治療
「今日から神経接合の手術を行う。きみの反応を見ながら接続状況の微調整をしなくちゃならんから、麻酔は使えない。かなり痛むから、覚悟しておいてほしい」
ベッドに横たわる俺に、ウォルフ先生は言った。ガエビリスが失踪した日に俺が呼んだ医者だ。白髪を短く刈り込み、丸眼鏡をかけている初老の男性だ。
あの日、両足をほとんど切断されかけ、意識を失っていた俺は先生に発見され、病院へ運ばれた。切断された骨と筋肉は魔法の力でたった2日で繋がって、外見上は元通りになった。鋭利な刃物で斬りつけたかのようにスパッときれいに断ち切られていたので、治すのが比較的簡単だったのだという。
だが、神経は繋がっていなかった。だから脛から先の足の感覚がないし、動かすこともできなかった。その治療が今から始まる。切れた神経線維を一本一本、魔法の力でマイクロメートル単位で操作し、繋いでいく。ここからが医者、患者双方にとって大変らしい。
「まずは腓骨神経の接続から始める。用意はいいかな。じゃ、始めるぞ。痛かったら合図してほしい」
ピンク色の線となって残る脛の切断箇所の痕に手のひらを密着させると、先生は言った。微妙にチクチクした感触が走る。意外と大したことないなと思い始めた矢先、最初の激痛が襲ってきた。俺の絶叫が治療室に響き渡った。
2時間ほどでその日の手術は終わった。激痛の波に何度も襲われて叫びまくり、心底憔悴していた。鏡の中の自分の顔はまるで別人のようにげっそり痩せ細って見えた。患部にはまだ疼痛が残っている。この先5日間もこの手術が続くと聞いて絶望的な気分になった。
術後に処方された痛み止め薬で、痛みが次第に和らいでくると、自然と思考は彼女、ガエビリスのことに向かっていった。
彼女は今、どこでどうしているんだ。無事なのか。今すぐ彼女の後を追ってあの暗渠に入り、この街の下水道中を駆け回ってでも彼女を見つけ出したい。それなのに今は歩くどころか一人で立つことさえ出来ない。この状況のもどかしさ、焦燥感に気が狂いそうになる。
あの時、医者を呼びに行く前、たしかに彼女は俺を止めようとしていた。それなのに俺はそれを無視した。悔やんでも悔やみきれなかった。あの時、彼女のそばに留まっていれば、こんな事にはならなかったんじゃないのか。絶えず浮かび上がってくる後悔と自責の念。俺の思考は焦燥感と後悔の間を堂々巡りし続けた。この苦しさに比べれば、手術の肉体的な痛みなど何でもない、むしろ救いでさえあった。激痛に襲われている間だけは、終わることないこの渦から逃れられるのだから。
下水逆流が始まった日、そして彼女が失踪した日から一週間が経った。まだ松葉づえは必要だったが、なんとか立って歩けるまでに回復した俺は退院した。あの日以来、ずっと病院の中だけで過ごしていたので、あれ以来、外がどうなったのか全く知らずに来ていた。
病院のドアを開けて外に出た瞬間、最初に襲いかかってきたのは耐え難い悪臭だった。アンモニア臭、糞便臭、腐卵臭、魚の腐った臭い、カビ臭さ、ヘドロの臭い、それらが混然一体となった目を刺すような臭気の壁が一挙に押し寄せ、卒倒しそうになる。
病院内ではかすかに臭気を感じる程度だったので、まさか外の状況がこれほど悪化していたとは思いもしなかった。先生は外の悪臭を締め出すのにかなり成功していたのだと言わざるを得ない。
この地区は廃屋や廃工場が多い寂れた街だったが、今はそれが幸いしていた。住人たちは豊富な空き地に穴を掘り、そこに排泄物や汚物を埋めて処分することができたのだから。それでも土中から立ち上る臭気は抑えきれていなかった。遠くに見える中心街の方向は霞がかかっていた。煙の筋が何本も立ち上っている。いったい向こうはどんな悲惨な状態になっているのだろう。
一週間ぶりに彼女の家に戻った。
しんと静まり返った部屋の中は、あの時のままだった。台所に積み上げた汚れた皿も、溜まった洗濯物も、彼女が横たわっていた乱れたベッドも。彼女が大事に飼育していたペットたちは一週間放置されていたにも関わらず、大半が生き残っていた。劣悪な環境の生物なので、飢餓にも強いのだろうか。とりあえず、彼らに餌をやった。彼女と一緒に暮らしている間は、一度も世話をしたこともなかった。生物たちはガツガツと久方ぶりの食事を貪った。
洗い物と洗濯をしようとしたが、困ったことに流した水が溜まったまま、排水口から流れていかなかった。この家の下水管も詰まっているようだった。詰り除去用の吸盤でガポガポやってみても効果がない。仕方がないので、バケツの中に水を貯め、そこで皿を洗ったり、洗濯をした後、排水は庭に流した。排水の大半は土中にしみ込んでいった。
そうやって、淡々と雑務を片づけている内に、日が傾いてきた。
急に、幸せだった彼女との日々の記憶がよみがえってきた。
散らかった部屋で楽しそうに生物の世話をする彼女、台所で一緒に料理を作った時の彼女、埃まみれになりながら一緒に部屋を片付けた時の彼女、そしてベッドで愛し合った時の彼女……
薄暗く、がらんと空虚な部屋の中に、記憶の中の生き生きした彼女の姿がオーバーラップして浮かび上がる。寂しさに胸が押しつぶされる。
エキセントリックで身勝手で整理整頓が大の苦手だけど、無邪気で屈託なくてよく笑う、俺はそんな彼女が本当に大好きだった。いったい、なぜ行ってしまったんだ。どこへ行ってしまったんだ。暗い部屋の中で俺は一人嗚咽した。情けない事に涙が止まらなかった。
他のダークエルフたちと一緒になり、地下の闇へと消えた彼女。結局、図書館で読んだあの本は正しかったのか。下水道の奥に繋がる地下迷宮、そこに住むという暗黒神を復活させるのがダークエルフの悲願だという。都市の混乱と彼女の失踪は関連しているとしか思えなかった。
動物園からの帰り道、彼女は言った。一人にしないで、離さないで、と。彼女は前々からこうなることがわかっていたのだとしか思えない。まるで何かを拒絶するかのような発作も、邪悪なる意思に屈することを拒む、彼女の必死の抵抗だったのだろうか。彼女は一人孤独に戦っていたのだ。それなのに俺は何の力にもなれなかった…俺は彼女を守れなかった。
……
……待て。まだ何もかも終わった訳じゃない。彼女はきっとどこかで生きている。
街の地下の下水道網、そのさらに下の古代都市、そしてその奥に広がるという地下迷宮、そのどこかで今でも俺が来るのを待っているに違いない。
諦めるな。俺にはじめて生きる喜び、人生のすばらしさを教えてくれた女性。このまま失ってたまるか。絶対に取り戻す。そしてまた、この家で二人、幸せに暮らしてみせる。
次の日から、俺の戦いが始まった。




