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囁き

 俺たちを取り巻く一帯の砂浜がサラサラと囁き振動しはじめた。囁きは大きくなりやがて砂の表面に何かが姿を現した。

 無数の黒い小さな粒。それは甲虫だった。1センチにも満たない丸い甲虫が、あたり一面の砂中から無数に這い出してきたのだ。二人の周囲の地面は甲虫で足の踏み場もないほどだ。


「何だ、この虫は?」

「これは…ダメだ!今すぐここを離れて!」

 だが遅かった。甲虫たちは俺たち二人の体にどんどん這い上がり、そして小さな牙で噛みついた。鋭い痛みが走り血が流れ出す。

「痛っ!いててて」

「きゃあ!」

 夥しい虫たちに咬まれつつ俺たちは走った。今や島中の地表が虫で湧きたっていて、どこに足を下ろそうとも、そこから無数の甲虫が素早く這い上がってくる。手で払っても払ってもキリがなかった。

 さらに悪い事に甲虫には毒があるようだった。咬まれた場所は大きく腫れ上がり激痛が走る。足を何十か所も咬まれているうちに、足が痺れ走る事さえ困難になってきた。


 最後の逃げ場は目の前にスライムの海しかなかった。俺たちは海に向かって必死に走った。走ろうとした。しかし、足が言う事を聞かない。浜辺を目前にして俺たちはついに力尽き、黒い甲虫がひしめく地面に向けて倒れていった。たちまち俺たちめがけて周囲から虫どもが殺到した。


 頭から足の先まで全身が黒い甲虫の大群に覆いつくされていく。指、腕、背中、耳、脇腹、頬、太もも。全身の至る所で激痛が閃いた。甲虫はギチギチと関節を鳴らしながら耳の中にまで侵入してきた。さらに鼻や口、傷口からも入ってくる。隣で横たわるガエビリスも虫に覆われ動かなくなっていた。


 これで終わりなのか。せっかくガエビリスに再会できたのに、こんな虫どもの餌になって終わるのか。せめて彼女だけでも何とか守らなければ。しかし、今や虫の毒で全身が麻痺し、指一本動かすことができなかった。今度こそ、本当に終わりなのかもしれない。



 今まで、色々あったなぁ。ふいに、過去の色々な記憶がよみがえってきた。下水道でのはじめてのスライム駆除作業。ガエビリス家の初訪問…

 ああ、これが走馬灯という奴なのか。目の前に過去の記憶が次々とフラッシュバックしてくる。彼女との初めての夜、動物園でのデート、そして失踪。親方との意外な再会と、その壮絶な死。地下迷宮の果てしない闇。次第に走馬灯の内容は些細な日常の断片へと変わっていった。貧民街にあった自室の狭苦しさとカビ臭さ、詰め所で親方から解呪と日当の配分を待つひととき。失業後にちょっとだけ働いた倉庫内作業のアルバイトのまずい弁当。

 脈絡を失った取り留めのない記憶の奔流は続いた。動物園での巨獣の脱糞。作業主任魔術師の資格を取りに行った時の退屈な講義。無事に資格を取得できた日の夜の、ガエビリスとの夕食の場面―――





――あの魔法、そう馬鹿にしたもんじゃないよ。

  正式名、覚えてる?」


「身体改変術式0403211:嫌気的環境下において呼吸可能な

 心肺構造および細胞内代謝系改変構築の術」


「この呪文の第45文字目から57文字目、この部分何だと思う?

 実は召喚魔法のコードになってるんだ…」


「召喚魔法?魔物とかを呼び出すっていうあれ?」


「そうだ。そして召喚している物は―――」


 硫黄酸化細菌に近縁な微生物の一種。硫黄酸化細菌とは酸素がほとんど存在しない、つまり嫌気的な環境下に生息する極限環境微生物で、硫化水素をエネルギー源としている。この微生物が何百兆体も召喚され、全身の細胞内で一時的な細胞内小器官(オルガネラ)として共生し有毒成分の代謝を受け持つ。この共生生命体のおかげで、生身の人間が一息吸っただけで即死するような有毒ガスに満ちた下水管内でも作業できるのだ―――




 俺はふと、その記憶に引っかかりを感じた。何か重要な事をもう少しで掴みかけている、そんな感じがする。何だ?彼女を見つけ出すために暗渠に入ったあの日以来、俺の体はガス中毒防止魔法で作り変えられたままだ。だからこんな酸素のない、猛毒ガスの立ち込める地の底でも生きていられるのだ。もし今、解呪したら、俺はその瞬間に即死するだろう。ちっぽけな虫どもに齧られながらジワジワとなぶり殺しにされるより、その方がマシなのかもしれないな。



 待てよ。解呪…だと?

 解呪すればどうなるか。ガス中毒防止魔法で召喚されて以来ずっと細胞内に住み着いてきた共生体が消え去る。そして毒ガスを無毒化できなくなり俺は死に至る。


 

 それならば、もしはじめから地底に住んでいる生物を「解呪」したらどうなるんだ?奴らの細胞にも共生体がいるおかげで、酸素のない世界でも生きていけるのではないのか?だとしたら…ひょっとすると…

「解呪」すれば奴らも死ぬのか?



 もしかしたら全くの見当違いかもしれない。生れつき嫌気環境に適応した生物を「解呪」などできないのかもしれない。しかし意識を集中するのはどんどん難しくなっていた。これが最後のチャンスだった。

 俺はこの体に残された最後の力を振り絞り、スライムの波打ち際へと手を伸ばす。静かに打ち寄せる原形質の波に触れ、イメージを想起し、そして「解呪」した。



 

 海は今までと変わりなく、ぬめぬめとした赤い光を放ちながら静かに波打っている。生ぬるい湿った微風が吹いてくる。全身にたかった甲虫はギチギチと音を立てながら俺の全身の皮膚に穴を穿とうとしている。やはり何も起きなかった。


 そう思い諦めかけた時だった。波が止まった。不意に赤い海の波が消え、海面が鏡のように凪いでいく。赤い光が明滅を繰り返しながら弱まり、そして消えた。地底世界は完全なる闇に閉ざされた。

 だがそれは一瞬のことだった。次の瞬間、赤い輝きが爆発した。海面で、海中で、はるかな深みで、無数の赤い閃光が花開き、圧倒的な光輝で地底世界の隅々までも照らし出した。それと同時に海が沸騰し始めた。全体が泡立ち、巨大な気泡が海面で弾け飛んでいる。赤い海は今や、さながら煮えたぎる魔女の大釜だった。沖合で生じた泡の壁が島に向かって押し寄せてきて、俺たちは飲み込まれてしまった。


 

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