2. 不思議な店
*
いつの間にか、ついてくる節子の気配がなくなっていることに、結花は気付いた。
一定の距離を置いて遠慮がちについてくる節子を鬱陶しいと思いながらも、その存在にどこか安心してもいた結花は、「ついてこないで」と自分で言ったくせに、裏切られたような気持ちになっている。
(どうしていなくなっちゃうのよ。帰っちゃったの? あたしのことなんて、もうどうでもいいんだ?)
怒りと同時に、寂しさも感じた。
そんな時だった。
「いらっしゃい」
穏やかで優しげな声が、右手から聞こえてきた。
顔を向けると、目に飛び込んできたのは花の咲き乱れる綺麗な庭。そしてその中に立ち、如雨露を手に持って花に水をやっている、美しい青年の姿だった。
背が高い。割と細身なので、余計にすらりとして見える。モデルみたいだと結花は思った。男性にしては長い真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに結んでいるが、それが彼の中性的な顔立ちによく似合っている。
「よかったら、うちの店に寄っていきませんか?」
青年は手を止めて結花を見つめ、そう言うと微笑んだ。
白いシャツと生成りのズボンの上に紺のエプロンと、服装は地味だったが、その微笑みだけで充分以上の魅力があった。
「はい。……あ、え、店?」
つり込まれるように頷いてしまった結花は目を彷徨わせ、庭の奥にログハウス風の可愛い小屋を見つけた。
「何の店なんですか?」
結花の問いに、青年は謎めいた微笑みを浮かべた。
「色々置いているので、雑貨店ということにしています。例えば、部屋に飾る小さな置物であるとか、押し花の栞などですね。好評なのは改良した花の種で、本来は十一月に開花期が終わってしまうゼラニウムを、クリスマスにも咲けるようにしたものなどは、特に人気があります」
「へえ」
花にそれほど興味のない結花は、曖昧に相槌を打った。
だが素人目に見ても、青年が手入れしている庭の花々は見事だった。
実はこの庭にも、本来は今の暑い季節には咲かないような種類や、珍しい色の花が咲き誇っているのだ。
「この庭を評価してくださっているのか、私のことを『魔術師』などと呼ぶ方もいます」
「まじゅつし? って、魔法使いとか、そんな感じのやつだよね?」
「ええ。そうです」
青年はまた微笑んだ。美しい微笑みだった。
結花はその微笑みに引っ張られるように、ふらふらと青年へ近づいた。
財布を忘れてきたのでお金はなかったが、青年の誘いに乗って店へ寄ることにする。
「ようこそ、『魔術師の店』へ」
青年に促されるまま店の扉を開けると、カウベルよりも澄んだ、チリーンという鈴の音が鳴った。
店内は、建物を外から見た印象よりも広く見えた。
入って左手の壁側は喫茶コーナーになっているようで、カウンター席が四つある。カウンター内の棚に茶葉のビンらしきものが並んでいるところを見ると、ハーブティーなどを出してくれるのだろう。
一方、ドア脇の壁沿いに一脚、部屋の中央には二脚のテーブルが並べて置かれ、そこと奥の棚が雑貨コーナーのようだった。
テーブルには白いレースのテーブルクロス。その上に籐のかごが置かれ、レターセットや栞、刺繍入りの巾着袋などの手芸品や匂い袋などが、綺麗に陳列されている。
さっき話に出た花の種は、中央の一番目立つところにあった。種が入ったビニールの小袋に、種類の書かれたシールが貼られている。それぞれの花が咲いたときの写真が小さなアルバムに収められ、カタログ代わりになっているようだった。
結花はアルバムをぱらぱらとめくってみたものの、やはりそれほど興味は持てず、テーブルを過ぎて奥の壁沿いの棚へ近づいた。
棚の中央に、両手で持っても少し余るくらいの大きさの、兎の置物があった。ガラスでできているらしく、美しく輝いていたが、「手を触れないでください」と注意書きがあり、値段を見ると三十万円を超えていた。
(はぁっ!?)
結花は仰天した。思わず挙動不審になってしまう。
だが、その周りに並んでいる、もっと小さな手乗りサイズの兎は五百四十円だったので、ホッとした。
(――可愛い)
結花は唇の端をゆるめた。
クリスタルカットされた形状の小さな兎は、細部は直線的に形作られながらも、全体としてのフォルムは丸っこくて愛らしい。
もしこれを部屋に飾るとしたら……。
自分の机や棚にこの兎を置いたところを想像したら、結花はそれが欲しくてたまらなくなった。
ちらりと目を走らせ、青年がこちらに背を向けて店内の商品を並べ直しているのを見て取ると、自分の身体で隠すようにしながら兎を手に取り、素早くポケットへすべり込ませた。
(安いやつだしいいよね。だってせっちゃんが貸してくれなかったからお金ないし)
心の中だけで、誰にともなく言い訳する。
またちらりと横目で窺うと、青年はまださっきの作業を続けていた。
結花は、棚に残った商品を少しずつ動かして、兎の数が減っているのをごまかそうとした。
棚には他に、木を彫って作られた置物の他、キーホルダー、石鹸や蝋燭などがきちんと整頓され並べられている。
一番上の段に並ぶ、値札のない色とりどりの粒が入った小瓶は、飾りだろうか。
一通り見て回った後、結花は青年に声をかけようか迷ったが、後ろめたさから結局、そのまま何も言わずに帰ろうとした。
だが、店の扉に手をかけた瞬間――
「ちょっと待ってください」
呼び止める声に、結花はビクリとして足を止めた。気付かれたのだろうか……?
「……何ですか」
「何か言うことはありませんか?」
「別に」
結花はそっぽを向いた。
「そうですか? でも、帰るならポケットの中の物を置いていってください」
「……え? 何のこと?」
結花は咄嗟にごまかそうとしたが、青年にじっと見つめられると耐えられなくなり、ポケットから兎を取り出した。
「何か言うことはありませんか?」
青年が、また同じことを言った。
「……ごめんなさい」
渋々、結花は謝った。
「あの……、あたし今、お金持ってなくて。えっと、うち、親が厳しくて、おこづかいが貰えなくなっちゃったから」
「そうなんですか?」
結花の手から兎を取り返しながら、青年は首をかしげる。
「うん。ママは……、あたしの母親は、あたしのことが嫌いなんだ。あたしが全然、自分の思うような子供じゃないから。あたしなんか産まなければ良かったと、きっと思ってるんだよ。母親だけじゃない、誰も、あたしのことを必要としてない。だからあたし、時々消えちゃいたくなる……。このまま生きてても、毎日が全然面白くないし」
決まり悪いのをごまかすために、結花はいささか過剰に嘆いて見せた。青年の同情をかって、許してもらおうという目算もあった。
だが青年は、結花に同情するでもなく、かといって責めるでもなく、淡々とした様子だ。
「なるほど。では、消えるための薬をあげましょうか?」
「クスリ?」
結花は怯えた。
こんな綺麗な顔をして、実はとんでもない悪人なのではと疑った。
青年は、ふふっと笑った。
「透明になる薬です。今あなたが想像したような、麻薬や覚醒剤などとは全く違う薬ですのでご安心ください」
「透明になる……?」
結花は眉を寄せた。そんな薬、聞いたこともない。
「ああ、信じられないという顔ですね。ではまず、私が一粒飲んで見せましょうか?」
「……うん」
結花は頷いた。信じたわけではないが、もし本当なら面白いと思った。
青年は奥の棚に近づくと、例の最上段の小瓶の中から水色の粒が入ったものを取り、蓋を開けて中の粒を一粒口に入れた。
「……!?」
結花は目を疑った。
数秒待つと、青年の顔や手がゆっくりと薄れ、どんどん消えていったのだ。
一方で服はそのまま残り、透明なマネキンが服を着ているような、奇妙な感じになった。
「どうですか? 見えないでしょう?」
服の上の、何も見えない空間から、やや得意そうな声がする。シャツの袖口から、袖の内側が見えた。水色の粒が入った小瓶は、袖口から少し離れたところに浮いて見える。
「凄い……。魔法みたい」
結花は感動していた。
「これはまだ試作品なんです。自分で使ってみて、なかなか良い出来だと思ってはいるのですが、他の方の意見も欲しいんですよ。だから、あなたがきちんと感想を教えてくれるのなら、これを一壜差し上げます」
「欲しい! あたし、これ、試してみたい!」
結花は迷わず言った。
「ではどうぞ」
顔の見えない青年は、あっさりと結花に小瓶を渡してくれた。
「ただし、この薬の使い方には決まりがあります。きちんと守って使ってくださいね」
青年によると、この薬の効力は一粒で一時間続くらしい。
「――一粒で一時間、二粒で二時間。ですがその先、三粒で四時間、四粒では八時間と、指数関数的に増えていきます」
(シスウって何だっけ? ま、いいか。どんどん倍になっていくってことでしょ)
結花は頷いた。
「一度に飲んでもいいのは五粒まで。これで十六時間も効き目が続きます。ですが、もしもそれを超えて飲んだら……」
「ど、どうなるの?」
結花はごくりと唾を飲み込んだ。
「二度と元に戻れなくなります」
「それって……、ずっと消えたままになるってこと?」
「まあ、そうですね」
「分かった。気を付ける」
「あと、一度服用してから次を飲む場合は、身体が完全に見えてからにしてください」
「うん」
結花は頷き、瓶を受け取ると、意気揚々と店を出た。