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深海魚の見る夢は

作者: しゃら
掲載日:2026/03/31


『僕はね、深海魚なんだよ』


 たまたま点けていた深夜番組。

 青黒い画面の向こう、ライトに照らされた光を宿した異形の魚を眺めていた私は、ふと、十年前の放課後に聞いた声を思い出した。

 暗黒の海で、自ら灯した光を頼りに静かに、けれど力強く泳ぐその姿。

 どこか孤独で、それでいて高潔なそのシルエットが、記憶の底に沈んでいた誰かの背中と重なる。


 けれど、その言葉の主が誰だったか……いくら記憶の糸を手繰っても、ぼんやりと眼鏡をかけた横顔しか思い出せないのだ。


「……あの後、私はなんて答えたっけ」


 口の中で呟いてみたけれど、答えは深夜の部屋の静寂に吸い込まれて消えた。




 翌朝、私は仕事モードの顔で、重いノートPCとメンテナンス機材の入ったバッグを肩にかけ、電車に揺られていた。

 システムエンジニアとしての私の日常は、華やかなコードを書くことよりも、泥臭い保守と設定の繰り返しだ。


「皇グループって、国内最大の総合商社ですよね。よく、うちみたいな規模の会社が食い込めましたね」


 隣を歩く雅先輩さんに問いかける。

 目の前にそびえ立つ皇グループの本社ビルは、鏡張りの外壁が朝日を跳ね返し、近寄りがたいほどの威容を誇っていた。


「最近、情報システム部門の部長が交代したんだって。徹底した実力主義で、老舗の付き合いよりも技術の安定性を優先して業者を総入れ替えしたらしいよ。営業が必死に食らいついた甲斐があったな」


 入館証を受け取り、吹き抜けのエントランスを抜ける。静まり返ったエレベーターは、耳がキーンとなるほどの速度で最上階へと私たちを運んでいく。

 案内されたオフィスフロアは、まるでひとつの都市のようだった。洗練されたデスク配置、パーテーションを排した開放的な空間。


 私は雅先輩と手分けして、サーバーの接続設定と各端末のキッティング作業に入った。

 キーボードを叩く乾いた音と、冷却ファンの回る微かな音。

 慣れた作業のはずなのに、このビル全体を支配する「一流」の空気に、どこか背筋が伸びる思いだった。


 午後。作業の合間に寄ったレストルームで、化粧直しをしていた女性社員たちの弾んだ声が聞こえてきた。


「ねえ、見た? 新しい部長。モデルかと思ったわよ」

「親のコネを一切使わずに、海外支社で実績を積み上げてきたって噂。しかも現場の苦労も分かってくれるし、判断がめちゃくちゃ早いの」

「……で、薬指に指輪は?」

「今のところ、なし! 独身だって!」


 イケメンで有能、しかも御曹司。


 ───そんな漫画みたいな人が本当にいるんだなあ……。


 他人事のように思いながら、私は重い機材バッグを抱え直してオフィスに戻った。



 夕方。予定していた全ての動作確認が完了し、フロアにオレンジ色の夕日が差し込み始めた頃、雅先輩が時計を見て言った。


「よし、部長が出先から戻られたそうだ。今後の運用確認も兼ねて、一言挨拶してから帰ろうか」


 案内されたのは、フロアの最奥にある、重厚な扉の向こうの部長室だった。


「失礼いたします」


 先輩に続いて足を踏み入れた瞬間、窓一面の夕焼けを背負ってデスクに向かう、一人の男のシルエットが目に飛び込んできた。


 落ち着いた茶髪に、仕立ての良いネイビーのスーツ。

 彼が顔を上げた瞬間、私は息を止めた。


 ───なんて、綺麗な人なんだろう。


 整いすぎた造形美に圧倒され、反射的に視線を逸らしそうになる。

 けれど、デスク越しにこちらを射抜いたその瞳───すべてを見透かすような漆黒に、私は吸い寄せられるように釘付けになった。

 だが、彼は私の動揺など気にも留めない様子で、手にしていた万年筆を置くと、涼やかな顔で口を開いた。


「システムエンジニアの雅さんと、忍野さんですね。遠いところ、ご苦労様です」


 その声は低く、心地よく響くバリトン。


「いえ、とんでもございません。本日の設定作業および最終の動作確認、すべて完了いたしました。こちらが報告書になります」


 雅先輩が淀みなく挨拶し、資料を差し出す。

 私は慌てて一歩下がり、エンジニアとしての「顔」を作り直して、失礼のないよう深く頭を下げた。

 皇部長は無言で資料を受け取ると、流れるような動作で目を通し始めた。

 ページをめくる指先、洗練された身のこなし。


 漂ってくるのは、かすかにスパイシーで知的な香水の香り。

 目の前にいるのは、国内最大手のグループを背負って立つ、若きエリート。

 私のような現場の技術者とは住む世界が違いすぎる、そんな冷徹なまでの「強者」のオーラに気圧されそうになる。


「……完璧ですね。期待以上の精度です」


 不意に顔を上げた彼と、再び目が合う。

 彼はほんのわずか、口角を上げたように見えた。

 それが「満足の笑み」なのか、あるいはもっと別の意味を含んでいるのか、私には判断がつかない。


「ありがとうございます。特に、現場の操作性を重視したインターフェースに関しては、忍野がかなりこだわって調整いたしました」


 雅先輩の言葉に、彼は「ほう」と短く応じ、もう一度私をじっと見つめた。

 まるで、深い海の底から獲物を確認するかのような、静かで強烈な眼差し。

 なぜか、心臓の奥が、ぎゅっと締め付けられるような不思議な感覚に襲われる。


「……では、今後の定例ミーティングの日程調整については、あちらの別室でよろしいでしょうか」


 ちょうどその時、控えていた秘書の方が滑らかな所作で割って入った。

 雅先輩が「あ、はい。忍野、ここで少し待っててくれ」と言い残して、ノートPCを抱えたまま部屋を出ていく。


 カチリ、と重厚な扉が音もなく閉まった。

 広い部長室には、私と、デスクに座る「皇部長」の二人だけが取り残された。


 途端に、部屋の空気が密度を増した気がした。

 窓の外、トワイライトタイムの深い青が室内に入り込み、まるでここだけが海に沈んだかのような静寂に包まれる。


「はじめまして……じゃないんだけどな」


 不意に落とされた低く心地よい声に、私は顔を上げた。

 彼はデスクから立ち上がり、ゆっくりと、獲物を追い詰めるような優雅な足取りでこちらへ歩いてくる。


「え……?」


 戸惑う私に、彼はデスクの端に軽く腰をかけ、私を見下ろした。

 至近距離で見つめるその端正な顔立ちは、一度見たら忘れるはずのない輝きを放っている。


「高校二年の時のクラスメイト。深海魚。……覚えているかな?」


 その単語が耳に触れた瞬間、パズルのピースが音を立てて嵌まった。



 ───思い出した。


 放課後の教室。西日が差し込む中、所在なげに眼鏡の奥の瞳を伏せていた、影の薄いクラスメイト。

 たまたま二人になった時、特に接点はなかった彼が、珍しく話しかけてきたんだった。


『僕はね、深海魚なんだよ。どこへ向かえばいいのかも分からず、ただ海底を彷徨ってる』


 自嘲気味に笑う彼に、私は「励まさなきゃ」という一心で、根拠のない、けれど精一杯の言葉を返したのだ。


『でもさ、深海魚って、可愛いのとか、光って綺麗なのもあるよね? 魅力的な深海魚もいるんだよ』

『光る……?』

『そう。餌を光で引き寄せるとか……? ほら、誘惑しちゃうような、素敵なやつ』


 あの時、彼は少しだけ目を見開いて、それから吸い込まれるような微笑みを浮かべた。


『忍野さんって、いつも明るいね。……じゃあ、その魅力的な深海魚を目指してみようかな』

『いいね。皇君が本気を出せば、みんなコロリだよ』

『忍野さんも、誘惑されてくれる?』

『あはは、もちろんでしょ!』


 軽口のつもりだった。当時の私には、彼の中に灯った小さな火種に気づく余裕なんてなかったのだ。


「思い出してくれたみたいだね」


 目の前の隼人が、ふっと目を細める。

 高校時代、分厚いレンズの奥に隠れていた瞳は、今や深海の闇をそのまま映し込んだような、底知れない漆黒の輝きを放っている。

 甘いのに、抗うことを許さない。

 逃げ場を塞がれるように、絡め取られる眼差しだった。


「どうだろう。今の僕は……あの時君が言った、魅力的な深海魚になれたかな」


 彼は一歩、私との距離を詰める。

 長い睫毛が伏せられ、その影が頬に落ちる。

 夕闇の中で、彼自身の存在が発光しているかのような錯覚に陥った。


「昔から、ずっと君のことが好きだった。あの日、君が僕を救ってくれたから、僕は変われたんだ」


 熱を帯びた声が、鼓膜を震わせる。



「……本気になった僕に、今度は本当に誘惑されてくれる? 忍野さん」


 名前を呼ばれた瞬間、心臓が爆発しそうなほどの音を立てる。


 甘い蜜が滴るような、それでいて決して離さないという執念を秘めた眼差しに、私はただ、息をすることさえ忘れて、絡め取られたまま、動けなかった───。




(終)

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