第二章 山家集
光輝は、正午を告げるサイレンで目を覚ました。まだ、雨は降っている。
(懐かしい夢を見たような気がする)
光輝は、ゆっくりとベットから出ると、大きく伸びをした。少しぼーっとしてから、まだ昼ごはんを食べていなかったことを思い出した。
リビングに行くと、手入れを終えたカメラと星空を撮影するために用意した三脚などが置かれたままだった。
光輝は、手早く昼ごはんの支度をした。ご飯は炊き忘れていたので、冷凍うどんにすることにした。具材もシンプルに、青ネギだけを用意した。
ものの数分で準備した即席昼ごはんは、腹を満たすには十分だった。
しっかりと腹ごしらえをしたところで、やっと目がさっぱりとしてきた。昼寝のお陰で、疲れもだいぶ取れた。
テレビの電源を入れて、ソファに座った。テレビでは、お昼のニュースは報じられている。今朝から降るこの大雨の影響で各地で土砂災害が起きているらしい。一部の地域では、死者もでているほどである。
雨粒はなおも強く吹き付けている。光輝は、外の空模様を伺った。
真っ黒な雲が、視界一面を占めている。当分晴れるような気配はない。
(今夜は、晴れそうにないな)
光輝は、用意していた三脚とカメラを早々に片付けてしまった。
リビングで、コーヒーを片手に読書に勤しむことにした。まさに理想的な午後のひと時となった。
今回読んでいる本で千三百三十三冊目。少しずつ母さんとの約束まで近づいている。
少しずつ着実に目標達成に迫っていく。継続はどんなことよりも力に成るということは、この三年でよく学んできた。読書というものが、もはや日々の食事のような存在になってきている。
完全に習慣になってしまったら、多少生活が変わったとしても継続することは容易だった。気が付けば、本を手にして読んでしまっていた。
たまにテスト勉強などで読まないようにしていると、違和感を感じずにはいられなかった。
読書に没頭すること六時間。もう、とっくに日も暮れている。いつもは、窓から差し込む西日で夕食の準備を始めるのだが、今日は厚い雲で日光がさえぎられていて、西日が入ってこなかった。そのこともあって、いつもより一時間も遅い夕食になった。
あっと言う間に時間が過ぎて、真琴と約束した八時に近づいた。
空の様子を伺うと、まだ厚い雲に覆われているようであったが、雨は上がっていた。
光輝は、ショルダーバックに財布を入れて、家を出た。
自転車に乗って、スーパーに向かう。雨の影響で、側溝から水があふれて道路も数センチ水につかってしまっている。早く漕ぐと、前輪が道路の水を跳ね飛ばして靴にかかってしまう。光輝は、いつもよりスピードを落として、川と化した道を進んだ。
自転車のライトが水面に揺れて、不気味な雰囲気を漂わせている。
少しずつ登り坂になって、それと共に水も無くなっていった。スーパーに着くと、自転車をいつもの駐輪場に止めた。真琴の自転車もある。
コーヒー店に入ると、真琴は右角の席に座って、昨日買った新書を読んでいた。
「おまたせしました」
光輝が声を掛けると、真琴は本から顔を上げた。
「遅いじゃない。もう来ないかと思ってた」
店の中の掛け時計を見ると、八時半近くになっていた。
「ごめん。今日の雨で道が冠水してて」
「まあ、いいよ。来てくれてありがとう。何か飲み物買ってきたら」
真琴はそういって、自分の横に置いていたバックから財布を取り出した。
「いいよ。今日はちゃんと財布持ってきたから」
光輝もバックから自分の財布を取り出して見せた。
それを見た真琴は、取り出した財布を恥ずかしそうにしながらしまった。
「持ってきてるなら、先に何か買って来なさいよ。てっきりまた、一文無しで来たのかと思ったじゃない」
「そう怒らないでよ。じゃあ、何か買ってくるけど、何か追加で買ってきて欲しいものはある?」
「じゃあ、ホットコーヒー一つお願い」
真琴は、しまった財布をもう一度取り出そうとした。
「レディーに財布を開けさせては、僕の顔がたたないから」
光輝は、真琴が財布を出す前にカウンターに向かった。ホットコーヒーを二つ注文する。
自分のコーヒーには、大量の砂糖を投入した。真琴のコーヒーにはもちろん何も入れない。
右角の席に、二つのコーヒーが乗ったトレーを運んだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
真琴は、コーヒーで自分の手を温めている。
「その新書面白いの?」
真琴は、読んでいた新書をテーブルの隅に置いていた。
「う~ん、これは、私には難しすぎたかな。私の理解力では、なかなか読み進められないかな。まだ、五十ページぐらいしか読めてないけど、今日一日使ってこれだけしか読めなかったから」
「真琴でも苦労するような、本があるんだね」
光輝は、熱いコーヒーを覚ますために、しきりに息を吹きかける。
「私なんか、国語が一番の苦手教科で、特に古典が苦手で今回のテストも必死だったんだから」
真琴は、なおもコーヒーを口にすることなく、ただマグカップに手を添えている。
「でも、西行法師の山家集は読んだことあるだろ」
「名前は聞いたことあるけど、読んだことはないよ。ていうか、古典苦手な私が読めるはずないでしょ」
光輝は、店長に久しぶりに会った中学三年の頃の夏の事を思い出していた。
確か、当時のあの本棚には店長の大好きな時代小説ばかりが並んでいた。光輝は、しかたがなく司馬遼太郎を読んだことを覚えている。その後、その歴史小説ばかりの本棚に紅一点、和歌集が一冊あってそれに魅かれた覚えが確かにあった。あの時は、途中で断念してそのまま本棚に返したような気がする。
「僕の記憶が正しければ、あの本棚にはその山家集があったはずなんだ。僕が、ここの本棚を使い始めて、少し経ってからその本が本棚に入っていたから印象に残っているんだ」
「そんなこと言われても、私はそんな本よんだことないもん。私だって、一度読んだ本の作品名ぐらい覚えてるし」
光輝は、やっぱり自分の記憶が間違っていたのかと考えた。記憶にはそれなりに自信がある光輝であるが、時々間違って覚えていることもある。どこか別の本棚で見かけたのを、ここの本棚だったと錯覚していることの十分あり得る話だ。
光輝は、自分の記憶を辿ることを止めて、冷ましてちょうどよい温度になったホットコーヒーを少しずつ飲んだ。
「そんなに、気になるんだったらそこの本棚に今、その本があるか探してみればいいんじゃない」
「あっ、そうかその手があったか、さすが真琴」
真琴は、いつも見せる照れくさそうな表情を見せることなく、こんなことも思いついていなかったのか、というような冷たい視線を光輝に向けていた。
光輝は、そんな目線には気が付くことなく、席を立って本棚に確認しに行った。
本棚には相変わらず、時代小説が多数と光輝と真琴が持ち寄った本が数冊あった。一番上の段から順に右から左へと作品名に目を通していく。
「あった」
上から三段目の左端にその和歌集が置かれていた。光輝は、それを本棚から取るとそれをもって、真琴の所へ戻った。
「あったよ。やっぱり僕の記憶は正しかった」
光輝は、得意げな顔をして、本を差し出した。
真琴はそれを受け取って、ぺらぺらとその本をめくり始めた。
「やっぱり、こんなものを読んだ覚えは全くないし、読もうとも思わないと思う」
真琴は、本を光輝に返す。
「でも、この本は僕が真琴の本を読み始めたのとほぼ同時期にあの本棚の中に入ってたことは確かなんだよ」
二人は、お互い感慨にふけった。店のBGMは相変わらず夜のリラックスできるものになっている。
光輝が、マグカップを手にするのと同時に、真琴もまたマグカップを手にした。二人は同時に、コーヒーを飲み始め、同時に飲み終えた。光輝が、ゆっくりとマグカップを下ろしたら真琴と目が合った。
「もう、答えはでたよね」
「ええ、もうこれしか私には思いつかない」
BGMが、途切れて少しの静寂が訪れた。
「もう一人あの本棚を使っている人がいる」
二人の声が重なった。
今週は第12部と第13部を更新しました。
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