夜明け
押し寄せるスライムの泡に包み込まれたまま、俺はなすすべもなく押し流されていった。
泡の壁に飲み込まれた瞬間、全身を覆い尽くしていた甲虫は洗い流された。半透明の気泡の膜を隔てて、ガエビリスからも虫が取り除かれていくのが見えた。彼女は再び意識を失い、目を閉ざしていた。
泡に翻弄されながら流されていくにつれ、無情にも彼女との距離が開き始めた。俺は彼女に向けて手を伸ばす。ゲル状の泡の塊をかき分け、何とか彼女を繋ぎとめようと、力の限り必死に手を差し伸べた。しかし、届かなかった。やがて、彼女の姿は気泡とゼラチン質の向こうへと遠ざかり、不透明な赤の彼方へと消えていった。
もはやすべての力を使い果たしていた俺には、涙も怒りも湧いてこなかった。ただ目を見開いたまま気泡の中に力なく身を横たえ、混沌とした有機質の泡の塊に運ばれていった。どこまでも、どこまでも。
やがて、上に向かっていることに気付いた。泡立つスライムの塊全体が上に向かって移動しているようだ。俺に「解呪」されたせいで共生体を失い、地底の毒ガス中で生きていけなくなったスライムすなわち闇の王の断片が、酸素を求めて地上に向かっているのだ。半透明の気泡の壁を通して、かすかに外の光景が見えた。どこまでも続く垂直の壁と、そこに刻まれた螺旋階段。どうやら、地底世界に入る前に降りてきた縦穴のようだ。スライムはその壁面にへばりつきながら上へ上へと進んでいるようだ。縦穴に生えた植物を蹂躙し、その破片を取り込みながら混乱したスライムの塊は上昇していく。
上昇はかなりの速度だった。暗いトンネルの中をエレベーターに運ばれるようにどこまでも垂直に登っていった。いったいどこまで上がっていくのか。上昇運動は終息する気配さえなかった。これほど登ってもまだ地上に達さないとは。地底世界の深さを改めて思い知らされた。
だが、むしろ上昇は加速していた。どうやら地上の空気を求めるスライムたちが次々に縦穴へと押し寄せ、俺を包むスライム塊は下から強引に押し上げられているようだ。あの広大な赤い海を成していた膨大な量のスライムが縦穴に殺到しているのかもしれない。強烈な加速度がかかり、俺の体は下向きに押し付けられて泡立つ粘液の中にずぶずぶと沈み込んでいった。
いつの間にか、泡の外側を流れゆく光景が変わっていた。岩盤に穿たれた縦穴の壁面と螺旋階段は消え、隙間なく積み重ねられた巨大な黒い石組みに取って代わっていた。
そして、その瞬間は突然訪れた。
すべてが爆発した。
俺を包みこんでいた泡立つスライム、外壁の石組み、周囲のすべてが一気に炸裂した。
俺の体は凄まじい勢いで何もない空中に放り出され、宙を舞った。まわりには飛び散ったスライムが無数の小滴となって、震えながら浮かんでいる。身を切るような寒さに思わず身を縮めた。耳元では烈風がうなりをあげる。
俺が漂っているのは、はるか空の高みだった。いつの間にか大深度の地下世界から地上を通り越し、空にまで達していたのだ。はじめは訳がわからなかったが、体をひねり後ろの光景が目に入った時、すべてを理解した。そこにあったのは、巨大な塔だった。地下の矮人の話では太古の巨人族が建造したという、外地にそびえる黒い巨塔。
その頂部から、猛烈な勢いで噴出しているものがあった。スライムだ。地下で圧縮されたスライムが塔の天辺から火山の爆発のように噴出し、周囲に降り注いでいた。巨塔はあの縦穴の真上に建造されていたのだ。
ほのかに赤く光るスライムの断片と共に宙を舞いながら、俺は視線を転じた。はるか下の外地の平原には、至る所で赤い熾火のような光が灯っていた。都市を脱出してきた人々の野営の火なのだろう。火は所々で寄り集まっている。過酷な外地で、人々が不安におびえながら肩寄せ合って暮らしているさまが見えてくるようだ。
転々と野営の火が灯る外地に囲まれて、墨を流したように真っ暗な広がりが見える。おそらくあれが都市に違いない。そこには一点の光さえも見えなかった。
そして、都市と外地の向こう、はるか地平線の向こうに、巨大な山脈がそびえている。
そのギサギサした山稜の上の空がほのかに白み始めていた。
空の色は藍色から青、そして白を経て鮮やかなオレンジへと急速に変わっていく。そしてようやく、燦然と光り輝く太陽がその向こうから顔を出した。闇に包まれた平原の上を明暗境界線が走り抜け、反対側の地平線へと去っていった。この世界に新しい一日が訪れようとしていた。
目に涙があふれた。太陽のあまりの美しさ、目映さに耐えられなかった。目に刺すような痛みさえ感じる。地下で過ごしてきた時間が長すぎたのだ。太陽の光を目にするのはいったいいつ以来なのだろうか。思い出せない。ガエビリスが地下に消えた日以来、ずっと闇の中を歩んできたような気がする。
俺は慌てて暗視強化魔法と、ガス中毒魔法を解呪した。長らく俺を支えてくれた魔法の効果が打ち消され俺の肉体は元へと戻っていった。新鮮な空気を胸いっぱい吸い込み、肺胞に残っていた地底の瘴気を残らず吐き出す。人生最高に美味い空気だった。
言うまでもない事だが、俺は凄まじい勢いで落下していた。眼下の平原はどんどん近づいてくる。朝の光に照らされて、土埃をあげて走るオークの盗賊団や、難民キャンプの掘立小屋の集まりがくっきりと見えてきた。
素晴らしい日の出を見、美味い空気を漫喫できたのはよかったが、どうやら今度こそ本当に、俺は死を免れないだろう。まもなく俺はスライムどもと一緒に地面に叩きつけられ、俺の人生は終わりを迎える。これまで、もうダメだと思ったことは何度もあった。だけども大抵は純粋に幸運のおかげで今まで乗り越えてこられた。それだけでも神様には感謝しなきゃならない。
だけど、最後に、どうしても心残りがあった。
ガエビリス。彼女はいったい、どこに行ったのか。たぶん一緒に落下しているのだろう、だがその姿は見あたらなかった。彼女を救えなかったのが残念だ。それに、彼女の中に宿るという俺の子供。この世に生を受ける前に消えてしまう事になるのが申し訳なかった。せめて、あの世では三人一緒に暮らせれば…
朝日を受けて、空中にきらめく物が見えた。それはどんどんこちらに向かって接近してくる。大きな翼を広げたその姿は、どうやら天使のようだ。早くもお迎えが来たのか。まだ地上には激突してないし、ちょっと早い気がするのだが。
しかし、こんな天使に迎えられるのも悪くないな。それは素っ裸の若い女の天使だった。背中の翼が虫の翅のようで、天使というより妖精のようだ。胸が貧乳なのは若干残念だが、顔はそこそこ美人だし…あれ?その顔は、ガエビリス!?
顔や体はたしかにガエビリスだった。しかし背中からは蜉蝣のような緻密な支脈に覆われた透き通った翅が伸び、朝日を屈折、偏光させて虹の七色に輝いている。さらに額からは二本の針金のような触覚が伸び、風になびいていた。ああ、死に瀕した脳が見せる幻覚なのか。だが、こんな幻覚を見ながら死ぬのも悪くない。俺は間近に迫った天使の胸に身をあずけ、目を閉じた…




