「僕より身分の低い男がお似合いだ」と婚約破棄されたので、平民の大魔法使いに求婚します ~元婚約者が毎朝、私の恋人に頭を下げています~
「僕より身分の低い男がお似合いだ」
婚約破棄の最後に、侯爵令息フロリアン様はそう言った。私に、これ以上の相手が見つかるはずがないと笑いながら。
解消は今日の昼、両家の間で済んでいる。残っていたのは、朝のうちに引き受けた最後の送迎だけ。私はエッシェンバッハ子爵家のドロテア、二十一歳。引き受けた約束は、事情が変わっても自分の手で果たす。
廊下の奥の講師室には、この学院で最高位の称号を持つ二十八歳の平民がいる。
爵位なし。家柄なし。お茶菓子は端から食べたがる。
けれど私の話を途中で遮らず、困っている人には自分で手を貸す、王都でいちばん気の合う人。傾いた重い棚を魔法で支えながら、自分も端を持って使用人と据え直していた背中を覚えている。
「では、平民の大魔法使いに求婚します」
「僕の言葉を……本気で、そう受け取るのか?」
「はい。爵位のない方を選びます」
笑いの消えた顔を馬車まで送り、私は廊下を引き返す。扉を叩くと、先生は紙束から顔を上げた。
「マティス先生! 私と結婚してください!」
「はぁっ!? 藪から棒に一体どうしたんだ?」
彼は目を丸くしてから、二人分の茶器を取り出した。
「まずはお茶でも飲みながら話を聞こうじゃないか」
「いきなりすみません……」
彼は丁寧にお茶を入れると、カップを私の前に差し出す。
「これでも飲んで落ち着いて」
「ありがとうございます……」
ふんわりと香る上質な茶葉の香りを胸まで吸い込み――私はなんとか気持ちを落ち着ける。さすがに自分の無謀な行動を少し後悔した。
「で、僕と結婚したいんだって? 本気?」
「も、もちろん本気です!」
「まずは、恋人からでもいいかい。君に格好をつける練習がしたい」
「い、いいんですか? こ、恋人になれるなら……私、嬉しいです!」
「ははっ、私のどこを……そこまで気に入ってくれたんだい?」
湯気の向こうで、緑の目が私の答えを待っている。
「そ、それは……話の途中で答えを決めず、最後まで聞いてくださるところです」
「ほう? それなら、まだ君の話の続きを聞きたいな」
「あ、え、ど、どんな話……ですか?」
「なーんでも。いいよ、思いついたこと言ってみて」
「は、はい、そしたら……昨日ネコちゃんが……」
私はとりとめない話を続け、彼はそれを優しい目で相槌を打ちながら聞いてくれた。
「明日の講義の前に、また会えるかな?」
「はい。楽しみにしています」
帰りの馬車でも、指先には杯のぬくもりが残っている。明日の朝が、もう待ち遠しい。
◇
翌朝、元婚約者が魔法の講義へやって来た。
私は講義室の入口脇の長椅子に、先生と並んで座っている。送迎の頃からの席だ。膝には、先生から預かった紙束。
私を見て笑いかけ、隣に座る人を見て直立する。
「せ、先生。なぜ彼女と」
「私の恋人だから。挨拶は二人にしてくれるかな」
「爵位はなくても、あなたの先生です」
フロリアン様の口が、開いたまま止まる。
「君まで、僕の挨拶を受けるつもりか?」
「私にも、おはようございますと言ってください」
「先生への礼なら、いつもどおり尽くしています」
「では、彼女にも、いつもどおり丁寧に頼む」
彼は私たちに向き直り、頭を下げる。
「お……おはようございます」
「はい。おはようございます」
顔を上げた彼の耳が赤い。先生は何も言わず、私の膝の上でずれていた紙束の端を、そっと揃えてくれた。その指先を見ているうちに、返事に込めていた力が肩から抜けていく。
学内では、家格より師弟の礼が先に立つ。侯爵家の跡取りは家督を継ぐ前に学院の課程を修めるならわしで、二十三歳のフロリアン様も、この人の講義を毎朝受けている。
「先生のお知り合いにも、ぜひお会いしたいです」
「そうか、小さな茶会があるんだ。招いてもらうことにしよう」
身分の低い人と結婚することと、彼より下になることは、同じではない。
開講の鐘が鳴る。学生たちのざわめきの中、見学席へ移る私に、先生が小さく手を振った。振り返す手が、自分でも驚くほど軽い。ただ、練習、という言葉だけは胸に引っかかっている。先生は、いつまでを思い描いているのだろう。
「ねぇ、先生。私と恋の勉強を始めましょ?」
そんな言葉が思わず口をついた。
◇
四日目の午後、講義室には茶席が用意されていた。いつもは紙束の並ぶ場所に茶器と菓子皿が置かれ、窓の光が杯の縁を明るく照らしている。学院長と同僚の講師たちは、先生の恋人の顔を見に来たらしい。
「こちらは私の恋人、ドロテアです」
私の名前が、その声で部屋に届く。拍手より先に飛んできたのは、学生代表として来ていたフロリアン様の声だ。
「ここは学院の茶会だ。君は場違いだろう」
「お招きしたのは私たちです。まず、お客様にご挨拶を」
学院長の穏やかな声に、フロリアン様は口を結び、それから私に短く礼をする。茶の柔らかな香りが鼻先をくすぐる。その香りを吸い込むと、喉のこわばりも少し緩む。
同僚の講師が、身を乗り出す。
「先生の好物も、もうご存じなのでしょうか?」
「薄焼きのお菓子です。端から召し上がるのが、お好きなのです」
「おぉ、そこまで見ていてくれたのか……それは、嬉しいな!」
「今も、端ばかり見ていらっしゃいます」
先生の視線が、皿の端をなぞる。薄焼きの菓子は縁だけ香ばしい色で、いかにも先生が好きそうだ。同僚の講師が肩を揺らした。
「君にそう褒められると、もっと食べたくなるんだ」
「お菓子と褒め言葉は、別のお話ですよ」
菓子へ伸びかけた手が、ぴたりと止まる。最高位の称号を持つ人の手が、菓子皿の前で行き場をなくしている。
「どちらも君からもらえるなら、欲張りたくなるんだ」
「ふふっ。いくらでもお出しいたしますわ」
私は端の焦げた一枚を皿に載せ、彼の前へ渡す。焼けた甘い匂いが、茶の湯気に混じる。こんな小さなやりとりが、私にはくすぐったい。
「君は、以前遅れた理由を使用人のせいにはしなかったね」
「待たせた方には理由など関係ないですから」
「そういうところ、僕は好きだな」
「あ、ありがとうございます。私も大好きです」
あの待合の席で、この人はそんなところを見ていたのか。何でもないつもりの返答まで、覚えていてくれる。
杯を置いて先生を見上げると、さっきは自然に言えた言葉が、急に頬を熱くする。
◇
七日目の朝。あれから毎朝、元婚約者は講義室の入口で足を止める。
「先生、おはようございます」
頭を下げ、私にも小さく会釈をして、席へ向かう。私は見学席から、先生が杯を宙に浮かせてみせる講義を眺めた。光を受けた杯が宙にとどまり、学生たちの歓声が重なる。その中で、先生の姿勢だけが少しも動かない。菓子皿の前で手を止めた人と同じなのだから、つい口元が緩んでしまう。
講義が終わると、私たちは通りを歩いて花屋へ向かう。近づくにつれ、花の甘い匂いに湿った土の匂いが混じり始める。店先には、講義終わりの兄を迎えに来たという妹君と、フロリアン様が先に立っていた。妹君は小さな花束を手に取って眺めている。
「高ければ女性は喜ぶ。僕ならもっと立派な花を贈る」
妹君が、兄の顔を見上げる。花を前にしているのに、その視線は兄から動かない。
「私の好きな花は?」
「高い花なら、だいたい喜ぶはず……」
「お兄様! いまは、私の話なのよ」
妹君の声に、店の客が振り向く。花の間を行き交っていた声が途切れ、返事を待つ間が妙にはっきりと残る。
「……あとで、店主に聞いておくから」
「……自分で選ぶわ。私が好きなのは、桃色の花なのよ」
妹君は店主と奥へ行き、先生は棚のいちばん下から、小さな籠を取り上げる。ほかの花々に隠れかけていた白い小花が、私の目の高さへ上がってくる。
「小さくて安い籠なんだけれど、僕はこれが好きなんだ。これでいいかい?」
「これがいいです! 生け花と違って育てられますし」
「育てる様子を私にも見せてもらえるかな?」
「もちろん! 花が増えていくところも、一緒に見て欲しいです。嬉しいわ!」
「ははは、安い籠を、そんなに喜んでもらえたのは初めてだよ」
値段で、私の欲しいものを決めない人。腕に収まる白い小花の籠には、土の重みと葉の青い匂いがある。窓辺に置いた姿も、隣で眺める彼の姿も、もう思い浮かぶ。籠を抱いて、私は言葉にする。
「そういうところ、好きです」
先生が籠の縁に手を添える。近くなった指先を見つめると、ずっと引っかかっていた言葉が喉まで上がってくる。これからの話を、曖昧に聞き流したくない。花の匂いの中で、私の声は少し小さくなる。
「……練習が終わったら、先生は……どうなさるのですか?」
「練習しているのは格好のつけ方だけだ。私は君が好きだよ」
「え……。そ、そうですか……私も好きです」
「それなら、花も恋も一緒に育てていこう」
先生が、空いたほうの手を差し出す。花籠に添えられた手と、私に向けられた掌。そのどちらも、すぐそばにある。
「手をつないでも、いいかい?」
「もちろんです!」
つないだ手の温かさに、声が少し震える。好きだと言ってもらえても、触れるまでは知らなかったぬくもりだ。この手を取ったまま、次に望んでいることも伝えたい。
「結婚のお話を、私の家族にも聞いてもらいたいです」
「私もそうしたい。君の考えた席で話そう」
家に戻ると、私は籠を窓辺に置いてから、両親の前に立った。窓の光に白い小花が映えている。手はもう離れているのに、話し始める勇気はまだ掌に残っている気がする。
「お父様。私、魔法の先生と結婚したいです」
「ほう、あの最高位の先生かね?」
「そう、素敵な方なんです」
「そうか……。君たちで決めたのならいい。知らせは私が引き受けよう」
「その顔を見たかったの。嬉しかったところから、ゆっくり聞かせて」
お母様も嬉しそうに目を細めた。
「はい。あの花籠のところからお話しします」
◇
二十一日目の夕方、私の家の応接間に、両家の親と学院長、同僚の講師たちが集まった。窓から差す光は柔らかく、交わされる挨拶に茶器の音が混じっている。母に頼んで用意した小箱が、袖の中で硬い。布越しにも、その角の形がやけにはっきりとわかる。
招かれたフロリアン様は、同僚の講師に向かって胸を張っている。
「彼女に社交を教えたのは僕ですから」
「では、お二人が親しくなったのは、いつですか?」
「僕が遅れて、彼女を学院で待たせていたときです」
「待たせたことが社交なんですかね?」
「いや、それはその……」
同僚の講師が笑いをこらえ、父が咳払いをする。その音の中、先生が私の前に立ち、上着の内側へ手を入れる。私も袖の中の小箱を握りしめる。あの部屋の扉を叩いたときより、自分の鼓動が近くに聞こえる。
私と先生は、同時に指輪の入った小箱を開けた。
「君も……それを、持ってきてくれたのかい?」
「私も、お渡ししたかったのです!」
「私から言うつもりだったんだ。……少しだけ、待ってくれるかな?」
「はい。でも、私の分も、ちゃんと受け取ってください」
先生は息を整える。いつもの軽口は出てこない。緑の目が、まっすぐに私を見つめる。講義で杯を宙に浮かせていたときよりも、今のこの人から目を離せない。小箱を持つ手に力がこもる。
「ドロテア。私と結婚してください」
「はい。私も、あなたと結婚したいです」
飾りのない銀の輪を、互いの指へ通す。肌に触れた冷たさが、ゆっくりと自分の温度になっていく。客の拍手が応接間の窓を震わせる中、私は先生の指に収まった輪を見つめている。私の贈ったものを、この人が身につけている。
「先生、私幸せです……」
「先生じゃなくて、マティスと呼んでくれるかい?」
「え……? じゃ、じゃぁ……マティス?」
「なんだい、ドロテア?」
「ふふっ、なんだか照れてしまいますわ」
◇
三か月後。式は私の家の小広間で、私と先生が自分たちで整えた。茶席には、窓辺で育てた白い小花の籠が、葉を増やして置かれている。花屋で抱えたときよりも豊かな緑に、今日までの暮らしが見える気がする。
開式前の控室で、弟子代表の祝辞を聞くのが慣例になっていた。両家の親が並ぶ前で、フロリアン様が原稿を広げる。紙のこすれる音が、静かな部屋に響く。
「僕がよく教えておいた彼女ですから、先生にもお似合いでしょう」
「お前は客だ。彼女の評価など、誰も頼んでいない」
「……僕は、良い祝辞を書いたつもりだったのです!」
父君の低い声が残る控室で、フロリアン様の視線が原稿へ落ちる。窓の明かりを受けた紙面だけが、白く浮かんでいる。
「私たちを祝ってほしい。君の手柄より、その言葉が欲しい」
「私へのお祝いも、私に向けていただきたいです」
「僕は、君のことをよく褒めたつもりなのだが」
「私がどんな言葉なら喜ぶのか、私に聞いていただきたいです」
彼は原稿を指で押さえる。その手元を見ながら、私は待つ。以前なら飲み込んでいたかもしれない言葉が、今は口の中にはっきりとある。
「どんな言葉なら、満足してくれるというんだ?」
「私が自分で選んだ暮らしを、祝ってください」
「僕の話は……要らない、というのですか?」
「君自身の言葉で、私たちを祝ってほしいんだ」
長い間のあと、彼は原稿を裏返す。原稿の端が指の下で鳴り、母君の息をのむ気配が重なる。父君は腕を組み、私は白くなった紙の裏から彼の顔へ目を戻す。
「先生。いつも教えてくださる方の門出を、弟子としてお祝いします」
彼の眼が潤んでいたが、それが何かには不思議と興味がわかなかった。
私は先生の腕に手を添え、小広間へ向かう。袖越しに触れる腕の温もりを確かめる。あの花籠のある部屋で、この人と誓いの言葉を交わすのだ。
◇
誓いの言葉が終わり、私たちは夫婦になる。直された祝辞は、新郎を師として祝う言葉で締めくくられ、客の拍手が小広間を満たした。窓からの光も、そばに立つ人も先ほどと同じなのに、指にある銀の輪をことさら近く感じる。
茶席へ移ると、フロリアン様が私の前に立つ。白い小花のそばを、茶の湯気が細く上がっている。
「ドロテア様。あなたの選んだ方との幸せを、お祝いします」
私は礼を返す。私の名を呼んで、私の選んだ幸せを祝う言葉。その言葉なら、素直に受け取れる。彼が去ると、隣で夫が小さく指を鳴らした。
なお、先生は私の前だと、褒められるまで小さな花の魔法を繰り返す。
掌の上に、一輪の花が咲く。その下で、銀の輪がきらりと光る。
「これなら、今日の私に似合っているかな?」
「ふふっ。花よりも、先生のお顔のほうを見てしまいます」
花が消え、もう一輪。今度は青い。色を変えてまで待っているのは、私の返事なのだと思うと、花へ向けるはずの目がまた彼に戻ってしまう。
「花のほうも、少しは見てくれるかい?」
「ちゃんと見ていますよ。綺麗です。でもやっぱり先生のお顔を見ていたいですわ」




