第17話(6月)〜予期せぬ展開〜
玄関の扉を開けて靴を放るように脱ぎ捨てる。
「たっ、ただいまっ!」
お袋は台所で夕食の準備をしていた。
「はいおかえんなさい。ずいぶん遅かったじゃない。また上野君達とご飯食べてきたの?」
「いや、掃除がちょっと長引いて……ってんな事ぁどうでもよくてっ、夏乃は!?」
「あぁ、夏乃ちゃん? とりあえず病院連れてったらやっぱり風邪だそうよ。安静にしておけばすぐ治るって」
「あ、そ……」
身体から力が抜け、安堵のため息を吐く。一日の心労の種がここにきてようやく解消された。
「あら、でっかいため息吐いちゃって。そんなに心配だったの?」
「い、いや俺ぁ別にそんな……」
「気になって気になって授業に集中出来なかったーって顔に書いてあるわよ?」
そう言って意地悪く微笑むお袋。頭部に血液が上昇してくる感覚。今の俺は耳まで真っ赤だろう。
「っ……着替えてくるっ!」
「はいはーい行ってらっしゃーい」
振り返った時、視界の隅にちらりと映ったお袋の表情が邪悪に微笑んでいたのが気になった。
廊下に出て、階段を登りながらふと考える。
――あれ? そういや今夏乃はどうしてんだ?
一人であの家にいるんだろうか。だとしたら後で晩飯届けるついでに様子見に行ってみようか。お袋にからかわれるのだろうが。
階段を登りきり、自室のドアを開けて、
「…………」
その光景を見た瞬間、喉元までこみ上げてきた絶叫をすんでのところで飲み込んだ。
「ん……」
俺のベッドの上には、額に冷却シートを貼り付けて、顔を真っ赤にしたパジャマ姿の夏乃が眠っていた。
「…………」
大きな音を立てないようにそっとドアを閉める。鞄をドアの前に置き、階段を下り、台所のドアを開け、中に入り、ドアを閉め、
「……こぉんのクソババァっ!」
声を限りに叫んだ。
「あら失礼ね。クソとは何よクソとは」
いけしゃあしゃあと抜かしやがるクソババァもといお袋。
「何で、夏乃が、俺の部屋で、寝てんだよっ!?」
俺の部屋の方角を指差すジェスチャー付きで問い詰める。
「あんたあの家に病人一人置き去りにしろっての? 血も涙もないわね。そんな事言う酷い息子持ってお母さん悲しい……」
「別に俺の部屋じゃなくたっていいじゃねぇか! 居間のソファとかあんたらの寝室とか……」
「だって夏乃ちゃんがあんたの部屋がいいって言うから」
「あ……?」
予期せぬ言葉に体温が一気に上昇する。
「ってのは冗談だけどね」
「……お前ほんっっっっっっっっっっっっっっっっと死んでくれ」
ってか俺の胸のドキドキを返してくれ。
「……まぁ、一応ちゃんとした理由があるわけよ」
「……一応聞いてやる」
「お父さんしばらく帰ってきてないじゃない? だからお父さんのベッドろくに手入れしてないのよ。そうなると残りは私のベッド、あんたのベッド、居間のソファの三つ」
少し補足しておくと、うちの親父は単身赴任中で、月に一度こちらに帰ってくればいい方である。
「……おう」
「居間のソファだと看病しやすいからいいかなと思ったんだけど、結構硬いし病人寝かせるのに適してないから除外。残るはあんたと私のベッド」
「…………おう」
「私のベッド使わせちゃったら今晩私ソファで寝る事になっちゃうじゃない? それはさすがにきついから、じゃああんたのベッド使わせちゃおうと」
「結局はてめえの自分勝手な都合であるわけだ!」
「いいじゃないあんた若いんだから」
「若さ関係ねぇだろ!」
とまぁこんな問答がこの後十分ほど続いたのだが、結局お袋は折れず、今晩の俺はソファで寝る事になった。
◇…………◇…………◇
トレイの上に雑炊入りの土鍋と薬味、取り皿代わりの小鉢、医者からもらった処方箋、水が注がれたグラスを載せて持ち上げる。
「よっ……っとと」
中々バランスが取りづらい。ファミレスでバイトしている人間達の偉大さを実感しながらそろりそろりと歩き始める。
「こぼしたらちゃんと掃除しなさいよー」
居間からは茶化すようなお袋の声。こぼさないように気を付けろと言わないのは、俺がこぼす事は確定事項である、という意味だろうか。
腹は立ったが今何か反論してしまえば確実にトレイがひっくり返る。何も言い返さずに足でドアを開け、廊下に出た。
一歩一歩慎重に階段を登る。次の段に足をかける度にグラスの水がゆらゆらと揺れ、足を止める。
慣れない事はするもんじゃないなと後悔しつつ、それでもどうにか二階に到着した。
自室の前に立つ。とりあえずトレイを床に置き、こんこん、と扉を軽くノック。
「夏乃ー? 飯出来たぞー?」
……返事は無い。まだ寝ているのだろうか。とりあえずドアを開けてトレイを持ち、中に入る。
「すー……すー……」
予想通り、夏乃はベッドの上で規則正しい寝息を立てていた。
「…………」
トレイを卓袱台の上に置き、どうしたもんかと考える。
ぐっすり寝ているので起こすのも悪いような気がするが、冷めた雑炊ほど不味い物は無い。
数秒間考え抜いた末、起こしてしまう事にした。
「おい、夏乃起きろ、飯だぞ」
掛け布団の上から軽く身体を揺する。
「……んー」
夏乃が細く目を開ける。
「あれー……佳ちゃん……何でここにいるのー……?」
こいつ、自分の部屋にいると寝ぼけているんだろうか?
「お前な……誰のベッドで寝てんだかよーく思い出してみろ」
「んー………………あぁそか、ここ佳ちゃんの部屋か」
「思い出したみたいだな。ほれ、晩飯持ってきたからさっさと食え」
「あんまし食欲無いかも……」
「無理にでも食っとけ。少しだけでもいいから」
雑炊を土鍋から小鉢に移し、手渡す。
「ん……分かった」
スプーンで少しだけすくい、口に運ぶ夏乃。数回租借し、嚥下した後、その顔に薄い微笑が浮かんだ。
「……やっぱり小母さんは料理上手だね。今度教えてもらおっかな」
「後で頼んでみりゃいい。多分お袋大歓迎だぜ」
「受験が終わったら言ってみるね」
それきり夏乃は何も言わず、黙々とスプーンを口に運び始め、俺はその様子をぼんやりと眺めていた。
「ふう……ごちそうさまでしたー」
両手を合わせる夏乃。トレイの上には見事なまでに空になった土鍋。
「お前……食欲無いんじゃなかったのか?」
「食べ始めると意外に入っちゃうもんだよね」
「あ、そ……」
……何も言うまい。
「まぁいいや、そんで? 体調の方はどんな感じだ?」
「んー……まぁ、朝よりはだいぶ楽かな?」
「そりゃよかった。そんじゃ後はまた寝とけ」
トレイを持って立ち上がった俺を、
「ちょい待った」
ベッドの上の夏乃が引きとめた。
「どした? 何か欲しいもんでもあんのか?」
夏乃は俺の問いにすぐには答えず、しばらくじーっと俺の目を見つめ、
「……佳ちゃん学校で何かあったでしょ?」
見事なまでに的を射たその言葉に、俺の心臓がどくん、と跳ね上がった。