運命ノ再会 【ミツコ】
不快な音で目を覚ます。
足下から這い上がってくる、大きな太鼓を打ち鳴らすかのような轟音。
眠りを妨げられた不快感と、覚醒しきっていない意識がもたらす倦怠感で、私は身を捩った。
『うん…?』
おかしい。満足に身体を動かすことが出来ない。
僅かに動いた爪先が、すぐに何かにぶつかる。
肩も、腕も、首も、動かそうともがけば、間もなく何かに阻まれ、私の自由を尽く奪った。
そうしているうちに、霞みがかっていた私の意識は
、身体の自由と反比例するかのように、今おかれた状況を理解しようと動き出す。
どうやら私は閉じ込められているようだ。
何処に、何故。
記憶を辿ろうにも、その記憶そのものが曖昧で、私の混乱を助長した。
先ずは現状把握が優先であろうか。私は周囲を見渡す。
しかし先程から、私の視界に入るのは闇ばかりで、視覚的情報は得られないという事実を突きつけられるだけに留まった。
加えて身を捩るのも困難な程に閉じられた空間。まるで棺桶である。
いや、本当に棺桶なのかもしれない。
薄ら寒い感覚が背筋をなぞる。益々身体を動かそうと試みるが、これまで以上の成果は無かった。
誘拐?拉致監禁?それとも事故で何処かに生き埋めに?
考えあぐねて次に私が試みたのは、これまでの経緯を思い起こすことであった。
すっかり覚醒した意識の底から、自身の記憶を呼び起こす。
「─先生、それではまた明日。」
職員会議が長引き、外はすっかり暗くなっている。昼間の賑わいとはうってかわって、夜の学校は恐ろしい程静かだ。
私立中学校の数学教諭。それが私の仕事であった。31歳で独身。付き合って2年の恋人と破局したばかり。
冬休みを翌日に控えたその日、私はすっかり参っていた。
教え子達の高校受験がいよいよ始まるという緊張もあった。 父兄の目が一際厳しくなる時期である。そこに恋人との破局が重なった。
何より私を苦しめたのは、破局の原因である一人の女だった。
ミツコというその女と出会ったのは1年前。付き合っていた恋人との同棲を機に、互いの職場へのアクセスを重視して、市内のアパートに越してきた日のことだ。
腰まで伸ばした黒髪に、“細長い”という形容が見合う長身。自室の扉から前屈みに身を乗り出し、斜めの姿勢のままこちらを見据える。引越の作業中、視線に気付いた私が会釈をするとすぐに身体を引っ込め扉を閉めた彼女の第一印象は、『変わった隣人』であった。
その後もミツコとはアパートの廊下でよく出くわした。私と目が合ったり、私が挨拶をすると、決まって引っ込む。人付き合いの苦手な女性なのだろう。私はそう思っていた。
ある朝、その日も廊下でミツコと出くわし、いつものように彼女は自室に引っ込んだ。彼女の部屋の前を通り過ぎ数メートル、私は何の気なしに後ろを振り返ると、また彼女と目が合う。
一度引っ込んだミツコは、再び玄関から上半身を乗り出し、出勤する私の背中を見送っていたのだ。
黒目がちな彼女の両目は瞬きも一切せず、ひたすらに私の両目を捉えていた。そして私はその日初めて、彼女の笑顔を見た。目は見開いたまま、口角だけをぐいっと持ち上げたその笑顔は、暫く私の脳裏に焼き付いていた。
その頃から、私はミツコの気配に悩まされ始める。アパート内だけでなく、恋人との外出時、学校での勤務時、果ては旅行先でも。
考え過ぎとは思っていた。だから恋人にも話さず、警察に相談などもっての他であった。ストーカーというものは当事者同士の関連性が少なからず存在し成立するもので、よもや引っ越し先で偶然隣の部屋に住んでいた、などという些細な要素に起因するものとは思っていなかった。
思いたくなかったのかも知れない。
そんな私の根拠のない期待は外れ、ミツコの影はより深く、私達の暮らしを蝕んでいった。
切手のない不審な手紙の投函。
そこにはおおよそ身に覚えのない、私と彼女との関係が綴られており、同じだけ私の恋人への口汚い批難の言葉が溢れていた。
『引っ越して来た日から運命を感じた』
『日に日に互いに惹かれ合った』
『何度も逢い引きをし、身体を重ねた』
『潔く彼から手を引いてほしい』
『オマエは彼に相応しくない』
『オマエは売女』
『彼が汚れる』
『キレイにしなければならない』
『浄化し、やり直す必要がある』
『私達は運命で硬く結ばれている』
『運命は生死をも超越する』
『どんなに離れても、
運命は何度でも私達を引き合わせる』
2通目までの内容はこういったものだった。それ以降は読まずに棄てていたので、内容は分からない。
しかし毎日のように投函される封筒は、回を追う毎に厚みを増していった。
決定打となったのは、恋人と別れる前日。
我慢の限界をとうに過ぎていた私が、ミツコの部屋を訪れた夜の事だ。
もうその頃にはアパートを引き払う事も決まっており、私は強気だった。最後に一言言ってやろう、というくらいのつもりだった。
扉の外からの、怒気を滲ませた私の呼び掛けに、驚くほど呆気なく扉が開いた。相変わらず斜めの姿勢で、上半身を乗り出し、黒目がちな眼で私を見据える。
大の男が乗り込んできたというのに、彼女は至って平静であり、それが私の怒りを不安へと塗り替えた。
そして、その不安が畏怖に変わるのに、時間は掛からなかった。
両目をこぼれそうなほど見開き、三日月のように口角を上げて彼女は笑った。
そして、
「来てくれた来てくれた来てくれたきてくれたきてくれたキテクレタキテクレタキテクレタキテクレタ」
三日月から発せられる機械的な言葉。壊れたカセットテープのように、ソレは私の訪問を繰り返し歓迎していた。
刹那、私の両肩に彼女の指が食い込む。合わせて20の指それぞれが、私の肩のどの部分を捕らえているのか、服の上からでもはっきりと分かる程、その力は強靭だった。
眼前には触れてしまいそうなくらい近づいた彼女の顔。まるでぽっかり穴の空いたような、殆ど黒一色の瞳。
次に私の記憶にあるのは、アパートの自室。ソファーに横たえられていた。
肩にくっきりと残る爪痕以外に怪我は見当たらなかったが、私は衣服を身に付けておらず、身体には恋人のものでない、黒く長い毛髪が何本も付着していた。
それらを払い除けようと、思わず飛び起きた私は戦慄する。
荒れ果てた室内。衣服はズタズタに引き裂かれ、食器や本、インテリアなど、あらゆるものが無惨な姿で床に散乱していた。
一見、見境なく、無秩序に行使された破壊と思われたが、散乱しているものは全て私の恋人が使っているものか、若しくは二人の思い出の品ばかりだった。
私は最低限の身支度をしてすぐにアパートを飛び出し、その足で警察に駆け込んだ。
そして次の日、仕事で出張に出ていた恋人に、電話で別れを告げた。
命の危険を感じたのだ。自身の、そして恋人の。
ミツコの憎しみを一番に受けているであろう彼女を守るには、私から遠ざけるしかなかった。
警察には相手にされなかった。男女の立場が逆であれば兎も角、被害者を名乗る男は31歳の中年。
交際を巡るトラブルでしょう。
また何かあったら相談してください。
大方、浮気癖のある男が浮気相手に入れ込まれ、少し痛い目を見た。その程度にしか思われていなかったのだろう。
アパートを引き払った後も、ミツコの影に怯え、少しでも遠くへ逃げようとした。
そして、今の学校を3月末で去ることを決め、冬休みを翌日に控えたあの日、私は参っていた。
職場の同僚宅に居座らせてもらっているので、一人よりは心強い。しかしそれでも、私の気が休まることは無かった。
校門を出て、同僚宅への道程を歩く。
最近は不安から、人通りが無くなる時間まで学校に残ることは極力避けていたが、その日は退職の話や休み前の引き継ぎで時間が掛かった。
すっかり夜も更け、静まり返った帰路を、申し訳程度の街灯の明かりを頼りに早足で進む。
私の勤めている学校はちょっとした丘陵の上に建っており、住宅地や商店街はその麓に広がっている。
学校から麓までは400メートルも無いが、丘陵であるが故に道は直線でなく、道程自体は倍近くになる。そしてその間に民家は皆無であり、この時間はバスも走らない。
募る不安を振り切ろうと、目線を次の街灯へ、そこに辿り着くとまた次の街灯へと移らせてゆき、ただ黙々と両足を進めた。
そして何番目かの街灯に差し掛かり、次の街灯へ目線を動かした時、薄明かりの下に彼女を見つけた。
ミツコだ。
アパートの時と変わらない、斜めの姿勢のまま、上半身をこちらに向けている。
20メートル程の距離があるので、あの黒目がちな両目は見えなかったが、それが私を確実に捉えているのは本能で察した。
以前は、目が合うと自室に引っ込んだ彼女であったが、今回は状況が違う。ここはあのアパートではない。彼女が引っ込む部屋もなければ、私が逃げ込める部屋もない。
「………」
ミツコが何かを口ずさんでいるが、距離があり聞き取れない。
そして彼女が一歩、昆虫の脚のように骨張ったそれをこちらへ踏み出した瞬間、私は踵を返してもと来た道を駆け出していた。
なだらかな上り坂を全速力で駆け上がる。冬の刺すような冷気が肺を痛めつけるが、私の足が止まることはなかった。恐怖も手伝い、振り向こうという気は一切起きなかったが、背後への注意は怠らず、校門が目視できる所まで無我夢中で戻った。
校門の脇には守衛所がある。
守衛所には常駐している人間がいる筈だ。
ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタ
私の革靴の音に、裸足の足音が混じる。
細かく、一定の拍子で迫るそれが聞こえだすと同時に、 まるで夢の中にいるように、私を含む時間の拍子が間延びした。
水中を歩くように、身体が前に進まなくなる。
いや、もしかするとこれは本当に夢かもしれない。そんな仄かな希望を、
「ミィ ツ ケ タ」
二度目となる彼女の肉声と、肩に食い込む20の痛みによって、私は棄てざるを得なかった。
「仕方ナイの、仕方ナイノ。許して、許シテね」
痛みが、肩から首に移動していくのがわかる。
「でモ大丈夫。運命ガ、ワタシタチを………」
そして再び、記憶が途切れる。
───
不快な音で我に返る。
『そうだ、私は…』
再び身を捩るが、先程と手応えは変わらない。
あの女に捕まって?監禁されている?
漸く飲み込めた。私はミツコの手中のようだ。
何処かはわからないが、逃げ出す手立てを練らなければ。
足下から這い上がってくる、大きな太鼓を打ち鳴らすかのような轟音。
最初に比べ頻度を増したそれが、私の思考をかき乱す。
その不快感から少しでも距離を取りたくて、意識を反対側─頭上へ向ける。
『あれは…光?』
完全な深淵と思っていたこの空間に、僅かな光が射していた。
出口と決まった訳ではない。爪の先程度の隙間があるだけかもしれない。
それでも私は、全力で身体を捩り、その光へと身体を進めた。芋虫が地を這うように、それは非常にゆっくりではあったが、頭上の光は少しずつ大きくなる。
そうしているうちに、あの不快な音が遠くなっていき、替わりに微かな人の声が耳に届く。その声に誘われるように、私は前進を続けた。
出られる。助かる。
複数の人間の声。それらが「大丈夫ですか」、「後少しですよ」といった励ましの言葉であるとわかると、前進する身体に力が入る。心なしか、その速度も増してきているように感じた。
あと、ほんの僅か─
その時、私は光の中から差しのべられた手に身体を引かれた。
それは忘れ得ぬあの肩に食い込む痛みとは程遠い、ある種の慈愛を感じさせるものであった。
程なくして、私を包んでいた漆黒が、純白へと姿を変える。久しく忘れていた刺激に目を眩ませながら、それでも現状を把握しようと、細めた視界を動かした。
─無事で良かった!
─よく頑張りましたね!
降り注ぐ安堵と喜びの言葉たちに、改めて『助かったのだ』と、私は実感した。
感謝の言葉を返したい所だが、興奮からか声にならずもどかしい。
─さあ、どうぞ声を掛けてあげてください。
「…や っ ト、 会エ た ね」
私を抱く、20の指先。
記憶に刻まれた、あの声。
細めた視界から、うっすらと覗く 、ぽっかり穴の空いたような目。
三日月のような口。
そうか、あの時私は───
『私達は運命で硬く結ばれている』
そしてあの時彼女は───
『運命は生死をも超越する』
───
『どんなに離れても、
運命は何度でも私達を引き合わせる』
不快な音は、もう聞こえない。
初投稿です。
お読み下さいましてありがとうございました。