幸せの形
良いことをしたら自分に返ってくる。
小さい頃から私はそう母に言われ続けてきた。
小学校の時は、それが当たり前だと思っていた。
良いことは嬉しいことだ。だから私は皆に親切にしたし、良いことをしてもらったらその場で感謝。次の日にも会って一番に感謝を伝えた。
別に下心があったわけではない。私にはそれが当たり前だったと言うだけだ。
中学に入り、私の視野は広がった。
今まで当たり前だと思ってたことが急に当たり前じゃなくなって、私は何を信じたら良いのか分からなくなった。
さっきの感謝だってその場ですれば十分だと知った。
次の日にも感謝を伝えたら、なに?って顔をされることが増えた、いや、やっと理解したのだ。
思い返してみればそうだ。私はそうするが、誰かに次の日、私は感謝されたことがない。
感謝されることをワクワクしながら待ったとしても誰一人と私に言う事はなかった。
閉じた空間というのはとても恐ろしい。
少し空気を入れただけですぐ適応できなくなってしまう。
それだけ繊細なのだ。
高校に入って私の空間は全て外気に晒された。一体化した。
常識人だと思っていた私は実は、周りから見れば一番変わった奴だったのだ。
見て見ぬふりをしてきた、理解しようと、疑おうとしなかった罰なのだろうか。
私は完全に孤立した。
良いことをしたら自分に返ってくる。
そんなのまやかしだった。
だって、良いことは自分に返ってくるのでしょう?だから例え嫌われてたとしても、孤立したとしても私は良いことをすることを辞めなかった。し続けた。
その結果がこれだ。
大して返ってこなかったじゃないか。
もう、誰も信じられない。一番信じていた人に裏切られた気持ちは本当に最悪だった。
もうどうでも良くなった。
じゃあ逆に考えろ。
人生で幸せの許容量は決まってる。
不幸が続いたら幸せが巡ってくる、逆に幸せが続いたら不幸がやってくる。
そういう話、全部デタラメなんじゃないかって。
身をもって実感して導き出した答えがそれだ。
もちろん、科学的に、理論的に証明することは元々不可能なのだろうが、信じる人は一定数存在する。私のように、母のように。
もう信じることは辞めた。
これからは枠に囚われずに自由に生きるんだ。
自分が良いと思ったらすれば、無理しない範囲ですれば、親切が良いことには変わりがないのだから。
無理に良い人にならなくていいのだ。
全員によく思われなくていいのだ。
自由に生きればいいのだ。
それが私が新しく見つけた生き方だ。




