そして冷や汗は、とめどなく流れる
翌日。朝。
教室の扉に手を掛けてオレは固まっていた。廊下は登校してきた生徒で溢れて中からはがやがやとクラスメイトの話し声が聞こえてくる。HRがもうじき始まる、つまり教室に入らねばならない。
しかし、扉を開けることができなかった。なぜか。もちろん夕浜滴に会うのが怖いからである。手に汗が滲んできて呼吸が浅くなる。もし会ったら何をしてくるのか。
「……」
――だがこうしていても仕方がない。いつまでもここで立っているわけにはいかないのだ。オレは意を決して扉を開こうとした。その時、背中をつつかれた。
「んっほおおおう!」
高音域の変な声が出た。急いで振り返ると衣川の驚いた顔があった。触れてはいけないものを突っついてしまったかのように手を上げている。オレはそれを見てほっとした。
「なんだ……衣川か。びっくりした」
そのセリフを受けて衣川は表情を驚きのものからいつものものへと変えた。
「なんだって、幼馴染に言うセリフとしてはあんまりじゃないか」
「め、めんごめんご」
「めんご? MENGO……MAN、GO? 道後それはどういう意味だい?」
「あ、ごめんって意味……」
「そうか。というか何であんな変な声出したんだい? 少しキモかったぞ」
「え? あ、ほらあれだ。……あれだよ」
衣川はやれやれと頭を振ってため息をついた。
「まったく君がおかしいのはいつものことだが朝くらいしゃっきりしてくれ」
「お、オレおかしいかな。至って普通だと思うけど、はっは」
「ふう、そういうところがね君の変態性を助長させているよ」
「そうなのか」
「はは半分冗談だ」
「ま、まったくー、衣川はお茶目な奴だな」
オレはそういいつつ衣川のおでこを突っついた。衣川はよろけると口をポカンとあけた。額を抑えて少し引く。
「ほ、本当にどうしたんだい。気持ち悪いぞ」
「はっは……」
「道後?」
顔を訝しげに覗き込んでくる。オレは目をそむけた。衣川はふうと息をついてオレの手を握ってきた。
「お、おい」
「さては君は寝ぼけているんだな? まったくいつも朝はだらしがないな」
「め、目はしゃっきりしてるぞ」
「ホームルームが始まるぞ。さっさと入ろう」
そういうと衣川は手を引いて教室の扉をくぐった。
「ま、待ってくれ――
が時遅し教室内へと足を踏み入れていた。オレは急いで右を見る。夕浜の席。
そこには、いた。
オレに背を向けていつもの姿勢で席に座っている。衣川に引っ張られながらも注視する。いつもの近寄りがたい雰囲気。昨日の笑顔の片鱗は見られなかった。席に着くと鞄を下す。
「道後? どこ見ているんだ?」
その光景はオレが今まで見てきたものと変わりない。普段なら何の疑問を持つことなく日常のワンシーンとして受け取っていただろう。だが今日は違う。昨日オレは夕浜に脅されたのだ。なにかしらアクションがあると思っていたのだが、夕浜はこちらを見るそぶりも見せずにじっとしている。
「いや……」
「夕浜さんを見ているのかい?」
当の本人はオレに見られていることに気づいていないのか全く反応がなかった。
――と思った次の瞬間、ちらりと、夕浜の目が動いた。黒の瞳がオレの視線とぶつかり合う。一瞬。ふっと昨日の暗黒面の笑みを見せる。がコンマ一秒後には視線が外された。
「……」
チャイムが鳴った。クラスの皆がワラワラと席について視界が遮られた。
「道後、いま夕浜さん君のこと見なかったかい?」
「……うーん。気のせいだと思いたい」
オレも席に着いた。担任が教室に入ってきて朝の挨拶をする。その後今日の予定の話が始まった。後ろから衣川が話しかけてきた。
「なにか夕浜さんとあったんだね」
「ち、ちょっとな」
「なにがあったんだい」
衣川に相談したいのは山々である。しかし昨日夕浜に話すなと口止めをされているのだ。こんなとこで夕浜の反感を買い幼児向けのお菓子を万引きしている画像が知れたら洒落にならない。衣川のドン引きする顔が鮮明に浮かんでくる。オレは適当にごまかした。
「昨日、夕浜に勉強のことで相談してさ」
「勉強? 君が?」
「あ、ああ。今度教えてくれないかって」
「夕浜さんと喋ったのかい。それはすごい。……ん、君は昨日僕の体をじろじろみてからそのまま帰らなかったっけ」
「帰りのコンビニでばったり会ったんだ」
これは嘘ではない。すると衣川は頬杖をついてふーんと言った。
「それで?」
「ん?」
「それで、彼女は了解したのかい? その勉強を教えるって」
オレはどうしようかの迷ったが一応肯定しておいた。
「まあ」
「……ふーん」
衣川は、今度はワンテンポ遅れて鼻息をついた。
〇
普段は眠さと退屈さで全く集中できない授業だったが今日は違う。不安と焦りで一ミクロンも脳に情報が入ってこなかった。つまらない映画を尿意を我慢しながら見ているときの感覚に似ていた。無意識のうちに貧乏ゆすりをしていて何故か機嫌の悪い衣川に何度も注意をされてしまった。横をちらちら見て夕浜の様子を伺うが彼女はオレと正反対でいつもの雰囲気で授業を受けている。何ら異変はない。だがオレは、夕浜が一瞬後ににたりと笑いあの画像を周りのみんなにほおらほおらと見せるのではないかという強迫観念にさらされていた。しかしそうした地獄の時間もやっと終りを告げた。チャイムが鳴って昼休みに入る。そう夕浜が言った昼休みに。オレは横を見る。しかし夕浜はまだ席を立っていなかった。
「道後お昼にしよう」
衣川が話しかけてくる。しかし今日は先約があるので断らねばならない。その旨を伝えようとしたとき頭上から声が降り注いだ。
「霧子先ー輩」
顔を上げる。そこには髪を後ろで束ねた、ポニーテールの髪型の女生徒が立っていた。見覚えがある。確かテニス部で衣川とよく一緒に練習をしている子だ。えくぼが印象的だった。
「おや、どうしたんだ?」
その少女は後ろに手を組んで歯を見せて笑った。
「お昼食べる前に少しだけフォームの確認してほしいんです」
「フォームか、うん。いいだろう。少ししか時間は取れないがいいのかい?」
「ぜーんぜんいいです!」
「……というわけだ。すまんな道後、今日のお昼は一緒にできないみたいだ」
オレは手を振って別にいいと言った。どちらにせよオレは今から屋上に行かねばならない。すると彼女が首をかしげて話しかけてきた。
「もしかして、道後鉄先輩ですか?」
「そうだけど……」
「あー、なるほど」
と言うと彼女は一人でうんうんとうなずいた。
「なんでオレの名前を知っているんだ?」
「ああすいません急に。私、テニス部で霧子先輩の後輩やってます。道後先輩の名前はよく聞いてたんです」
よく聞いてた? オレの噂でも流れているのだろうか。道後鉄という地味で孤独な哀れな男がいるとか言う。
しかし少女は衣川に笑いかけた。衣川は口をひん曲げている。
「ね、霧子先輩?」
「う、うるさい、行くならさっさとしろ」
と衣川は後輩の耳を引っ張って歩いて行った。
「痛ってて、そ、それではまた~」
少女は手を振りながら消えて行った。なんだったのだ。
「……じゃなくて」
夕浜の席を見る。いなかった。いつの間にか夕浜はクラスからいなくなっていた。テニス少女に気を取られて気づかなかった。オレは、はあ、とため息をつく。行くしかないようだな。