激闘
ズタズタになった黒い肉片が血に染まった汚水に浮かんでいる。その中を俺と親方は並んで進んだ。最後に会ったのは、親方が入院していた時以来だ。あの時、親方の両足の肉と骨は砕かれ、原型を留めていなかった。しかし今、親方は二本の足でしっかりと歩いていた。脚の動きと共に金属が軋む音がする。
「そうだ。義足だ。両方共な」
水路の交差点に達した。何もいなかった。先ほどの爆発で負傷し本体は逃げたのか。
「ところで、お前はこんなところで何してたんだ」
俺は今までの経緯を説明した。ガエビリスとのことも。
「だはははは、まさかお前らがそんな関係になるとはな!」
「お前も一緒に来い。ここらでちょろちょろされたらやり難いからな」
「やるって何を?」
「決まってるだろ。あいつを倒すんだ。そのために俺はここにいる」
「……」
「あいつのせいで仕事を失い、かわいい部下を何人も殺されたんだ。
あのままやられっ放しでいられるわけがねぇだろ」
「…親方」
「ずっと奴を追ってきた。仕事がなくなって暇だったもんでな。そのお蔭でなわばりと習性は大体把握できた。奴のねぐらはこの先にある。そこに隠れて傷を癒そうとするはずだ」
「わかりました。行きましょう」
梯子を登り、水路より一段高い通路を歩く。今までいた通路より汚物の堆積が多く、壁面はびっしりと黒いコケのようなぬるぬるした付着物に覆われ、天井からはボロ布のような幕が幾重にも垂れ下がっている。下の水面は淀み、あぶくや浮きカスが漂う。奥に進むにつれ、悪臭がひどくなっていく。下水で嗅ぎなれたヘドロ臭ではない。腐敗臭。腐った肉が放つ独特の臭気。
「ここだ」
水路の行き止まりは、円形の広い空間になっていた。その奥の水際に、暗視魔法で強化された視覚にも黒々と見える亀裂が開いていた。この穴の中に触手の本体が潜んでいるらしい。強烈な腐臭に鼻がもげそうだ。水面にはゴミのようなものが無数に浮いている。だが、その正体に気づいた時、全身を戦慄が走った。
夥しい数の人間の死骸、その断片だった。腐敗が進行し、白骨化しているものが多い。これまで多くの作業員が地下で行方不明になってきたが、その遺体に違いない。おぞましい事に遺体には無数の蟲がたかっていた。巨大なダンゴムシのような蟲だ。腐乱死体にしがみつき肉の一片までも食い尽くそうとしている。腐肉を溶かし込んだ汚水は原油のようにねっとりと重く黒く波打っていた。これまで地下に何度も下り、おぞましいものや気味の悪い物は散々見てきたが、これほど酷い光景は見たことがなかった。
呆気にとられる俺の横で、親方は雑嚢から何かを取り出していた。10センチほどの黒い丸い塊。爆薬だった。それを次々に怪物が潜む黒い亀裂へと投げ込んでいく。全て投げ終わると、親方は俺を引っ張って壁のくぼみに隠れた。
「ここなら爆風を避けられる。
今から起爆させるぞ。しっかり目閉じてろ。3,2,1、ドン!」
強烈な閃光と爆発音が走り、衝撃波に体が壁に押し付けられた。バラバラと石材の破片が落下し、火のついた人骨の破片が飛び散った。壁の亀裂は大きく広がり奥が見えるようになっていた。
そこに、怪物の本体がいた。識別不能な黒い塊。それが爆破で隠れ家を追い出され、水路にその全身を晒そうとしていた。まさかこれほど巨大な怪物だったとは。
ずるずるとした、とらえどころのない不定形の塊。その前半と思しきあたりから蛸の脚のように伸縮する黒い触手が何本も伸びだしている。触手の多くは爆発でダメージを受け、途中で千切れていた。しかし見ている間にどんどん再生し、傷口から新たな触手が出芽していく。亀裂からようやく全身が外に出た。体の後半部分は触手がなく長く平べったい尻尾のようになっていた。これは…
ようやく俺の脳は目にしているものを正しく認識しはじめた。一見無秩序な肉塊に見えた怪物だが、それには身体構造、器官があった。扁平な胴体、そこから伸びる四本の短く逞しい手足、鋭い爪、無数の首…それは醜く歪んではいたが、一種のドラゴンだった。水竜。無数の肉ひだやイボ、皺に覆われているため分かりにくいが、その全体像はオオサンショウウオに近い。その体の前半から無数の首が伸びている。
首だけでなく胴体にも大きな傷を負い、皮膚がえぐれ白っぽい肉が露出していた。ヒュドラは無数の触手の付け根に隠された本体の口をぱっくりと開くと、怒号した。先ほどの爆弾でさえ顔色なからしめるほどの凄まじい怒りの咆哮に水路全体が震撼した。全身がビリビリと振動し鼓膜が破れそうだ。
「…おいでなすったな」
「こっちだ、来い」
親方と俺は来た水路を駆け戻っていく。その後を怪物の本体が巨体に似つかわしくない猛スピードで追いすがる。途中で方向転換し、別の水路に飛び込む。狭い水路だが、怪物は構わず巨体を押し込んできた。骨がないのかその体はかなり柔軟だ。水路全体をその肉体で満たし、全身をカミキリムシの幼虫のように蠕動させながら突進してくる。どんどん距離が縮まっていく。
「これで最後だ!伏せろ!」
親方は最後の爆薬を後方に放った。爆風で二人とも前方に吹き飛ばされ床を転がった。かなり至近距離での爆破だったが、奇跡的にこちらはほとんど負傷せずにすんだ。鼻面にまともに一撃を食らい、さすがの怪物も一時的に動きを止めていた。
「今の内だ、急げ!」
俺はよろめく親方を引きずるようにして水路を走った。まもなく怪物も追跡を再開したが、かなり距離を開くことができた。
水路は円形の広場に出た。複数の水路の合流点のようだ。
「こっちだ!」
俺たちは今来た水路の出口のすぐ横に身を潜ませた。ほどなく怪物が水路からロケットのように飛び出し、広場に溜まった浅い汚水の中に着水した。爆発を生き延びたわずかな触手を伸ばし、俺たちの居場所を探りはじめる。すぐに見つかってしまった。水中で方向転換し、怪物の本体がこちらに向きなおる。先端の千切れた黒く太い触手が迫ってくる。
まさにその時、罠が発動したのだ。広場の天井から鉄骨を組み合わせた巨大な吊天井が落下し、無数の杭、鉄パイプ、槍で水竜の全身を上から刺し貫き、押し潰した。
「どうだい、俺が苦労してこさえた罠の感想は。
こいつを作るのは大層骨が折れたんだぞ」
怪物は罠の下でもがき、必死で脱出しようとしている。だが全身をピン止めされた昆虫のように床に釘付けにされ動くことができないでいた。
「最後の仕上げだ。食らえ!」
広場に合流する複数の水路の奥で、くぐもった爆発音が響いた。ほどなく、いくつもの水路から広場に向かって液体が流れ込んできた。水とは明らかに異なる、粘稠な液体…
「…細胞分解溶剤タロン-PG5。行政局の横流し品だ」
行政局がかつて、下水道からのスライム一掃をもくろんで使用した劇薬。結局スライムには効果がなかったが。流れ込む劇薬が広場を満たしていく。液体に触れた水竜の身体から蒸気が吹き上がりはじめた。怪物が苦痛の叫びをあげる。
「どうだい、火傷して赤むけした肌には刺激がきつかろう。
皮膚を保護する粘液層なくしてはさすがの貴様も耐えれまい」
広場の液位が上昇するにつれて、怪物の身体が沈んでいく。再生能力を発揮して、新たな頭部を生やそうとするが、出芽した先から溶剤に焼き潰されていく。罠の下で、怪物の身体が分解してゆく。
だが、その時だった。ヒュドラは最後の力を振り絞った。肉が割け、後ろ半身が引きちぎれるにも関わらず、強引に罠から脱け出そうとしていた。
「くそ!まずいぞ!」
「親方!」
俺が止めるのも間に合わなかった。親方はスコップを手に怪物の上の吊天井へと飛び降りた。そして今にも罠から抜け出そうとしている怪物の全身に切り付け始めた。
「親方!ダメだ!戻ってこい!」
ぐらり、と罠全体が揺れた。
親方はよろめくと、溶剤の中に転落していった。
だが、液体の中に落ちても、親方は諦めなかった。なおもスコップをふるい続け、怪物を切り刻んでいった…
やがて、怪物は動かなくなった。その巨体は少しずつ溶液の中に沈み込み、消えていった。
親方の姿は見つからなかった。




