魔道士
なんとか大蜘蛛の襲撃から逃れたのも束の間、俺は次なる怪物に遭遇した。
路面が陥没した穴から、信じがたいほど馬鹿でかいヒルのような蠕虫が伸びだしていた。ぬらぬら黒光りする列車サイズの巨体が前方の通りを完全に塞いでしまっていた。そいつは伸び縮みしながら路上にひしめき合う人々を押しつぶし、逃げ遅れた人々を前端にある丸い口で手あたり次第に吸い込んでいく。御者が逃げて路上に放置された竜車を見つけると、荷車もろとも有蹄竜を丸呑みした。馬のような体型の家畜化されたドラゴンはもがきながら怪物の体内へと消えていった。
怪物は伸縮しながらじりじりとこちらへ向かってくる。通りの側面に逃げられる横道はない。前方からヒルに追われた人々が逆走してきた。後方からも蜘蛛どもに迫われた人々が押し寄せてくる。両側から人波が殺到し、一帯は身動きが取れないほどに密集していった。俺は悲鳴と怒号が渦巻く渦中に巻き込まれてしまった。圧力がますます強まり、このままでは骨が砕けそうだ。苦痛のうめきが口から洩れた。これでは怪物に喰われる前に圧死してしまう。…もはやこれまでか。
突如、通りの前方、ヒルの怪物がいるあたりでまばゆい閃光が走り、爆炎が立ち上った。続けてさらに二度の爆発。前方からどっと歓声があがった。一体何が起きたのかと訝しむ間もなく、今度は後方で青白い閃光が走り、一瞬遅れて雷鳴が鳴り響いた。後方からも歓声が立ち上る。体にかかる人の圧力が緩和していく。ようやくできた人垣の隙間から、ヒルの怪物の巨体がバラバラに千切れ、炎上しているのが見えた。振り返ると、後方遠く、焦げ臭い煙を立ち上らせながら、大蜘蛛どもが脚を空に向けて黒焦げになっているのが見えた。
怪物の残骸の前に人影があった。グレーのコートを纏ったその姿は、都市防衛部軍の精鋭、特殊魔術戦部隊、通称「特魔隊」。話には聞いたことはあったが、実際にその姿を見るのは始めてだった。テロや重大犯罪の際に出動し、鎮圧するのが彼らの任務だ。攻撃魔法を駆使し向かう所敵なしの最強集団。あまりに強力すぎるために、彼らの出動にはかなり制約があるらしい。
その時だった。すぐ横の建物の窓を破って一匹の大蜘蛛が飛び出した。まだ生き残りがいたのだ。大顎をくわっと開き一撃で首を切り落とさんと俺に飛びかかってきた。と、次の瞬間、一陣の風が走ったかと思うとすぐ隣に灰色の影が出現し、オレンジの閃光が走った。蜘蛛は無数の火の粉になって飛び散った。
「一匹取り逃がしてたか。危ないところだった。こちらβ31。鎮圧完了」
俺の危機を救ってくれた特魔隊の隊員は意外なことにまだ少女と呼べそうなほどの年齢の若い女だった。しかしその射抜くような眼光の鋭さ、全身から放たれる威圧感のあるオーラはその実力を存分に物語っている。
「……あ、ありがとう」
俺はおずおずと礼を言った。しかし彼女の耳には入らなかったのか、無言のまま出現した時と同様にかき消すように去って行った。
この目で見たその強さは想像を超えていた。まさに超人だ。反射速度から運動能力、魔法発動速度まで人間のレベルをはるかに超越していた。おそらく魔法で脳神経系を高度に調整しているのだろう。強力な魔法にともなう複雑な呪文やイメージを圧縮想起して一瞬で発動させるのは、内的イメージング能力が相当強化されていなければ不可能だろう。
その場にいた全員の胸に、希望の光が灯ったに違いない。彼らが来たからにはもう安心だ。おそらくここ以外の都市全域でもモンスターどもは掃討されつつあるに違いない。あの自称闇の王のスライム野郎ももう終わりだ。そう思い、はるか遠方に佇む巨大な影の方に目をやったその時だった。まさに邪神は集中攻撃を受けていた。都市上空にそびえる巨体の数十か所で同時に閃光が走る。そして一際まばゆい閃光が、触手に覆われたその蛸のような頭部で閃く。3秒後、連続した爆発音が響き、最後に一際大きな爆発音が鳴り響いた。
今の攻撃で闇の王は無残に破壊され、全身クレーターのような大穴だらけになった。もっとも損傷の激しい頭部は垂れ下がり、首の皮一枚で繋がっている有様だ。やがて巨体がゆらめき傾くと、巨大な頭部は胴体から千切れて足元の市街地に落下し、地面に衝突して轟音を上げた。どよめくような歓声が周囲の人々から上がった。俺も我知らずみんなと一緒に叫んでいた。
しかし、こんなに簡単に済むわけがなかった。当然、スライムであるだけに再生能力は半端なかった。爆発で体中に空いた穴はすぐさま塞がり、首の断面から新たな頭部が生えだそうとしている。そして全身の形態はさらに醜悪に変貌しようとしていた。頭部だけでなく全身から長大な触手が伸びだし、背中からは一対のコウモリのような膜状の翼が拡がってゆく。
「くくくく……」
巨神は地鳴りのような音を発した。笑っているように聞こえた。
「…面白い。今度はこちらの番だ」
全身から伸びだした触手が無数の大蛇の群れようにのたうちまわり、鎌首を持ち上げるように逆立っていった。無数の触手の先端に鈍い赤い光が灯っていく。
「味わうがよい…我が滅びの…
闇の王の言葉は途中で断ち切られた。闇の王の上空真上に巨大な火球が出現し、降下しはじめたのだ。そして周囲の市街もろとも闇の王を押し潰した。地上に出現したもう一つの太陽のごとき灼熱の火球に飲み込まれ、闇の王の全身が猛然と蒸気を噴き上げ気化しはじめる。あまりの眩しさとこの距離を隔てても感じられる熱波に顔を背けずにはいられない。さすがに再生能力に秀でたスライムといえども全身を劫火に焼かれ蒸発させられては生きてはいられないだろう。
…だが、何なんだこの嫌な予感は。圧倒的な特魔隊の戦力を現に目にしつつも、嫌な予感は募っていった。俺はその原因を探った。…そうなのだ。これだけ強力な魔法を発動させているからには、普段、危険な攻撃魔法を封じるために都市に張り巡らされている結界はキャンセルされているに違いない。ということは、特魔隊以外の誰もが強力な攻撃魔法を使える状況にあるという訳で……
――圧
詠唱の声を耳にし、通りの建物の屋上を見上げた。そこには風に翻る漆黒のローブを纏った人影があった。その人影は見間違えようもなかった。それはあの時、ガエビリスが地下に消える直前、俺の両足を魔法で切断したダークエルフの男の姿だった。
俺は屋上へ通じる階段を猛然と駆け上がった。傷ついた足で可能な限り速く。両足に激痛が走ったが構うものか。4階、5階、6階…
バン!と音を立てて屋上の扉から飛び出す。土埃がたまり地衣類に彩られた屋上を取り囲むフェンスの上に黒衣のダークエルフが鳥のように立っていた。
「…もう足は大丈夫なのか?もう少し体を労わった方がいいぞ」
冷たい笑みを浮かべながら、そいつは言った。
「ガエビリスはどこにいる!」
「…我らが闇の聖母は聖所にて預言の日の到来を待っている」
「何?訳わかんねぇ事言ってごまかすんじゃねぇよ!彼女を返せ!」
「返す?我らと共にあるのは聖母自らの意思によるのだ」
「……!!」
そんな馬鹿な。そんな事があるわけない。俺は彼女を信じているんだ…
「ふん。それよりも、自分の心配をした方がよいぞ。お前たちの最後の希望は断たれたのだからな。見よ」
ダークエルフの男はある方向を指さした。この屋上から100メートルほど離れた建物の屋根の上。何か赤いものが見える。血のような赤…
目を凝らすと、大量の鮮血に染まったグレーのコートが見えた。そしてコート以外の物も。飛び出た内臓、潰れた肉片…特魔隊員の、潰れた死体。それは巨大なハンマーで叩き潰されたようにぺちゃんこになっていた。屋根の上の赤いシミは他にも何ヶ所も見えた。そして、先ほどまで闇の王を焼き尽くそうとしていた火球のまばゆい輝きはどこにもなかった。その方角にはもうもうたる煙が立ち込めているのみ。
「ご理解いただけたかな。…特魔隊は全滅した」
「……」
「では、これから訪れる暗黒時代、存分に楽しんでくれたまえ」
そう言うと、男は身を翻らせ、フェンスの向こう側へと消えた。急いで下を覗きこんだが、すでにその姿は消えていた。




