第二章 母との約束<part1>
光輝は、土曜日の午前中を堪能していた。土曜日の午前中ほど心の安らぐひと時はない。明日は日曜日で学校もないし、このうえなくゆったりと生活できる。唯一残念なのが、この大雨である。テレビの速報で、大雨警報発令という文字がテロップで出ていた。
晴れていれば、カメラを手に近所の公園に写真を撮りに行く算段であったのだが、断念せざるをえないだろう。激しい雨音が屋根を打っている。
光輝の住んでいるこのアパートは築五十年である。いわゆる古民家というものをアパート風に内装をリフォームしたものである。広さは、ワンLDKである。一人暮らしには十分すぎる広さである。風呂も、トイレももちろんある。リビングには、テレビとダイニングテーブル、ソファーが整然と置かれている。キッチンは古民家に似合わない最新式のシステムキッチンである。もう一つの部屋は、書斎としている。勉強机や、PC、ベッドがある。壁を覆うように棚が置かれ、本が半分、カメラの各種レンズなどが半分を占めている。
カメラのレンズにもいろいろあって、ズームレンズ、単焦点レンズ、広角レンズ、標準レンズ、望遠レンズ、マクロレンズ、魚眼レンズなど。それぞれ適性が違い、味の違うものが撮れる。普段は、ズームレンズを使っている。一番使い勝手のいいレンズだからである。他のレンズは、休日の散歩などで使う程度でほとんどこの棚に置かれっぱなしである。
光輝は、雨の音を聞きながらカメラのレンズの掃除をしていた。
[夕方までは、この激しい雨が続きそうですが、しだいに弱まっていきそうです。明日は全国的に高気圧に覆われ晴れる予想です。週間天気は、・・・・]
テレビから天気予報が流れてきた。
(夜には雨あがるのか。それじゃあ、今夜は星空でも撮るか)
雨の後の空気は汚れが落とされ、透明度が上がる。雲さえなければ、きれいな星空を撮影することができる。
光輝は、その撮影のための広角レンズを準備することにした。書斎の棚からレンズを取り、ほこりなどを除去する。広角レンズは、文字通り広い範囲を撮影することが可能なレンズである。夜空の撮影には適している。他にも、撮影に必要な三脚やリモコン、レンズフードを用意してバックに入れた。
連日のテストの疲れで、すこしばかり体がだるい。少し眠気もある。雨ですることも無く、退屈なのでベッドで横になることにした。
屋根を打つ雨が一段と激しくなった。雨のぶつかる音と、降った雨の流れる音が部屋を覆っていた。
(そういえば、あの日もこんな大雨だったんだっけな)
雨音の心地よい中、光輝は眠りについた。
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雨が滝のように降るということをこの日初めて目にした。怒涛の嵐というよりも、やはり滝という表現がぴったりな大雨を人生で初めて経験した。
この雨の影響で中学校が休校になった光輝は、母の入院している病院へ足を運んでいた。すでに、母の癌は末期となり、余命いくばくもないと伝えられていた。
病院へ行くまでに靴はびしょびしょに濡れてしまった。水が靴の中で波打っているのを感じる。気持ちの悪いのを我慢して、すっかり水をすって重くなった靴で階段を上がった。
母の病室は、三階の一番南側の部屋である。階段を上がって三階にたどり着いた。階段の前にあるちょっとした机といすのあるスペースに母は居た。他の入院患者さんと話している。
母は、光輝の姿を見つけると、他の患者さんに断ってこっちに来てくれた。
「こんな雨の中こなくても良かったのに」
母は、抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けてしまっている。何か帽子でも持ってこようかとさいさい言うのであるが、別に必要が無いといっている。お坊さんになって悟りを開いたみたいなんていう冗談もいうのである。もう、死が近づいているのに。
母のあとに続いて光輝は病室に向かった。
母は部屋に入ると、右角にある棚からタオルを取ってくれた。光輝はそれを受け取ると、濡れた体を拭いた。
「今日は何の話にする?いろいろ新しい本をお父さんに買ってきてもらったけど」
光輝は毎日母のもとに通い、小説を何日かに分けて読み聞かせしてもらっている。小さいころは、絵本であったが、今は小説を読んでもらっている。それが、毎日の習慣で十年間続けてきた。いつからか母に読んでもらうことに恥ずかしさを感じたが、そんなものは長年の習慣の前では無力であった。入院してからは、読むのを聞くというよりは、本の内容に合った会話をすることの方が増えた。
無口な光輝は、母と居る時だけ饒舌になった。学校のこと、父さんのこと、将来のこと。話すことは山のようにある。ただ、それを話す時間が刻一刻と短くなっていくだけである。日に日に悲しさだけが満ち満ちていく。それをかき消すように光輝は母と話した。
母は、そんな光輝の話をいつものように聞いていた。元気なころと変わらない様子で、いつも明るく振る舞った。入院してから母はよく笑うようになっていた。それが、心と裏腹であることは、中学生の光輝にも分かっていた。分かっていたが気が付かないふりをして、光輝もいつものように明るく振る舞っていた。
「光輝がどんな大人になっていくのか、この目で見られたらいいのにな。どんな人になるうんだろうね」
母は、読んでいた小説を置いて唐突に言い出した。光輝は、悲しかった。母さんが死ぬという現実を信じたくなかったが、こうしてそのことを痛感させられていた。
「僕は変わらないよ。ずっと、母さんが知っている僕でいるから」
「ずっと変わらないの」
「うん。ずっと僕は今の僕でいるから」
母は、少し考えて
「それは、半分正解で、半分は間違えだね」
「どういうこと」
「人はね、変わらないために変わらないといけないの。この世は常に移り変わっているから、その流れに乗れなかったら、自分だけ置いてけぼり。かといって先取りに先取りをして時代の先を走っちゃうとそれもまた時代の波から離れてしまう。程よく変わって、今の状況を、今のポジションを保つ。これをしないと人は変わってしまう。だから、変わらないために変わるの」
変わらないために変わるか・・・・。
光輝は、その言葉を胸に刻み込んだ。
「僕は、変わらないために変わるよ」
母は、にっこりと笑うと小説の続きを読み始めた。
相変わらず雨が窓ガラスに行き良い良くぶつかっている。窓から見える景色は、どんよりと重たい雲と不定形の雨粒の群れだけだ。時折、遠くのほうから雷鳴が響いてくる。
「母さんは、この世に未練はないの」
「突然どうしたの」
「いや、別に理由はないけどちょっと気になったから」
母はすこし、ぼーとして
「人から恩だけを受けて、それを返せてないことかな。おじいちゃん、おばあちゃんにもちゃんと親孝行できてないしね。ろくな恩返しも出来てないのが気がかりかな」
「それじゃあ、代わりに僕がやるよ。だれに恩返ししたらいいの」
「光輝がやってくれるなら安心ね。そうね、おじいちゃんとおばあちゃん、お父さんに、お義父さんとお義母さんぐらいかな。他の人は光輝の知らない人だから。あと、本にもかな」
本?どうして本なのか光輝は疑問に思った。
「どうして本なの。ていうか、本に恩返しなんてできないよ」
「こうして毎日、本読んでると光輝との思い出もすべて本に詰まっていくの。すべてが、本のお陰に思えてくるんだよね。光輝の考える、本にとって一番うれしいことって何?」
光輝は、しばらく考えた。
「それは、たくさん読んでもらうことじゃないかな」
「じゃあ、本への恩返しはたくさんの本を読むこと。決定ね。これまで、絵本も合わせて千五百三十二冊よんだから、それいじょうの本をよんだら任務完了ね」
「今まで全部数えてきたの」
光輝は驚きのあまり声がひっくりかえってしまった。
「ちゃんとリストアップもしてあるわよ。母さんの部屋のアルバムとか入れている棚にリストがあるから見てみたら」
「分かった」
「じゃあ、これが母さんとの最後の約束ね。これ以上は、何も頼まないから」
「うん。本への恩返しとおじいいちゃんたちへの恩返しだね。きっと成し遂げるから」
母はうなずくと、続きを読み始めた。しばらくして、きりのいいところまで読み終えて、母はしおりを挟んだ。
「本への恩返しで、本返し、っていうのはどう?」
「なにそれ、でもちゃんと韻踏んでるね。母さんにこんなネーミングセンスがあるとは、気が付けて良かったよ」
光輝がそういうと母さんはすこし照れたように、満足げに笑った。
いつの間にか、あの滝のような雨は消えていた。雲の合間から太陽光がさしている。
「今日はもう帰るよ。また明日も来るから」
光輝は、雨の上がっているうちに帰宅した。
本返し・・っか。面白いな。
光輝は、帰宅してすぐに母の部屋にむかい、例のリストを探した。十五分かけて探し出したそのリストは、ただの薄っぺらい紙切れではなく、アルバムのように分厚い冊子になっていた。表紙には母の文字で「本 リスト」と書かれていた。
ページをめくると、そこには本の名前、作者名、日付け、感想、読んでいる時の会話などが書き留められていた。
毎週日曜日に投稿します。