第27話(7月)〜将来の夢〜
「……なんか分かんないけどごめんなさいでした」
「ん、それでいい」
つねられていた右頬をさすりながら、涙目でぶんむくれている夏乃と共に、電車を降りる。
「てかさ、そんなに大事な用事だったんならそっち優先させればよかったじゃん。私だってそこまで強制するわけじゃないんだし」
「む……まあ、そりゃそうなんだがな」
確かに夏乃の言う通りではある。
だがもし仮に、そう、例え話でしかないが、図書館で勉強コースやら、先に約束したのはどちらか、等の要素を全く抜きにしたら、俺はどちらを選んでいただろう?
改札へと向かう人の流れに沿って歩きながら言いよどんでいると、
「……佳ちゃんってば何でそんなに勉強毛嫌いするかなあ」
大方、俺が勉強したくないがために用事を断った、とでも勘違いしたんだろう。
ため息混じりにぼやく夏乃のふくれっ顔には、先程とは違った意味合いが込められているように感じられる。
「ったり前だ。勉強好きだなんて仰る人間ってのがこの世におわすんなら一度お目にかかりてえもんだ……あ」
「? どったの?」
「いや、そう言やここに一人いたなーって」
「私のこと?」
「お前以外に誰がいる」
いや、そうでもなければ誰が好き好んで毎晩毎晩人に勉強を教えたりするだろうか?
「んー……まあ否定はしないでおこっかな」 馬鹿にされてるわけじゃないしねー、と、照れくさそうにえへへー、と笑った。
まあ、こちらとしては別に褒めたわけでもなかったのだが。
「……なあ」
「ん?」
「今思ったんだがよ。お前、先生にでもなったらいいんじゃね?」
その笑顔を見て、ふと浮かんだ思い付きを口にする。
「え……?」
俺の冗談めかした提案に、何故だか夏乃の笑顔が消えた。
「あ、いやな、お前、教え方上手いし、そういう職業向いてんじゃねえかと思ってよ」
それもほんの一瞬で、すぐに元の笑顔に戻ったが、
「……先生かあ。んー駄目駄目っ。私に先生は無理だよ」
「? 何で?」
「ほら、私って気が弱いから生徒になめられちゃうだろうし」
困ったように微笑む夏乃。
「あー……」
夏乃には悪いがフォローの言葉が見つからない。
「それに私、獣医さんになりたいから」
「獣医?」 思わず訊き返す。
幼かった頃のこいつの趣味嗜好を思い返してみるが、動物が好きだったようには見えなかった。
確か中学時代だったか、下校途中に野良犬にしばらく追っかけ回されたこともあったし、むしろ嫌いな部類に入るんじゃなかろうか。
余談だが、俺も夏乃とは別の理由で動物は苦手である。
「まーねっ。とりあえずその話はまた今度ってことで」
と、次の瞬間、夏乃は何か思いついたような顔をして、
「あ、そう言えば最初の頃の佳ちゃんひどかったよねー。特に化学」
ここがつねられた反撃のチャンスだ、とでも言わんばかりに、反撃のチャンスだ、とでも言わんばかりに、にまあっという擬音でも聞こえてきそうな笑顔を受かべた。
「……それを言うんじゃねえ」
当時のことを思い出すと、自分の余りの不勉強さに、思わず自己嫌悪に陥りかねないのだが、「一番初めの勉強会の時だったっけ? 『モル? ……ミリリットルの近縁種か?』って言われた時は流石の私も唖然としちゃいましたですよ、はい」
そんなことはお構い無しだと言わんばかりに、チェシャ猫を髣髴とさせる笑顔で、人の古傷をごりごりっと抉る夏乃。
余談ではあるが、分子量の単位であるモルと、容量の単位であるミリリットル、言うまでもなく、両者は異なるものである。「……いや、だってよ、表記の仕方考えてみろよ。エム、オー、エルとエム、エルだろ? おら、似てるじゃねえか。間違ったっておかしくね」
「はいはーい、化学の授業真面目に聞いてなかった人間の言い訳なんて聞きたくありませーん」
「ぐっ……」
勉強の話となると、こいつに反論できない。
そんな俺に一から丁寧に基本を教えてくれたのはこいつであり、そのおかげで授業の理解度が増していったのも、これを認めるのは誠に遺憾ではあるのだが、紛れもない事実なのである。
「……ったく、あーも分かったよ、分かりました。要するに俺ぁ馬鹿だって言いてぇわけだろお前は」
「ん。自覚があるのはいいことだとお姉さん思います」
……いや、紛れもない事実ではあるのだが、満足げにこくこく頷く夏乃を見ていたら何だかまた腹が立ってきたので、
「え? あ、痛っ、ちょっ、あだだだだだだだっ! 捻りをっ! 捻りを加えるのは流石にキツいってば佳ちゃだだだだごめんなさいごめんなさい調子乗っちゃってごめんなさいっ!」