隣人に肉を食べさせられそうになった日、私は植木鉢に埋められた人の手を見つけた
隣人に薬を盛られた。
彼女は私を自分の部屋へ誘い込み、ソファに座っている腹の出た中年男を指して、金田社長と私はきっと相性がいいと笑った。その瞬間、私はようやく気づいた。彼女は娘のぬいぐるみを直してほしくて私を呼んだのではない。私をあの男に引き渡して、金にしようとしていたのだ。
私は彼らから離れる口実を作り、ベランダへ出て風に当たった。築三十年以上の古い分譲マンションの十三階。ビルとビルの隙間を抜けてきた風が、物干し竿に吊るされた塩漬け肉をゆらゆらと揺らしている。ベランダの隅にはいくつかの植木鉢が並び、葉は鬱蒼と茂っていて、土は湿っていた。壁際には古いプラスチックケースも置かれていた。
私はただ少し立って、気持ちを落ち着かせたかっただけだった。けれど、ふと視線を落とした瞬間、その植木鉢の奥から、白く硬直したものが覗いているのが見えた。枝葉の陰に隠れるようにして、指先がわずかに曲がり、爪の間には黒ずんだ赤い泥が詰まっていた。
それは、人の手だった。
切断面からはまだ血が滲み、暗い赤色がじわじわと土に染み込んで、植木鉢の半分を汚していた。全身が固まり、胃の奥からこみ上げるものを必死で押さえ込んだ。息が喉で止まり、誰かに首を締められているようだった。私は目がいい。フェイクの小道具やフィギュアのパーツも仕事柄いくつも見てきた。あれが玩具であるはずがなかった。
そのとき、背後から女の冷たい声がした。
「慌てなくていいのよ。あとで焼いたほうがおいしいから」
1
私は勢いよく振り向いた。
花村さんがベランダの入口に立っていた。顔には、いつもと同じ穏やかな笑みが浮かんでいる。彼女は何も気づいていないふりをして、私の肩を軽く叩いた。服越しにその手のひらが落ちてきた瞬間、背筋がぞわりと冷えた。
「葵ちゃん、こんなところで何してるの?」
彼女は私の横をすり抜け、そばにあった物干し竿用のフックを手に取ると、頭上に吊るされた風干しの肉を指した。
「私が漬けた塩豚よ。いい色でしょう? あとで薄く切って焼いて、ねぎを少し添えたら、きっと箸が止まらないわ」
私は彼女の顔を見つめたまま、喉の奥に湿った綿を詰め込まれたような感覚に襲われていた。彼女が言っているのは肉のことだ。けれど、私がさっき見たものは、絶対に肉ではなかった。異変に気づかれないよう、私はどうにか笑みを作り、声が震えないように努めた。
「はい……前から、花村さんの料理を食べてみたかったんです」
リビングに戻ると、私はソファの端に腰を下ろし、両手を膝の上に置いて震えを押さえ込んだ。金田は向かい側に座り、足を組んでいた。手首につけた二つの腕時計がやけに目立ち、腹の肉はベルトに食い込んで何段もの皺を作っている。彼の視線は、これから金を払って買う品物を確かめるように、私の体に貼りついていた。
私はうつむき、額に落ちた髪で顔を隠した。植木鉢の中のあの手は、ハロウィン用の小道具か何かだったのだろうか。そんな考えが一瞬浮かんだが、すぐに自分で否定した。私は羊毛フェルトや手作りのぬいぐるみで仕事をしている。リアルなシリコンパーツも、樹脂模型も、フィギュアの部品も見たことがある。
あの手の皮膚、血、切断面、そして表面に浮かぶ濃淡のある黒ずんだ斑点。どれも、ただの作り物ではありえなかった。なにより、湿った土の匂いに混じって微かに漂っていた生臭さが、細い針のように鼻の奥へ刺さってくる。
このマンションに引っ越してきて、三十八日目だった。向かいの部屋に住む、貧しくて腰が低く、声を失った女の子を連れて空き缶や古雑誌を集めていたシングルマザー。その部屋に、人の手が隠されていた。
彼女は私を売ろうとしているだけではない。
人を殺している。
2
私は東京・北区の赤羽近くにある、築三十年以上の古いマンションに住んでいた。建物は十四階建てで、私の部屋は十三階。ワンフロアに二戸しかなく、廊下は狭く、エレベーターも古い。管理人がいるのは昼間だけで、夜になると廊下の照明はときどきちらつき、湿気と古い木製家具が混ざったような匂いがした。
大学を出たあと、私は会社には入らなかった。羊毛フェルトのぬいぐるみやハンドメイド雑貨を作って生活している。注文は主にminne、Creema、Instagramから入り、ときどきペットのメモリアル人形のオーダーも受けた。仕事場は自宅で、買い物や荷物の受け取り、発送以外に外へ出ることは少なかった。
向かいの部屋の女は、花村梅子と名乗っていた。地方から引っ越してきたばかりだと言い、そばには言葉を話せない小さな女の子がいた。名前は愛。愛ちゃんはいつも古びたうさぎのぬいぐるみを抱えて、花村さんの後ろに立っていた。まるで風に晒されて色褪せた影のようだった。
初めて二人を見かけたのは、マンションの一階にあるゴミ置き場だった。
その日の早朝、私はコンビニで朝食を買って帰ってきた。ゴミ置き場のカラス除けネットはまだきちんとかけられておらず、花村さんは古い手押し台車を押しながら、愛ちゃんと一緒に可燃ごみの置き場のそばに立っていた。二人はそこから空き缶や古雑誌、少しでも売れそうな小型家電を選り分けていた。冷え込む朝で、愛ちゃんの手は真っ赤になり、顔は汚れ、鼻先まで赤くなっていた。
愛ちゃんは、私の手にある肉まんをじっと見ていた。唇が少し開き、目にはどうしようもないほどの欲しさが滲んでいた。私は一度通り過ぎたものの、振り返ると、彼女はまだその場で私を見ていた。
「食べる?」
愛ちゃんは一瞬固まり、それから肉まんを受け取ると、すぐに口へ押し込んだ。熱かったのか少し顔を歪めたが、それでも手を止めようとはしなかった。
花村さんは慌てて愛ちゃんを引き寄せ、ひどく恐縮した顔をした。
「すみません、子どもがお腹を空かせていて。この分は必ずお返しします。あなたは何号室にお住まいですか?」
「返さなくて大丈夫です」
私はそのまま行こうとした。けれど花村さんは追いかけてきて、ポケットから画面の割れたスマートフォンを取り出した。誤解されたくないのか、借りを作るのが嫌なのか、彼女の指は何度も画面の上を迷っていた。
「いえ、ただでもらうわけにはいきません。部屋番号を教えたくなければ、電話番号だけでも。あとで必ずお返ししますから」
そのときの私は、彼女はただプライドが高くて、人の施しを素直に受け取れないだけなのだと思った。だから電話番号を教え、同じ建物に住んでいるのだから、何かあればお互い様だと伝えた。翌日、私たちは十三階の廊下でばったり会った。
彼女は私を見ると、まず驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。愛ちゃんは隣に立ち、片手でうさぎのぬいぐるみを抱き、もう片方の手で昨日私が渡した袋を握っていた。その光景を見て、私はこの母娘を、みすぼらしくはあっても嫌な人たちだとは思わなかった。
その後も、私たちはエレベーターや廊下、階下のゴミ置き場で何度か会った。花村さんはいつも少しうつむき、声は小さく、誰に対してもまず笑った。拾ってきたアルミ缶を潰し、透明な袋にきれいに詰め、古雑誌を紐でまとめる手つきは慣れていて、見ていると胸が痛んだ。
私は少しずつ二人への警戒を解き、何かと理由をつけて物を渡すようになった。買いすぎた牛乳、知人からもらったけれどサイズの合わない服、使いきれない毛糸や生理用品。花村さんは受け取るたびに、まるで大きな借りを作ったかのように、何度も何度も礼を言った。
半月ほど前、私は使っていなかった子ども用のGPSウォッチを愛ちゃんにあげた。ハンドメイドイベントの抽選でもらったもので、自分では二日ほど触って、そのまま引き出しにしまっていた。緊急連絡先を登録でき、短い文章で助けを求めることもできる。愛ちゃんは話せないから、これがあれば少しは便利かもしれないと思った。
花村さんはそれを受け取ったとき、目を潤ませた。
「葵ちゃんって、本当に優しいのね。今どき、あなたみたいな子はなかなかいないわ」
私は褒められて照れくさくなり、置いておいても使わないだけだから、と答えた。愛ちゃんは下を向いてウォッチの画面に触れていた。指先は慎重で、まるで自分のものではない宝物に触れるようだった。
花村さんは、私のことも気にかけるようになった。一人暮らしは怖くないか、彼氏はいるのか、両親は東京によく来るのか、仕事は忙しいのか、家に男の人のものはあるのか。彼女はそれをごく自然に、親切な隣人が世間話をするように聞いてきた。
その頃の私は、彼女は不安を抱えたシングルマザーだから、そういうことまで細かく気になるのだと思っていた。けれど今ならわかる。彼女は私を心配していたのではない。一人暮らしか、騙しやすいか、行方がわからなくなってもすぐに気づく人がいないか、それを確かめていたのだ。
ある日、私に彼氏がいないと知ったとき、彼女は嬉しそうに笑った。
「一人暮らしの女の子って、いいわよね。単純で、きれいで」
そのときは、ただの社交辞令だと思った。けれど今ならわかる。彼女の言う「単純」は、扱いやすいという意味だった。「きれい」は、高く売れるという意味だった。
今日の午後、花村さんが私の部屋を訪ねてきた。愛ちゃんのうさぎのぬいぐるみがまた壊れたから、直してほしいという。私は深く考えず、裁縫箱を持って向かいの部屋へ行った。そのうさぎは以前にも何度か直している。耳や手足がすぐに取れてしまうので、どんな遊び方をしたらそうなるのだろうと不思議に思っていた。
ドアが開いた瞬間、私はリビングのソファに見知らぬ男が座っているのを見た。
男は四十歳前後で、禿げ上がった頭と大きな腹が目についた。スーツの上着はソファの肘掛けにかけられ、シャツの襟元は開いている。手首には派手な腕時計を二つつけ、ブランド物のベルトが腹の肉に食い込んでいた。私を見た瞬間、彼は目を細めた。
花村さんは私をすぐにぬいぐるみのところへ案内せず、ソファへ座らせた。そして年齢、仕事、収入、身長、体重、さらには交際経験まで聞いてきた。口調は世間話のようだったが、その一つ一つが私を不快にさせた。
男はずっと私を眺めていた。髪から靴まで、舐めるように。私は裁縫箱の持ち手を握りしめ、不安が少しずつ膨らんでいくのを感じた。やがてわかった。これはぬいぐるみを直すための場ではない。私の同意などない、勝手な見合いだった。
もっと正確に言えば、品定めだった。
私は立ち上がり、帰ろうとした。すると花村さんは私の裁縫箱をさっと奪い、冷たい目でこちらを見た。その目は一瞬だけだった。すぐにまた、哀れっぽい表情に戻る。
「葵ちゃん、私の顔を立ててくれない? 愛も部屋で待っているの」
私は側室を見た。愛ちゃんが一人でラグの上に座り、壊れたうさぎのぬいぐるみを抱いていた。彼女はこちらを見ていて、その目は本当に私を待っていたように濡れていた。
私は心が揺らいだ。
今回だけだ。ぬいぐるみを直して、夕飯を食べたら帰る。これを最後に、もうこの家とは距離を置く。
そう思った。
そして私は、ベランダの植木鉢の中に、あの人の手を見つけた。
3
リビングで、金田が眼鏡を押し上げた。彼の視線は遠慮というものを知らず、まるで棚に並んだ商品を選ぶように私を見ていた。その視線が肌に貼りつき、胃の奥が重くなる。それでも今は怒るわけにはいかなかった。私はソファの端に固まったまま座っていた。
「三浦さん、ずいぶん恥ずかしがり屋なんだね。そんなに緊張しなくていいよ。初めて俺に会う女の子は、だいたいそうなるから」
私は返事をせず、曖昧に笑ってごまかした。頭の中はベランダの手でいっぱいで、金田の声は厚いガラス越しに聞こえてくるようだった。
花村さんがベランダから戻ってきて、金田の肩を軽く叩いた。その声は、まるで本当にいい縁談を紹介しているかのように親しげだった。
「金田社長、私、嘘は言ってないでしょう? この子、きれいな子なんです。今まで彼氏もいなかったんですよ」
金田の眉が動いた。口角が上がり、煙草で黄ばんだ歯が見えた。
「いいね。じゃあ、約束どおり準備してくれ」
「ええ、任せて」
花村さんは台所へ向かった。水の音と食器のぶつかる音が聞こえる。どこにでもある夕飯の支度の音のようだった。けれど私は知っている。あの扉の向こうにいる女は、ついさっきまでベランダから人の手を動かしていたかもしれないのだ。
金田はまた私を見た。声には吐き気がするような馴れ馴れしさが混じっていた。
「三浦さんみたいな若い子はね、素直なのが一番だよ。俺についてくれば、悪いようにはしない。そんな小さな人形を作って、一日にいくら稼げるんだ?」
私はうつむき、聞こえなかったふりをした。
彼は私が言い返せないと思ったのか、背もたれに体を預け、さらに上から目線で話し続けた。
「女の子は、難しいことを考えなくていいんだよ。家でちまちま作業するより、金のある男に頼ったほうが楽に決まってる」
吐き気がした。普段なら、私は裁縫箱を持ってすぐに帰っていただろう。けれど今はドアが内側から施錠され、ベランダには遺体の一部らしきものがあり、台所には正体の知れない女がいる。まず生きてここを出なければならなかった。
金田の視線が私の胸元に落ち、顔の笑みがさらに下卑たものになった。
「今度、サプリでも持ってきてあげようか。女の子は、もう少しふっくらしていたほうが男に好かれるんだよ」
彼は両手で空中にいやらしい曲線を描いた。
「そのほうが、男は喜ぶしね」
私は危うくテーブルをひっくり返しそうになった。爪が手のひらに食い込み、その痛みで少しだけ冷静になる。今は強がっている場合ではない。どうやって逃げるかを考えなければならない。
私は玄関を見た。ドアノブの下の鍵穴は横を向いている。このマンションのドアは古い防犯扉で、内側からも鍵を使って施錠できるタイプだった。鍵は花村さんが持っている。私には開けられない。
ベランダも無理だ。ここは十三階で、下には狭い駐車スペースと自転車置き場がある。飛び降りれば死ぬ。リビングの窓の外にも足をかけられる場所はない。今の私にできるのは、待つことと、逃げる隙を探すことだけだった。
台所は洗面所に面している。ソファの位置からなら、洗面所の鏡を通して、台所の一部が見えた。私は金田の話を聞いているふりをしながら、余光でずっと鏡を見ていた。
花村さんは塩豚を切ったあと、冷蔵庫からガラスの器をいくつか取り出した。ココナッツプリンだった。私は以前、甘いものが好きで、特にココナッツ味が好きだと何気なく話したことがある。彼女はそれを覚えていたのだ。
彼女はそのうち一つの器を開け、リビングのほうをちらりと見た。私はすぐに目を伏せ、金田の話を聞いているふりを続けた。鏡の中で、彼女はエプロンのポケットから小さな白い粉の袋を取り出し、プリンの中へ入れ、スプーンでゆっくりとかき混ぜた。
その瞬間、背中が冷たくなった。
彼女は本当に、私に薬を盛るつもりだ。
部屋には人の手があり、ドアは施錠され、リビングには見知らぬ男が待っている。そして台所には、私のために用意されたプリンがある。あれを食べたあと、何が起こるのか、誰かに説明されなくてもわかった。
通報しなければ。
けれど私のスマートフォンは自分の部屋にある。裁縫箱も花村さんに取られていたが、今は側室の入口近くに置かれている。だからといって、箱を持ってドアへ走ることはできない。私の視線は側室へ向いた。愛ちゃんはラグの上に座り、うさぎのぬいぐるみを抱えている。その手首には、私があげた子ども用のGPSウォッチがあった。
私は立ち上がり、できるだけ自然な声を出した。
「花村さん、先に愛ちゃんのぬいぐるみを直しますね。すぐ終わりますから」
花村さんが台所から顔を出し、私を見た。
「お願いね」
金田はついてこなかった。私はもう籠の中の鳥で、逃げられないと思っているのだろう。私は側室に入り、クローゼットの横にしゃがんだ。そこはちょうど、リビングと台所からの死角になっていた。
愛ちゃんが顔を上げた。表情は乏しい。うさぎのぬいぐるみは耳と片手が取れ、糸が乱れていた。さらに奇妙なことに、数日前に私が縫ったばかりの足も、半分ほど裂けていた。
私は裁縫箱を開け、はさみと針と糸を取り出し、さらに糸切り用の小さな刃物をそっとポケットに入れた。刃は薄く、小さな爪のようだった。身を守れるかどうかはわからない。それでも、今の私が手に入れられる唯一のものだった。
「愛ちゃん、直してあげるね」
私はあえて声を少し大きくした。外の二人に、私が本当にぬいぐるみを直していると思わせるためだ。リビングから金田が立ち上がる足音が聞こえ、すぐに彼は台所へ向かった。二人の声は壁越しに聞こえた。低く抑えているが、完全に私へ隠しているわけでもない。
「部屋に行って、三浦さんの相手をしなくていいの?」
「急ぐ必要はない。逃げられないだろ。準備さえできれば、金はちゃんと払う」
「あとで面倒だなんて言わないでくださいよ」
「女なんて、薬を飲ませればどうにでもなる」
押し殺した笑い声に、頭皮がぞわりとした。私はぬいぐるみを置き、愛ちゃんの手首を取った。愛ちゃんはぼんやりと私を見ていた。驚きも恐怖もなく、ただ鈍い茫然だけが目に浮かんでいた。
私は簡単な身振りで、ウォッチを見せてほしいと伝えた。彼女は抵抗せず、自分の手首をじっと見ているだけだった。私はウォッチを外し、最速で緊急連絡の画面を開いた。
画面は小さく、指は震え、何度も押し間違えそうになった。けれど幸いにも、このウォッチは私が渡したものだ。操作方法はわかっていた。
私は文字を入力した。
十三階、向かいの部屋。薬を盛られそうです。ベランダの植木鉢に人の手があります。ドアは施錠されています。助けてください。
位置情報つきで送信された。
私はウォッチを愛ちゃんの手首に戻した。外の二人はまだ台所にいる。私は目を閉じ、無理やり呼吸を整えた。通報は第一歩にすぎない。警察がすぐ来てくれたとしても、時間はかかる。
もし彼らが私の通報に気づいたら、ドアを開ける前に私を殺すかもしれない。すでに人を殺している相手にとって、一人増えることも、証拠を一つ増やすことも、大差ないのかもしれない。
警察が来る前に、自分の部屋へ逃げなければ。
4
私は縫い終えたうさぎのぬいぐるみを愛ちゃんに渡した。彼女はそれを受け取り、長いこと下を向いて見つめていた。なぜか喜ぶどころか、眉をひそめている。新しく縫った耳と手を触り、縫い目のところで指先を止めた。まるで、何かが完全であることを確かめ、それが間違っていると思っているようだった。
それどころではなかった。私は立ち上がってリビングに戻り、顔に笑みを貼りつけた。
「花村さん、忘れていました。叔父が今日、この近くの交番で勤務しているんです。さっき、仕事が終わったらついでに食べ物を持ってくるって」
花村さんの目が変わった。彼女はまだスプーンを手にしており、調理台の上にはココナッツプリンが置かれている。そのうち一つは、すでによく混ぜられていた。彼女はすぐには出てこず、台所の入口から私をじっと見た。
「あなた、家には十日も半月も誰も来ないって言ってなかった? 叔父さんなんて、どこから出てきたの?」
「叔母が家族のグループで焼き餃子を作ったって写真を送ってきて、私が何気なく返事をしたんです。それを叔父が見て、あとで持っていくって」
私は少し間を置いた。
「警察官なんです」
花村さんと金田が目を合わせた。私はそれを見逃さなかった。反応は速かった。ほとんど本能のようだった。壁際に潜む鼠が、猫の足音を聞いたときのように。
花村さんは台所のプリンをちらりと見た。
「ここで食べていかないの?」
「もちろん食べます。花村さんの料理ですから、楽しみにしています」
私は肩をすくめ、あえて軽い口調にした。
「でもスマホが自分の部屋にあるんです。先に電話して、来なくていいって伝えないと。警察官が玄関まで来たら、みんな気まずいでしょう?」
彼女はまだ私を見ていた。私は側室を指し、笑顔を崩さないようにした。
「裁縫箱も置いたままですし。あれは私の商売道具ですから、置いて逃げたりしません。それに、食事のあとで金田社長にもいろいろ教えていただきたいですし」
金田はその言葉を聞いて、少し表情を緩めた。私が彼の金や肩書に気圧されたとでも思ったのだろう。満足そうに花村さんを促した。
「スマホくらい取りに行かせればいい。警察なんか呼び込まれたら面倒だ」
花村さんは不満そうにポケットから鍵を出した。玄関へ行き、内側の鍵を開ける。けれど彼女の手はドアノブに置かれたままで、すぐには道を空けなかった。その一瞬で、まだ私を信じていないのだとわかった。
私は走らず、焦った様子も見せず、笑みを浮かべたまま前へ進んだ。
「心配なら、一緒に来ても大丈夫ですよ。向かいの部屋ですし」
花村さんは数秒私を見つめ、それからようやくドアを開けた。廊下の床を踏んだ瞬間、全身から力が抜けそうになった。それでも私はこらえ、振り返って彼女に手を振った。
「すぐ戻ります。鍋、見ておいてくださいね。焦げたらもったいないですから」
私は自分の部屋のドアを開け、中に入るとすぐに鍵をかけた。鍵が回る音を聞いた瞬間、手のひらが汗で濡れていることに気づいた。何度も鍵とチェーンを確認し、ようやくドアにもたれて床へ座り込んだ。ポケットの糸切り刀が太腿に当たっている。
助かった。
少なくとも、今は。
さっきまでのことは悪夢のようだった。私はただ家で手作りの仕事をしている普通の人間で、卒業してから数年、十人を超える集まりに出たことすらほとんどない。普段の悩みといえば、客から急に色を変えたいと言われることや、配送の遅れ、羊毛の在庫切れくらいだった。
それなのに、さっき私は隣人に眠らされ、見知らぬ男へ引き渡されそうになった。さらに恐ろしいのは、向かいの部屋のベランダに人の手が隠されていたことだ。
喉の奥に押し込めていた泣き声が漏れそうになった。私は口を押さえ、大きな音を出さないようにした。すぐに外からノックの音がした。最初は軽く二度。それから、だんだん急になっていく。
「葵ちゃん、電話は終わった? スマホを持ってこっちに来て」
私は息を殺し、ドアの内側で身を縮めた。
「ご飯、もうすぐできるわ。早く出てきて」
ノックが強くなり、ドア板が鈍く鳴った。
「どうして鍵をかけてるの? 開けなさい」
私は声を出さなかった。外が数秒静まり、それから金田の声がした。
「どうなってる?」
「この子、部屋に閉じこもって開けないのよ」
二人はさらにしばらくドアを叩いた。それでも私は返事をしなかった。花村さんの声はどんどん尖り、いつもの優しさも哀れっぽさも完全に消えていた。
「出てきなさいよ。金田社長は、今日はあなたを指名して来ているのよ」
吐き気がした。彼女はもう演技をやめていた。その言葉は汚水のようにドア板へ叩きつけられる。彼女は私に縁談を持ちかけていたのではない。最初から、私を金に換えられるものとして見ていたのだ。
金田が声を低くした。
「こいつ、何か気づいたんじゃないか?」
外が急に静かになった。続いて、慌ただしい足音が遠ざかっていく。向かいの部屋の鍵が開き、また閉まる音が聞こえた。
彼らは証拠を片づけ始めたのだ。
私はリビングへ走り、スマートフォンを手に取って、改めて110番した。通信指令の人は、安全を確保し、もうドアを開けず、向かいの部屋には近づかないようにと言った。手はずっと震えていて、住所を二度繰り返してようやく伝えられた。
数分後、廊下に落ち着いた足音が響いた。
私はドアスコープで警察手帳を確認してから、ようやくドアを開けた。来たのは所轄署の柳田警部補と、若い巡査だった。少し遅れて鑑識の捜査員も二人到着した。柳田さんは三十代前半くらいに見えた。声は大きくないのに、不思議と人を落ち着かせる力があった。
花村さんは私を見るなり髪を掴もうと飛びかかってきたが、若い巡査に止められた。その顔はもう完全に別人だった。低い声で礼を言う哀れなシングルマザーではない。尻尾を踏まれた獣のようだった。
柳田さんは金田に目を向け、少しだけ視線を止めた。
「あなたとこちらの女性は、どういうご関係ですか」
金田は額に汗を浮かべていた。
「と、友人です。昔からの友人で」
柳田さんの視線がリビングと台所を横切った。
「薬物と人体の一部らしきものがあるという通報がありました」
花村さんはすぐに声を張り上げた。
「人体の一部? 警察官さん、この子、少しおかしいんじゃないですか? 私はご飯に招いただけなのに、こんな言いがかりをつけられて」
私は警察官たちを部屋へ案内した。台所はきれいに片づいていた。冷蔵庫、ゴミ箱、シンク、排水口。どこにも何もない。薬を入れられたココナッツプリンは消え、調理台はぴかぴかに拭かれていた。水滴さえほとんど残っていないのが、かえって不自然だった。
私はベランダへ駆け出し、植木鉢をかき分けた。手も消えていた。枝葉は整えられ、床は拭かれ、物干し竿に吊るされていた塩漬け肉の位置まで変わっていた。
胸の奥が少しずつ沈んでいく。私が自分の部屋へ戻ってから警察が来るまで、ほんの数分しかなかった。それなのに、彼らはここまできれいに片づけていた。
私は諦めきれずに探し続けた。やがて、クチナシの植木鉢の縁に、暗赤色の染みを数本見つけた。半分乾いた色が、鉢の縁と土の粒の間にこびりついていた。
私はその植木鉢を持ち上げ、柳田さんの前に差し出した。
「これです。さっき、手はここにありました。土にも血がついています」
花村さんがソファから勢いよく立ち上がった。
「勝手にうちの物を触らないで!」
若い巡査が彼女を制した。鑑識の捜査員が試料を取り、簡易検査を行った。花村さんと金田はソファに座っていた。私が想像していたような動揺はない。むしろ、結果を最初から知っているようだった。
結果を待つ数分間、リビングは恐ろしいほど静かだった。階下から無線の音がかすかに聞こえる。若い巡査は玄関近くに立ち、片手を無線機のそばに置いていた。柳田さんは急かさず、鑑識の手元の試験紙を見つめていた。
数分後、鑑識の捜査員が顔を上げた。
「人血ではありません」
頭の中で、何かが大きく鳴った。
人の血ではない。
花村さんはすぐに冷笑した。まるでこの瞬間を待っていたかのようだった。
「前にベランダで豚肉を仕込んだんです。塩豚を作るときに血がついたって、何かおかしいですか?」
金田も続いた。
「そうですよ。肉が植木鉢に落ちたのを見て、手だと思い込んだんじゃないですか。警察官さん、これって被害妄想じゃないですかね」
花村さんの声はさらに大きくなった。
「私は、言葉を話せない子どもを抱えて必死に暮らしているんです。それなのに殺人犯扱いなんて。こういう人こそ、一度病院で診てもらったほうがいいんじゃありませんか」
私はベランダのそばに立ったまま、指先まで冷たくなっていた。確かに見たのに。薬は消え、手も消え、血は人のものではない。すべてがひっくり返ってしまった。私は通報者ではなく、精神的に不安定な女のように見えていた。
花村さんは止まらなかった。私の仕事のこと、生活のこと、一人暮らしのこと、会社勤めをしていないことまで持ち出した。どの言葉も耳障りで、私が一日中家にこもり、誰かに狙われていると妄想する女だと周囲に思わせようとしていた。
「この子、一日中部屋にこもって、何か人形みたいなものを作っているんですよ。ちゃんとした会社にも勤めていないし、人付き合いもほとんどない。家に閉じこもっているうちに、おかしくなったんじゃないですか」
私は説明しようとしたが、喉が詰まった。あの証拠は確かに存在していた。けれど警察が来る前に消えてしまった。証拠のない事実は、妄想のように聞こえてしまう。
愛ちゃんが側室から出てきた。腕にはあのうさぎのぬいぐるみを抱いていた。私がさっき縫い直した耳と手は、また引きちぎられている。今度は目までえぐられていた。黒いボタンの眼球が糸にぶら下がり、何かに無理やり掘り出されたように揺れていた。
彼女はぬいぐるみを花村さんに差し出した。花村さんはしゃがみ込み、愛ちゃんを抱き寄せると、声を一瞬で柔らかくした。
「警察官さん、見てください。こんな子を抱えている私が、人を傷つけるわけがないでしょう」
柳田さんは時計を見た。薬物は見つからない。人体の一部もない。現場には大がかりな捜索を続けるだけの証拠がなかった。彼は金田を先に帰らせ、花村さんには子どもを連れて部屋へ戻るよう促した。それから廊下で、私だけを残した。
「現時点では、あなたが言ったものは確認できませんでした」
「でも本当に、ドアを内側から閉められていたんです。プリンにも薬を入れていました。愛ちゃんのウォッチで通報できなかったら、私は……」
柳田さんは遮らなかった。表情は真剣で、それでも冷静だった。
「証拠がない以上、供述だけで捜査を進めることはできません。しばらくは安全に気をつけてください。異変があれば、すぐに通報を」
それが手続きだということはわかっていた。けれど私はもっとわかっていた。花村さんは今、ドアの向こうからドアスコープ越しにこちらを見ている。警察が帰ったら、次に消されるのは私だ。
私は柳田さんの袖を掴み、離せなかった。そのとき、彼の無線機が鳴った。近くで別の事件が起きたらしい。柳田さんは私を部屋まで送り、最後に玄関でこちらを見た。
「署に戻ったら、あなたの隣人の登録情報を確認します。何かおかしな点があれば、また来ます」
私は頷き、鍵をかけた。部屋中の明かりを全部つけ、ソファに座り込んで、さっきの場面を何度も思い返した。プリンは片づけられ、ベランダは拭かれ、植木鉢に残されたのは動物の血だった。
私は見間違えていない。
ベランダに何もなかったのなら、彼らはわざわざそこを片づけたりしない。動物の血がついた植木鉢は、わざと残されたものだ。警察が検査をすることを見越して、偽物の証拠で本物の証拠を覆い隠したのだ。
つまり、今、花村梅子が人を殺したと知っているのは私だけだった。
そして彼女も、私が知っていることを知っている。
5
火が出たのは、午前三時だった。
その夜、私はほとんど眠れなかった。警察が帰ったあと、玄関の鍵とチェーンロック、窓を何度も確認し、包丁をベッド脇に置いた。それでも寝室にいるのが怖くなり、結局スマートフォンを抱えて浴室に縮こまった。
浴室には小さな換気窓があった。ほんの少しの風しか入らないが、それでもリビングよりは安全な気がした。午前三時ごろ、ドアの隙間から煙が入り込み、私は咳き込んで目を覚ました。そのときにはもう、耳元でぱちぱちと何かが燃える音がしていた。
浴室のドアを開けると、リビングは炎の色に赤く照らされていた。玄関のあたりが一番ひどく燃えている。火は入口から室内へ巻き込み、靴箱はすでに黒い塊になっていた。ソファの端にも火が移っている。熱い煙が天井に張りつくように押し寄せ、部屋全体が黒い手にゆっくり握りつぶされていくようだった。
スマートフォンの画面が光っていた。
花村さんからのメッセージだった。
「あんた、私に逆らって生きていられると思ったの?」
「玄関と外壁にはガソリンを撒いた。ドアの隙間からも流し込んである。消防が来るまで十数分はかかるでしょうね。その中で焼け死になさい」
「もし焼け残っても、必ず戻って殺してあげる」
私はスマートフォンを握りしめた。指の関節が白くなる。
彼女は中へ入ってきて私を殺すつもりではない。逃げるつもりだ。放火すれば、私を殺せるだけでなく、自分の部屋に残った証拠も焼ける。階全体が混乱すれば、愛ちゃんを連れて監視カメラの死角から逃げられる。
私は台所へ走り、包丁を掴んだ。それから毛布を水で濡らし、口と鼻を覆ってベランダへ向かった。台所とリビングの間にはすでに火の舌が伸び、床は足の裏が痛いほど熱くなっていた。濡れた毛布はすぐに熱を帯び、煙で目はほとんど開けられない。
咳き込みながら壁に沿って進む。玄関からは出られない。外側にもガソリンが撒かれているはずだ。無理に開ければ炎に巻かれる。十三階にはほかの出口がない。ベランダだけが、まだ呼吸できる場所だった。
ベランダのドアを押し開けると、冷たい空気と煙が同時に流れ込んできた。下にはすでに何人もの住人が集まっていた。コートを羽織った人、スマートフォンを持った人、私を見上げている人。声は風にちぎれ、途切れ途切れに届いた。
「飛び降りちゃだめだ!」
「消防はもう来るから!」
「姿勢を低くして! 煙を吸わないで!」
私はベランダの隅にうずくまった。背後には火があり、足元には十三階分の高さがある。頭はどんどん重くなり、喉は紙やすりで削られたように痛んだ。声も出ない。通報しようとしたが、電話はすでにつながっていた。向こうで通信指令の声が、意識を保つように何度も呼びかけている。
階下の声がだんだん遠くなっていく。炎がベランダのガラスに映り、赤い水面のように揺れていた。意識が薄れる寸前、誰かが火の中へ飛び込んでくるのが見えた。
その人は消防ホースを抱え、焼けるような黒煙を突き抜けて、私へ向かって走ってきた。
次に目を覚ましたとき、私は病院のベッドにいた。
腕と肩には包帯が巻かれ、喉はひどく痛んだ。一息吸うたびに、粗い灰を飲み込んでいるようだった。隣のベッドには柳田さんがいた。彼も病衣を着て、手に包帯を巻いている。顔色は昨夜よりずっと悪かった。
私が目を開けると、彼は手にしていた本を閉じた。
「目が覚めましたか」
声は掠れていた。
「何が……」
柳田さんは水の入ったコップを差し出した。私は受け取り、少しだけ飲んだ。温い水が喉を通るだけで痛み、思わず顔をしかめた。
「昨夜、署に戻ってから、隣人の登録情報を確認しました。システム上の花村梅子は、身長百七十二センチでした」
私は固まった。
「百七十二……?」
私が知っている花村さんは、私より背が低い。せいぜい百五十五センチくらいだ。いつも背中を丸め、古いコートを着ていて、実年齢よりも痩せて小さく見えた。登録されている身長とは、まるで合わない。
柳田さんの声は、昨夜より重かった。
「つまり、彼女は他人の身分を使っている可能性が高い。気になって、夜のうちに戻りました。着いたときには、十三階がすでに燃えていました」
私は彼の包帯を見て、小さく言った。
「ありがとうございます」
柳田さんは視線を逸らした。
「礼を言うのはまだ早いです。本当に調べるべきことは、ここからです」
あとで私は知った。向かいの部屋の本当の所有者は、定年後に暮らしていた老夫婦だった。二人の子どもは長くカナダに住んでおり、普段は電話やビデオ通話で連絡を取るだけだった。二か月前、夫婦は近所で空き缶を集めていた花村さんと愛ちゃんを見て、気の毒に思い、側室を安く貸した。
花村さんは部屋に入り込んでから、すぐに気が利く女を演じた。買い物を手伝い、ごみを出し、薬局へ薬を取りに行き、近所のクリニックへの通院にも付き添った。やがて、自分が世話をできると言い、住み込みの手伝いのような立場になっていった。
私は十三階に一か月以上住んでいたのに、その老夫婦を一度も見たことがなかった。今になって思えば、廊下に時折漂っていた消毒液の匂い、深夜に向かいの部屋から聞こえた重いものを引きずる音、花村さんがいつもベランダに干していた塩漬け肉。そのすべてが、背筋の冷えるものに変わった。
答えはすぐ目の前に置かれた。
柳田さんの声は低かった。
「老夫婦は一か月前に殺害されています。あなたがベランダで見たものは、その一部だと思われます」
胃の奥が冷たくなった。彼はバラバラにされた、という言葉を口にはしなかった。けれどその言葉は、病室の中に重く沈んでいた。私の頭に、愛ちゃんのうさぎのぬいぐるみが浮かぶ。何度も引きちぎられた手足。えぐられた目。
あれは子どもの悪戯ではなかった。
彼女が唯一できる方法で、自分が見たものを繰り返していたのだ。
「でも昨日は、遺体の一部なんて見つかりませんでした。あの植木鉢の血も、人のものじゃなかったんですよね」
「本当の痕跡は、ベランダの床の下側にありました。鉢の棚に隠れていたんです。あなたが持ち出した植木鉢は、彼らがわざと残したものです。遺体の一部は、寝室のクローゼットの奥にある大型の耐火金庫から見つかりました」
私は目を閉じた。私はおかしくなかった。見たものは本物だった。もしあのとき逃げられなかったら、あの金庫の中にはもう一人、増えていたのかもしれない。
柳田さんはふと思い出したように、少し申し訳なさそうな顔をした。
「火の回りが早くて、あなたの羊毛フェルトの作品はほとんど残りませんでした。材料も完成品も、撮影用の背景も、全部焼けてしまったようです」
それらは、卒業してから少しずつ集めてきたものだった。一つ一つの人形、羊毛の袋、撮影用の背景布。全部、私の生活の一部だった。けれどそれを聞いても、思ったほど取り乱さなかった。
私は両手を上げ、軽く動かした。
「この仕事は、手が残っていればまた始められます」
柳田さんは一瞬驚いたようにして、それから笑った。
「強いですね」
私は空っぽの胃を押さえた。
「強いんじゃなくて、お腹が空いただけです」
窓の外では、街路樹が新芽を出していた。ガラス越しの陽光が病室に入り、ベッドの間に落ちている。そのときようやく、私は自分が生き残ったのだと感じた。
6
けがは重くなかったため、私は数日間だけ入院して経過を見た。警察はその間も何度か事情聴取に来た。花村さんが最初に私へ近づいた経緯、金田が現れた時間、彼女が薬を入れた位置、私が手を見た角度。私はできるだけ細かく話した。ベランダの植木鉢の配置まで紙に描いた。
警察は、花村さんの本当の身元が確認されたと教えてくれた。彼女は花村梅子ではなかった。本名は三枝金江。本物の花村梅子は、あの部屋の所有者である老婦人だった。
三枝金江はもともと、違法な斡旋や恐喝、女性を支配して金を得ることで生きてきた人間だった。数年前、大阪周辺で殺人事件に関わったあと逃亡し、その後は偽名を使って各地を転々としていた。貧しい母親を装い、子どもを連れて老人や一人暮らしの女性、そして施しをしてくれる人へ近づくのが得意だった。
彼女と愛ちゃんはゴミ置き場で空き缶を拾い、粗大ごみの中から売れそうな小型家電を探し、洗い古した服を着て、人の同情で与えられた安い部屋に入り込む。惨めに見えれば見えるほど、人は警戒心を解く。
その哀れな姿こそ、三枝金江にとって最高の偽装だった。彼女はそれで孤独な老人に近づき、私のようにすぐ心を動かされる相手を選別していたのだ。そう思ったとき、階下のゴミ置き場で私が差し出した肉まんが、最初から彼女の帳簿に記されていたように感じた。
一週間後、私は退院した。柳田さんは管理会社や保険の手続きについて連絡先を教えてくれ、焼けた部屋の整理にも付き合ってくれた。私の玄関ドアは歪み、壁は黒く焦げ、リビングには炭になった家具の骨組みだけが残っていた。
管理会社の人は何度も謝り、同じ建物の住人たちも次々に見舞いに来た。タオルを持ってきてくれる人、コンビニのおにぎりをくれる人、玄関先で何も言えず、ただあの夜に何もできなくてすみませんと頭を下げる人もいた。
向かいの部屋の老夫婦の子どもたちも、カナダから帰国した。東京で両親の葬儀を行った。葬儀の日、彼らは全員黒いサングラスをかけていた。背筋はまっすぐ伸びていたが、指はずっと白くなるほど握り締められていた。
彼らの悲しみは感じられた。けれど涙は見えなかった。あの十三階の古いマンションも、火事と事件のあと、以前のような重い静けさを失った。エレベーターが十三階に止まるたび、誰もが無意識に足音を小さくするようになった。
二か月後、警察はまず金田の支払い記録と違法な斡旋の痕跡を掴んだ。通信履歴と防犯カメラの足取りをたどり、埼玉の貸しガレージの地下で三枝金江と愛ちゃんを発見した。
金田も複数の違法行為に関わっていたことが明らかになった。名刺や会食、いわゆる紹介料の裏に隠されていたものが、一つずつ暴かれていった。彼はもう、ソファに座って人の人生を金で買えると思い込んでいる社長ではなく、裁きを待つ容疑者にすぎなかった。
半年後、判決が出た。柳田さんが電話をくれた。
そのとき私は、再開して最初の羊毛フェルトの注文に取りかかっていた。白い柴犬だった。依頼主は、生きていたころのように、小さな青いクッションの上に座らせてほしいと言っていた。私の手の中の針が止まる。電話の向こうの声は、はっきり聞こえた。
「三枝金江には死刑判決が出ました。金田勝彦には、複数の罪で懲役十五年です」
私は長く黙っていた。電話の向こうも急かさなかった。私は愛ちゃんのことを思い出していた。いつも鼻をすすり、うさぎのぬいぐるみを抱えて、ゴミ置き場に立っていたあの女の子。
「愛ちゃんは?」
柳田さんは少し間を置いた。
「彼女は三枝金江の実子ではありません。逃亡中に連れ去られた子どもだったことがわかりました。もともとは健康な子でしたが、三枝による長期的な薬物投与と虐待で、発声に大きな障害が残っています」
私は手をゆっくり握りしめた。怒りより先に、重たい苦しさが込み上げてきた。あの子は助けを求められなかった。求めることも許されなかった。ただ、ぬいぐるみの手足を何度も引きちぎることしかできなかった。
彼女はずっと、みんなに伝えていたのだ。
自分が何を見たのかを。
誰も気づかなかっただけで。
「今はどこにいるんですか」
「児童福祉施設に保護されています。毎週、専門の心理ケアを受けていますし、医師も言語機能の回復を継続的に見ています」
私は少し息を吐いた。柳田さんのほうで紙をめくる音がし、それから声が少し近くなった。
「今は少し用事があります。夜、時間があれば喫茶店で話しましょう」
その夜、東京には雪が降った。
私は赤羽駅近くの小さな喫茶店に先に着いていた。テーブルの上には箱を置いている。中には、柳田さんのために作った羊毛フェルトの人形が入っていた。小さな人形は制服を着て、ミニチュアの消防ホースを抱えている。そばには一輪のバラも添えた。
入口のベルが鳴った。柳田さんが傘を畳んで入ってきた。肩には雪が少し積もっている。彼は私を見て、それからテーブルの箱に気づき、一瞬だけ気まずそうな顔をした。
「これは、僕に?」
「命の恩人への記念品です」
彼は向かいに座り、箱を開けた。小さな制服姿の人形が中に寝ていた。妙に真面目な顔をしていて、少しおかしかった。柳田さんはしばらく見つめ、それから小さく笑った。
「本人より頼もしそうですね」
「そうですね」
窓の外では雪が降っていた。コーヒーの湯気がゆっくり立ち上り、その白い靄の向こうで、柳田さんが人形を丁寧に箱へ戻すのが見えた。その瞬間、あの火に包まれた夜が、ようやく少し遠ざかった気がした。
7
その後、私は柳田さんと一緒に、時々児童福祉施設へ愛ちゃんに会いに行った。最初のころ、彼女はまだ話さなかった。活動室の隅に座り、新しいうさぎのぬいぐるみを抱えて、いつも入口を見ていた。誰かの足音が少しでも急になると、肩を小さく縮めた。
心理士は、時間が必要だと言った。誰も彼女を急かさず、すぐに良くなることを求めなかった。ただ毎日決まった時間に一緒に食事をし、絵を描き、日なたで過ごした。部屋の外から入ってくる人が、必ずしも傷を与える存在ではないと、少しずつ知ってもらうためだった。
私は愛ちゃんに、新しい羊毛フェルトのうさぎを作った。今度は手足をしっかり縫い、目も柔らかい黒い羊毛を少しずつ刺して作った。愛ちゃんはそれを受け取ると、指先でうさぎの耳に触れた。
彼女は、それを引きちぎらなかった。
その日の帰り、私は電車の中で自分の手を見ていた。火事でできた手の甲の傷跡は薄くなり、浅い跡が少し残っているだけだった。けれど、すべてがそんなに早く消えるわけではないことも、私は知っていた。
今でも夜中に何度も鍵を確認する。廊下で誰かが長く立ち止まる気配がすると、無意識に息を止めてしまう。それでも私は手作りの仕事をやめなかったし、東京を離れることもしなかった。
私は少し小さな1Kの部屋へ引っ越した。窓は南向きで、下には小さな花屋がある。新しい作業机は窓際に置いた。昼間になると、陽が羊毛や針山の上に落ちる。小さな動物の目を一つずつ刺して作るたびに、私は愛ちゃんの、目をえぐられたうさぎを思い出した。
それから一年が過ぎたころ、私は商業施設の入口で、地面に膝をついている若い女性を見かけた。彼女はサイクリングウェアを着て、前に紙とQRコードを広げていた。紙にはこう書かれている。
日本一周中、旅の途中で困っています。心ある方、助けてください。
彼女はうつむき、細い体を寒風に晒していて、いかにも気の毒に見えた。周囲には何人かの人が集まり、子どもが大人の手を引いて、募金したいと言っている。通行人たちは、今の若い子も大変だ、旅先で困っているなら少しくらい助けてもいいのでは、と小声で話していた。
以前の私なら、財布を取り出していたかもしれない。お腹が空いているのだろうか。泊まる場所がないのだろうか。悪い人に何かされたのだろうか。そんなことを考えて、彼女のうつむいた姿に心を動かされ、周囲の子どもたちの期待する視線に背を向けられなくなっていたかもしれない。
けれど今の私は知っている。
善意とは、自分を危険の前に差し出すことではない。本当に困っているなら、警察も、駅員も、市区役所の相談窓口も、見知らぬ人のQRコード決済よりずっと助けになる。
私は彼女のそばへ行き、肩を軽く叩いた。女はゆっくり顔を上げた。目が泳ぎ、指が反射的にQRコードの端を押さえる。
「送金なら、ここからお願いします」
私はスマートフォンを取り出した。
「いいえ。警察を呼びます」
彼女の顔色が一瞬で変わった。
私は110番を押した。商業施設の入口を風が吹き抜け、彼女の前に置かれた、助けを求める言葉で埋められた紙を揺らした。周囲の人々は静かになった。私はその中に立ち、指先は少しも震えていなかった。
それでも私は、善意を信じることをやめたくない。
ただし今度は、まず自分を守ってからだ。




