深淵にて
俺は赤い光に照らされた通路へと踏み出した。ここから先は一人だ。
通路内には植物が繁茂していた。いや、植物というより菌類なのか。床一面から無数に伸びているそれは、葉も花もない30センチほどの突起状のものだ。軽く触れただけでポキリと折れ、切断面から白っぽい粘液がにじみ出る。ポキポキと植物をへし折りながら通路の奥へと分け入って行った。
しばらく進んだところで空気の動きを感じた。通路の先からかすかに風が吹き込んできていた。風と共に湿った生暖かい空気が運ばれてくる。赤い光は益々強くなっていく…
唐突に通路が終わった。その先は断崖絶壁になっていた。
絶壁の縁に乗り出し、周囲を見渡す。下から生暖かい風が吹き付けてくる。そこは直径100メートルほどの垂直の縦穴だった。見下ろすと縦穴の底に赤い輝きが見えた。これが通路の赤い光の源のようだ。縦穴の上方ははるか頭上で闇の中へと消えている。まるで巨大な井戸の中にいるようだ。
よく見ると、縦穴の壁面に沿って、螺旋階段が刻み付けられていた。それは通路の出口の前を横切り、はるか下方へと螺旋を描きながら下っていた。
階段の幅はかなり狭い。人一人がようやく通れる程度だ。長い年月を経てすり減ったそれは、一部で崩落し、壁にへばり付くようにしないと通れない。なるべく下は見ないように、細心の注意を払いながら一歩一歩足を運んでいく。いったいここはどこなのだ。俺はこんな所で何をしているんだ。転落の恐怖におびえながら絶壁にしがみ付くこの状況に、今更ながら非現実感が込み上げてきた。
縦穴の壁面にも植物が密生していた。ただし通路とは種類が違いつる植物のようなものだった。絡み合うつるの中から、ときおり巨大な花のようなものが突き出している。あるものは直径1メートルもあり、べろりと伸び広がった花弁は肉厚のヒトデのようだ。あるものはチューブワームのような白い筒状のものが密集している。別のものはイソギンチャクの触手のような、長い蛍光紫の花弁を風になびかせている。地獄の花園の中を、つるにしがみ付いてひたすら階段を下っていく。
下に向かうにつれて、次第に湿度が高くなっていった。縦穴には白い霧が漂い、あたり一面が結露に濡れそぼっている。俺の全身もいつしか湿り気を帯び、髪の毛や伸び放題のヒゲから水滴が滴りはじめた。階段にはぬるぬるとした苔が生え、転落の危険をいや増していた。足を滑らせれば真っ逆さまだ。しかし、霧が目もくらむような眺めを閉ざしてくれたのは幸いだった。
下方の濃い霧の中から、突然とてつもなく長いクモのような脚が現れ、俺のすぐ目の前の壁に突き立った。白く透き通った外骨格の下で、体液が循環しているのさえ見える。しまった。ここにはモンスターがいたのか。階段を降りるのに必死ですっかりそのことに失念していた。こんな足場の悪い場所で襲われたらひとたまりもないぞ。俺はパニックを起こしかけた。
霧の中からさらに何本もの長い脚が現れ、俺をまたぎ越していく。目の前に突き立った脚の一本も引き抜かれ、上へと去って行った。どうやら俺を襲う気は無さそうだった。見上げると、霧の向こうにうっすらと怪物の全体像が見えた。それは巨大なザトウムシに似ていた。それぞれの脚の長さは5メートルはあるだろうか。しかし長いのは脚だけで、球形の胴体は1メートルほどしかない。それはゆったりとした機械的な足運びで、ときおり触椀で花を収穫しながら、上へと消えていった。
螺旋階段はいつまでも続いた。いったいどこまで下って行くというのか。ひょっとして終わりがないのではと思い始めた頃、不意に霧が晴れて視界が開けた。俺は縦穴の終端近くまで降りて来ていた。眼下には縦穴の底が直径100メートルの赤い円盤となって光を放っていた。
赤い円盤に目を凝らす。地上の光に比べれば仄暗い程度なのだろう。しかし長いこと闇の世界で過ごしてきた目にはまばゆいばかりに光り輝いて見えた。目が慣れてきた頃、細部が判別できるようになった。
それは円盤ではなかった。穴だった。そこから縦穴の下の広大な空間が見えていたのだ。それははるか高所から見下ろした海のように見えた。赤い海原。所々に岩の島が点在している。
ついに階段を下りきり、岩棚に降り立った。
眼下には信じがたい光景が広がっていた。それは断じて洞窟や地下空洞といった矮小なものではなかった。それはもはやもう一つの世界、地底世界だった。赤い海原は視野の限りどこまでも広がっている。頭上は巨大な岩盤が天井となり、地底世界のすべてを覆っている。天井からは何本もの岩柱が下へと伸び、地底世界の天と地を結んでいる。海上には、下からの赤い光に染まったピンク色の雲が浮いている。そして光源は海だった。海自体が赤く発光し、世界のすべてを照らしていた。まさか地下世界がこれほどの規模だったとは。俺は光景に圧倒されていた。
生暖かい微風にヒゲをなびかせながら、天井直下の桟道を辿る。いったいいつ、誰が作った道なのだろうか。岩盤に打ち付けられた桟道は木造だが、果てしない歳月を経て木材が化石化している。桟道は岩柱の一本へと伸びていた。
岩柱に辿り着くと、柱の周囲を取り巻くように螺旋階段が刻まれていた。下へと降りていくに従い、海面の複雑な対流パターンが見えてきた。深層から湧き上がり、海面に達すると沈み込んでいく流れがあるようだ。岩柱の根本は赤い海から突き出た島だった。柱は天井の岩盤から島の中央部へ向けて、鋭い逆三角形となって突き立っていた。周囲1キロメートルほどの小島だった。島の周囲は白い砂浜となっているようだ。所々に緑の茂みが見える。そして、茂みの影にちらりと見えるものがあった。あれは何だろう。さらに階段を下って行くと正体が判明した。
それは小屋だった。いや祠といった方がいいのか。装飾が施され、宗教的な雰囲気があった。祠の前からは茂みの中を細い道が伸びている。道は島の中を曲がりくねりながら伸びている。その先を辿ると…
「あ、人だ…」
白いローブをまとった小さな人影が歩いていた。俺がいるのは地上からはおそらく50メートルほどの高さだ。もうすぐ地上だ。いや地底なのだから地上はおかしいか。そんな事はどうでもいい。下るにつれてその人影は益々はっきりと見えてきた。その後姿、歩き方、間違いなかった。
「ガエビリスーーーーーー!!!!」
岩柱の根本の岩山を駆け下りながら、俺は叫んだ。人影はゆっくりとこちらを振り向いた。
「ワタナベ…来てくれたのか」
そう言って彼女は静かに微笑んだ。




