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病欠

下水に凶暴な魔物が跳梁し、街には不穏な気配が漂っていた。だけど、俺の人生は興味深い展開を迎えようとしていた。



きっかけは欠勤だった。俺ではなく、ガエビリスの。


またかと思われた方も多いと思う。申し訳ない。だけど実際、最近の俺の生活は彼女を中心に回っていた。白状すると、あいつの事ばかり頭に浮かんでくる。


きっかけは、やはりシャワールームの件なのだろうか。結局、職場の誰よりも助平なイヤラシイ眼であいつのことを見ているのは俺なのかもしれない。正直、それまではちょっと危ない奴だと思って、距離を置こうとさえしていたのに。まったく現金なものだ。


季節の割に生暖かい朝で、町全体が濃い霧に閉ざされていた。いつもより静かな街を俺は職場へと急いだ。早く職場で奴と会いたい。一緒に休憩室でコーヒーを飲みながら他愛ない世間話をしたい…



そんな俺の期待は裏切られた。彼女は欠勤していた。


あの細い体躯に似合わず彼女は頑健で、キツい肉体労働の毎日にも疲れた様子さえ見せずに毎日働いていた。俺が知る限り、彼女が仕事を休んだのは今日が初めてだった。職場には何の連絡も入っていなかった。無断欠勤だ。


スライムが毎日のように発生し、猫の手も借りたいほど仕事が山積していたので、ガエビリスの無断欠勤に上司は渋い顔をした。大量採用された新規採用者たちの半数以上は、危険な現場と過酷な労働に尻尾を巻いて逃げだしていた。さらに昨今の怪物の出現で、勤続年数の長いベテランさえもがこの業界から逃げ出しつつあった。深刻な人手不足に、増える一方の仕事。大半の社員が疲労の色を浮かべる中で、彼女だけは常と変らず飄々としているように見えたのだが……人知れず疲れをため込んでいたということなのか。



彼女のことが気がかりではあったが、俺には仕事がある。


作業着に身を固め、ヘルメットとゴーグル、ヘッドランプ、ゴム長、ゴム手袋、マスクを装着、合羽を羽織り、仕上げにガス中毒防止魔法を自分と部下たちに掛ける。慣れてはきたが、全員済ませるのにまだ10分近くかかる。ヘルメットとバール、鉄パイプ、ロープ、橇、土嚢袋など各自が担当する装備を担ぎ、足取り重く今日の現場へと向かった。当然、怪物対策の護衛も同行している。傍から見れば、ゴーグルとマスクで顔を隠し、集団で歩道をぞろぞろ歩く俺たちは相当怪しく見えることだろう。


今日、俺たちが担当するのは5件の現場だ。そのうち一つ目が見えてきた。


「さて、仕事にかかるか。今日は長い一日になる。お前ら、気合い入れて行くぞ!」


「おう!」



日没後、ようやくすべての現場を片付け、俺たちは下水と汚物とスライムの体液まみれの姿で、ふらふらになりながら職場へと戻った。全員が疲労困憊の極にあった。皆、シャワーの熱い湯に打たれながら茫然としている。今日一日酷使した俺の身体も悲鳴を上げ、今すぐ家に帰って布団に潜りこむことを痛切に訴えていたが、それよりもガエビリスへの心配が上回っていた。一刻も早く彼女の顔を見て無事を確認したい。気が焦るあまり、解呪を忘れてそのまま帰ってしまうところだった。


暗い夜道を彼女の家へと向かう。あれ以来2度目だ。細い路地が入り組み、古い廃工場が並ぶ一角を通り抜ける。決して夜道の散策には向かない町並み。いかにもゴロツキやチンピラ、犯罪者が好みそうな住処。こんな治安が悪そうな街に一人で住んでいて、彼女は今まで大丈夫だったのか。怖ろしい目にあったこともあるのではないだろうか。


雑草に埋もれ、蔦が絡まる古いボロ家。着いた。ガエビリスの家だ。


何度ノックしても返事はなかった。嫌な予感が走る。鍵が開いていたので、俺は恐る恐るドアを開け中へと踏み込んだ。


前回の訪問時と同じく、部屋の中は暗く、ゴチャゴチャと散らかり物が山積している。下水のすえた臭いが漂う。


「こんばんは。俺だけど。いるか?入るぞ」

…返事はない。静まり返った家の中では水槽の生物のうごめく音が聞こえるのみ。


俺はゆっくりと廊下へと踏み出した。足元でミシリと床板が軋む。歩きながら、廊下の左右の部屋を確認する。真っ暗で人のいる気配はない。さらに奥へと向かおうとした時、俺の耳は小さな物音を捉えた。聞こえるか聞こえないかくらいの、かすかな呻き声。真っ暗闇の部屋の中に、誰かいる。壁の照明スイッチを手探りし、点灯する。


崩れた本棚の下、ガエビリスが倒れてた。彼女の体は本の山に半ば埋もれていた。

「おい、おい!しっかりしろ」

意識がない。倒れた本棚で頭を打ったのか?触れて気が付いたが、すごい熱だった。


本の下から彼女を取り出すと、寝床を探したがそれらしき空間はどこにも見当たらなかった。いつもどうやって寝ているのだ?俺は床に山積みになっている本をどかし、何とか一人が横になれる程度のスペースを確保すると、ガエビリスを横たえた。隣の部屋に毛布があったので、かけてやった。


呼吸が浅く発汗がすごい。台所の水道でタオルを湿らせ汗を拭ってやった。時折呻くだけで、彼女の意識は戻らない。そうやって彼女のそばに付きっきりになっているうちに、いつしか俺は微睡み始めた。昼間の激務の後では不可抗力だった。


まさに眠りに落ちようとした、その時だった。


「…やめ…、うぅ…」


彼女の呻き声に俺はハッと目を覚ました。


「どうした?大丈夫か」


彼女は呻きながらもがき苦しみ始めた。頭を両手で抱え床の上で悶えている。


「おい!しっかりしろ!おい!」


彼女の体をゆすり、軽く頬を叩いてみるが、何の反応も示さない。目は半分開いてたがその瞳は何も移していなかった。全身が小刻みに痙攣をはじめた。痙攣は激しさを増していく。

彼女の体を必死に抑えようとしたがけいれんは止まらない。俺はどうしていいか全くわからなかた。今すぐ救急車を呼びたいが生憎この世界にはそんなものはない。気が焦るばかりだ。すると突然、彼女は絶叫すると身体を弓なりに反らせて硬直させた。そして床にくずおれ、一転して静まり返った。

呼吸が楽になったようで、彼女はすやすやと寝息を立てはじめた。さっきのは何かの発作だったのだろうか。


その後、彼女は朝まで静かに眠っていた。俺は何度か途中でタオルを替えてやった。


少し躊躇したのだが、全身にすごい量の汗をかいていたので、服を着替えてやることにした。このままでは体が冷えて風邪をひいてしまう。黒い薄手のセーターと長袖のシャツを脱がし、ゴワゴワしたズボンと木綿の下着を下ろした。彼女の体を拭いて清潔にし、他の部屋から適当に見繕ってきた着替えに袖を通した。その後は彼女の枕元にうずくまったまま、夜を明かした。



次の朝、彼女は目を覚ました。


俺に目を止めると、しばらくぼんやりしながら無言で俺を見つめた。服装が変わっていことにも気が付いたようだ。状況が飲み込めないようだ。俺は台所の水道からガラスのコップに水を汲むと、彼女に渡した。あれだけ汗をかいていたんだ。きっと喉が渇いているだろう。彼女は黙ってコップを受け取ると、ぐびりぐびりと喉を鳴らしながら一気に飲み下した。


「…も、もう一杯、おねがい…」


二杯目もたちまち空けると、ようやく人心地ついたようだだった。


「ワタナベが看てくれたのか?」


「まぁな、一応。…着替えまでしたのはやりすぎだったかな?」


「ううん。ありがとう。うれしい…」


床にぺたんと腰を下ろしたまま、ガエビリスは俺を見て微笑んだ。そんな彼女はどこからどう見てもかわいい女の子だった。

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