ブラック企業で過労死したワーカホリック転生令嬢、大農園を持つ男爵家の娘になったがスローライフは無理かも
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「あぁ、眠い」
独り言が増えてきたのは、時計の針が午前三時半を指した頃だった。
視線を書類の束へ移すと、あと一時間かけても終わらない量なのは明白だった。
それでもキーボードを叩く手は止まらない。
「あー⋯⋯⋯生きてるー」
妖怪が歌でも歌っているような掠れた声とゆっくりとしたリズムは不気味さに拍車をかける。
体力の限界と使命感の狭間で、得も知れぬ充実感と高揚感が滲み出てくる。
「そろそろ“ワーカーズハイ”の時間かしら?」
今日もまた、その時間が近づいていた。
キーボードを叩く指は次第に軽快に跳ね始めた。
と、その時──。
* * *
結論から言おう。ワーカーズハイは訪れなかった。意識がそこで途切れたので、おそらく死んだのだろう。
だが、死因が何であったかは大した問題ではない。
大好きなワーカーズハイの時間になる前に過労死をした。それだけは事実だった。
一六歳になる一ヶ月前に突然、前世の記憶が蘇ったのだ。
大農園を持つリーフォード男爵家の一人娘。それがカトレアだった。
のほほんとした父が「誕生日プレゼントは何がいいか」と尋ねてきたので、仕事と真っ先に口から出そうになるのを抑えて、帳簿が欲しいと言った。
すると時間を置いて、父の執事が慎重に「⋯⋯⋯⋯カトレアお嬢様は、おそらく筆記用具がご所望なのでは?」と父に助け舟を出した。
そこでカトレアは少し考え、「書庫室へ行きたいですわ。そこでプレゼントを見つけたい」とお願いした。父は目を丸くしながらも、どこか安心したように頬を緩めた。
「⋯⋯⋯⋯そうかそうか、カトレアは本に興味が出てきたのか。好きなだけ読むといいぞ。お前の母さんも本が好きだったから物語の本がたくさんあるからな。うん、うん」
父はそう言うと、笑顔で部屋を出ていくカトレアの背中を見送った。
「なんだか、今日のカトレアは別人のようだ。子どもは急に大人になるものなんだな」と父は小さく呟いた。
カトレアは渡り廊下の窓に目を向け、外を凝視した。
ない。何にもない。
いや、木と草原とのどかな鳥のさえずりくらいはある。
ここが男爵家の領地。
リーフォードの名にふさわしいほど、自然が溢れている。
でも前世のようにパソコンどころか機械もない。
それでも前世を思い出した今もなお、ワーカホリックの気質は、血肉となってカトレアの中に芽生えていた。
(仕事がないなら探せばいいじゃない!)
カトレアは勇み足で書庫室へと向かった。
* * *
数日後──。
「お嬢様、頼みますから書庫室から出てきてください!」
何度目かの懇願。
今回は侍女ではなく、父の執事・ヘンリーだった。
(今度はヘンリーが出てくるのね。まったく、こっちはまだワーカーズハイの欠片も感じないというのに)
前世とは大きく環境が違い、一日三食を決まった時間に食べ、湯あみもする。
とても柔らかい毛布を書庫室に持ち込んでいる。それなのに大事件が起こったかのように狼狽する侍女とヘンリー。
そのうち父も来そうだ。
カトレアは仕方なく抱えられるだけの書物を抱える。革張りの本はずしりと重たい。ヘンリーがその本をカトレアの腕から奪った。
カトレアは仕方なく、手ぶらで自室に向かい始めた。ちゃんとヘンリーが書物を持っているか確認すると、廊下の窓の外に馬がいるのが見えた。
「ヘンリー、ここでは何をなさっているの?」
「と、言いますと?」
「産業よ。農業? 畜産? 実は森とかがあって林業をしているのかしら?」
「色んなものがありますよ。この近くでは──」
ヘンリーは淀みない声で説明をする。その説明を聞くたびに『なんで?』を覚えたての幼児のように「なんで? なんで?」と聞いているカトレア。
あちらには何があるのか、あの建物では何をしているのか、何人が働いているのかと、浮気した夫を問い詰める妻よりも、カトレアの質問攻めは激しいかもしれない。
ヘンリーは熱心な目でカトレアに説明をしていたが、そのうち遠い目をし始めた。
最後には「後日、資料をお持ちいたします」と話を打ち切ろうとしてくるので、「後日ではなく、今日欲しい」と言うとヘンリーは生気のない目でカトレアを見た。
(この目はよく知ってるわ。私の同僚も、二徹したあげくに“まとめた資料だけでも欲しい”と言ってくる客先に『まとめるのに時間がかかるから小出しにしているんでしょうが』と言いたくなるけど、もう体力が残っていない、そんな目をしていたわ。あの同僚にそっくり)
そしてヘンリーから資料を受け取った一週間後、カトレアは晩餐で父と対面した。
「お父様、欲しいものが見つかりましたの」
「おぉ、そうかそうか! 何がいいかな? 新作のドレス? それとも宝石の付いたネックレス? それとも今流行りの髪飾り?」
「農地が欲しいのです! 現在人参だけでも二十種類もあるのですが、低価格なものばかりですわ。それだけではなく、育てる手間は費用対効果で言えば、あまりに採算が合いません。つまり手塩にかけた人参が安い金額に叩かれているのです。これは由々しい事態ですわ。研究が必要ですの!」
「ヘンリー、カトレアの翻訳を頼む」
「もっとお金を払ってでも食べたいほど美味しい人参を作りたいと、カトレア様は仰っています」
「ふむ」
カトレアは農地と近隣領地の人参のサンプルと価格も欲しいとお願いする。
人参だけでは終わらない。
玉ねぎにじゃがいもと話はどんどん続いていく。
「ではまた後日に⋯⋯」
「いえ、ここに一区画にかかる経費の内訳とサンプルの一覧を作ってきました。私の誕生会にいらっしゃる招待客のリストと照らし合わせれば、サンプルの収集は効率よくできるかと」
「ヘンリー、翻訳(以下略)」
「いくらかかるか細かい内訳と人参の種類が書かれているようです。こちらは私が確認いたします。それからカトレア様の誕生日に、いらっしゃる招待客にもいろんな種類の人参をもらう約束を取り付けたい、とカトレア様は仰っております」
「カトレア⋯⋯」
父が震え始めた。
それを見たカトレアは青白い顔をして、やってしまったと後悔した。
(こんな若い女の子がこんな事をしていたら、この世界では、よくない印象を持たれるかもしれませんね。困りましたわ)
「素晴らしい! こんなに凄い才能を持っていたなんて! だが、他の貴族の中には、お前の才能を妬んだり、利用しようとする者が出てくるかもしれない。実績を積むまでは対外的には注意が必要だぞ」
「お父様、ありがとうございます! 十分気をつけますわ!」
(好きな仕事を好きなだけする時に、やってくるワーカーズハイはどんなに素晴らしいのでしょう!)
カトレアは父の言葉を胸にしっかりと刻みつけた。
まずは温室の隣の草原を掘り返して農地にすることにした。
身体を動かすことはカトレアに向いていない。小柄な身体では、広い農地を耕すだけでも一苦労だ。そこで使用人に協力してもらう。
(ここの部分は私はできないから、名前と作業量をちゃんと記録しておきましょう)
そして手伝ってくれた使用人には追加の給金と、特別なお菓子を用意した。これはカトレアのポケットマネーから出ているものである。
(自分の趣味に、時間を使ってくれているんですもの。やってくれた人にも有意義なものにしてほしいわ)
「テッド、サニー、ハリオドール、堆肥まで混ぜてくれたのね。仕事が早いわ」
カトレアは嬉しそうに一人一人に声をかける。
土を作るのに時間がかかると思っていたのに、使用人たちが気を回してくれたおかげで土づくりが半分以下の時間で終わった。
カトレアの誕生日の前に種まきも終わってしまった。
そうしている間に、人参のサンプルも集まってきた。
お使いついでに近くの農村で買ってきてくれる使用人などもいたので、これもしっかりと記録につける。
(私ばっかりやっているように見えたら困るし、ちゃんと記録するのに報告してくれる人もいるわね)
カトレアは侍女長に相談して、無理のない使用人のスケジュールを組んでもらうことにした。追加でやってくれた分はしっかりとその対価を渡したいので報告を記録する人も頼んだ。
そうして農地のことばかり考えているうちに、すっかり放置していた自分の誕生会の日がやってきた。
* * *
カトレアの誕生日──。
絶好のパーティー日和となった。
庭園に設けられたテーブルに片手で食べられる軽食が並ぶ。
ワインについては、周辺領地の方々に持参いただいたため、品評会さながらの珍しいワインが並ぶ。
カトレアは周辺領地の話が聞きたくてテーブルを回っていた。
社交デビューをしていなかったカトレアにとって知らない人ばかりで、会話は挨拶が中心になってしまった。
物腰の柔らかな青年と話が弾み始めた。
ブルームベル伯爵家のアルフレートと名乗った背が高く、精悍な顔立ちをした青年だった。
話が面白く、カトレアはつい次々と質問を重ねた。
「頭のよく回る方なんですね」
ギクリ。
カトレアにとって、一番言われたくない台詞だった。
(私は何もやっていない、田舎の何も考えていない令嬢のフリをちゃんとやり切るのよ)
カトレアはそれとなく会話を切り上げ、アルフレートから離れた。
一息つこうと、手にした飲み物へ口をつけた。
「クリストフと申します。知り合いがブルームベルの息子なので、ついてきてしまいました」
「クリストフ様、お初にお目にかかりますわ。カトレア・リーフォードでございます。先ほど、アルフレート様とはお話をしましたわ」
庭園の端まで開拓された農地を、クリストフは意味ありげな視線でなぞる。
「これはカトレア嬢の趣味なんですね。何人かの方に話を聞きましたが、人参を二十種類以上比べるなんて、これは研究の域ですよね」
「飼っているうさぎが一番好きな人参を作りたいのです。それにこれはほとんど使用人の方がやってくれましたの」
できる限りゆっくりとした仕草で余裕を見せるカトレア。だが、これは嘘ではない。
とっさに思いついたことだが、人参をうさぎや馬にあげれば事実になる。
それにうさぎ好きはのほほんとした可愛い令嬢アピールができるではないか。
我ながら名案であった。
それに仕事の割り振りを考えたのはカトレアだが、実際に動いてくれたのは使用人で全体の時間を考えれば、カトレアが費やした時間は大体一割程度。
ほとんど使用人がやってくれたのは、嘘ではない。
「なるほど家畜の餌の質にも貢献されるというのですね」
(なるほどー! ってこっちが納得したわ。家畜に与える餌だなんて、良い視点よね)
「いえいえ、本当に思いついただけです。それにあれを作ったのは、先ほど言ったとおり使用人なんです。ちゃんと記録もありますもの」
「なるほど、サンプルの人参も集めているとか」
「やっぱり見て比べたいですものね」
カトレアは肩が強張っていた。
「それもカトレア嬢がわざわざ集めたんですね。自分の足で実物を集めるとは、素晴らしいです」
「いえいえ、それも使用人がお使いついでに集めてきてくれたり、私は一切集めに行ってはおりませんの。これもちゃんと記録がありますわ」
カトレアは確信はなかったが、直感でなんだかいけない方向に流れているような気がしてやまなかった。
「それからこの誕生日パーティーで、さらに周辺領地の人参の調査もしているなんて、やはり頭がよく回る証拠です」
「いえいえ、それは父が協力してくれたことで私は何もしていないのです」
「代わりに隣の領地の特産物のアピールの場に使っている」
「たまたまですわ」
「これは記録はないのですか?」
「あります、ありますわ」
「すべてに記録が残され、協力した使用人には正当な報酬も支払われているようですね。それに自分が動かなくても動く仕組みを作っている。屋敷の者を動かして情報を集めるだけでなく、近隣領地には特産物を宣伝する機会を与えている。そして関わった者に利益が還元されるようにしている。これをやったのは貴女だ」
カトレアは上げた手を力なく下ろした。
なんか終わった気がした。何を言ってもこの人に良い評価しかもらえない。
全部隠したいことだったのに、なぜか付加価値もつけられてしまった。
「あの、クリストフ様の意図は何でしょうか?」
その時、クリストフの口元がようやく綻んだ。
「君と仲良くしたい」
クリストフは、澄んだ青い瞳でカトレアを射抜くように見つめた。
「わ、私を脅して本当の目的は何ですか?」
カトレアは変な汗を掻いていた。
「本当の目的は⋯⋯内緒」
「えぇっ!?」
カトレアは口元に手を当てて難しい顔をする。
(困ったことになりそうだわ)
その時、クリストフの背後から誰かが小声で話しかけた。
『クリストフ様、ようやく嫁探しが終わりそうですか?』
『静かにしてくれたまえ。彼女に聞こえてしまうよ、アルフレートくん』
『ローゼンクロイツ公爵家だって聞いたら彼女は驚いてしまいますよ。かの宰相様のご令息なんですから』
カトレアはクリストフに震える声で呼びかけた。
「クリストフ様、もしかして人参愛好家の方ですか?」
「人参だけじゃないと言ったら?」
「ななな、内緒にしてください!」
(ひゃ〜どうしよ〜。もしかして、じゃがいもも狙っているのかしら!?)
* * *
カトレアが警戒して調べ回るより先に、クリストフは再び屋敷へやってきた。
朝の食卓では、一大ニュースが父から伝えられる。今朝、うさぎの赤ちゃんが生まれたそうだ。
ほのぼのと安らぐ時間が流れる。
父は思い出したようにカトレアの方を見た。
「そういえば、クリストフ様が、今日いらっしゃるそうだよ。どこの家門なのかな? 招待客のリストに見当たらなかったんだよね」
「たしか、ブルームベル伯爵家のご令息・アルフレート様のお知り合いだと聞きました」
「そうか、それなら粗相のないようにしないとね」
“粗相”と聞いて、心臓が嫌な鳴り方をした。
変な誤解をされた挙句に、人参だけではなく、じゃがいもも狙っているかもしれないのだ。
「お父様、王国で人気のある野菜は何でしょうか?」
「⋯⋯⋯⋯トマトかな?」
「トマトォ!??」
たしかにトマトは野菜の中でも絶対的な存在感を示す、まさに野菜界のアイドル。
(これは危険かもしれませんわ)
* * *
カトレアはクリストフの前で膝をついた。それは脳内再現だけだが完敗だった。
(クリストフ様の質問の答えを考えるのが楽しすぎますわ)
この人参はいつ収穫できるのだろうか。
切る、蒸す、煮る、おろすの中で甘みが一番出るのはどの方法だろうか。
領民はどんな食べ方で一番食べられているのだろうか。
一番簡単な人参料理と人気のある人参料理を比較して、重要な部分はどこだろうか。
なんて豊かな想像力なのだろう。
試したい⋯⋯早く試したい⋯⋯。
ハンカチがあれば間違いなく噛みちぎっていただろう。
悔しさに「今のクリストフ様のお言葉、ここに綴りますわ。一言一句も逃したくないのです」と懇願した。
今はやることを一覧に書き留めておきたい。
優しい眼差しでクリストフはカトレアを見る。
「君は天然のたらしだね」
「天然のタラですか? お魚の話もいいですね。詳しく聞きたいですわ」
カトレアが熱を込めて伝えると、クリストフは笑って、「今度、調べてくる」と告げた。
カトレアはタラに思いを馳せた。
この国には海があって白身の魚がいるのだろうか。クリストフの博識さに感心していた。
クリストフの話はとても面白く、彼が帰った後も侍女に楽しそうに話をした。
「両家で釣り合う方だと良いですね」と侍女の浮かれた声。
「聞きそびれちゃったけど、お知り合いが伯爵家のご令息ですもの、釣り合わないわ。それにこんな土に埋もれているような野菜令嬢、恋愛対象にならないはずだわ。多分、敵なのよ」
「敵⋯⋯ですか?」
「えぇ、私たちは人参とじゃがいもを争う関係なの。もしかするとトマトも」
そういいながら、せめて友人にはなりたいとカトレアは思っていた。クリストフと報告書を見せ合って、『図の描き方工夫したんだな。これだけでも無駄に一時間は掛かるのに』なんて言われて、この無駄そうに見える丁寧な枠組みに時間と努力を費やしたことを汲み取ってくれるなら、どんなに楽しい時間だろうか。
もはや情報を奪われてもいいから、クリストフにトマトの報告書を作ったら読んでほしい。
それから頻繁にクリストフが屋敷に遊びに来るようになった。
カトレアは侍女に「今日はジャガイモの話をしたわ。もしかすると明日はトマトかもしれないわ」と少し焦った様子で話していた。そのカトレアの様子に心配そうな表情に変わった侍女に笑顔を返した。
「ふふ、冗談よ」
「⋯⋯びっくりいたしました」
ちょっと空元気だった。
カトレアの心に湧いてくる痛みには気が付かないようにしていた。
「人参とトマトはどう足掻いても同じ野菜にはなれないもの」
カトレアの声は誰もいない部屋に寂しく響いたのだった。
* * *
その後もクリストフはやってくる。カトレアにとっては楽しい時間が続いた。
ペラペラと報告書をめくっていたクリストフが「お!」と小さな声を上げて手を留めた。
カトレアはクリストフの言葉を楽しみにしている。
「これは見たことのない図ですね」
「あぁ、それはベン図と呼びますの。丸を二つ以上書いて共通項がある部分を重ねます。それぞれの人参の特性を視覚的に比較できるので、分かりやすいと思いますわ」
「本当だ! 人参の収穫地の気候や温度とも照らし合わせれば、味や硬さの傾向が見えるかもしれないな」
「それも早く比べてみたいですわ」
カトレアは大きく綻ぶ顔を両手で隠すのに必死だった。
(こんなに性格に合う方とずっと過ごせたら楽しいのに)
「ベン図の円は丁寧に描かれているんだね。綺麗に描いてある報告書は読みやすくていいな」
とくん、と心臓が鳴った。
カトレアの心がじんわりと温かくなってくる。
そしてカトレアはなぜか目頭が熱くなり、目を伏せがちにする。
(こんなに細かいことに気がついてくれる人がいるのね)
実は円定規を特注していた。
報告書は見た目の統一感が必要だとカトレアは強く思っていた。
その中でも特に図には必ず定規を使い時間をかけて描き上げる。
歪みは余計な情報となるから。
「実は⋯⋯」と円定規について口に出した時、自分は貴族の娘なのに報告書の話ばかりしていることに気がついた。
本来、ご令息の興味のあることを聞いて合いの手を打つほうが印象もよい。
カトレアにある心配が胸に湧き上がってきた。こんな素敵な方に婚約者じゃなくても縁談を進めている令嬢がいるんじゃないかしら。
「クリストフさまは現在、親しくされている令嬢はいるのでしょうか?」
「君以外はいない」
「よかったわ!」
カトレアは大きく息をついた。
(友人になるハードルが少しだけ下がった気がする。だってこんなにも私の仕事へのこだわりを分かってくれる人いないもの)
「⋯⋯⋯⋯君には誰かいるのかい?」
「全然ですわ。こんな野菜令嬢がいいなんていう人いないもの。野菜がもっと評価されれば私にもいい人が来るかもしれませんわ」
カトレアは嬉しさのあまり、クリストフの顔も見ずに言ってしまった
そしてお茶を飲んで、ひと休憩。
話題はまた野菜に戻る。
「カトレア嬢、それで第一回目の収穫はいつになるんだい?」
「二ヶ月後になりますわ」
クリストフはいつもソファの向かい側でカトレアの報告書を読んでいる。
優しい眼差しで報告書を眺めている。
カトレアはクリストフの反応を見て、充実感が溢れてきた。
(私の報告書をあんなに見てくれている。とても嬉しいわ)
「収穫は楽しみだね。収穫して人参がなくなったら今度は、何を植えるの?」
カトレアは呼吸を整え、クリストフの様子を盗み見る。
(そろそろ、本題よね。やっぱりトマトを狙っているのか探りを入れないと)
「⋯⋯⋯⋯ローゼン(ロマン品種のトマトを狙っているの)でしょうか⋯⋯?」
クリストフは息を呑んだ。
「そうですね⋯⋯ローゼン(クロイツ公爵家の人間)なのを知っていたんですね」
カトレアも驚いて息を呑んだ。
口を両手で押さえて、その姿をクリストフから隠した。
「やっぱり」
「でもなにか手立てを考えます!」
「え⋯⋯⋯⋯(トマトの品種改良でしょうか)?」
それからクリストフはしばらくリーフォード家を訪れなかった。
* * *
そして久々に来たカトレアにこう告げた。
「王都に戻ることになりました」
カトレアは突然の別れに何を話すべきか分からなくなった。
このままでは唯一の友人を失ってしまう。
いや、まだ友人でもないのだ。
男女の友人は相当なことがないと、社会が認めてくれない。
両家が家族ぐるみで付き合いがあり、貴族行事に参加した際に会ったり、友人との付き合いで行った先で友人の友人とも付き合いができるなど。
それでも男女二人だけで過ごすことはまずない。
公の場で家族か友人を交えてという場合が多いのだ。
ましてや爵位も違いすぎるので、友人になる機会さえもない。
震える手を隠してカトレアはクリストフの方を見る。
「あの、少しばかり待っていていただけますか?」
「はい」
急いで部屋に戻ったカトレアは、クリストフが喜んでくれるかもという妄想も込みで三十六時間ほど費やして出来上がった百ページに及ぶ大作──トマトの報告書をすぐさま手にした。
これには前世の知識であるイタリア料理からトマトの活用方法も載せたトマトの魅力が最大限に伝わる知識を詰め込んだ。
趣味の料理好きが高じたのである。
「伝えたいことはこれだけでいいかしら?」
カトレアの心に湧いたもう一つの気持ちに少し迷っていた。
伯爵家と男爵家は身分も違いすぎる。
こうして名もなき関係のほうが、またふとした時に、立ち寄ってくれるかもしれない。
カトレアはクリストフの家門を聞かなかった。それを聞いてしまったら、これも続かないと分かっていたから。
でも⋯⋯あまりにも心許ない関係は土と一緒で風に舞い上がれば飛ばされてしまう。
(もっといろんな話をしたいわ⋯⋯私はクリストフさまと⋯⋯ご友人になりたいの)
机の上に便箋を取り出して、羽根ペンを走らせる。
「私はクリストフさまと友人になりたいの!」
* * *
しばらくするとカトレアはトマトの報告書を持ってクリストフのいる部屋へと戻ってきた。トマトの報告書の一番下には先ほど書いた手紙が入っているのである。
「クリストフさま、どうかトマトの報告書をお受け取りください! ローゼンロマンを超える品種を作りましょう!」
「ローゼン⋯⋯ロマン?」
ローゼンロマンとは、ここ数年で人気の高い新種のトマトだ。
細長く実がしっかりしているのに、味が濃くて甘みがある。
「ローゼン⋯⋯もしかして君はこれのことを言っていたのか」
「はい!」
カトレアはクリストフに気持ちのよい返事をした。
するとクリストフは口元を隠して肩を大きく震わせ始めた。そのうち声を出して笑い始めた。
あまりにも笑うのでクリストフの目端から涙がこぼれそうになる。
「こんなご令嬢は、初めてだ」
「でしょうね」
笑いが収まると、クリストフはカトレアに真剣な目を向けた。
これが恋愛ならカトレアも胸を焦がしただろう。カトレアがこんなにも平然でいられるのは“クリストフにはカトレアに向けられる恋慕はない”と固く信じていたからなのだ。
クリストフの手がカトレアに近づいてきた。
もしかして手を握られるのではないかと期待している自分に気がついた。
クリストフは何かに気がついたように手を引っ込める。
すでにカトレアの顔は火照っていた。
(これは勘違い。野菜仲間なだけ。ヤサイナカマナダケ)
高鳴りそうになる胸を押さえ込むカトレア。
「もしなれるなら私の友人になってくださいますか?」
「はい、私も友人になりたいです」
カトレアは笑顔でクリストフに返す。
「分かりました、待っててください」
カトレアはクリストフの目になにか決意をしたように感じた。
* * *
一年後──。
クリストフと別れてから、カトレアの元に文はこなかった。
それでもカトレアはクリストフにまた会えることを信じて、野菜の品種改良に励んでいた。
野菜が実り始めた庭園で、カトレアは小さなトマトを見ている。
「一回目の交配ならこんなものか。でもトマトソースの出来はよくなっているわ」
この世界にはなかったもの。
それはトマトソース。
ピザに使われるのもボロネーゼに使われるのもトマトソースが重要だ。
だからこの王国でトマト料理を広めて、トマトソースを流通させる。
そしたらどこかで彼が食べてくれるかもしれない。
そしたら私のことを思い出してくれるかもしれない。
カトレアの口の中に苦味が広がった。
「お嬢様、ギルド長と名乗る方が来ておりますが、お会いになられますか?」
「えぇ、野菜ギルドなんてあったら日が暮れるまでお話を聞くのに」
カトレアは自分の冗談に笑いながら、土で汚れたエプロンを外した。
侍女に髪を整え直してもらうと、すぐに応接室へと向かった。
応接室のドアを開けると、見覚えのある顔。
貴族の正装というよりは、少し平民寄りで⋯⋯。
青年は綺麗なお辞儀をする。
「野菜ギルドのアレクシスと申します」
「野菜ギルドですか。あの⋯⋯クリストフさまではございませんか?」
カトレアは頬を少し紅潮させながらクリストフの瞳を覗いた。
澄んだ瞳が真っ直ぐこちらを向く。
「はい、そうです。家門とは関係のない活動ですので、ミドルネームを使っています」
もちろん家門の後ろ盾はなく、設立に必要な推薦人には友人のアルフレートと、もう一人彼の知人になってもらったという。設立保証金もクリストフが自分で出している。そう、クリストフの父も了承しているようだった。
カトレアの鼓動が高鳴った。
これは再会を喜んでいるのか、違う理由なのか⋯⋯。
それから、これはぜひ確認しないといけない。
「先ほど、野菜ギルドとおっしゃいましたか?」
カトレアは一歩近づいた。
「本当は食に関する総合ギルドですが、当面は野菜に強化しようと思いまして」
クリストフの敬語がくすぐったく感じる。
「それで、野菜はどのような状況でしょうか?」
いつもの優しいクリストフの笑顔が向けられた。
「それなら先に飲み物が要りますわ。長時間になりますもの。トマトソースの話に興味はありますか?」
カトレアはまだ知らない。このギルドが、クリストフが彼女の隣に立つために一年かけて作った場所だということを。
「えぇ、貴女の話ならなんでも聞きたいです」
二人の関係に芽生えた二葉がようやく顔を出した。
お読みいただきありがとうございました!
恋愛要素は少し薄めだったかもしれません。
作者的には次は畜産にも興味がありますね。
脱字報告いつもありがとうございます。
今回もぜひお願いいたします。




