契り
ガエビリスが、ダークエルフ最後の純血種だと。そして、闇の王との間に子を産むだと。あまりのおぞましい内容に眩暈を覚えた。
「我々、闇の叡智の民、いわゆるダークエルフは
太古の昔より闇の王に仕え続けてきた。
日夜欠かさず闇の王に祈り、生贄を捧げ
その復活の日を一日でも早めようと
何千世代にも渡り奉仕してきた。
ある時、その見返りとして闇の王は我らに約束された。
ヒトが滅びし後の世に我ら一族が世界を支配することを」
「しかし、我らは古い種族だ。
貴様らヒトやエルフどもよりもはるかに古い。
古すぎて我が種族の寿命も尽きていたのだ。
そこにいるガエビリスこそが、ダークエルフ純血種の
最後の生き残り。
その血統は偉大なる神官デリジギスにまで遡る、
由緒正しき御方」
「最後に生き残った純血種の遺伝子に
闇の王の遺伝子が組み込まれる。
そして我らが種族は新生する。
死に瀕した古い種族ではなく
活力にあふれた新たなる存在として
それが我らと闇の王の間に結ばれた300万年の約定」
ゴゴゴゴゴゴ…
突然、地鳴りがし始めた。赤い海の水面が細かくさざ波だっている。
地震か?
島の波打ちぎわが急速に沖合へと引いていく。
まさか津波が来るのか。そう思った時だった。
島の沖合、赤い水平線の手前の海面が、異常に盛り上がっているのに気づいた。海面の隆起はどんどん成長しドーム型に膨張していく。膨大な量の海水が隆起へと集中していくようだ。突然の異常な変動。しかし、この光景には妙に既視感を覚えた。まさか。
「おお、我らが偉大なる闇の王の顕現だ。
讃えよ、皆の物。
おお、星の守護者にして無慈悲なる王よ
我らが主に栄光あれ」
「我らが主に栄光あれ」
ギレビアリウスが詠唱した。いつの間にか島のあちこちから姿を現した黒いローブ姿の人影がそれに唱和する。皆ダークエルフだ。彼らは足音も立てずに滑るように移動し、静々とギレビアリウスの背後に影のように集結し横一列に並んだ。
海面の隆起は大山のごとく盛り上がっていく。あわや地底世界の天井岩盤まで届くかというその時、それは形を変え始めた。上部がくびれて巨大な小惑星サイズの頭部が生じ、そこから無数の触手が垂れ下がる。肥大化した胴体からは何本、何十本もの大木のような腕が伸びていく。そこに異形の神の姿が現れようとしていた。
やはり、あの時と同じだ。地上での闇の王の降臨と。
ただ、その規模はケタ違いだった。その姿の禍々しさ、何より質量は比べものにならなかった。眼前で進行しつつある天地そのものが鳴動するような顕現の前では、あの時の降臨はまるで人形劇も同然だった。
そこでようやく気が付いたのだ。はるかに広がる赤い海の正体に。
それはスライムだった。
この海こそが闇の王の本体なのだ。
体内の生物発光により赤い光を放つスライムが、広大な地底空間に充満している。いったいその総量はどれほどになるのだろうか。見当さえつかない。
「これより聖婚の儀が執り行われる。
皆の物、歓喜せよ。
これより偉大なる時が始まる。
人類の蝋燭の火は尽きた。
地上の民は自らの愚昧さにより死に至る。
新たなる世界は、我らの仔により統べられる」
「聖母よ。
我らが救世主の母たる聖母よ。
備えはよいか。
偉大なる瞬間が今まさに到来する。
聖母に幸いあれ」
「聖母に幸いあれ」
ガエビリスは無言で海/スライムに向き合い、沖合の巨神に相対した。
「ガエ…」
俺は声を張り上げようとした。しかしその叫びは喉の半ばで封じられた。またギレビアリウスの魔法に違いない。あの時とまた同じ展開だ。彼女が暗渠に消えた時と。
だが、そうはさせるか。ここまで来て黙って引き下がれるか。俺はあの時の非力な俺とは違うんだ。俺は唱和するダークエルフの一団に向き直ると、スコップを構えて突撃した。
疾風のうなりを感じ取り、咄嗟に身をかわす。次の瞬間、何かが頬をかすめて飛び去った。同時にヒリヒリした感触が走る。どうやらカマイタチで頬をスッパリ切り裂かれたようだ。また来る。今度は地を蹴って高々と跳躍する。足元で見えない疾風の刃が炸裂し、小石をまき散らした。
着地し、一気に歩を進める。一歩、二歩、三歩。これで奴に武器が届く。俺はギレビアリウスの頭部めがけスコップを振り上げた。
ドスッ
鈍い音を立てて俺の鳩尾にギレビアリウスの拳がめり込んだ。
「がはっ」
肺から血とともに一気に空気が吐きだされた。足元から力が抜け、意識が遠のく。だが、ここで倒れる訳にはいかない。俺は奴の身体にしがみ付くと、その細い首に両手をかけた。
「貴様…!!」
頭部に、胴体に、拳の乱打が浴びせられかける。一撃一撃がダークエルフ特有の細身の体躯からは想像つかないほど重い。たちまち俺の頭部の皮膚が割け血が流れ出した。背後からは何本もの腕がつかみかかり、俺を引きはがそうとしている。俺は両腕に渾身の力を込めた。
「ぐがああああ…」
ギレビアリウスの貴族的な顔が苦痛に歪み、紫色に染まる。額にはミミズのような太い静脈が浮き上がっている。今度こそ奴に一矢を報いてやる。両手の指先は奴の喉に深く食い込み、血が流れ出した。
だが、俺の方もダメージは相当受けていた。たぶん何ヶ所も骨が砕けているに違いない。出血もかなりひどい。目の前がかすんでいく…。その時だった。
「やめて!!」
ガエビリスが叫んだ。
「…もうやめて、ヒロキ。もういいの…」
「……」
俺の両腕から力が抜けていく。次の瞬間、背後から伸びる闇の信徒たちの腕に引きはがされ、俺は地面へと叩きつけられた。たちまち俺の全身に無数の蹴りが襲いかかる。
「止めなさい!!
信徒である貴方たちがこの聖なる義を暴力で汚すのですか!」
ガエビリスが一喝した。これまで見たことがない毅然とした態度だ。
一瞬にして足蹴が止んだ。一転して辺りは静寂に包まれた。
「ありがとう。ヒロキ。
わたしは幸せだった。
わたしはこれから闇の王と契り、そして聖母となる。
その時、わたしは人の姿を失う。
何千人という救世主を、
ヒトが去った後の世界を統べる
新生した闇の叡智の民を
産み続けるために。
さようなら…」
彼女は再び海に向き直ると白いローブを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ裸体となった。そして波打ち際に向かって歩を進めていくと、声を張り上げた。
「闇の王よ。今こそ約定の時。
われと契り、わが身に汝の聖なる胤を授けられ給え」
沖合に佇む巨神が島へと向かってくる。山そのものが歩むかのようだ。島の上の全てが闇の王の体から発せられる鈍い赤色の輝きに包まれていく。視界からその巨体以外のすべてが締め出されていく。ついに島の間近に達したそれは、眼前にそそり立つ肉の絶壁としか見えなかった。
しかし、近くで見るその材質は、紛れもなく見慣れたスライムそのものだった。下水清掃作業で水路からそぎ落としていた、あの薄赤い半透明の原形質。潰れた海月のようなゼリー状の塊。毛細血管のような白い脈が走る組織。それが膨大な量に集まって、この巨神を構成していた。
両手を掲げ、微動だにせず直立するガエビリスに向けて、はるか上空から無数の触手が降りてきた。それらは彼女に触れると、繊細な動きでその裸体をまさぐり始めた。ぬらぬらと粘液を滴らせ、透明な糸を引く肉色の触手たちが、彼女のうなじから背中を経て尻にむけて這い下っていく。指先から絡みつき、胴体に達すると先端部で敏感な胸を刺激した。そしてひときわ太く醜悪な一本が脈打ちながら下腹部へ向けて身をくねらせる。何十本もの触手に取り巻かれ彼女の姿が覆い隠されていく。
「やめろ…」
俺はもう見ていることができなかった。必死に目を閉ざしても、耳を塞ぐことはできない。触手の立てる湿った水音に混ざって、彼女の吐息が、声が聞こえてきた。はじめは苦痛と嫌悪の響きを帯びていたそれが、やがて甘く蕩けたものに変わっていく。それは永遠に続くかに思われた。




