喪失
図書館で読んだあの本のことは忘れる事にした。俺のガエビリスへの接し方は以前と何も変わらなかった。だが、初めて俺をこの家に招いてくれた時に情熱的に語った地底の闇への憧れは、ひょっとすると…
―――僕はね、地面の下にどこまでも伸びるあの闇の世界が大好きなんだ。あの暗闇の中、湿気と臭気と温もりに包まれて、陽の光に追われた無数の生き物たちの気配をそばに感じながら、何時間でも佇んでいるのと、豊かな気持ちになれるんだ…
俺はその考えを必死に打ち消した。
新しい仕事は案の定きつかった。理不尽とも言えるひどい扱いを受けることもあったが、二人の生活のために歯を食いしばり耐えた。しかし、生活にある程度、金銭的な余裕はできた。そんな俺をよそにガエビリスは優雅なニート生活を続けるのだった。
少し辛いこともあるけど、愛する人がそばにいてくれる限りなく幸福な毎日。
しかし、そんな日々はまもなく終わりを迎えようとしていた…
やがて、この都市が正常に機能し、人々の平穏な日常が終わりを告げる日が到来した。
そしてその日は、俺にとっての世界の在り様を一変させる日となった。
下水での作業が禁じられて以降、地下の状況は悪化の一途をたどっていた。スライムは着実に増殖し、下水管を詰まらせ都市の排水能力を低下させていった。地上の平穏とは裏腹に、市内の下水道の大半がもはやスライムの支配圏、魑魅魍魎の跋扈をする魔境と化していった。
そして、その日。ついに状況は最終段階に達した。
市内各地で下水が逆流し、地上に溢れ出した。
市内全域のトイレが逆流し、溢れ出た汚物が家屋内を汚した。排水口が不浄な液体を噴き出し、路上を残飯、排泄物、毛髪、紙片などの大量の汚物で埋めていく。都市全体を見えない悪臭のオーラが包み込んでいった。
標高が低く、水はけの悪い地区は被害の程度がひどかった。周囲の地域から溢れ出た汚水が集中して流れ込み、家々は汚水の海に没した。概して浸水区域はスラム街の人口密集地区だった。住処を失った貧しい人々の群れが市内を当て所なく彷徨い始めた。
当然、この状況に至るまでに行政局は手をこまねいていたわけではない。後で知ったことだが、この少し前、スライム駆除のために大々的な薬剤の投入が行われたらしい。細胞分解溶タロン-PG5。あらゆる生物の細胞質を強力に分解し即座に死に至らしめる劇薬。何百トンもの薬剤により、下水からは生命体が一掃されたはずだった。しかし効果は一時的なものにすぎなかった。盛り返したスライムは以前に倍する勢いで増殖し再び地底を埋め尽くしていった。おまけに薬剤に抵抗性を耐性を獲得したらしく、再度の投入は何の効果ももたらさなかった。
人類はスライムに敗北した。
この日を俺たちは彼女の家で迎えた。
どんよりと曇った陰鬱な朝だった。
その日は朝からガエビリスの体調がすぐれなかった。熱があり、どこか憔悴している。昨日はあんなに元気だったのに。朝食にもほとんど手を付けないまま、再び床に就いて寝込んでしまった。俺は仕事を休んで看病することにした。
昼過ぎから、発作が始まった。初めて彼女の家に泊まり、夜通し看病したあの時以来だった。眠りながら彼女はうめき、意味不明なうわ言を口にし、時折全身を激しく痙攣させ絶叫した。そのたびに彼女の憔悴の度は深まっていくようだった。時間の経過とともに、発作の頻度と激しさは増していった。
「おい!大丈夫か!おい!聞こえるか!しっかりしろよ」
俺の呼びかけはまるで耳に入らないらしく、彼女は目に見えない何かを必死に拒絶しているようにベッドの上で身悶えし続けた。もはや限界だ。医者が必要だった。
当然、発作の件については彼女に何度も聞いていた。彼女の事が心配だったから。医者にはかかっていないのか。薬は飲んでないのか。だけど、その都度、彼女は俺の質問をはぐらかした。これは病気なんかじゃないし、たぶん医者にどうこうできる類のことじゃないよ。僕のことは大丈夫だから心配しないで。
だが、目の前で苦しむ彼女はどう見えて大丈夫じゃないし、病気にしか見えなかった。幸い、この近くには病院がある。連れていくのは今の彼女の状態では困難だ。だとしたら医者に来てもらうしかない。こういう緊急時に救急車も119番もないこの世界が心底もどかしかった。
「今から病院に行って医者を呼んでくる。すぐ戻るからな」
部屋を出ようとドアノブに手をかけたその時だった。
「…だ、だめ。行かないで」
かろうじて聞こえる程度のか細く弱々しい声だった。
「お…おねがい…」
そう呟くと、再び意識を失い、浅く早い呼吸を繰り返すだけとなった。
「…すぐ戻るからな。10分もかからないからな」
下水の逆流で町中が大騒ぎになっていた。比較的人口が疎らなこの地区でも、路上には人々があふれ、右往左往している。そして、悪臭。今までやってきた仕事が仕事だけに、この臭いには慣れっこになっているつもりだったが、いつもと違う状況で嗅ぐと強烈に感じられた。
そして地上に溢れ出していたのは、汚水、汚物だけではなかった。忌々しいスライムまでもが、マンホールの蓋の隙間、ドブなどから地上に這い出そうとしていた。
そんな中、俺は近くの医院へと急いだ。医者は初老の人間だった。話を聞くとすぐに俺と共に家へと急いでくれた。道中、医者は下水の逆流に怒り、戸惑い、行政局の怠慢と無能を罵り続けた。
医者とともに家の階段を駆け上がる。玄関のドアを開ける寸前、嫌な予感が走る。家を出た時に閉めたはずの鍵が開いていた。医者と共に家の中に入り、寝室へと向かう。
案の定、ベッドはもぬけの殻になっていた。
家の中のどこにも彼女の姿はどこにもなかった。あまり考えたくはなかったが家の外へ出てしまったのか。意識がないまま夢遊病のようにさまよい出てしまったのか。しかし、俺が留守にしていた10分足らずの間だから、そう遠くへは行っていないはずだ。医者も手分けして近所を探してくれることになった。
混乱を極める市街を駆け回り、ガエビリスの姿を探す。玄関には彼女の靴がそのまま置いてあった。素足で歩き回っているのか。しかし、人でごった返した通りに彼女は見あたらなかった。裏通りから細い路地、空き地、民家や工場の敷地内までもつぶさに見て回る。あんな衰弱した状況ではどこかに倒れていてもおかしくない。
そして、夕暮時に、町はずれの工業用水路に辿り着いた。
コンクリート製の水路の底には種々雑多なゴミやガラクタが散乱し、その間を少量の水が流れている。向こう岸の壁面には、暗渠が大きく口を開いていた。影に包まれた暗渠の中で、何かが波打つように蠢いている。目を凝らす。それはスライムの巨大な塊だった。暗渠内部はスライムで完全に埋め尽くされていた。脈打つ肉の壁。
その時だった。水路の底の死角から、一団の黒い人影が歩み出た。全員足首まで届く黒いローブをまとい、暗渠の入り口へと静々と歩を進めていく。異様な光景に、思わず息をのんで見入る…
次の瞬間だった。黒いローブの一団の一人、大まかに円陣を組んで歩く集団の中心をおぼつかない足取りで歩く一人。見覚えのあるその後ろ姿は――――
「ガエビリス!!!!!!!!!!!!」
集団が立ち止まった。中心にいた一人がゆっくりと後ろを振り向き、水路の底からこちらを見上げた。やはり、ガエビリスだった。しかし、その瞳は虚ろで、あの印象的な青緑色の輝きはない。まるで俺など見なかったかのように再び前を向くと、集団と歩調を合わせて暗渠の口へと向かい始めた。
「おい!!待てよ!」
俺は道路から用水路の底へ飛び降りると、ゴミを蹴散らしつつ彼女の元へと走り寄ろうとした。その刹那。
「ぐあああああああっ!!」
俺の両足に激痛が走った。ザックリと脛が割け血が噴き出していた。
ローブの集団の一人、円陣のしんがりを務める一人が立ち止まってこちらを向き、右手を掲げていた。何かの対人殺傷魔法を使ったのか。フードに半分ほど隠れた顔は、端正で美しいが、酷薄な雰囲気が漂っている。この男もダークエルフだった。やがて興味なさげに前に向き直ると、一団を追って歩き始めた。
「おい!待て!待てよ!」
歩けない。激痛だけでなく、骨と筋肉そのものが断裂して足が動かない。俺はゴミと雑草の中に惨めに倒れ伏した。歩けないなら、這ってでも彼女を取り戻す。だが、集団と俺との距離は無情にもどんどん開いていく一方だった。失血が激しいのか、意識が遠のきはじめる。
やがてローブの集団は暗渠の口に到達すると、スライムの壁に向かい、何事かを唱和しはじめた。すると、肉壁の中央に切れ目が走り、湿った音を立てて両側へと押し開かれていく。現れた入口へと、ガエビリスと集団は進んでいく。最後の一人が入口を潜ると、その背後でスライムの肉壁が閉ざされていった。
この光景を見たのを最後に、俺は意識を失った。
1時間後、俺と一緒にガエビリスを捜索してくれていた医者が用水路の横で倒れて動かない俺を見つけてくれた。応急に止血魔法で処置してくれたおかげで、俺は何とか一命を取り留めることができた。両足は脛の半分から下が皮一枚でようやく繋がっている状態だった。治るまでには魔法の力をもってしても当分かかるとのことだった。
「ガエビリス…」
彼女を失った衝撃に、俺は病院のベッドの上で茫然と時を過ごした。




