そして彼女は、ロマンチストである
夕浜は帰り道にこう言ってきた。
「残りの二億円の使い道は子供たちへの未来資金です」
後ろに手を組みながらひっそりとしたステップを踏んでいる。あたりは暗くなって街路灯が彼女の横顔を雪色に照らしていた。オレはポケットに手を突っ込み猫背になりながら、前を歩く夕浜の輝く首元を見る。不意に夕浜はその首をもたげた。
「今日は月が丸いですね」
上を見ると確かに闇夜にくっきりと月が浮かんでいた。クレーターをわずかに確認することができる。
夕浜は父親のことをどう感じているのだろうか?
オレは彼女の横顔を見ながら考える。
気分がいいわけないことはモチロンわかっている。
きっと『その当時』は周りもあわただしく、彼女の心も少なからず荒れたはずだ。
思い浮かぶ単語は――復讐。
「復讐ではないです」
その考えは即座に否定された。
「だいたい父に対する記憶はあまりありません。幼いころから父は忙しかったそうで。父が亡くなる前も月に一度話すか離さないか……、元旦ですら一緒に過ごしませんでしたから。気持ちの折り合いをつけることは出来ました」
ただ、と夕浜は続ける。
「いままでの日常が変わったことに対する恨みはありますが」
オレは想像する。
彼女の内向的な性格は特異な環境に起因しているのではないかと。
しばらく無言の空間が広がった。
ずっと上を見ていた彼女は
「道後君は月の裏ってどうなっていると思いますか?」
とそっと呟いた。
別の事を考えていたオレは見事にどもる。
「ん? え、あっと、つ、月? の裏側……あー、お、表と変わらないのかな?」
「ふっふ、男の人はロマンチストが多いと聞いていましたが道後君は現実主義者ですか」
夕浜は口元を押さえて笑みを作る。
じ、じゃあウサギの格好をした女の人達が相撲を取っているとか。
「……卑猥です」
じとりとした目つきでオレを見てきた。男のロマンチストならこう答えるはずだ。
夕浜は不機嫌そうに片眉を上げてこの際だから言います、と口を開く。
「以前から感じていたのですが、道後君は割と倒錯的変態思考の傾向がみられると思います……将来的に心配です」
「将来って……未来の奥さんみたいな言い方だな」
会話が途切れた。夕浜の方を見ると目を丸くしてオレを見上げていた。
「――な、何を言ってるんですか?」
めずらしく驚いた顔を作っていた。そして慌てたように視線を泳がせる。
「い、今のは別に道後君と将来を過ごすとかそういう意味で言ったわけではないので勘違いしないでください」
「え? い、いやそうじゃなくて。ごめんごめん、冗談だよ」
「本当ですか? また変態的な妄想をして私を脳内で弄んだんじゃないですか?」
「い、いやしてないしまたって――」
「なんで私が道後君のその、お、おく……にならないといけないのでしょうか? 甚だ疑問です。全く論理的じゃないです。ロジカリティックな説明をお願いします。なるべく短く端的に述べてください。五十字以内でお願いします」
「ちょっちょ、ちょっと待って、落ちついて」
オレが宥めると夕浜は黙ってわずかに頬を赤らめた。
「……だいたい、道後君が卑猥なことを言うから」
「い、いや、……でも普段こんな卑猥なこと言うのは衣川くらいだから、ごめん」
いや衣川にも言わないがなぜか中ノ瀬より先に幼馴染の名が出てしまった。
オレがそう言うと夕浜は一瞬動き止めた。だが、すぐに思い出したように歩き出した。月の方を見て口を開く。
「……衣川さんと普段そんな変態性のある会話をしていたのですか」
「その言い方だと俺たちがまるで毎日猥談で盛り上がっているみたいじゃないか」
「違うのですか?」
「ち、ちがうよ」
「そうですか、ま、そんなのは私に関係ないんですけど、本当、どうでもいいんですけどね」
と言うと彼女は目線の先を横に流した。夕浜からなんとなくつまらなそうな雰囲気がするのは、オレの神経感覚が鈍っているせいだろう。
「そ、そうだね。それは置いておこう。――それで……ええと、そうだ月か。つ、月の裏側をはじめて観測したのはたしかソ連の無人宇宙探査機のルナ三号で画像は不鮮明だったけど表と構造はおなじだったはず」
夕浜はちらりとオレを見て、一泊置いてふうと息をついた。あきらめたように苦笑して口を開いた。
「そうですね。その後もアポロ計画で月の裏側についてはいろいろと騒がれました」
星条旗が風がないはずなのに揺れている、太陽の位置からして影のできる場所がおかしいなどのいちゃもんから始まり、月の裏側に巨大都市があって地球を監視しているという、まことしやかに囁かれるまでになった都市伝説。
「でももし、月の裏側に本当に巨大都市が構築されていてNASAがその事実を隠していたとしたら?」
科学的に考えれば荒唐無稽な話。だが夕浜はそういうことを言いたいのではないのだろう。
「いつか地球を襲ってきたら素敵だと思いませんか?」
「……もしそうなったら、その時夕浜はどうするんだ?」
彼女はくるりと体を回転させて電柱に身を預けた。瞳を閉じて薄いピンクの唇がそっと開かれる。
――その時は、私をどこかに連れて行ってください




