ日葵君。海子を頼むよ。遊んでやっていてくれないか?」

 成程。素直にいい考えだと思った。

 海さん、大人よりも子供の方が話しやすいこともあるかもしれない。たとえその話について何を言われたとしても子供の言っていることだからと自分に言い訳するという逃げ道ができる。それに子供というのは案外馬鹿にできない。ある程度成長し固まってしまった脳みそには出すことができない考えやアイデアを出してくれることもある。今のマリにはちょうどいいかもしれない。

 「分かりました。任せて下さい」

 そう言ってマリは微笑した。その姿に再び心臓が跳ねあがる。その衝撃は一瞬だけで、すぐにおさまった。どうしてか、と問われれば分からないと答えるしかない。なぜ彼女の姿に心臓が驚くのか、真相は暗い闇の底だ。

 「うん。頼もしいね。それじゃあ隣の部屋に居るから何かあったら呼んでくれ」

 海さんはそういうと、僕の背中を軽くたたいて隣の部屋に入っていった。僕もその後を追う。後ろではマリが執事さんに別の部屋に促せれる声が聞こえた。


 入った部屋の中は先の部屋よりも簡素だった。恐らくだが、さっきの部屋は客室で、この部屋は普段客を入れるような用途では使われていないのだろう。

 家具は最小限で、目ぼしいものは机と椅子くらいだ。これだけ見れば、家は大きくても実は貧乏なんじゃないかなんて下世話なことを想像してしまう。執事なんて雇っているくらいなのだからそんなことは無いはずだが。

 「さ、座ってくれ」

 海さんが椅子に座って言った。机の上には何処から出してきたのか、洋菓子が少し置いてある。海さんはその一つを既に頬張っていた。

 言われたとおりに海さんの向かいに座る。海さんは口の中にあるものをすべて呑み込むと、手を組んで聞いてきた。

 「調子はどうだい?」

 さっきと同様何も答えられない。

 調子は良くない。でもそれを正直に答えてしまうとあの日、泣かせてもらった海さんに失礼な気がした。

 「・・・っと。これはさっき聞いたね。ああーはは、私はこういうのが苦手なんだ。回りくどいのが」

 海さんらしいな。

 「だから単刀直入に聞くね。マリちゃんと何かあったのかい?」

 まっすぐな瞳だった。本当に心配してくれているのが分かる。真剣に僕の目を見て、聞いてくれようとしてくれている。それだけで僕は嬉しかった。

 「どうして、そう思うんですか?」 

 嬉しかったから。僕も海さんと真剣に話すことにする。

 「うん。あくまで私から見たナツ君の様子で、ただの推測でしかないんだが」

 「はい」

 「私には、君が日葵君を怖がっている。もしくは避けたがっているように思えるんだ」

 「は?」

 「うん。本当に私の推測に過ぎないから違っていたらすまない。でも私にはそう見えてしまうんだよ」

 「・・・」

 全てを見透かされている。海さんには心を読む能力でもあるに違いない。本当にそう思った。頭ではそんな非科学的で世界のバランスを崩しかねない能力なんて存在しないと分かっていても、海さんにはありえない能力が備わっているとしか思えなかった。

 「海さんには何が見えているんですか」

 「へへへ。別に、ただ人間観察が得意なだけさ」

 ちょっと嬉しそうに笑う海さんが僕の考えが馬鹿だということを証明してくれた。それに、こんなに気持ちよく笑う海さんなら話してもいい気がする。この人なら信じてもいい気がする。

 「あの事件、と言えば海さんはわかるでしょうか」

 「・・・うん」

 海さんは悲しそうにうなずいた。

 「僕はあの事件の事を個人的に人魚事件と呼んでいます」

 「人魚事件?それはどうして」

 海さんはとても興味深そうだった。体を前のめりにして聞いてくる。

 「僕がなぜそう呼んでいるかは話の中でわかってくると思います」

 「そうか。じゃあ続けて」

 「はい。僕は人魚事件以来、同年代の人間と関係を持つことをやめました。友達は勿論、ただ一言、言葉を交わすことでさえ。怖かったんです。もう一度親しい人間を失ってしまうのが。だから、そんな思いをするなら人間関係なんて持たない方がいい。そう思っていたんです。そんな生き方をしてきて六年、不思議な奴らと会いました。佑と岬というのですが、そいつらは突き放しても突き放しても関わってこようとしてきました。正直辛かったです。どうして僕に関わろうとするんだと悩んで悩んで、その上でまた突き放そうとしました。でも、やっぱり心のどこかで喜んでいた自分がいたんだと思います。夏休みのある日に一緒に海に行くことを許してしまいました。そこで会ったのが―――」

 「日葵君だというわけか」

 「はい」

 納得したようにうなずく海さん。そして、また嬉しそうに微笑して言った。

 「そして私たちにも会っているね。何か運命を感じるよ。へへへ」

 海さんは気持ちよさそうに笑っているが、僕には愛想笑いをすることもできない。

 「ええ。確かに運命かもしれない。佑と岬に出会ったことも僕の人生の分岐点だったかもしれませんが、それはきっと微々たる違いに過ぎない。海に行ったあの日から僕の人生は確実に変わり始めました」

 海さんは笑顔を真顔に変えて、足を組んだ。とても真剣な顔だ。様になる。

 「僕はマリにあった瞬間に、この人なら大丈夫だ。そう思ったんです。この人ととなら一緒にいても大丈夫だと。なぜだと思います?」

 「自分と同じ、もしくは同じような境遇にいると感じたから。人間は皆、そんなものさ」

 「そうですね。その通りです。でも、マリと親しい関係を持ったことで僕の心が緩み始めた。佑と岬にも心を許し始めてしまったんです」

 海さんは足を組み直して腕を組み、手を顎に当てて考え込むように「うーむ」と唸った。そして、ゆっくりと確かめる様に口を開いた。

 「要するに、君は日葵君という存在が君の誓いに亀裂を入れた。人生が狂い始めたのは日葵君のせいだと、そう言いたいのか」

 海さんの言い方が悪い。そんなことを言えた立場じゃない。僕はイメージが悪くない言葉を選んでいただけで、海さんの言っていることとは僕の言っていることと同じだ。

 「・・・はい」

 「そうか。続けて」

 海さんの淡々とした言葉遣いが妙にプレッシャーだった。それでも、聞いてほしかった。

 「狂った人生は、そこそこ楽しいものでした。これが友達か、そう思う日もありました。そして、そんな感情を抱く度に四人の顔が浮かんだ。雄太、仁、つかさ・・・空汰。どうすればいいのか分からなかった。マリたちと過ごすのは楽しい。でも、四人との過去を蔑ろにしたくない。僕はどうすればいい。ずっと分からなかった。悩んでいると、突然マリが倒れたという知らせが届きました」

 「もしかして、それは腕の事と関係が?」

 「はい」

 「そうか。お気の毒に」

 また海さんは痛々しい顔になった。そんな海さんを無視して、僕は話を続けた。

 「マリの病室に駆けつけて、病室に入った僕は、人魚を見たんです」

 「人魚・・・見た・・・病室で?」

 「もちろん、それは僕の見間違いで実際はマリだったんですが」

 一旦間を置く。今から話そうとしていることは、あまり話したくない。きっと海さんに嫌われる。海さんは怒ってしまう。でも、やっぱり聞いてほしい。聞かせてほしい。海さんの答えを。

 「海さん。人魚って、信じますか?」

 「人魚ねえ」

 何を言っているんだと言われてもおかしくない、それほど素っ頓狂な話だ。真面目に友達関係の相談をしていたのに、いきなり人魚なんて架空の生物の話を持ち出されるのだから。

 海さんは真面目に考えていた。さっきと同じくらい真剣に。

 ある程度考えて、海さんは言った。

 「やっぱり僕は信じられないかな。人魚は人間が作り出した架空の生物。どうして急にこんな話を?もしかして人魚事件の名前の由来と関係があるのかい」

 「あの事故の日、実は僕も死ぬはずだったんです。みんなと一緒に」

 海さんの眉が中央に寄った。眉間でしわができ、機嫌が悪くなったのが一目でわかる。

 「みんなと一緒に沈んでいるとき、ふと体が浮いたんです。気が付くと僕は砂浜に寝そべっていました。意識は遠のいていく、その時に見たんです。人魚を」

 海さんにさっきまでの真剣な顔は無く、完全に不機嫌になってしまっている。

 こうなることは分かっていた。自分の息子が死んだ事件のことを、意味わからないことで掘り返されているのだから当然だ。

 僕はそう思った。それは不正解だった。

 「要するに君は自分一人が生き残ったのは人魚のせいだと言いたいんだね?」

 「え?」

 明らかに強い口調。

 「君は自分だけ海から這い上がって来たことを人魚のせいだと言っているんだね?」

 「いや、違います」

 「いいや違わない。君は自分以外の友達を助けられなかったと言う事実から逃げるために人魚という曖昧な存在を言い訳に使っているんだ。そうやって罪悪感から少しでも逃げようとしている」

 海さんは息苦しそうに大きく呼吸をした。そして、さらに続ける。

 「それだけじゃ飽き足らず友達を作らない理由にも人魚を使っていたんだろう?そうなんだろう?」

 確かにそうだ。

 人魚への恨みだとか、怒りだとか、そんなことを自分に言い聞かせて逃げていた。

 何も言い返せない。ただ、俯くことしかできない。

 「君は弱い。何もかも自分以外のものに理由を擦り付けて、自分に言い訳して逃げてる。君はもう逃げるのは止めるべきだ。逃げるな!自分からも、友達からも!向き合って、手を伸ばせ!その手を引っ張てくれる人がいるはずだ!今ならまだ間に合う、君はもう海から出るべきだ」

 泣きそうだった。

 自分の弱いところを何もかも指摘して、その上で助けようとしてくれている。こんなのただのお礼じゃない。息子を死なせた男にできる対応じゃない。

 なんて大きな人なんだ。なんて凄い人なんだ。

 僕はこの人を一生尊敬して生きていくことになるだろうと確信した。

 

 でも、

  

 「もう、僕の手なんて誰にも届きませんよ」

 海さんは驚いて様な顔をして、自嘲的に笑い、立ち上がった。そして、

 「すまない。出過ぎたことを言ったね。日葵君の所へ戻ろうか」

 「はい」

 僕たちは部屋の扉の前に立った。

 「もし、人魚が日葵君だったらどうするつもりなんだい」

 僕に背を向けたまま海さんが呟いた。僕に聞いているのか分からないくらいの声量だったが、確かに僕に訪ねている。

 「分かりません。でも、今は力になってやりたいと思います。僕はだめでも、マリならまだ大丈夫かもしれないから」

 僕が答えると、海さんは「そうか」と静かに笑い、僕の頭をくしゃっと撫でた。海さんの手は凄く大きく暖かかった。

 

 僕たちがマリの元へ戻ると、マリは海子ちゃんと絵本を見ていた。でも、普通とは少し違う光景で、まるで海子ちゃんがマリに絵本を見せてあげているように見えた。

 海子ちゃんがマリの膝の上に乗り、絵本をマリの目線の高さまで上げて読む。すると、海子ちゃんの手がだんだんと下がってきて、はっと気づいたかのようにまた絵本を上げる。それを繰り返しながら絵本を見ていた。そんな二人はとても楽しそうだった。

 「あ、ナツさん。海さん」

 先に僕たちに気が付いたのはマリだった。どこか気まずそうに、目が合うとすぐに目をそらされた。

 僕が何かしただろうか。

 「あ、パパとお兄さん。何してたんですか」

 次いで海子ちゃんも気が付いた。海子ちゃんは海さんを見つけると、絵本なんて微塵も興味がないように、海さんに駆けつけて、「ん」と抱っこをねだった。この子は変わらないな。

 「まったく海子は甘えん坊だなあ」

 と言いながらも嬉しそうにニヤニヤする海さん。とても父親らしい人だと思う。自分はこんな人になれるだろうか。きっとなれないだろうな。

 「日葵君どうもありがとう。海子と遊んでいてくれて」

 「いえいえ、私海子ちゃんのこと好きですから」

 「そうかそうか。それは良かった」

 海さんはそう言いながら海子ちゃんをおろす。そして、その場の空気を切り替えるためにか手を叩いた。

 「よし!それじゃあ二人共。今日二人を呼んだ大きな目的を今からお披露目しようじゃないか!」

 海さんが大きく手を広げて、大きな声で言った。すると、奥の扉からさっきの執事さんと若いメイドさんが封筒を二つ持って出てきた。

 彼はそれを僕たちの目の前に置くと、海さんの後ろに控えた。

 「開けてみてくれ」

 海さんの顔には自身の色が見える。僕たちを喜ばせる自身があるのだ。

 マリは中身を見る前から嬉しそうにしている。幸せな奴だ。

 腕が動かないマリの代わりに僕がそれを開ける。マリは僕の手つきをじっと見ていた。

 「うわ~!」

 中には二枚の飛行機のチケット。行先には沖縄と記されてあった。

 「どうしたんですかこれ?」

 マリがとても嬉しそうに海さんに聞く。聞かれた海さんも、待ってましたと言わんばかりにドヤ顔で答えた。

 「君たちと出会ったのは海!ならば、お礼をするならやっぱり思い出深い海を提供するのがいいと思ってね!!君たちが沖縄に着くと私の知り合いが別荘を貸してくれる。なんとそこには貸し切りのプライベートビーチがあるのさ!!」

 はっはっはっはっと、自慢気に笑う海さん。ちょっとうざい。でも、海さんの気持ちはとても嬉しい。僕は泳げないけど、海さんの気持ちを無下にしたくない。

 「ありがとうございます」

 僕は素直にすごいと思ったし、海さんの心意気にありがたさを感じた。あそこの海以外ならもしかしたら大丈夫かもしれないし。

 だが、マリは申し訳なさを感じているのか、乗り気ではないように見える。顔が引き攣っていつものような綺麗な笑顔じゃない。海さんとの話から帰ってきてからどこか変だ。

 「・・・あ、ありがとうございます」

 「うむ。楽しんできたまえ」

 海さんはマリの異変に気付いていないらしく、僕たちの方に優しく手を置いてにっこりと笑った。その笑顔がまた嬉しかった。

 しかし、問題が発生した。 

 「私もお兄さんとお姉さんと海行きたいです」

 海子ちゃんが寂しそうに海さんの袖を引っ張っていた。

 「私も一緒に、遊びに行きたいです」

 海子ちゃんが珍しく元気がなかった。

 海子ちゃんは頭がいいから、チケットがないと行けれないことは分かっているだろう。それでも、行きたい気持ちが抑えられないんだろう。だから声がいつもより小さくて寂しそうなんだ。

 「海子。これは二人のためのチケットで海子の分はないの。分かっているだろ?だから、今回は諦めなさ―――」

 「いいじゃないですか」

 海さんの言葉を遮ったのはマリだった。見ると、マリもすごく寂しそうな顔をしている。さっきの引き攣った顔ではなくて本当に寂しそうな顔。

 「日葵君。どういうことだい?」

 「このチケットは私とナツさんの友人に譲って、私たちは私たちが初めて出会った海に遊びに行くということです」

 得意げなマリと納得したような海さん。僕もこれには賛成だ。海子ちゃんにもお礼がしたいから。

 「いいんですか?」

 不安気に首を傾げる海子ちゃんはまだ海さんの袖を引っ張っている。

 「もちろんです!」

 「やったー!」

 この日僕は初めて海子ちゃんの笑顔を見た。



 話し合った結果、僕たち三人は一週間後の土曜日に海に行くことになった。

 海子ちゃんは、僕たちが帰るまでずっとはしゃいでいて、正直手が付けられない程だったがそれも普段は見られない海子ちゃんで新鮮だった。

 結局僕たちは夜の八時まで成瀬家にいた。海さんに泊まって行けと言われたが、マリの病院が許さないだろうと断った。

 帰り際、海さんに「日葵君はきっとまだ悩みを抱えている。日葵君の悩みを解消するのは君だと信じているよ」とウィンクされた。何をしてもこの人はかっこいい。

 ちなみに、チケットは佑と岬に譲るつもりだ。僕とマリの共通の友人――友人と言っていいものか分からないが――といえばこの二人しかいないからな。

 

 *


 マリを病院に送り届けた後、僕は家に帰って布団に転び、一人考えていた。

 マリの抱える悩みとは一体何なのか。力になりたいとは言ったが僕にそんな力があるのか。こんなこと考えていたって仕方がないのは分かっている。考えていないと落ち着かないのだ。

 考えながら天井を見ていると、大きな欠伸が出た。左目からは涙が出てくる。この時初めて自分が眠たいと感じていることに気づいた。

 時計を見るとすでに午前四時。

 「寝るか」

 僕はそのまま目を閉じた。この日は不気味なほどあっさりと眠ることができた。


 *


 マリの事を考える日が続き、カレンダーを見ると土曜日。今日はマリと海子ちゃんと海に行く日だ。

 この事に気が付いたのが朝の九時。海さんの家に海子ちゃんを迎えに行くの約束の時間が午前九時半。圧倒的遅刻だ。

 僕はすぐに電話を手にしてまずは海さんに電話。しかし、何回コールしても出ない。仕方なく「おはようございます。ナツです。今日少し・・・いや、大分遅刻しそうです。申し訳ありません」と取り敢えず留守番を入れておいた。これで許してくれるかは分からないが。

 次にマリ。電話帳からマリを探してすぐに電話を掛ける。するとマリは一コール目で出た。

 「もしもし」

 「もしもし僕だ。ナツだ」

 「はい。おはようございます」

 マリはいつも通り綺麗な声をしていた。電話越しでも透き通った声だ。朝から聞くには贅沢かもしれない。

 「すまないが迎えに行くのが少し遅れそうだ」

 すまないと言いつつ、業務連絡のようになってしまった。僕はきっと本当にすまない気持ちになれていないんだ。そうなのかそうでないのかも分からない。

 「そうですか。では海さんの家の前の駅集合にしますか?そしたらナツさんが病院による手間が省けると思いますし」

 「え?」

 このマリの提案はおかしい。だって、

 「お前はどうやって駅まで行くつもりだ?一人じゃ無理だろ」

 僕が困惑しながら聞くと、マリは待ってましたと言わんばかりに自信満々で言い放った。

 「世間の人は意外といい人ばかりなんですよ」

 「は?」

 言っている意味が分からなかった。世間の人?いきなり何を言っているんだ、何が関係あるというんだ。

 「つまりですね。ヒッチハイクの様に、タクシーの様に、その辺の人に駅までお願いしますと言うと連れて行ってくれるのです。凄いでしょう」

 直接マリの顔は見えないが、今どんな顔をしているか大体わかる。

 「ま、手段はお前に任せるがくれぐれも迷子になったりするなよ」

 「はい。それではまた後程」

 よし。これで連絡完了。あとは自分の身支度と海の準備をするだけ。 

 僕はすべての作業を済ませて急ぎ駅に向かった。


 一駅二駅三駅目で電車を降りる。改札を抜けてマリを探す。

 車椅子だから目立つはず・・・いた。

 ちょうど手伝ってくれたであろう男に人と別れるところだった。マリは男の人に笑顔を向けている。それが何故か鬱陶しく思えた。

 「すまない!」

 大きな声でマリの元に急いで駆け寄る。自分が出したくて大きな声になったんではない。気が付いたら大きな声になっていた。

 自分の存在をさっきの男の人に知らしめるために自然となってしまったのか?そんなまさかな。

 キョロキョロしていたマリはびっくりしていたが、にっこりと笑ってこっちを振り返った。

 「おはようございますナツさん。急ぎましょう」

 マリは口には出さないが、海に行くことを楽しみにしているみたいだ。なんとなくだが声がいつもよりノッている。

 「よし」

 僕たちは足早に海さんの家に向かった。


 僕たちが海さんの家に着くと、海さんと海子ちゃんに黒服の執事が門の前に立っていた。

 執事は無表情。何を考えているか分からない。海さんは海子ちゃんの水着を姿を見てニヤニヤしている。明らかに嬉しそうだ。そして、肝心の海子ちゃんは、やはり無表情。だがそれでいて笑っているのが分かる。

 「遅れて、すみま、せん」

 僕は息を荒げながら言った。車椅子を押して走るのは予想外に辛かった。汗が穴という穴から噴き出してくる。それを拭いとる暇もなく走ったから気持ちが悪い。

 「いやいやいいんだよナツ君。それよりほら、見てよこの海子の水着姿!かわいいなぁ海子は」

 「当たり前です。私はパパの娘です!」

 「あっはー。かわいいなあ。食べちゃいたいなあ」

 何と親バカな父親か。僕に説教をした男とは思えない。でもそこが海さんのいいところでもある。

 「私は早くいきたいのです。お兄さんお姉さん。行きましょう」

 しばらく海さんのお人形になっていた海子ちゃんは耐え切れなくなって勝手に歩き出した。

 向かう先はちゃんと分かっているようで、足取りはしっかりと海の方に向かっている。

 「あ、それでは行ってきます。夕方には戻ると思いますので」

 「海子ちゃんの事は私たちに任せて下さい」

 マリが自信満々の顔で顎をクイッと上げて言う。きっと頭の中では胸を手でたたいているに違いない。

 「うん。任せたよ」

 海さんが僕たちに頷くと、隣に立っていた執事が海さんの前に出た。

 「私もご一緒致しましょうか」

 執事は無表情だったが、海子ちゃんの事が心配のようだ。ちらちらと海子ちゃんの方に目線をやっている。

 「いや。この二人なら大丈夫。三人で遊びに行かせてやりたいんだ」

 「左様でございますか。失礼しました。それではお二方、宜しくお願い致します」

 執事が僕たちに頭を下げる。別に頼まれなくてもそのつもりだったが、頼まれたからには絶対にいざということが無いようにしないとな。

 「はい」

 「はい。それでは行ってきますね海さん。執事さん」

 マリが元気よく言った。僕はそれを聞いてマリの車椅子を押す。少し先で待っていた海子ちゃんも僕たちを迎えに来て、一緒に歩き出した。

 「行ってらっしゃい。空・・・汰・・・」

 海さんの言葉にマリを除く全員が海さんを振り返った。

 海さんは自分でも驚いた顔をしていた。口を手で押さえ、しまったと顔を青くしている。そして、気まずさから逃げるように「へへへ」と笑った。

 誰も何も言わない。ただ、僕はこう答えた。

 「行ってきます」

 

 そうして僕たちは海に向かって歩き始めた。少し歩いて、海子ちゃんが意を決した顔をして僕に「お兄ちゃん?」と聞いて来た。ただ僕は「お兄さんだよ」と返すほかなかった。

 

 *


 海はやはり人で溢れかえっていた。カップルもいれば家族もいて、友達と来たであろう高校生の集団もいる。

 その中で僕たちは周りからどう見えているのか少し気になった。車椅子の少女にその膝に乗る小さな女の子と、それを押す男。こんな奇妙な組み合わせはない。

 「なあマリ。僕たちって周りからどう見えてるんだろうな」

 マリは首をひねって考る仕草をする。すると、マリの膝の上から海子ちゃんが答えた。

 「夫婦とその子供じゃないかです?」

 「え?」

 「は?」

 そんなことを考えてもいなかった僕たちは心底驚いた。そして、想像して恥ずかしくなった。

 

 車椅子に乗った大人のマリを僕が押している。そのマリの膝の上には、ちょうど海子ちゃんのように、僕たちの子供がちょこんと座っている。

 そんな想像が容易にできた。

 でもそれはマリが人魚じゃなかったらの話だが。


 ふとマリを見てみる。マリの顔は海さんの家に行った時の様に引き攣っていて、とにかくいつものマリの顔ではない。

 僕の視線に気が付いたのかマリが僕を振り向いた。その瞬間にはいつもの顔に戻っていて

 「あ、ナツさん顔が赤いですよ?」

 とマリはクスッと笑って言った。

 「お前はなんか変だな」

 僕はたまらずに言い返した。すると、エヘヘとマリが笑った。このやり取りが心を安らげる。

 二人で笑っていると、海子ちゃんが不機嫌そうに、

 「さあ、早く遊んでください」

 と言って、マリの膝から降りて歩き始めた。

 僕たちも海子ちゃんに連れられて、今日の目的に向かう。

 

 「ひとまず場所を取りましょう。荷物置いたりしないと満足に遊べませんからね」

 マリが提案した。僕もそのつもりだったし、早めにしておかないと場所がなくなってしまうかもしれないからな。

 「お兄さんお兄さん。あそこがいいと思います」

 海子ちゃんが僕のズボンを引っ張って、ぽっかりと空いたスペースを指さしている。

 「でかしたぞ海子ちゃん」

 そう言って僕は海子ちゃんの頭を撫でた。すると彼女はドヤ顔で僕を見つめる。そして、さっき指さしたスペースまで走っていった。

 「待ってください海子ちゃん。一人じゃ危ないですよー。はあ、まったくもう」

 「まあまあ。楽しみなんだよ。少しくらいいいじゃねえか」

 「ふふ。そうですね」

 僕たちも海子ちゃんの元へ向かい、シートを敷いてパラソルをさして、場所を無事確保した。

 

 「水着」

 「着ました!」

 「ゴーグル」

 海子ちゃんは頭に着いたゴーグルを僕の方に伸ばす。

 「よし、じゃあ浮き輪」

 次は腰の位置で持っている浮き輪ごと腰を突き出してくる。 

 「よし、それじゃあ行くか」

 「はい!」

 「いってらっしゃい」

 海子ちゃんは僕の手を引いて海に走り出した。

 マリは海で泳げないので、とりあえず荷物番をしてもらうことにした。

 かつては僕がただの付き添いとおまけの荷物番だったのに、まさか泳ぐ側――泳げるわけじゃないが――に回ることになるなんて思ってもみなかった。

 佑と岬と来た時の事を思い出しながら石油の海を眺めていると、腕に何か冷たいものがかかった。咄嗟に「冷たっ」と零れる。それを聞いて、海子ちゃんが鼻を鳴らした。

 「ふっ。まだまだですねナツさん。パパならこれくらい避けられてましたですよ」

 海子ちゃんは持っているゴーグルをくるくると回していた。そのゴーグルからは黒い液体が滴り落ちている。

 「言ったな!」

 僕は両手で黒い液体をすくい、海子ちゃんに向かって掛けた。すると、仕返しだと言って海子ちゃんがやり返してくる。

 前来たときは、こんな気味の悪い液体を掛け合って遊ぶなんてと思っていたが、これはこれでいいのかもしれない。少なくとも僕は今少し楽しい。

 

 気が付くと僕たちは黒い液体で体中が黒くなっていた。

 海子ちゃんの攻撃が止んだタイミングで、ずっと屈ませていた体を伸ばす。自然、視線を海子ちゃんに移すと彼女は何かを探してた。

 「海子ちゃん何か失くしたのか?」

 「はい。ゴーグルを」 

 「ゴーグルならまた買えばいいよ。そこの海の家にも売ってるし。さ、買いに行こう」

 海子ちゃんの手を引いて海を出ようとした。が、海子ちゃんは僕の手を振りほどいてまた探し始めた。

 「大丈夫です。まだ私探します」

 海子ちゃんはそう言って黒い液体の中を手で掻いて探す。「どうして」と聞こうとしたが、きっと理由なんてないのだろう。小学生なんてそんなものだ。僕はそう割り切って、海子ちゃんとは少し離れた場所を探し始めた。

 「お兄さん?」

 「二人で探した方がいいだろ?」

 「ありがとです」

 それから僕たちは夢中で探した。それでも、ゴーグルは見つからなかった。


 「おーい!ナツさん!」

 浜辺から聞きなれた美しい声が聞こえてきた。振り向くと、マリが知らない男女二人に車椅子を押されて波打ち際まで来ているところだった。

 「もうお昼ですよー!お昼にしましょう!」

 空を見ると、もうすでに太陽は真上から僕たちを照らしていた。

 (仕方ない。ゴーグルはまた後で探そう)

 「海子ちゃん。一旦ご飯を食べ―――ッ!!」

 海子ちゃんの手を引こうと後ろを振り向くと、そこには海子ちゃんの姿は無かった。

 僕はすぐに辺りを見渡した。海子ちゃんはまだ子供だから浅瀬にいるはず、どうせ少し移動しただけのはず。そう割り切って人ごみの中を探す。探す。しかし、海子ちゃんは見つからない。

 「どうしました?海子ちゃんは何処に?・・・まさか!」

 マリも僕の様子から異変を察知したらしく、周りの人に何かを必死に語り掛けている。恐らく海子ちゃんを見なかったか聞いているのだろう。

 僕は僕で今度は沖の方を探す。探す―――いた!!

 海子ちゃんは浮き輪の上に呑気に寝転がっていた。ゴーグルを探しつかれてそうしていたのだろうが、気付かぬうちに流されたのだ。

 僕は全力で泳ごうとした。

 はじめは良かった。ただ海子ちゃんを助けるために必死で、頭の中はそれだけだったから。

 だが、やはり身体は恐怖を忘れない。誰かを助けるために必死で泳ぐ僕が、仁とつかさと空汰を助けるために泳ぐ俺に重なったその瞬間。僕の身体は泳ぐことを止めた。そして、海に沈み始めた。

 「クソッ!クソッ!目の前なのに!!」

 「お兄さん!お兄、ちゃん!!」

 どれだけ手足を動かそうとしても恐怖で硬直してしまっている。

 次は、海子ちゃんを目の前にして沈む僕と友達を目の前に沈む俺とが重なった瞬間。僕は死を覚悟した。

 (つまらない、人生だったな)

 真っ暗な液体を行く僕の頭はやはり冷静で、人魚事件から後の事をものすごいスピードで何度も何度も振り返っていた。まさにこれが走馬灯ってやつなんだろう。

 走馬灯の内容にやけに佑や岬やマリが多く映っているのは、こいつらに会うまでの思い出が無さ過ぎるからか。今思えば本当につまらない奴だったな僕は。

 僕は目を閉じた。もう目を開けておくこともないだろう、開けていたって『タイヨウ』は拝めないのだから。

 僕が何もかもを諦めて目を閉じたその瞬間、黒い液体の中をぐんぐんと浮かび上がっていく僕と海の中をぐんぐんと浮かび上がっていった俺とが重なった。

 僕の身体は黒い液体の中を水面に向かってすごいスピードで進んでいく。こんなのまるで、あの日みたいじゃないか。


 *

 

 気が付けば僕は砂浜に寝転がっていた。

 空はもう赤色に焼けあがっていた。赤色の中を泳ぐ入道雲が僕を見下ろして馬鹿にされているみたいで腹が立つ。

 (あ。海子ちゃんは、どうなったか)

 顔を左に転がしてみる。僕の頭の隣には海子ちゃんの顔があった。

 「よかった」

 今度は無事みたいだ。あの時とは違う。

 もう一度空を仰いだ。今度の雲は笑っている気がした。

 (都合のいい雲だな)

 空を見上げているのがやけに気分が良くて、気持ちが良くて。ただゆっくりと時が流れていくこの時がどうしてか、どうしようもない程愛おしく思えた。

 「ナツさん」

 綺麗な声が聞こえた。

 まさかと、海子ちゃんを見るが、

 「お兄ちゃんそれはカエルですよぉ」

 海子ちゃんは小さく寝言を言っているだけ。

 だったらやはりこの声は・・・

 「ナツさん。目が覚めましたね」

 やっぱりこの声は、

 「マリ?」

 声は足元から聞こえた。見ると、マリがぐったりとして僕を見ていた。

 足の先にはひれのようなものが生えていて、腰から下には鱗もついていて、動かないはずの両腕と足は動いてはいるが、あれはマリだ。

 「マリ。その、ありが―――」

 僕は礼を言おうとした。

 マリは人魚だ。かつての僕なら人魚に礼を言うなんてありえなかったことだ。それでも今なら、心から礼を言える。

 

 それなのに、そのはずだったのに。

  

 僕の意識は何かに刈り取られるように、かすめ取られるように、押しつぶされるように、崖に転がり落ちるようにブラックアウトした。

 頭の中には「ごめんなさい」という言葉がいつまでも反響していた。


 *


 僕はドアを叩く音で目を覚ました。

 誰かが何度も何度も強くドアを叩いている。ボロアパートのぼろいドアをそんなに叩かれたら壊れかねない。

 「おい!そんなに叩くんじゃねえ!」 

 僕は立ち上がり、ドアを勢いよく開けた。だがそこには人はいなかった。代わりに存在したのは風、雨、風、雨。それらがいっきに部屋に吹き込んできた。

 「うお!」

 僕は風に負け、簡単に部屋の中に押し戻される。ぼろいドアも風に吹かれて大きな音を出しながらしまった。

 そういえばマリに会いに行ったときに台風が来るとか言ってたな。そこで僕は思い出した。

 「マリ!マリは!海子ちゃんは!それに、どうして僕は家に・・・」

 僕は慌てて部屋の中を見渡すが、もちろん誰もいない。だったらと、僕はマリの携帯に電話を掛けた。が、でない。海子ちゃんはどうだろうかと海さんに電話を掛ける。すると海さんでも海子ちゃんでもない声がした。

 「はい。成瀬家です」

 「あ、もしもし執事さんですか?海子ちゃんはいますか?」

 「海子様ですか?」

 「はい」

 出たのは執事だった。執事の一定で変わらない声色では答えが読めない。

 「もちろんご在宅ですが。どうかしたのですか?」

 「い、いえ。誰が海子ちゃんを送り届けたか覚えてますか?」

 「ええもちろん。というよりも、ナツ様ご本人が送り届けて下さったではありませんか」

 「は?」

 今執事は何と言った?僕が海子ちゃんを送り届けた?自分がこの家に帰って来た覚えもないのに?

 「それは確かですか?見間違いとか」

 僕は何かの間違いであってほしいと、執事に聞き返した。するとやはり、

 「そんなはずはありません。海子様もお兄さんと呼んでおりましたし・・・あの、大丈夫ですか?先程から様子がおかしいようですが」

 「いえ、大丈夫です。ははは、変なこと言ってすみません。あの、少しだけ海子ちゃんに変わってくれませんか」

 海子ちゃんに聞けば何かわかるかと思った。

 「はい」

 ―――――

 「もしもし。お兄さん?」

 海子ちゃんのいつもと変わらない可愛らしい声。その声は不信がったり怯えたりはしていない。

 「海子ちゃん。僕らがどうやって海から帰ったか覚えてるかい?」

 どうか、どうか僕に納得のできる答えを。そう願った。すると、やはり海子ちゃんはさすがと言うべきか、答えには至らずとも僕を安心させる答えをくれた。

 「んー。あんまり覚えてないです。お兄さんと帰った気もするし、お姉さんと帰った気もするし。実は一人で帰った気もするです」

 「そ、そうか。ごめんな変なことを聞いて」

 「いえ。用はそれだけですか?」

 「ああ、それじゃ」

 僕は電話を切った。いつもは不快な機械音が聞こえるが、風雨の音で掻き消される。

 

 少し僕は考えた。そして、やはりこの変な現象を起こしたのはあいつしかいないと悟った。

 マリだ。僕や海子ちゃんの家を知っていて、僕や海子ちゃんを海から家に送り届けようと思う奴なんてマリか佑と岬の三人くらい。そしてタイミング。このタイミングで沖縄に行ってるはずの佑と岬が海に来るはずがない。だったら、マリしかいないじゃないか。

 マリには助けられてばっかりだ。人魚事件の時も、今回も、もしかしたら人魚事件以来ずっとなんてこともあり得るかもしれない。なのに、

 「どうして礼さえ言わせてくれなかったんだ」

 

 僕は悔しくなった。悔しくて悔しくて、家を飛び出した。

 ドアを開けると先程と同様に風雨が飛び込んでくるが、今度は耐えられた。そして、そのまま体を外に持ち出した。

 外は酷い雨だった。だが、この風で傘は意味ないだろう。だったら風に流される傘を持つよりも、何も持たない方がよっぽどいい。そう判断した僕は台風の中を駆け出した。

 僕はただひたすらに海を目指した。

 走って、走って駅に着いた。しかし駅構内にはほとんど人がいなかった。どうして、そう思ったが気付いた。こんな風の中で電車なんて走らせられるわけがない。

 「こんな風の中で電車を走らせられるわけないでしょうよ」

 「何言ってんです!俺は家に帰らねーとなんないんですよ!」

 僕が落胆して、どうしようかと考えていると何やら言い争う声が聞こえてきた。片方は駅員の制服を着ていて、もう片方は・・・どこかで見た気がする、若いお兄さん。

 「そんなことを言われても知らないよ。あんたタクシードライバーなんだろ?自分のタクシーで帰りなよ」

 「そんなことできるわけないでしょうよ。はぁ」

 どうやらタクシードライバーのようだ。

 二人の言い争いはタクシードライバーのわざとらしい溜息で終わった。

 タクシードライバーは丁度僕の方に振り返り、こちらの方に歩き始めた。そういえば僕の入って来た方の駐車場にタクシーが停めてあった気がする。

 と、こんな事を考えている場合ではない。どうやって海に行くべきか。

 「ん?あ、兄ちゃん!兄ちゃんも電車に乗りたかったのかい?」

 少し前、それと少し右から聞き覚えのある声がした。その声とやけに馴れ馴れしい口調でやっと思い出した。

 「はい。そうなんですよ」

 「やっぱりそうですかい。いやー病院の時と言い今回と言い、何かとあっしたちには縁があるようで」

 「そうなのかもしれませんね」

 目の前には、マリを迎えに行った時に世話になったタクシードライバーがいた。

 「おや?兄ちゃん服も頭もビショビショじゃないですか。ささ、こっちに」

 そう言って彼は僕をタクシーまで連れて行き、無理やり乗せた。

 「こいつをお使いなせえ」

 そして、真っ白のタオルを手渡してくれた。タオルは触り心地がよく匂いもついていない新品だった。

 「いやあ、ひっどい風と雨。たまったもんじゃありませんねえ」

 「はい。全くです。これじゃあ行きたいところに行けない」

 「兄ちゃんは何処に行きたかったんで?」

 聞かれて僕はどうこたえようか迷った。別にこの人に場所を言ったって、お金のない僕を連れて行ってくれるわけでもないし、海に行くだなんて言ったらきっと変に怪しまれてしまう。

 「海です」

 それでも僕の口は勝手に真実を伝えていた。その行動を僕の頭も心も悔いてはいなかった。不思議な事だがこの人の人柄がそうさせたのだ。

 「・・・・・・兄ちゃん。もし変なこと考えてるんだったらやめときなせえ」

 しばらく黙って前を向いていた彼が言った。やっぱり怪しまれてしまったか。

 「大丈夫ですよ。僕はむしろ、未来のために行くんです」

 言ってて自分でも恥ずかしくなったが、それでも本当の事だ。恥ずかしがってどうする。

 僕の答えを聞くと、彼は少し笑って満足気に頷いた。

 「兄ちゃん。前よりも強くなりやしたね」

 「え?」

 「前はなんていうか、追い詰められてるように感じられやしたけど、今は凄くすっきりした顔でさあ。あっしにはなんか分かりやせんけど、何であれ良かったです」

 彼は振り返ってにっこりと笑った。やっぱり彼には笑顔が良く似合う。

 にっこりと笑う彼を見てると自然と頬が上がる。

 「お!笑いやしたね!代金は頂やした。それじゃあ出発進行!」

 「え?ちょっと!」

 彼はタクシーを発進させた。張り切っているようにも見える。

 僕はお金を持ってきていないから代金を払うことができない。

 「お金ないです僕!止めて下さい!」

 「だからぁ。代金はもらいやしたって」

 「貰ったって、ただ笑っただけですよ?」

 彼はまたにっこりと笑って言った。

 「それであっしには十分なんでさあ」

 

 それから僕たちはラジオで台風情報を聞きながら海を目指した。タクシードライバーの彼は時折聞こえる被害者情報を聞いて家族を心配していたが、家族のもとに行くべきじゃないかと聞くと、今は兄ちゃんの方が大事なんでさあと言ってくれた。

 この近辺で海と言ったら一つしかないから細かな説明は必要なく、海にはものの二十分で着いた。

 「ありがとうございました」

 そう言って外に出ると、「兄ちゃん」と声を掛けられた。

 「兄ちゃん。あの時の彼女の為なんでしょう?」

 この人にマリの事を言っただろうか。思い出してみるがそんな記憶はない。

 「え?どうして」

 「兄ちゃんの顔見てたら分かります。立派な男の顔してるぜ。そんな顔ができるのは女の為に動く時だけでさあ。張り切って行ってきなせえ!!」

 僕は思いっきり背中をぶっ叩かれた。冷えた体に痛みが染み渡る。痛みが熱に変わり、やる気に変わり、勇気に変わった。

 「はい!!」

 僕は振り向かず、マリに出会ったあの砂浜に急いだ。


 海は僕が思っていた以上に荒れていた。波は想像を絶するほど高く僕を飲み込まんとしている。防波堤を歩いているはずなのに少しでも気を抜くと体がもっていかれそうだ。

 それでも僕は怯まずあの砂浜を目指した。海の中にあるとしても見つけ出す自信がある。

 ここからすぐ近く。

 あと数歩。

 ここだ。

 僕は防波堤から海の中に降りた。波がひどく、まともに目を開けていられない。それでも叫ばないといけない。心の底から。

 

 「マリイイィーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 僕は叫んだ。かつて無いほど叫んだ。何度も何度も叫んだ。肺が潰れるほど叫んだ。喉が枯れるほど叫んだ。

 それでも、マリは出てこない。

 「僕!いや、俺!!お前に言わないといけないことがあるんだよ!!頼む、顔を見せてくれ!!声を聴かせてくれよ!!」

 泣きながら懇願した。それでも、海は動かない。

 ―――頼むよ。

 次の瞬間、僕の身体は防波堤まで飛んだ。文字通り空中を飛んだ。すごい強い力で持ち上げられて投げられる感覚。 

 打ち付けられる。そう思った時にはすごく暖かいものが僕を包んで優しく受け止めていた。

 「男の人が泣くなんて情けないですよ?」

 暖かい何かの上から、綺麗な声が僕をまた包む。とても心地いい。

 「お前のせいだろう。もっと早く出てきてくれれば」

 僕は泣きながら、笑って言った。

 「すみません」

 「でも、お前が出てきてくれてまた泣いてるから意味ないか」

 「何ですかそれ」

 マリもまたエヘヘと笑う。聞きなれた、でもしばらく聞いていなかった笑い声。それが聞けただけでも嬉しい。

 だが、今回は言わないといけないことがある。

 

 「マリ」

 「ナツさん。まさかまたあなたを助けることになるなんて思ってもみませんでした」

 「別に溺れてたわけじゃない」

 「あのままじゃ絶対溺れてましたよ」

 「まあ、そうだろうな」

 「どうしてここに?私は逃げたのに。ナツさんから逃げたのに」

 マリは泣いていた。涙を流してうつむいた。

 「どうして俺から逃げたんだ?別にお前が逃げる必要なんて」

 「・・・あなたがトマリと一緒に私の目の前に現れた時、すごく嬉しかった。私が助けた少年が元気な姿を見せてくれたと思ったから」

 「そっか」

 「でも、一緒に過ごすうちにあなたの人魚、いえ私に対する恨みが私の思っていた以上に大きなものだと気が付いて、怖くなった。だから、無理矢理明るく気丈にふるまっていたんです、あなたに私が人魚だと気付かれないように」

 「そっか」

 「そして、海子ちゃんを助けるときに私の本当の姿を見せてしまった。私は怖くなって逃げだした。こういうことです」

 マリは自嘲的に笑う。そして、また涙を流した。

 「マリ。もしかしてだけど、お前の体が自由を失っていってたのは」

 「はい。人魚って人に人魚であるときの姿を見せてはいけないんです。見せてしまうとゆっくりと体の自由を失っていき、最後には人魚にとって一番大切な声を失う」

 「でも今は」

 「今は人魚の姿ですから。人魚の姿なら大丈夫なんです。でも、私は人間でいたいと望んだ。だから」

 だから、と人魚であったマリの姿がどんどん人間の姿に戻っていく。

 全てがマリ自身に戻った時、マリの体から、まるで糸を切られた操り人形のように力が抜けた。

 「もう私、の体・・・声を出すこと、しかできないんです」

 そういうマリの声は、もうさっきまでの生気はない。

 「だから、声が、でる内に、言わないと」

 口をパクパクさせながらマリは、頑張って、振り絞るように言った。

 「ごめんな、さい。私、のせいで、あなたのじんせ、いを奪ってしまっ、た」

 「それは違うよ」

 もうマリは喋る元気がないのか、声が出ないのかただ目を僕の視線に合わせた。

 「違うんだよマリ。君のせいなんかじゃない。俺はいつも何かに失敗しそうなとき君という存在を言い訳にしてきた。あの時人魚が僕を助けていなかったらこんなことには、って。でもやっと気づいたんだ。気づかされたんだ。それは自分への言い訳でしかない、逃げる理由を作っているだけなんだって」

 マリは口をパクパクさせているが、とうとう声は僕の耳には届かない。でもなんとなく分かる。マリは謝っている。そうじゃないんだよマリ。

 「もう一度言うよ。君の『せい』なんかじゃない。僕は、今の僕があるのは君の『おかげ』だって気が付いたんだよ」

 マリは頷く。

 「言わせてくれよマリ。ありがとう」

 今まで静かに流れていたマリの目から滝のように涙があふれてきた。

 「ああ、やっと言えるよ」

 今まで気が付けなかったこと。気付くべきではないと思っていたこと。でも、やっぱりこれが僕の本心。

 「好きだよ、マリ」

 マリはにっこりと笑って頷いた。

 僕らは広く、深く、まぶしく輝く真っ青な海で。そっと、キスをした。


 * *


 夏。

 熱く苦しい季節。そんな季節にはエアコンの効いた部屋でゴロゴロするのが一番だと思う。


 ピンポーン


 俺の考えとは全く逆の奴等が来たみたいだ。

 『おーいナツ』

 『出てきなさいよ!暑いぃ~!』

 「今行くよ!!」

 傲慢な態度の二人に大声で怒鳴りちらして、玄関に向かう。玄関の前で早くしろよ。とか文句が聞こえてきた。待ってろって。

 鍵を開けた。と同時に男女二人組がドアを勢いよく開けて入ってきた。

 「うひょー!すっずし!」

 「あ、ねえねえナツ。アイスある?」

 「もうちょい設定温度下げようぜ」

 俺の家の中を、まるで自分達の家のように歩き回る二人。佑と岬。

 こいつらとは六年前からの付き合いだが、あのころからひとつも変わらない。変わったと言えば二人の関係くらいだ。

 「で、新居は見つかったのか?」

 「ううん、まだ。だってここよりも落ち着ける場所が見つからないもの」

 「そうだな」

 俺の部屋を見渡して、俺を見て頷く二人。

 佑はいつものように寝転がり、岬はくっつくようにして傍に座っている。友達としては喜ばしい言葉だ。だけど、新婚の二人にとっておれはいいことなのか。

 「新居が見つかったら俺の家に入り浸るのはやめてくれよ」

 「おう!死ぬまでには見つけてみせるさ」

 「みせるさ!」

 はあ。やっぱり二人といると溜息を吐かされるな。それがもう心地よくなってきた俺は変人かもしれない。

 「分かった。じゃあ今日の用事を言ってくれ。何しに来たんだ?もうなんとなくだなんて言わないよな?」

 「え?あー・・・」

 助けを求めて佑を見る岬。佑は当たり前のようにテレビをつけて笑っていた。

 はあ。

 「じゃあさ。今日は俺に付き合ってくれよ」

 「お!今日はやけに積極的だねナツ君!!」

 「そうだとも何でも言ってくれたまえ。私たちが付いているとも」

 二人して急に、勢いよく俺の方に近づいてくる。どうしてこう態度をころころと変えられるのか。テクニックでもあるのか。

 「海に、行かないか?」

 「「え?」」 

 「いいからさ。今日はお前らに会わせたい人がいるんだよ」

 俺がそう言うと、二人は顔を見合わせて、ニヤッと気持ちの悪い笑みを浮かべた。

 「とうとうナツにもこれができたか」

 「あー私たちのナツにもとうとうこれがねぇ」

 二人は揃って小指を立てている。馬鹿にされている様で腹立たしいが、その通りなので反論できない。

 「そういうことだよ。待ってろ、今電話するから」

 僕は相変わらずぼろいアパートの中から出て、ポケットから携帯を取り出した。

 僕は電話帳の中にある彼女の項目をタップして、テレビ電話をつなげる。

 彼女にはすぐにつながった。

 「よお。元気か」

 僕が話しかけると、恥ずかしそうに頷く。

 「そっか、今日会わせたい奴らがいるんだ。いつもの海、来れるか?」

 彼女は勿論と言うように強く二回頷く。そして、小さなメモ帳を取り出して何かを書いて見せてきた。

 《もしかしてあの二人ですか?》

 「ああそうだよ。懐かしいだろ?」

 もう一度力強く二回頷く。

 《でも、少し緊張しますね》

 「ああ、そうか。二人は初めて会うことになるもんな。心配するな」

 《はい》

 電話を切ると、アパートの中に入る。

 するとドアに虫のように佑と岬がへばりついていた。

 「何やってんだよお前ら」

 「ちょっと気になって」

 「気になっちゃってってって」

 はあ。

 「取り敢えず。行くぞ」

 「「おう!」」


 *


 外はやはり暑い。その為か、海の恵みを求めてものすごい数の人が海岸に蔓延っていた。

 水をかけ合い、泳ぎ、笑い合う人間の集団。それは例に漏れずどこも楽しそうに笑顔を浮かべていた。その姿を見ると、俺も遊んで来たくなったが今日は我慢だ。

 「あれ?うずうずしているように見えますけど遊びに来たわけじゃないんですよね?」

 「ついてきてくれ」

 にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべた佑を無視して、俺は防波堤を歩き始めた。

 防波堤を南に歩く。多かった人も次第に少なくなっていき、完全にいなくなったところで小さな砂浜が見えた。周りは岩に囲まれていて、人は寄り付きそうもない場所。俺はそこが好きだった。

 三人で砂浜に降り、静かな海を見ていると、

 そういえばと、何かを思い出したように岬が手を叩いた。

 「ここで何かあった気がするんだけど思い出せないのよね」

 岬が言うと、佑も同じように手を叩き、

 「確か誰かと出会ったような。とても大切な人と」

 「何言ってんだ。さっさと行くぞ」

 「「はーい」」

 二人は大人しく付いてくる。しかし、また思い出したように話し出す。

 「あ、そうそう!ナツの一人称。僕から俺に変わったよね。六年前くらい?」

 「ああ、そんなときもあったな。なんかあったの?」

 「別に。ほら行くぞ・・・ってもう着いたか」

 気が付くとあの砂浜に着いていた。相変わらず人気はない。

 まだ彼女は来ていないようだ。

 僕は防波堤から砂浜に降りて、海を見た。かつてのように石油には見えない。しっかりと青だ。

 「Look at this stuff.Isn't it near?」

 海を見ていると、自然とメロディーが浮かんでくる思い出深い曲。俺にとって大切な曲。

 「何々?その歌」

 歌っていると、二人は防波堤から降りてきていて、岬が聞いて来た。佑も興味深そうにこっちを見ている。

 「ん?パーツオブユアワールドって歌だよ」

 「ふーん。ねえ、もっと聞かせて」

 「ぜひ俺も聞きたい」

 本当にそう思っているのか。冗談かと思ってみたが、二人の微笑んだ顔を見て違うということはすぐに分かった。

 「分かったよ」

 俺は苦笑して、恥ずかしがりながらも歌った。

 「Wouldn't you think my collection's complete?―――」


 Wish I could be Part Of Your World.

 いつの日か 陸の世界の 果てまでも行きたい。人間の世界へ


 パチパチパチ

 

 歌い終わると後ろから複数の拍手が聞こえた。でも二つではない。三つだ。

 「ああ、来ていたのか」

 彼女は佑と岬の間に挟まって拍手をしていた。 

 「で?ナツさんや、その隣の美人さんは誰かね?」

 「誰かね?」

 佑が意地悪く横腹を肘で小突いてくる。岬もいつものノリで同じようなしぐさをしている。

 マリと言えば「美人さんだなんてそんなぁ」なんて言いながら顔を赤らめている。何を本気にしているんだか。

 「こちらは―――」

 俺が彼女を二人に紹介しようとすると、彼女は俺の隣まで来て腕を組んだ。

 「「おおぉ」」 

 恥ずかしく思いながらも、俺は続けた。

 「小玉日葵。俺の、その、なんだ。彼女だ」

 顔が赤くなっているのが自分でもわかる。こんなにも自分の彼女を二人に紹介するのが恥ずかしいだなんて思っていなかった。

 マリは二人に向かってペコリと礼をする。すると、二人は大きな声で、

 「「ふうううぅ!!!」」

 と叫んだ。

 まるで自分たちのことのように喜ぶ二人。その姿が何とも愉快で、嬉しい。

 そんな二人に向かって、用意してたのか、マリは大きな画用紙を見せた。

 「「不束者ですがよろしくお願いします」」

 ・・・

 二人の間に静寂が流れる。珍しい。マリが喋れないことが分かってびっくりしているのか。

 「「ふうううぅ!!!」」

 と思った矢先にまた叫び出した。人の事で喜ぶのもここまでくるともう変人だ。まあそんなこととっくの昔に分かっていたことだが。

 二人を見て苦笑を浮かべていると、組んでいる腕の袖を引っ張られた。

 「どうした?」

 《やっぱり私。あの二人の事大好きです》

 マリはにっこりと笑う。その笑顔と二人の笑顔を見て僕は言った。

 「俺も大好きだよ」


 * * *


 夢を見ていた気がする。

 海で彷徨う男の子と恋に落ちる夢。

 でも、その恋はあっけなく終わってしまう。男の子の『死』という形で。

 

 目覚めた私は、その男の子を必死に探した。

 「どこ?どこなの?ねえ――さん」 

 小さかったころの事だからなのか、それとももともと名前何て無かったからなのか、私は夢の中での男の子の名前が今でも思い出せない。

 私は随分名無しの男の子を探した。そして、やっとのことで見つけたのが、海の底に沈んでいくナツさんだった。


 私はナツさんを砂浜に押し戻して、息を回復させるためにいろいろな事をした。

 何をやったかは覚えていない。とにかくいろいろやった。すると、私のしたことが役に立ったのかは分からないけれどナツさんは息を吹き返した。

 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 (あなたを夢で一度死なせてしまって)

 「ごめんなさい」

 何度も何度も謝ったけれど、ナツさんが口を開くことはなく、ナツさんは静かに目を閉じた。


 私はナツさんが目を閉じて、『死んだ』と思った。夢の中の名無しの男の子の死んだ姿と全く同じだったから。

 ナツさんが目の前で死んだ後も私は謝り続けた。私が遅かったから助からなかった。私せいだ。私が殺した。

 その日私は泣きながら海に帰った。


 * *


 人魚には二つの道がある。

 人魚として生きていく道と人間として紛れる道。

 私は人間として紛れる道を選んだ。人魚でいる自分はナツさんを死なせてしまったあの日に死んだも同然で、人魚でいる資格はないと思っていた。

 

 しかし、ある時から私の体に異変が起き始めた。

 足の先が痺れる。

 始めは一時的なのものだと思っていた。が、それにしては長く続きすぎている。

 怖くなって病院に行ってみたが、それでも原因は分からず一時的なものだろうと言われた。

 

 結果として、痺れは治らず、そして私の両脚は動かなくなった。


 私は絶望や失望をするよりも先に、どうしてと思った。

 どうして私にこんな不幸が起こるのか。考えて、なんともあっけなく答えに辿り着いた。

 考えてみれば当たり前の事で、自然の摂理とも言えるもの。

 

 ―――等価交換―――


 私は、小さかったとはいえ一人の男の子の、否、二人の男の子の尊い命を海の一部としてしまった。まだあの子たちには多くの希望と明るい未来が広がっていたはずなのに。

 それなのにそんな私が、『人間として生きる』という自ら選んだ道を呑気に歩いて行ける理由がどこにあるだろうか。そんなもの見つかるはずがない。なにしろ存在しないのだから。

 この答えに辿り着いた私はただただ納得した。寧ろ、私の両脚と二人の男の子の命が同価値でいいのかとさえ思っていた。

 

 そんなある日、再び体に異変が起き始めた。

 手の先が痺れる。

 ああ、やっぱり脚だけじゃ無いのね。

 私は安心した。自分の犯した罪を神はちゃんと見てくれていて、ちゃんと償わしてくれる。

 もともと神なんて信じていなかったけれど、この時だけは感謝した。この時の私は、どうかしていると思われても仕方がない思考をしていたと思う。

 

 とうとう腕全体が言う事を効かなくなってきたとき、私の人生に転機が訪れる、

 私がいつもの海岸で歌っている時の事だった。ナツさんが私のもとに現れた。

 ああなんて素晴らしいことなのでしょう。私は一人の男の子を救えていたのです。

 私は内心興奮していた。でも、きっとナツさんは私の事を覚えていない、だから私は平常心を装い、初めて出会ったことにした。

 しかし、ここでおかしな点に気付いた。

 どうしてナツさんは生きているのに私の身体はどんどん動かなくなっていくのでしょう。

 いや、疑問に思うこともない、単純な問題だ。命を一つ奪ったのに、私の命が奪われないわけがない。それが等価交換というもの。

 私はせめて、私の命が果てるまでナツさんに寄り添って生きていきたいと思った。

 同じ学校に入って、寄り添う。それは私にとってすごく幸せな生活だった。それに佑さんと岬さんという友達もできた。私は蝕まれていく身体など、どうでもよくなるほどに幸せで満ちていた。



 そんな偽りだらけの生活も、あの日の私の言葉で全てが変わった。

 海さんの家へ行き、ナツさんが海さんと二人で話をしている間。私は海子ちゃんと話していた。

 海子ちゃんと他愛ない話をしていて、二人の悩みの話になった。

 そこで、私が気になっていたことを、ポツリと。何気なく、ただひたすらに何気なく聞いた一つの疑問。問い。

 それが私のこれからを変えるものになった。

 「どうしてあの日。お兄ちゃんを探していたの?」

 これが私の『ちょっとした』疑問だった。でも、海子ちゃんにとってこれは『とてつもなく大きな』悩みだった。

 

 私が聞くと、海子ちゃんは急に悲しそうな顔をして俯いた。

 ただ何も答えずに、俯いて俯いて、俯いている。

 「ね、ねえ。大丈夫?」

 私が声を掛けると、小さくポツリと。言った。

 「お兄ちゃんは、帰ってこないです」

 「え?」

 私には言っていることが分からなかった。家ででもしているのかと愚かなことまで考えていた。

 そうではない、そうではないのだ。私はもっと早くに気づくべきだった。海子ちゃんのお兄ちゃんの事、ナツさんの事。

 「お兄ちゃんは六年前から、あの海から帰ってこないです」

 「そんな―――ッ!で、でも家でかもしれないし」

 私はうすうす感づき始めていた。その予想が答えにならないで欲しくて、愚かな考えを口に出す。

 すると、海子ちゃんは寂しそうに笑って、

 「ですね」

 と、絞り出すように呟いた。

 その笑みが私の心を締め付け、また私の予想を答えに至らしめる証明になった。

 

 私が殺したのは名無しの男の子だけじゃない。

 ナツさんは運よく助けられた。でもおかしいとは思わないか。真夜中に小学生の男の子が、たった一人で海に遊びに行くだろうか。否、断じて否だ。小学生がそんなことするはずがないし、ましてあのナツさんの事だ、危険な事だと分かっていたはずだ。それなのに海に行った。それは他に友達がいたという事。それも一人や二人じゃない。

 あの日、ナツさんを打ち上げた砂浜にはナツさん以外の人影はなかった。なら他の小学生たちは何処へ?そんなもの決まっている。海の底だ。


 私は絶望した。

 私はなんて無力で、愚かで、醜い人魚なんだろう。どうしてナツさんに寄り添って生きていていいと思ってしまったのだろう。

 許されるのなら今すぐナツさんの前で自害をして謝りたい。それぐらいしないと私の怒りは収まらない。でも、きっとそれはナツさんが許さない。そんなことで許してくれるはずがない。

 私はこれからどうしたらいいの?


 私がずっと一人で悩んでいると海さんが思わぬ手助けをしてくれた。

 海さんが私たち二人に沖縄へのチケットをくれた。

 よしこれで―――

 と考えていると、一つの問題が発生した。

 「私も行きたい」

 そう海子ちゃんがぐずったのだ。それでも私には関係のないことだ。一緒に行ってもなんの問題もない。別に私は沖縄でなくたっていい。とにかくナツさんと海に行ければそれで。

 これで、この機会にナツさんに私の本当の姿を見せて、それでナツさんの言われるがままに罰を受けよう。それで許されるならそれでいいし、許されなくてもナツさんの心の負担を少しでも減らすことができたなら私の存在する意味はあるから。

 そうして私たちは三人であの海に行くことになった。


 *


 チャンスはあった。

 海に行って、都合よく二人が溺れかけて、私が本当の姿で二人を助ける。そして、ナツさんに私の姿を見せて罰を受ける。

 なのに、それなのに。私は逃げた。

 ナツさんは私に何かを言おうとしていた。それを私は遮って、意味もなく謝って逃げた。

 覚悟はしていたはずなのに、私の存在を否定されるのが怖かった。あのナツさんに、いつのまにか私の心のよりどころとなっていたあのナツさんに存在を否定されたら。考えるだけで心がバラバラに砕ける音がした。

 私にはナツさんに顔を合わせる勇気がない。だからナツさんを眠らせて家まで運んだ。

 


 ああ、私は一生心に痛みを抱えたまま人魚として生きる。

 ああ、ナツさんは一生私という存在に悩まされながら生きる。

 『それでいいの?本当にあなたはこのまま生きていけるの?』

 私が聞いてくる。

 「そんわけない。でも、そうするしかない」

 私が答える。

 『・・・弱虫』 

 私の中の私が消えた。

 もう私の中には私はいない。もういてはいけない。ただ何も感じず生きていくことが『 』の使命。

 そんな『 』のもとに一人の男の子が現れた。

 男の子は小さい頃に友達を亡くし、ずっと『 』に恨みを持っている、名前を思い出してはいけない名無しの男の子。

 その名無しの男の子が海で叫んでいる。誰かの名前、『マリ』と叫んでいる。

 とてもいい響きの名前。とても心が弾む声。名前を呼ばれるだけでうれしくなる名無しの男の子。

 でも『 』は出て行ってはいけない。我慢していると、『私』が言った。

 『行きなさい。ナツさんの為でなく、あなた自身のために』

 私は飛び出した。

 きっとひどいことを言われるだろう。きっとひどいことをされるだろう。でもそれはきっと私の心を浄化してくれる。嘘で塗り固められた私の心を。

 

 そう期待して飛び出したのに、ナツさんはまるで柔らかい翼で私を包むように。暖かい陽だまりのように。

 「好きだよ、マリ」

 私の心は真っ青の海と相反する真っ赤に染まりきって、大きく弾む。弾む。弾む。

 

 私はにっこりと笑って頷いた。

 私たちは広く、深く、まぶしく輝く真っ青な海で。そっと、キスをした。

ご拝読ありがとうございました。

良ければ感想、評価の方をよろしくお願いします。酷評でも構いませんので、どうか。

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