そして屋上は、混沌に包まれる
生徒で溢れかえる廊下の合間を縫って階段に行く。螺旋の階段を登って最上階の踊り場に着いた。
うちの学校はめずらしく屋上は解放になっている。しかしなぜか好んで使う者はあまりいなかった。よって、おそらく今は誰もいないはずだ。
夕浜以外。
オレはゆっくりと扉を開いて隙間から外を確認した。誰もいない。少なくとも見える範囲では誰も確認できなかった。
扉を完全に開いて外に出る。
屋上に出るのは初めてだった。
高さが五mほどある銀のフェンスで囲まれている。屋上からは街の様子が一望できた。端にはベンチが設置されていた。オレは中程まで進む。
きょろきょろと辺りを見渡すがどこにもいない。
「いない、のか」
それならパンツ一丁で逆立ちしながらブレイクダンスし狂喜するところだがそうはいかないのがこの世の常である。
「きましたね」
風鈴のような声。スローモーション。振り返る。いた。貯水タンクの上。立っている。仁王立ち。風が吹く。スカートが翻る。
「夕浜……」
オレはうなるように名を呼んだ。クラスでの無表情は消えて例の怪しい笑みを浮かべていた。バックの抜けるような青空とミスマッチしている。夕浜はタンクから身軽に降り立つとすたすたと寄ってきた。
「ちゃんと来てくださって感謝します」
「そ、そりゃあ来ないと写真が」
風に吹かれて髪がゆれている。間近で見ると夕浜は本当に綺麗であった。背が意外と低いことに驚く。俺よりも頭一つ低い。甘い香りが鼻孔をくすぐった。
綺麗な顔で至近距離から見上げらられるとドギマギするが内心穏やかでない今、悠長に顔を赤らめている場合ではない。夕浜に何でもすると言ってしまった以上覚悟を決めねばならない。
「道後君はもうお昼ご飯を食べましたか?」
「ま、まだ食べてないけど」
「そうですか。それなら好都合です。これからとあることをしてもらうので」
「オレに何をさせるっていうんだ?」
「ふっふ、まあまずはこっちに来てください」
というとオレの手をつかんだ。しっとりとした温かみを感じた。オレはされるがままに引っ張られる。
夕浜は貯水タンクまで歩いく。するとタンクの横側の壁に身を預けて座り込んだ。オレもそこにしゃがみ込む。
「な、何をするんだ」
「道後君にはテストを受けてもらいます」
「テスト?」
「はい、今日は身体能力のテストです。まずはこれを食べてください」
夕浜はスカートのポッケトの中から何かを取りだした。それはエネルギー補給品であった。十秒でエネルギーをチャージできるゼリー状の飲み物が三つほどある。
「道後君、これを飲んでください」
「え? これが今日やることか」
「いえ違います。この後少々動いてもらうので万全で挑んでほしいのです」
というとそれらをオレの胸へぐいぐいと押し込んで預けてきた。
「さあ、飲んでください」
「わ、わかった」
オレはキャップを開けてゼリーを体内に流し込む。微妙に生ぬるかった。
「とりあえずそれを飲みながらで良いので今からおきることを見てください」
「テストって何をやるんだ?」
「ふっふ、それはまだ秘密です」
「それじゃあ何もわからないじゃないか、教えてくれ」
「いえ、ダメです。道後君は頭がいいみたいですからね。道後君のことについてはいろいろと知っているのですよ?」
「知ってるって……なにを?」
「ううん。――本名は道後鉄。身長一六六cm。家族構成4人。父母共働き。妹は中学三年、仲はそこそこいい。生まれてからずっとこの街で過ごしてきた。幼稚園の時に怪我した右腕を三針ぬっている。中学二年の時、鼻血が止まらず救急車を呼ぶ。近所に住む衣川霧子とは幼少時代からの付き合い。バレンタインデーは必ず学校を休む。ホワイトデーに同学年の男子からチョコをもらったことがある。好きな食べ物は麻婆豆腐。嫌いな食べ物はアボガド。好きな異性の体の部位はうなじ、お尻、首。最近の悩みは寝癖がひどいこと。自分の髪型はすごくっカッコいいと思っている」
顎が外れる思いだった。全部当たっている。なんで……知ってるんだ? 女性の好みの部位まで。衣川にも話したことないのに。オレはがたがたと震えながら夕浜に許しを請う。
「ゆ、ゆうはま。あ、謝るからゆるしてくれ……」
そんなオレをよそに彼女は顎に人差し指を当て首をかしげる。
「はて、別に謝らなくても大丈夫ですよ。道後君は本当に盗もうとしたわけではないことは分かっているので」
「え? そ、それなら――」
「ただ、あの写真は消しません。脅しの材料として使わせていただきますね」
この少女、やはり悪だ。にっこり笑う夕浜はオレにとってRPGの大ボスそのものだった。
「それよりもう飲み終わりましたか?」
「ま、まだ飲み終わってない」
「十秒で片づけてくださいよ」
「三つあるんだから三十秒は――んぐ」
不意に口をふさがれた。夕浜の白い手がオレの口を覆っている。いい匂いがした。
その時むこうで屋上の扉が開く音がした。
「すみません、少し口を噤んでください。彼らが来ました」
夕浜は手を放すとタンクの外を見るようにちょいちょいと手を招いた。オレは訝しりながらも身を少し出して様子を伺った。
「くそーだりーなあー」
「ああ、マジやべえよ。糞教師殴りてー。マジで」
そこには金髪と茶髪の男子学生歩いていた。どうやら話している間に屋上へ来たようだ。耳にはピアスを開けてシャツははみ出ている。上履きは履きつぶされていた。彼らの見た目はいわゆる不良素行学生のそれに酷似していた。彼らは乱暴に歩いている。オレの通うこの高校は勉強がそれなりにできる高校だがこの様な輩はどこにでもいるものなのだ。
そしてその後ろにもう一人いた。キノコヘアーの前の二人とは違った意味で特徴のある男子生徒であった。おどおどしながら二人の後をついて行っている。前の二人は真ん中まで行くとしゃがみ込んだ。
「かー、っぺ。あー腹減ったーマジで。超腹減った。マジで」
「確かに。おい」
「ひいいっ、な、なんでしょうか?」
話しかけられるとキノコ男子はビクと体を震わせて大げさに反応した。
対して不良たちは顎をしゃくって横暴な態度をとった。
「オマエ、パン買ってこい。メロンパン」
「あ、オレヤキソバパンな」
「ぱ、パンですか?」
「そーだよ、マジで」
するとキノコ男子は手をもじもじとさせた。
「あ、あの」
「あ?」
「お金をもらえないかなーなんて……」
「は? お前マジで言ってんの?」
「いいから買ってこい。十秒以内な。過ぎたらそのキモい頭バリカンで刈ってやるよ」
「え、やめ」
「そら行ってこい!」
「は、はい! わぁりました!」
キノコ男子はテンパりながら走ろうとする。だが茶髪が足を掛けた。するとキノコ男子は派手にうつぶせに倒れた。
「わははははははは!」
「おいおい。なに転んでんだよ。早くしないとー」
「ひいいいっ」
這うようにしてキノコ男子は屋上を出て行ってしまった。数十秒待つと息を荒げて戻ってきた。
「はあ、はあ」
メロンパンとヤキソバパンを手に抱えている。汗だくだ。
「はいはーいマジごくろー」
「それじゃもう行っていいよー」
パンを渡したキノコ男子はそそくさと屋上を後にした。
――なるほど。屋上に生徒が寄り付かないわけだ。あのような連中にわざわざ関わりに行こうと思う酔狂な人はいないだろう。覗いていたオレと夕浜は一度身を戻した。夕浜が振り向く。
「さて、ここからがテストです」
「何をするんだ?」
「道後君にはあの方々からお金をもらいに行ってほしいのです」
「はあ」
お金って、くれるわけないじゃないか。
「はい、そうですね。少し語弊がありました、もらうのではなく返してもらうのです。先ほど走って行った方が払ったお金。購買のヤキソバパンとメロンパンしめて二八〇円。方法は問いません」
つまりキノコ男子が払ったお金を返してもらうということか?
「はい」
「い、いやだよ。あいつらと関わりたくない」
奴らはオレと住む世界が根本的に違うのだ。話しかけただけで何をされるかわからないのにましてやお金をもらいに行くなんて。
オレのセリフを受けると夕浜は携帯を取り出した。何かの操作をしている。ちらりと見えた画面には昨日の画像が表示されていた。夕浜はすごくワザとらしく悲しい顔を作った。
「そうですか。残念ですね。道後君が学校にいられる日も今日で最後です。ではこの画像を担任宛に送信と――」
「ちょ、ちょっとまって、わかった、クールにいこう」
……夕浜滴。なんて女だ。まさに悪女じゃないか。正直なところを言うと夕浜と話す前までものすごいおっとり系のお嬢様なのではと思っていた線があった。だが違った。その実は超絶ドS女子高生であった。
「ふふ、分かったならいいです」
夕浜は携帯をしまって楽しそうに笑った。
「では行ってもらいましょうか。くれぐれも怪我をしないように善処して下さい」
「そうは言ってもなあ」
再び覗く。金髪茶髪は「おいしいっ、おいしいっ」と言いながら一心不乱にパンを貪り食っていた。いろいろな意味で行きたくない。だがためらっていると背中を押された。
「ほら、早くして下さい」
「えっ、ちょっ」
たたらを踏みながらタンクの陰から飛び出してしまった。足音に気づいて二人がオレに気づいた。ああ? とオレの顔を見ている。
「あ、ど、どうも」
愛想笑いを作りながら挨拶をした。
「なんだ、オマエ」
「あ、い、いやあ今日暑いね~」
「はあ? まあ暑いがな」
全然暑くない、むしろ冷や汗がにじみ出てくる。
「いやあ暑い暑い、牛丼屋に行ったら汁だくじゃなくて汗だくって言っちゃうくらい暑いよね~」
「あ? 訳わかんねえこと言ってんじゃねえぞバカ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「ていうかなんか用か? マジで」
「あ、そうだそうだ~。あの、用ってほどではないんですが」
「なんだ」
「あ、べ、別に大したことじゃないんけど~」
「おう、早く言えよ」
「……お金を、くれないかな……なんて~。はっは」
キノコ男子のような物言いになってしまった。
数秒の沈黙。しばらくの間オレを間抜けに見ていたが二人の眉が徐々に吊り上ってきた。二人は立ち上がってオレに詰め寄る。
「金ってオマエケンカ売ってんのか? あぁああ?」
「なめられると困るんだよねー、マジでよォ」
「はっは……」
オレは後ずさる。いや、これ無理でしょ。
パンチ、キック。パンチパンチ、キック。痛いっ。
オレはあおむけに倒れていた。太陽がまぶしい。
頭上には不思議そうな顔で立っている金髪と茶髪がいた。
「こいつ弱いな」
「ああ、何しに来たんだマジで?」
オレは仰向けに倒れたまま貯水タンクの方を盗み見た。夕浜が悲しそうな表情でオレを見ていた。この理不尽な状況に怒ってもいい気がする。
「いこうぜ」
「ああ、マジいくか」
不良二人が屋上を後にしようとした。
「……待てよ」
オレはそこでゆっくりと立ち上がった。まだカウントは十に達してないだろう。
「なんだ? まだやるってのか?」
茶髪が振り返る。指を鳴らしてにやけて見ていた。オレは舌を出した。
茶髪の右ストレート。左足に重心を預けてそいつをよける。そこから膝蹴り。バックステップでかわす。オレは続けざまにジャンプした。足裏を金髪のローキックが通り過ぎる。そのまますり足で後退した。
金髪と茶髪が驚いた顔をしている。
「ああ? 急によけやがって」
「オレがただボコられてるだけと思ったか。馬鹿め。お前らの動きのパターンはもう解析済みなんだよ」
金髪茶髪の動きは単純だった。オレの脳内では動きのパターンがすべて解析されていた。
「っは、マジでほざいて――ろっ!」
金髪の前蹴り、しゃがんでよける、そのまま前転した。背後で金髪の踵落としが地面に当たる音がする。オレはすかさず動きの鈍った金髪の背後に隠れる、茶髪が蹴ろうとしていたが躊躇した。金髪の背中を思いっきり押して茶髪を巻き込んで倒れさした。二人が目を剥いて睨んでくる。
「て、テメー!」
って、怒らせてどうするんだ。オレはこいつらから二八〇円を返してもらわなければいけないのに。と、考え一瞬油断してしまい茶髪の回し蹴りを喰らってしまった。地面に転がる。
「ウヒッ、なめたマネしやがって」
ボルテージが完全に上がった声音でオレに迫ってきた。どうしよう、少し調子に乗りすぎた。だが茶髪がこぶしを振り上げオレを殴らんとした時、パンパンという乾いた音が屋上に響いた。顔を向けると夕浜が貯水タンクの陰から出てきていた。例の微笑を浮かべながらオレを、いや、不良二人を見ていた。ただ見ていただけだ。だが不良二人はその瞬間表情を激変させた。
「ゆ、ゆゆゆ夕浜滴!」
夢に見た異形が現実に現れたかのようなリアクションである。不良二人組はこぶしを解くと何と夕浜に土下座スタイルを取り始めた。
「す、すみません夕浜さんっ!」
オレは目の前の光景に唖然とする。
「あなた達の悪行は先ほど全て見させていただきました。少しお痛が過ぎましたね。何も罪のない人に集るなんて」
夕浜はふっふと笑う。ガバっと顔を上げた茶髪は金髪を指差して叫ぶ。
「お、こ、こいつがいけないんです! オレはやめようって言ったんですが」
すると金髪が唾をまき散らす。
「ち、は、はああ? お前が言ったんだろマジふざけんな!」
「どちらでもよいです」
夕浜は不良二人に近づくとしゃがみこんだ。二人の顎を親指と人差し指でつまんで持ち上げる。
「有り金を全部おいてってもらいましょうか?」
にっこりと笑う。背筋に悪寒が走った。間近でその笑顔をみる不良はさらに怖いであろう、体を震わせながら許しを請った。
「そ、それは勘弁して下さ――」
「いいんですか? 早くしないとあなたのとっても恥ずかしい写真が……」
「ひ、ひいいい、わ、わありました!」
すると茶髪金髪はポケットの中から小銭を取りだした。夕浜はそれを見て、さらに二人にジャンプさせる。茶髪の上着からちゃりちゃりと音がした。
不良二人は素寒貧になると泣きながらさっきのキノコ男子よろしく四つん這いで屋上から退散した。
夕浜は満足そうにその光景を見ていた。オレはドン引きしながら話しかける。
「あの……夕浜さん?」
あなたいったい何者なんですか?
「私はただの女子高生ですよ、なんの変哲もない」
オレは体の埃を払いながら立ち上がる。何の変哲もない女子高生は不良を泣かせたりしません。
「道後君、あなたの身体能力はそこまで高くありませんね。ただそれを補う機転と順応性は素晴らしいです。流石です。見込んだだけあります。まずは合格ですね」
「はあ」
やったぜ合格だ。
……しかしこれは本当になんのテストだ?
「ですからそれは秘密です」
夕浜はふっふと笑う。夕浜滴がこのような性格であったと誰が想像するだろうか。世の中は不思議に満ちている。
夕浜はふとポケットに手を突っ込んだ。出てきた手に握られていたのは消毒液と絆創膏であった。スカートのポケットの大きさが気になったこの頃であった。
「怪我したところを見せてください」
「え? い、いや――
「見せてください」
「はい」
腕の掠り傷を服を捲って見せた。すると夕浜はオレの傷を消毒し始めた。赤く腫れた部位に液を垂らす。かけるのではなく一滴一滴垂らしてくる。痛い痛い。
「ふっふふ」
と今度は夕浜の体がオレの方へと寄ってきた。痛いのといい匂いがするのとで混乱する。微妙に胸が当たっていることに気づいているのだろうか? 絆創膏を貼り終わると夕浜は離れてくれた。オレは胸を撫で下ろす。
「それでは今日はここまでです」
「これで終わりか? じゃああの写真を消してくれ」
不良を成敗するのを手伝わせるのが目的だったのかと考えたがそこまで甘くはなかった。
「今日は、です。明日も引き続きテストを行います。明日は授業が終わったあと校門で待っていてください」
「ま、まだやるのか」
「はい、まだやります。それでは。あ、その小銭はさっきの男の子に渡しておいてください」
とセリフを残すと彼女は足軽に屋上の扉から出て行った。彼女の残り香がオレにつきまとう。
「……はあ」
オレは頬を摩りながらため息をついた。