探索
朝、ガエビリスを家に残し、俺は出勤した。
「んじゃ、行ってくるわ。くれぐれもムリすんなよ」
「大人しく家で寝てるんだぞ」
「うん、そうする。…いってらっしゃい」
玄関でガエビリスは手を振って俺を送り出してくれた。
昨夜は彼女と一緒に夜を明かし、着替えまでしてやったのか…。朝の白々した光に包まれた街を歩いていると、それも何だか現実の出来事ではなかったような気がしてくる。
発作の事が気になった。持病でもあるのだろうか。
夜通し看病していたせいで、先日の仕事の疲れがまるで取れていなかった。今日もたぶん昨日並の激務が待っているのだろう。その事を思うと憂鬱になった。
行政局主導で、急きょ市内全域の下水道網の探索が実施されることになった。目的は急速に劣悪しつつある下水道網の現状の確認、そしてスライムおよびモンスターの発生源の究明と対策だ。
今回の調査でうちの会社が担当するのは市内東部地区。中央駅東側の商業地区から住宅が密集する下町のガルム町、古い家々が立ち並ぶテレロンの旧市街区域、ロードリオ戦勝記念公園。そして山手の高級住宅街のウフェッティ地区までが範囲に収まる。
計画では4班に別れて各々別の探索ルートを辿りながら下水道網を踏破する。各班には都市防衛軍の兵士が同行し、モンスターの襲撃に備える。危険を感じればすぐ地上に撤退できるよう、各所での避難ルートを事前に徹底的に検討した上で出発した。
俺の班はロードリオ戦勝記念公園内のマンホールから地下へと降下し、旧市街地区の境界からウフェッティ地区までを探索する計画だ。戦勝記念公園はかつては緑したたる都市のオアシスとして市民の憩いの場だったが、今やホームレスたちが定住し、みすぼらしいボロ小屋の群れに埋め尽くされていた。300年前にブルゾラリア帝国の侵略軍を撃退した救国の英雄、ロードリオ将軍も草葉の影で泣いていることだろう。噴水広場に立つ彼の銅像はハトの糞に汚れ、頬を流れる白い筋が涙のようだ。
意外なことに、今回の調査には行政局の役人が同行していた。地下まで降りて実際に自分の目で状況を確認したいらしい。年齢的にはおそらく俺と同じ25歳くらいか。色白で小柄だが目つきは油断なく、動作はキビキビとし、話し方は簡にして要を得る、いかにも頭の回転が早そうな感じの男だった。これまで行政局というとだらしないお役人のイメージしかなかったが、こんな人間もいるのかと意外な思いがした。
「行政局都市インフラ整備課のロイド・ペリオロスです。本日は宜しくお願いします」
彼は単なるいち作業員である俺に対してもわざわざ自己紹介し、手を差し出してきた。
「あ、あの、こちらこそ、よろしく…」
俺はおずおずと握手に応じた。意外と硬く力強い手だった.
この辺の街区の下水溝はレンガ造りになっていた。市内東部地区はこの都市でももっとも歴史が古い区域だ。再開発でかつての旧市街地はかなり取り壊されたが、今でもテレロンなどには歴史ある町並みがかなり残っている。市内で最初に下水道が敷設されたのもこのエリアだ。驚いたことに最古の下水道は2000年前から使われていたという。
地下の雰囲気は、市内の他の地域とはまるで違い、まるで古代遺跡の中を歩いているようだ。少し前まではスライムをまったく見かけない地域だったが、今ではレンガの壁面のそこここにピンク色の半透明の肉塊がへばりついていた。場所によっては壁だけでなく天井からもフワフワしたゼラチン質が垂れ下がり、進路を阻んだ。ナタやスコップで通路を切り開き、先を急ぐ。どこからか生暖かい空気が流れていた。
ロイド氏はしきりと辺りを照らして観察し、ときおり機器で何かを計測しながら歩いている。先へ進むにつれスライムの密度は高くなっていった。そしてスライムに覆いつくされてレンガの壁面はまったく見えなくなった。足元を流れる下水の底もスライムの層で覆われ、長靴が沈み込んでいく。ズボッ、ズボッと音を立ててスライムから足を引き抜きながら、先へと進む。
下水道はゆるやかな下り勾配となって地底へと向かっていた。すべらないように注意しながら進んだが転んでずぶ濡れになってしまった。それに驚いたバカでかいドブネズミがキィキィ騒ぎながら逃げていった。
ここでスライムの密度が低下し、壁面が再び見えるようになった。いつしか壁はレンガではなく石造りに変わっていた。ロイド氏によると、これは元々は下水道ではなく、地中に埋もれた古代の街並みだという。たしかに壁面にはタイルの装飾の名残があったり、石像が並んでいたりして、下水道という感じではない。古代ローマのポンペイ遺跡を彷彿とさせる古い街並みが、そっくりそのまま地底に埋もれているのだ。
先へ進むにつれ、通路の幅が広まっていく。そして俺たちの前に突如、広大な空間が開けた。高さ10メートルはあるドーム型天井の大広間。精緻な彫刻が施された巨大な石の柱が無数に立ち並び、天井の重量を支えている。ランタンやヘッドランプの照明の届く範囲を超えて、広大な空間が闇の奥まで広がっていた。その場所の荘厳さに俺は圧倒され言葉を失った。
「こいつはすげぇ…………」
つぶやいた言葉が広大な空間に幾重にも反響する。こんな壮大な空間がいつも生活している都市の下に眠っていたとは知らなかった。しかしいつまでも見とれている訳にはいかない。俺たちは先へと急いだ。
大広間から出る通路の一つに入ると、幅が狭くなるとともに、勾配が急になってきた。幅30センチほどの狭い階段を、壁にへばりつきながら恐る恐るおりていった。階段のすぐ横は下水が勢いよく流れ下っている。転落して流されれば命がないだろう。
さらに下の層へと降りたようだ。古代の街並みのさらに下。こんなに地の底深くまで下水道は伸びているのか。水路の様子はさらに一変していた。もはや壁面は石造りではなく剥き出しの岩盤だった。天然の洞窟のようだ。そして、上の層に比べ明らかに気温と湿度が高い。魔法の効果や保護具をもってしても防ぎきれないほど有毒なガスが充満しているのか、目や喉がヒリヒリと痛む。洞窟は複雑に分岐し、迷い込めば二度と脱出できないだろう。壁に残された蛍光塗料の目印を手掛かりに先へと進んだ。
上に比べ、この層は異形の生物に満ちていた。オレンジ色に発光する蠕虫が足元を這い、天井からは不気味な菌類が粘液を滴らせている。長さ30センチ以上ある悪夢のようなゲジが壁面に密集して群れを作っている。そして大量のスライム。この層のスライムは浅い層のとは種が違うのか、体色が濃い紅色で、周囲に触手を伸ばしながら活発に動き回っていた。
突然、岩の窪みから巨大な白い物体が飛び出し、作業員の一人にとびかかった。一瞬、全員がパニックに襲われた。しかし護衛兵が鉄の槍で一撃すると体液を飛び散らせ動かなくなった。正体は巨大な蛆虫。全身からは尖った剛毛が生え、それを足代わりにして移動するようだ。口吻からは鋭い牙が飛び出し毒液を滴らせていた。幸い咬まれる前に駆除できたので、作業員は無事だった。蛆虫の死骸にはさっそく蟲どもがたかり、死肉を奪い合いはじめた。その中にはガエビリスの家で見た不気味な矮人たちもいた。まるで地獄の底のそのものの光景だった。
俺はあることに気が付いた。ここも天然の洞窟などではなく、人手が加わった形跡がある。
「そうです。これもかつての都市なのです」
俺が疑問を口にすると、ロイド氏が説明してくれた。
俺たちが住んでいるこの都市は、先ほど見た壮大な古代都市を母体としその上に築かれてきた。しかし、古代都市が建造されるはるか昔にも、この地には都市があったという。古い伝承に伝わる忌わしき暗黒都市ゲ・ビゲジ。邪悪な暗黒の神を祀った神殿を中心に、広大な地下迷宮都市と巨大な石の塔が建造された。そこでは人間が誕生する以前に世界を支配していた古の民がひしめき、邪神に捧げるためおぞましい人身御供の儀式を繰り返していたという。今、俺たちがいるのが、その広大な地下迷宮のほんの端っこの部分だった。
石の巨塔は今でも外地に存在している。俺がこの世界に迷い込む時に見た塔が、それだった。一部崩落しつつも、計り知れない昔から浸食作用に屈することなく荒野に屹立している不気味な石の塊…。邪悪な神と、それを崇拝する古代の民はどこへ消えたのだろうか。
眼と喉の痛みや息苦しさが耐え難いものになってきた。毒ガスの濃度が危険なレベルに達していた。そろそろ戻る潮時だというロイド氏の判断で、俺たちは地上へと引き返すことにした。一刻も早くこの地獄の底のようなおぞましい場所を後にしたい。願いはそれだけだった。
ウフェッティ地区の端から俺たちは地上へと脱出した。清々しいそよ風が吹き、近くの木立からは鳥のさえずりが聞こえてくる。時刻は午後4時くらいか、傾きかけた太陽から金色の光が降り注いでいた。丘の町からの美しい景色を眺めながら、俺は日光と地上のすばらしさを実感していた。




