そして英雄は、変態と紙一重である
それじゃあまた明日、と手を振って衣川と別れた。
ジュースをこぼしたときにオレは無意識のうち衣川にクレープを渡していたようだった。
衣川は機嫌が直ったようで逆に菜子はいつもの淡白な雰囲気が二割増しになった気がした。
衣川に先に渡したことを言われたのだがやはり子供でもあるまいしそんな事はどっちでもいい気がしたが、結局菜子は家に帰るまで眉間に皺を寄せていた。
「ちょっとおなかキモい」
が帰るや否や居間のテーブルに菜子は突っ伏した。両手を投げ出しておでこをくっ付けてぐったりとしていた。先ほど食べたクレープが思いのほか重く胃もたれをしたらしい。胃もたれとは胃が本来の機能を損ない食べ物が残ったままのような感覚が続くことを言う。菜子はまだ中学生で健全なはずだ。なのにずいぶんと年寄臭い。
妹はがばと顔を上げてオレを睨んできた。
「今なんか失礼なこと考えただろ」
エスパー佐藤さんも驚きの読心術だ。
「いや心配だなと思っただけだよ」
「……嘘くさ」
ソファーの横で洗濯物を畳んでいた母が手を振ってきた。
――鉄と菜子はどこに行ってたの?
「ちょっとクレープを食べに言ってた。衣川と一緒に」
と答えると母はまあと口を手で押さえた。
――デートしてたの? いいわね
オレは首を振って否定する。デイトなんて甘いものはクレープだけだ。というか菜子がいたではないか。と言うと妹は大層不機嫌な顔になった。
「……私はただ付き添っただけ。でも霧子さんにデレデレしてたのはキモかった」
そう見えたなら少なくともオレがしていた事は気づいていないだろう。よかった。だがデレデレはしていない。
オレはため息をついてテーブルの後ろの出窓縁に置いてある本棚からノートを取りだした。挟まっている鉛筆と消しゴムを取りだす。
「……また勉強するのか」
菜子が顎を机に乗せたまま呆れ顔で呟いた。
「勉強じゃない。ちょっとした計算トレーニングだ」
ノートを見せてやる。そこには九×九のマス目が書かれてあり所どころに数字が記入されているはずだ。
「数独?」
「ああ」
オレは時計の秒針を確認する。10になったら始めよう。――はじめ。
まず縦の列を五秒で確認する。今度は五秒で横の列を確認する。
――8、2、3、1、4、9、7、2、8、6、1、5……
終わり。時計を見る。ジャスト二十秒。
「うーん」
後一秒早くできないであろうか。
「……最近いつもそれやってるよな」
菜子は興味なさげにつぶやいて再び顔を腕にうずめた。
オレは一人腕を組んで熟考していた。
〇 〇
問題が起きたのは金曜日であった。
空気を読めよ、KY、という言葉があるが実際には読むというより肌で感じると言った方が正しい気がする。オレは地味である故空気を読み取る、感じることが得意である。なるべく目立たないように生きているため周りの雰囲気にわりと敏感なのだ。
――その日背中をかきつつ我がクラスに足を踏み入れると違和感を覚えた。
その違和感とは女装をした美男子、精巧にできたレプリカケーキのように感覚を澄ましてみるとやっと分かる違和感であった。しかし一回気づくと嫌でも肌にひしひしとそれが伝わってくる。皆の視線が教室の廊下側真ん中の方に集まっている気がした。そちらを見てみると女子が一人立っていた。おさげの女学生……頭の中で出席簿を開いた。
彼女の名は斉藤。
童顔だが割と言いたいことははっきりと言うタイプ。
一年の時もオレと同じクラスで合唱祭の練習の時「なんで男子は歌わないの!?」と哲学的な問いと共に泣いていた記憶がある。
彼女による説教タイムの中、俺だけ名指しで「道後君はもうちょっとはきはきと歌ってというか……存在感を上げてほしいというか……ゴメンね(笑)」と苦笑いで言われた恨みははらさでおくべきか。
ともかく、その女学生の視線はとある机に座るとある生徒に注がれていた。
静かに座るその女子の名は夕浜滴。
夕浜は無表情で静かに椅子に座っていた。手を机の上に置いてじっとしている。
ん?
いや、夕浜の机の上、その手下に何かの紙が敷かれている。
斉藤はそんな夕浜に手を差し出して口を開いた。
「夕浜さん。何か言ってよ」
「……」
対して夕浜は何もしゃべらない。一見いつもの教室で見せる無表情であるように感じた。だが横からよく見ると夕浜の瞳は微細に揺れている気がした。
その構図は彼女が責められているように見える。オレは鞄をもったまま阿呆みたいに立っていた。目を凝らす、夕浜の手元。あの紙は……配置図だ。間違いない。五嶌銀行の配置図。特徴的な紙質は見間違えない。
「夕浜さん謝って。いきなりぶつかっておいて無視するの?」
斉藤女史は何故だか知らないが腹を立てているようである。そして夕浜は何もしゃべらない。不意に後ろから声がした。
「おはよう道後」
衣川がいつもの表情で立っていた。オレは小声で問う。
「いったい何があったんだ?」
「いや、大したことはなかったよ。ただ夕浜さんがね」
衣川は妙にもったいぶった言い方をした。
「どうしたんだ?」
「僕も最初からは見てなかったから全部は分からないんだけど夕浜さんが机を立ったと思ったら床にあった何かを急いで拾ったんだ。その時斉藤とぶつかったみたいで……」
「ぶつかった? どういうふうに?」
「席から離れるときにそこに立ってた斉藤と、どんっ、て」
思考の歯車を高速回転させていく。五嶌銀行の配置図、急いで拾った、怒る斉藤。
――まずいな。
もし見つかってしまったら問題になる。この場は良いかもしれない。だが五嶌銀行は「未来的」に襲われるのだ。いま五嶌の配置図をもっているのはどう考えても怪しすぎるであろう。
「夕浜さん?」
斉藤は片眉をあげて手を腰に当てている。
「聞いてるの? ちゃんと謝って」
「……」
「黙ってちゃ分からないよ?」
「……」
「ねえ。今ぶつかったのは夕浜さんでしょ? 非があるのは私じゃないよ」
「……」
「あーあ、お高くとまっちゃってさ。私、夕浜さんのそういうとこ気に入らない」
「……」
斉藤は腕をくんで高圧的な言い方をしていた。そこまで怒る事でもないような気がする。対する夕浜はやはり無言である。が徐々に顔がうつむいていっている気がした。それはわずかな変化であった。
ふと斉藤の目線が下がった。
「そもそもさっきの紙は何なの?」
すっと手が机の上の紙へと伸びて行く。
その時、俺は不意に夕浜のセリフを思い出した。
『私はクラスになじめないので……』
屋上の昼飯時、彼女の長い睫毛が悲しげに伏せられるシーンがフラッシュバックしてきた。
エコーのように反響していく。
頭の中に中ノ瀬が現れた。得意げに話しかけてくる。
『夕浜さん社交性があまりないだろ? けど外見は超絶美少女で成績もいい。だから男子から結構人気あるんだよ。逆に女子からは嫉妬がたくさん』
たくさん、たくさんたくさんたくさん……
中ノ瀬のにやけ面がいくつも浮かんでは消えていく。
そうだ。
夕浜は『喋らない』んじゃなくて『喋れない』んだ。浮きたいから浮いているわけではないのだ。
斉藤の手は伸びて行く。掌が開かれて配置図を掴まんとしている。
夕浜はこぶしを作って紙を押さえていた。
――人間は意識をしないで呼吸や瞬きなどをすることができる。
もちろんたまに意識してすることもあるだろうが一日中「吸おう、吐こう」と考えながら生活している人はいないだろう。
またすごく熱いものやとがったものを誤って触ってしまった時反射というものが作用する。皮膚の感覚神経が信号を脳を経由しないで脊髄で折り返し運動神経へと伝達させるものである。
その時のオレは無意識のうちに体が動いていた。それは呼吸のようにごく自然な流れで、反射のように素早く脳が信号を理解する前に体が行動を開始していた。
今振り返っても悔いはない。
むしろこのとき咄嗟に動くことができて良かったすら思える。
だがただ一つだけ――もう少し別のやり方があったのではなかろうかとは思うが。
気づくとオレは机の上に立っていた。
ダビデ像のように雄々しく、近くにあった机の上に上履きのまま立っていた。
ああそうだな。この時オレの背中からは後光が差していたかもしれない。
目線の下には椅子に座り驚いた顔を作っている学友がいる。だが今のオレは気にしなかった。口を大きく開けた。肺に空気を一気に溜めて
――思い切り裏声で叫んだ。
「ぃぃぃいぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいやっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
今年最大ボリュームの声量であった。
その声はクラス中に響き渡った。
廊下にも響いていたかもしれない。
我が声は四方の壁に反響していった。
やがて、おおぉぉ……と声の余韻が残り、壁に浸み込み、クラスがしんと静寂に包まれた。
話していた者、座っていた者、皆が動きを止めてオレを見ていた。
その表情は唖然という表現がぴったりだったろう。
皆、微動せずに固まった。
まるで動いたら破裂するような緊張した空気。
だがどうでもよかった。
いま重要なのは斉藤だ。
斉藤の方を見ると口を開けて「な、何?」と言わんばかりの顔を作っていた。紙を掴もうとしていた手は動きを止めている。夕浜も口を開けていた。オレはそれを見て声を発した。
「斉藤ぉ!」
斉藤はびくっと体を震わせて手を中途半端に構えた。
「……わ、わたし?」
「そうだ斉藤ぉ」
「な、なに?」
オレはその問いに答えないで机の上にしゃがみ込んだ。そのまま陸上競技のクラウチングスタートの格好をとる。横で衣川が真剣な表情で話しかけてきた。
「道後」
「なんだ?」
頭をトントンとたたきながら
「ここは大丈夫かい?」
と問うてきたが俺は至って平常運転だ。
「問題ない」
「そ、そうか」
腰をあげて足に力を蓄える。尻の方で学友が体をどん引かせているのが目に入った。
オレは馬のように駆けだした。軽やかに美しくしなやかに走り出した。机を蹴り捨てて勢いよく斉藤の元へと走り出す。どこからか静寂を裂くようにして女子の悲鳴が上がった。だが気にしない。オレはメロスの如く勇敢にかつ全力で斉藤の元へと走りこんだ。周りの机をなぎ倒しながら鬼の形相で向かって行った。
斉藤ははじめ、ぽかんとしていたが一瞬後顔が恐怖の色に染まった。
「い、いやあああああああああああ!」
腹の底からの心のこもった悲鳴であったと思う。斉藤はオレが肉薄するのと同時に背を向けて出口の方へと走って行った。だが足を止めないで追かけた。
「斉藤ぉおおぉぉおおぉぉお!」
「やっ! 来ないで! いやああああああ!」
呆然とするクラスメイト置き去りにしてオレと斉藤は廊下で追いかけっこをし始めた。




