そして平穏は、音もなく崩れ去る
地上からパトカーのサイレンが風に乗って聞こえてくる。オレは額に脂汗をにじませながら後ずさりをした。視界が揺れる。
「は、はは。嘘だろ」
オレの喉から乾いた笑いが込み上げてきた。
夕浜が、エンジェル事件の犯人だと? おいおい。待ってくれよ、いくらなんでも冗談がきつ過ぎる。
「な、なに言ってんだ? 今日はエイプリルフールじゃないぞ」
「そうですね。驚きましたか? それはそうでしょうが……」
返答する夕浜はオレの嘲る態度に対して至って真面目な表情であった。
「……本当に言っているのか?」
「疑っていますか? ならもうすこし証拠を見せましょう」
夕浜は携帯を操作すると画面をこちらに見せてきた。テレビが流れていた。ニュースのようで画面の中でキャスターが何かを話している。右上には生中継と書いてあった。
『現場です。事件があったのは浦見駅から徒歩十分にあるこのビルの三階。今日午後十九時三十分にこのビルからエンジェルプリンセスと名乗る「男」から警察へと電話がありました。その内容は「いまからここの金庫の金を奪う」などというものであったそうです。このビル三階は貸し金会社で、現金およそ五百万が奪われました。警察はエンジェル事件と同一の――……』
現金五百万。貸し金。先ほどのパトカーの原因。
夕浜は再びアタッシュケースを開いた。そこには確かに札束が五つある。夕浜はケースの上部を漁って何かをとりだした。それは黒い録音機のようなものであった。
「これはボイスチェンジャーです。『あーあー、わたしは夕浜滴』」
たしかに彼女の涼やかな声が正反対の中年の野太い声へと変化した。それを再びケースにしまうと今度は別の何かを取りだした。
「これは人形です」
左手に握られていたのはエンジェルプリンセスの人形。
「テレビで見た奴と同じ……」
現場に置いてくるという、エンジェルプリンセスの人形。
「はい、これは私の自作なのでほかの方は持っていませんよ」
夕浜は笑う。
「どうですか? これで信じていただけたでしょうか? 証拠はあまり残したくないのでこれくらいしかないのですが」
その声はいつもより張りがある。バックの街明かりが幻想的に夕浜を浮かびだしていた。
オレはようやく動いてきた脳を駆使して考える。
――確かに、クロに近い……漸近線のように完全にくっついてはいないがそう思えるのだろうか?
夕浜がエンジェル事件の犯人……。
一介の高校生が五百万もすぐに用意ができるのか? きついだろう。それと冗談を言うためだけにここまでするとは思えないか。
「さっきの映像が偽物だったとしたら――」
「私にそのような技術はありませんよ。それに道後君を騙すメリットがありません」
夕浜は淡々と告げた。オレは黙考する。たしかにそうだ。オレを騙して夕浜に得は? せいぜい驚いた顔を見て思い出し笑いができるくらいしか考えられない。
「……わ、わかった、仮にだがそれを信じるとしよう」
「ふっふ飲み込みがはやいですね」
到底信じられないが本人が言う以上そうと考えるしかない。だがひとつ疑問が残る。
「……それならなぜ……正体をオレにばらしたんだ?」
仮に犯人だとして、オレに言うメリットは? 何のために? わざわざ正体をばらすのはどう考えても危険すぎる。オレと夕浜は互いに口をきくようになって日が経っていない。オレをそこまで信用出来る訳がない。
すると夕浜は、先ほどのお面のように口を薄く裂いてにやりと笑った。
「さてそこで道後君、最後のテストです」
テスト。オレはごくりと唾をのみこんだ。夕浜はたっぷりのためを作ってから口を開いた。
「いままで道後君にはテストを受けてもらいました。それらはすべて道後君の適性を見ていたためです」
「適正?」
「はい、盗みの適性です」
先ほどから聴覚はきちんと仕事を成しているのか。オレの盗みの適性だと? 夕浜は髪を手で押さえると妖しく目を光らせてこういってきた。
「道後君、私に協力してください」
セリフを脳が理解するのに数秒を要した。――協力。
それは盗みの協力ということか。
「……夕浜。何を言っているのかわかっているのか?」
「はい、私は道後君に手伝ってほしいといいました」
「手伝いとは、盗みのか」
「……盗み、まあそうです。詰まる所そうなりますね」
「今のオレは夕浜を警察に渡すこともできるんだぞ?」
「ふっふ……はたして道後君はそんなことはしませんね」
夕浜は笑っている。その笑いはまるでオレのこの後発するセリフが分かっているといわんばかりだ。額の汗をぬぐう。が、それでも頬を伝ってしたたり落ちた。正気か? 相変わらず風が強く彼女の髪は流されていた。
どのくらいそうして見つめ合っていただろうか。何時間だった気もする。目を閉じて開くほんの一瞬だった気もする。オレはじっと立っていた。口の中が乾いている。喧騒が消えてオレと夕浜の二人きりの空間になった。屋上がぐるぐるとまわり回る。
――そしてオレは無意識のうちに声を発していた。
「わかった」
意図をせず、息を吐くついでに出た言葉であった。
すると夕浜はにっこりとほほ笑んだ。
「ふっふ、合格です。そう言ってくれると思っていました」
無邪気に遊びの約束をしたかのような笑みだった。
――その時、ビルの下の方からパトカーのサイレンが迫ってくる音がした。何台かのエンジン音が聞こえる。
オレと夕浜は顔を見合いフェンスの方へと寄って行って眼下を見た。デパートの入り口をふさぐようにして四台のパトカーが止まっていた。
「ぱ、パトカー? 夕浜、本当に」
「だから言っているではないですか。私がエンジェルプリンセスの犯人です」
「……どうするんだ、足がついているみたいじゃないか」
しかし夕浜は余裕の笑みを崩さなかった。
「ふっふわざとですよ。もし万が一に道後君が協力を拒否しても無理やり承諾してもらうための」
確かに夕浜とここにいればオレまで疑われてしまう。
すると夕浜はアタッシュケースから黒い服を取りだした。そいつをオレに預けてくる。
「これは?」
「着替えてください」
「ここで?」
「はい」
ためらっていると夕浜が服を脱がしにかかってきた。パンツ一丁になる。服はスーツにワイシャツ。上着は右にポケットが二つ左胸にポケットが一つあるダーク色のモッズスーツであった。ワイシャツは縦縞で卸したてのように皺が一つもなかった。急いでそいつに着替える。夕浜はさらに例の三日月に裂けて笑っているお面を渡してきた。
「これも被ってください」
そいつを顔面に装着する。
「ではフェンスに急いで登ってください」
同じように面を被った夕浜は軽々と身長の倍ほどもあるフェンスを乗り越えた。ドレスの裾が舞う。フェンスからは歩幅二歩分で外へと落ちる距離である。マジか。オレはもたつきながらも乗り越える。すると夕浜は何かをフェンスの足の部分に括り付けていた。それは鉄製のリングのようなものでボルトで固定できるようになっていた。そのリングにはワイヤーがついておりいつの間に装着していたのか夕浜の腰にある黒い機械のような物へとつながっていた。
「まさか、夕浜……」
「さあ。道後君、私に抱き着いてください」
オレは渋る。流石にそこまで勇気が出ない。だが夕浜はオレの顔をつかむと無理やり自身の懐へと押し付けた。いい匂いがするが興奮できる余裕はない。夕浜はオレの腰のベルトを自身の機械へと括り付けた。
と同時に背後の扉が強く開かれた。
「おい! そこにいる奴! とまれ!」
屋上に響き渡る鋭い声。顔までは見えないが2、3人の警官が立っていた。拳銃を構えているようだが背を向けていれば発砲はしてこないはずだ。
「道後君、大丈夫ですか?」
大丈夫か、大丈夫でないかと問われれば大丈夫でない。しかし頷くほかなかった。
「それではいきますよ」
「まて!」
――強く、屋上の縁を蹴った。一瞬、五臓六腑がふわりと浮く。刹那、超重力。みえない手に引っ張られるかのように体が落ちて行った。頬の肉がひきつる。
「う、おあああぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁああああああ!」
ネオンが光る明るい街へと沈んで行った。対面ビルのガラスに逆さまになりながら落ちているオレと夕浜の姿が映っていた。重力加速しながらぐんぐん落ちて行く。息ができない。にもかかわらずスローモーションのように一コマ一コマが鮮明に脳裏に焼き付いた。ずっとジェットコースターのふわりとする感覚を味わっているかのようであった。横を見ると微動もせずにじっと前を向いている夕浜の姿があった。気を失いそうになる。たまらずに夕浜に強くしがみついた。風を切る轟音、迫る恐怖。流れる景色。
やばい。吐く。
瞬間、腰に負荷がかかった。じわりとじわりと負荷はその力を増す。地面から五m手前ほどでスピードが完全に落ちた。ゆっくりと降下していき地面に足を付く。
「道後君、大丈夫でしたか?」
「はあ……はあ……」
大丈夫なわけない。足が老人のように震えていた。夕浜の話しかけてくる声は楽しそうであった。
夕浜は急いで腰の機械を外すと辺りを確認した。ここはちょうど入り口側から反対のところで警察の姿はない。
「こちらです」
オレの手を取ると路地裏の方へと走って行った。店のごみや投棄された自転車などが散乱する細い通路を通りデパートから裏側の通りへとでた。
「こ、これからどうするんだ?」
ひどくかすれていたがようやく声を発することができた。通りに出ると目の前に一台の車が止まっていた。黒塗り外国産の高級車であった。運転席に一人のっている。後部座席の方はスモークがかかっていて中が見えなかった。
夕浜はおもむろに車へ近づくと扉に手を掛けて開いた。
「乗ってください」
考える暇を与えずに車へ乗せられた。夕浜も急いで中に入る。扉を閉めると同時に発進した。
〇
お面をつけたままオレは固まっていた。思考が停止している。車は大通りにさしかかって他の車と変わらずに走っていた。車内は静かなエンジン音が響いていた。かすか煙草の匂いと香水のにおいがした。パルファンの香り。シートは本皮でできていた。
夕浜は面を外すとふうと息をついて運転席の人へと話しかけた。
「追っ手は?」
「匂いはしない」
「監視カメラは?」
「大丈夫だ、映ってない」
「そうですか、ありがとうございます」
バックミラーをちら見した。運転席には金髪の女性が座っていた。オレと同じようなモッズスーツを着ている。金髪と言っても外国人というわけではなさそうだ。しかし美人である。綺麗に鼻筋が通っている。片側の頬がチークの化粧のように赤かったのが印象的であった。鋭い目つきの人で前方を注意深く見ていた。
顔を横に向けると夕浜がオレを見ていた。
「お面はもう外してもいいですよ?」
「……」
「そうだ、お茶を飲みますか?」
「い、いや……――それよりいくつか質問があるんだけど」
オレは面を外して微笑する夕浜へと視線を合わせる。
「どうぞ」
「一つ目、この車はなんだ?」
夕浜は顎に指を当てて頭をかしげる。そしてほほ笑む。
「この車の正式名称はメルセデスベンツです」
「……」
車が右折した。体が傾く。唇を湿らせて再び口を開く。
「二つ目、今からどこに行くんだ?」
「道後君の家ですよ、もう帰りましょう」
「……」
金髪の女性が音楽をかけた。車内にピアノのメロディーが流れる。JAZZであった。聞き覚えがある。タイトルはたしか「マイフェイバリットシングス」。低いバスの音とサックスがシートを震わせた。
「み、三つ目、なぜオレを巻き込んだ?」
ドレスの皺を伸ばして背筋を伸ばした夕浜は少し考えたそぶりを見せた。そしてオレを見ると妖しくふっふと笑った。
「道後君、私と似てますから」
〇
家の前でオレは突っ立っていた。
黒塗りのベンツは静かに発進していった。よく見るとナンバープレートが二重になっていた。姿が小さくなり見えなくなるまで見ていた。
家の前に着くと夕浜はこう言ってきた。
「明日明後日の土曜日、日曜日をはさんだ来週、月曜日の放課後は空けておいてください」
「……もしその土日でオレが警察に通報したら?」
「ふっふ、そのセリフは本気ではないですね。まあいいです、その服は早めに着替えて、取っておいてください。それでは」
家の中に入るとシャワーの音が響いていた。誰にも見つからないようにして自室に入りスエットに着替える。何事もない顔で階下に降りた。
洗面所で手を洗おうとすると風呂からでてきた妹とばったり出会った。菜子はバスタオルを一枚体に巻いているだけであった。オレの顔を見ると目を丸くしてから顔を紅潮させた。
「お、兄ちゃ――」
「ただいま」
「か、帰ったなら帰った言え、変態」
と体を隠しながら睨んでくる。それなら今度から風呂に顔をのぞかせて、帰ったよー菜子ちゅわん、と言うよ。
「な、何言ってんだ? というかあっちいけっバカ」
手で押されてリビングに入ってしまった。するとソファに座っていた母が手を振ってきた。
――お帰り。なに買ってきたの?
「いやちょっと立ち読みしてきたんだ」
――そう、あまり、お店の人に迷惑をかけてはだめよ
「そうだね」
キッチンの方へ行き冷蔵庫を開く。中から牛乳を取り出しコップへ注いだ。グラスを傾けて口に入れようとした時オレの足が震えていることに気づいた。小刻みに揺れている。
恐怖ではなかった。
背徳感とメールを受け取った時にも感じた妙な高揚感からくるものであった。
胃に液体を流し込むと不思議と冷静になった。




