第二章 母との約束<part2>
光輝はそのリストが置かれていた隣の冊子にも手を伸ばした。表紙にはⅡと書かれている。それを開くと同じく、本のリストであった。そうした冊子が全部で十冊あった。
光輝は、その分厚い冊子を自分の部屋の机へ運んだ。一冊ずつ開いて読み始めた。
一、ぐりとぐら 中川季枝子 平成十五年四月二日
幼稚園から大喜びで借りてきたのは、ぐりとぐら。懐かしい話だったな。光輝は初めのうちは、起きてたのに読み終わった頃にはぐっすり寝てました。ものの五分前後です。光輝にとっては、どうやら良い子守唄だったようです。光輝のリクエストで今日は、一緒にオムライスを作ることになりました。光輝は大喜びです。明日は別の絵本を借りてくると意気込んでいます。どうやら、これから毎日絵本を読むことになりそうです。
二、はらぺこあおむし エリック・カール 平成十五年四月三日
今日は、この本を借りて帰ってきました。寝ないでね、と言うと、寝ないといったのですが、今日もぐっすり寝てしまいました。寝てたよ、と起きた光輝にいうと寝てないもんの一点張り。困ったものです。今日はもう一度読みました。さすがに今回は寝ませんでした。少しずつ慣れていってもらいたいです。
三、おおきなかぶ アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ 平成十五年四月四日
光輝はかぶが大の苦手なのに、この本を借りてきました。なんでも、他の本は他の園児に先に借りられていて残っていたのがこの本だけだったそうです。今日は寝ることなく、最後まで聞いていました。試に夜ご飯でかぶの酢の物を出してみましたが、やはり食べませんでした。どうやったら、光輝の好き嫌いが無くなるのでしょうか。試行錯誤が必要です。
光輝は、三日分を読み進めるといったん本を閉じて大きく深呼吸した。別の冊子を開いてぱらぱらとページをめくった。
数時間後、光輝はほぼすべての母の本のリストに目を通し終えていた。呆然として椅子に座っている。どれほどの間、座っているか分からない。
「ただいま」
玄関から父さんの声が聞こえた。
光輝ははっと我に返った。今日は、光輝が夕食の支度をする当番の日である。すっかりそのことを忘れてしまっていた。光輝はあわてて部屋から出て、急いで準備に取り掛かった。
父さんはスーツを脱いで、シャツ姿に着替えてリビングに入ってきた。
「あれ、準備忘れていたのか」
「ごめん。急いで作るからちょっと待って」
光輝はフライパンで急いで米を炒めていた。今日はチャーハンと中華スープである。光輝の得意料理である。
「父さんも手伝うよ。スープはいつも通り作ればいいよな」
「うん。ありがとう」
父さんは冷蔵庫から卵を一つ取り出した。いつもの慣れた手つきでそれを割って、かきまぜて溶き卵を作った。鍋の中には既に中華だしを入れた水が火にかけられていた。父さんは溶き卵をそれに流し込みかきたま汁にした。
「なんかあったのか」
父さんは、鍋の火を調節しながら言った。
「・・・・・・・」
光輝は視界がゆがむのを感じた。視界がぼやけていく。光輝の瞳から涙が流れた。
「あれ、なんでだろう。今日は玉ねぎも切ってないのに、涙が止まらない」
嗚咽交じりに光輝は泣いた。手は止めることなく、チャーハンを炒めている。父さんはそんな光輝を隣で黙ってみていた。
そのうち、光輝の手が震えてまともにチャーハンを混ぜることも出来なくなった。
「そんな手つきでやってたら、やけどするぞ。後は、父さんがやるから光輝はソファにでも座っているといい」
父さんは優しくそういうと、光輝からフライパンを受け取り、光輝に変わって炒め始めた。光輝は、父さんに言われたとおりにソファに座って少しずつ息を整えた。
「母さんとなんかあったのか」
父さんがキッチンから光輝に話しかけた。光輝は返事もままならずただ泣いていた。
「何があったのか、父さんにもわからないけど、悲しい時は泣いていいんだ。泣かないと体にも悪いしな。
後からでいいから父さんに何があったのか教えてくれないか。話せばきっと楽になれる」
キッチンの換気扇と米を炒める音だけがしていた。
「人はいつかは死んでしまうんだ。絶対に死ぬ。これだけは、今生きている全人類がいずれ平等に経験することだ。例外は絶対に無い。それが早いか遅いかで、人が幸せか不幸せかが決まることはないと父さんは思ってる。どんなに、短い一生でも、長い一生でもそんなの何の関係もない」
数秒間があって、
「だってそうだろ。そうじゃないと、母さんが報われないだろ」
いつの間にか父さんも泣いていた。
「早すぎるよな。まだまだ一緒に居たいんだよ。光輝もそうだろ」
光輝は泣きながらうなずいた。
炒め終わったチャーハンを皿に盛って、中華スープも椀に注がれた。ダイニングテーブルに夕食の準備が完了した。
二人は、いただきます、というと黙って黙々と食べ始めた。涙だけはまだ流れていた。
光輝は食べ終わると食器をシンクに持っていき、洗い始めた。
「光輝、一つ父さんと約束してくれないか」
「いいよ」
「光輝も分かっていると思うけど、一番辛いのは母さん自身だ。だから、母さんの前で俺たちが泣いたらそれこそ、母さんを苦しめるだけだ。だから、家ではどんなに泣いてもいいから、母さんの前では絶対に泣かないこと。これだけは約束してくれ。父さんも泣いちゃったけど、母さんの前では泣かないから」
「分かった。約束は守るよ」
父さんは、食器を光輝に渡して、書斎に戻って行った。
光輝は、一人で食器を洗っていた。
リビングの明かりは、シンクの上の明かりとダイニングテーブルの上にある照明のみで少し薄暗い。一時は晴れていたが、再び大雨になっている。
光輝はさっき読んだ本のリストを思い出していた。いままで知らなかった母さんの思いがそれには記されていた。小さいころのもう忘れ去ってしまった思い出や記憶も蘇ってきた。
これまで蓋をしてきたことにも一気に頭の中に入ってきて、呆然とするほかなかった。母との思い出が光輝を苦しめていた。
なんで、母さんが・・・。何度も思った。人はいつか死ぬ。けれども、まだ早い。
まだ高校生になった僕の姿も、成人式も、結婚式も、孫の顔も、まだ・・・まだ・・・何にも恩返しできてない。何一つ僕は母さんに返せてない。
このチャーハンの作り方も、掃除も、洗濯も、アイロンがけも、勉強も教えてもらってばかりで、何にも返せてない。このまま、何もできないでいるのは、いやだ。
もう残り時間は少ない。医者の診断では、一年前後だそうだ。この一年でいったい何ができるのだろう。やりたいと思う気持ちはあるものの、何をやればよいのかわからない。考えれば考えるほど、答えから離れていく気がしてならない。テストみたいに答えがすんなり出るような甘い問題ではない。だからと言って、諦めることなんてできない。
何もしないで諦めることは、僕が一番嫌うこと。かぶよりもよっぽど嫌いだ。やるからには全力で。やると決めたら、最後まで。僕はいつもこうしてきた。
どんな難題も答えが無いわけではない。テストを空欄で出すなんてもったいない。なんでもいいから書いて出す。こんなことは鉄則。今回の難題も例外ではない。このまま何もしないのは、テストを空欄で出すようなものだ。そんなことは死んでもしたくない。少しでもいいから抗って見せる。なんでもいいから答えを、自分なりの答えを見つけてやる。それが正解ならラッキー。もし間違っていても、それはそれでオッケー。
人間あきらめが肝心。でも、それは挑戦した人だけが口にすることを許される言葉だ。何もする前に、あきらめが肝心だなんていってやらないのは、逃げてるだけだ。僕は逃げない。
最後の最後で、それが無駄だったと分かっても悔いはない。そこで諦めればいい。諦めるのは、逃げるためではなくて、次の挑戦につなげるため。諦めて、そこで吹っ切れて次に気持ちを向ける。後悔なんてしてる暇は無い。
後悔するくらいなら初めからやらない方がましだ。後悔は、人生の反省は、老後の暇つぶしにとっておこう。そこで、時間をかけてじっくり考える方が良い考えに行き着くような気がする。今は、悩まず時の流れにしっかり乗ることだけに専念した方が良い。後ろを見たってダメなんだ。前を向かないと。
光輝は、食器を洗い終わった後もしばらくシンクの前に立ち尽くしていた。
今週は忙しくてあまり書き進められませんでした。すみません。かなり短くなってしまいました。来週もあまり書けないと思います。夏休みに入ったらどんどん書いていくので、よろしくお願いします。
毎週日曜日に更新します。