表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第5章 海へ還る川

 分厚い雲を突き抜け、

 降下を始めた機体が激しく身を震わせる。

 窓の外には、鈍色に光る博多湾と、

 ひしめき合うように広がるビル群が迫っていた。


 車輪が滑走路を叩き、

 凄まじい逆噴射の音が鼓膜を圧する。

 減速していく機体の中で、

 亮介はシートベルトを握りしめ、

 自分を運んできた重力を感じていた。


「福岡空港へようこそ」


 客室乗務員の穏やかなアナウンスが、

 彼を数年ぶりの故郷へと引き戻す。


 (……空港か。親父と一緒に来たのは、

 いつだったかな。


 あの時はまだ、スカイマークじゃなくて、

 もっと古い飛行機に乗るのが楽しみだったっけ)


 亮介は独り言を漏らしながら、

 手荷物を抱えて出口へと向かった。

 父の納骨のため、数年ぶりに福岡に降り立った。

 空港から駅へ向かうホームに足を踏み入れた瞬間、

 東京の乾いた空気とはまるで違う、

 湿った土と水の混じる重たい匂いが

 鼻先をくすぐった。


亮介「親父、ただいま。

 ……東京は、最後まで馴染めなかったな、

 あんたも、僕もさ」


 誰もいない、自分だけの内なる会話。

 肺が大きく膨らむ。懐かしいはずの空気なのに、

 それはもう、

 どこか他人の肌のようで――ほんの少しだけ、

 拒絶に似た距離を感じた。

 自分がもう、かつての住人ではなく、

 ただ通り過ぎるだけの「旅人」であることを

 突きつけられる。


亮介「……変わったな。駅ビルの看板も、

 走ってるバスの形も。

 僕が知ってる福岡は、

 もうどこにもないのかもしれないな、親父」


 西鉄電車の車窓の外を流れる

 風景は、記憶の底に沈んだ景色をなぞるように

 続いていた。


 だがその色彩は、微妙に褪せ、

 輪郭を失った夢の残像のようでもあった。


 新しい建物が建ち、古い看板が消えている。

 記憶の中の地図と、

 現実の地図が少しずつズレている。


 曇り空を映す鉛色の水面に、

 岸辺のセイタカアワダチソウが風に揺れている。


 そのさざ波のひとつひとつに、

 かつて誰かが立ち尽くしていた記憶が、

 そっと潜んでいるように感じられた。


 ゆるやかな流れは、しかし、

 言葉にできない力強さと、

 抗えぬ時間の重さを湛えていた。


 川は生きている。

 とどまることを知らない獣のように。


 納骨を終えたあと、

 亮介は喪服のまま、ひとり、昔の通学路を辿った。


 かつて自転車で立ち漕ぎをして風を切った

 コスモス街道。

 今はもう花の季節は過ぎ、茶色く枯れた茎だけが、

 風に身を任せてカサカサと揺れている。

 その揺れにあわせて、胸の奥に眠っていた記憶も、

 かすかにざわめいた。


 高校時代に毎朝乗った甘木線。

 朝霧の中を走る車窓から見えた

 田んぼの広がり。


 冬の低い陽が、水を張った畔を

 きらきらと照らし、


 誰もいない風景が、

 いつもそこにあった。


 ——誰もいない。

 けれど、そこに自分は確かにいた。


 悩み、焦り、未来を夢見ていた自分がいた。

 車窓に映った自分の顔を、何度も見つめていた。

 この先に何があるのか、

 何を残していくのかもわからぬままに。

 やがて、かつての実家の前にたどり着いた。


 古びた生垣はきれいに整えられ、

 門扉の横には見覚えのない

 『佐藤』という表札が掲げられている。


 僕が子どもの頃、

 父と一緒にペンキを塗ったはずのポストは、

 機能的なステンレス製のものに変わっていた。

 庭先には見慣れない車種の

 青いワンボックスカーが止まり、


 その横に、小さな子ども用の

 三輪車が転がっている。


 中からは、夕飯を急かす母親の声と、

 それに答える子どもの高い笑い声が、


 バラエティ番組のにぎやかな音とともに

 漏れ聞こえてきた。


 知らない家族の、知らない幸せの匂い。

 それが僕の記憶の断片を、じりじりと侵食していく。


 亮介はフェンスの影で、立ち去ることもできず、

 かといって声をかける勇気もなく、

 ただ亡霊のように立ち尽くしていた。


 夏休みの午後、

 この縁側でスイカを食べて、

 種の飛ばし合いをしたこと。


 冬の寒い夜、

 ストーブの前で父の加齢臭の混じった

 コートにくるまって眠ったこと。

 

 母が台所で立てる、

 包丁がまな板を叩くトントントンという

 小気味よい音。


 その音の響きひとつ、匂いのひとつひとつが、

 僕を形作る大切なパーツだった。


 けれど、今はもう、その欠片すら見つからない。


 僕が愛した景色は、

 知らない誰かの日常という名の

 上書き保存によって、


 完全に消去されてしまったのだ。

 物理的な居場所を失うということは、

 これほどまでに残酷なことだったのか。

 足元の地面が、霧のように頼りなく感じられた。


 僕という存在が、この町から、そしてこの世界から、

 静かに、けれど確実にこぼれ落ちていく。

 その喪失感は、空腹に似た痛みとなって、

 亮介の胃のあたりをぎゅっと締め付けた。


 彼の心は静かに、川の底へ沈んでいく石のように、

 深く深く沈み込んでいった。


 忘れていた記憶が、泡のように水面に浮かび上がり、

 静かに弾けて、消えていく。


 どれもが、たしかにあったもの。

 けれど、今となってはもう戻れない風景。


 時間の流れとは、そうして人から場所を奪い、

 記憶の奥へとすべてを運んでいくもの

 なのかもしれない。

 残酷だが、それが自然の摂理なのだ。


 夜。


 亮介は原鶴温泉の老舗旅館の一室で、

 独り、窓際に椅子を引いて座っていた。

 部屋の隅、年代物の木製机の上には、

 旅館の案内板とともに一冊の薄汚れた冊子が

 置かれていた。


 『筑後川の伝承と民俗』。

 パラパラとページをめくると、

 この地に古くから伝わる河童の伝説が記されていた。


——かつて、大陸から渡ってきた

 『九千坊きゅうせんぼう

 と呼ばれる河童の頭領が、


 九千匹の眷属を引き連れて

 筑後川に棲みついた。


 彼らは水難から人々を守る神として

 崇められる一方で、


 ときには悪戯を働き、

 人の心を惑わすあやかしとしても

 恐れられた。


 特に、この川の深淵には、

 人の記憶や未練を餌にする

 河童が潜んでおり、


 水底に引きずり込まれた者は、

 永遠に醒めない夢の中で生きることに

 なるという——。


亮介「……人の記憶を、餌にするのか」


 亮介はポツリと独り言を漏らし、

 本を閉じた。


 作り話だと笑い飛ばすには、

 今の自分はあまりに「彼ら」に近い場所に

 立っていた。


 部屋には、この土地特有の微かな硫黄の匂いと、

 畳のい草の香りが混じり合って漂っている。

 窓を開放すると、湿り気を帯びた夜風が

 筑後川のせせらぎとともに滑り込んできた。


 眼下を流れる筑後川は、

 月明かりをその身に湛え、


 まるで巨大な銀の蛇が

 うねりながら闇を泳いでいるかのようだった。


 対岸の街灯が水面に細長い

 光の筋を落とし、


 ときおり、魚が跳ねたのか

 銀色の同心円が静かに広がっては

 消えていく。


 温泉街の微かな喧騒も今は遠く、

 ただ圧倒的な水の流れる音だけが、


 亮介の孤独を静かに包み込んでいた。


 その水面に映る街の光のなかに、

 また、あの河童の影が揺れている気がした。


 今回は、ずっと近くに感じられた。

 気配ではなく、ほとんど息遣いのような、

 実在の温度と生臭さ。


河童「わかってきたようだな。

 ここにあるものは、もう“君のもの”ではない」

 その声は風のように静かで、それでいて確かに、

 胸の奥に重く落ちてきた。


 かつては恐ろしく感じたその響きが、

 今は不思議と、古い友人の忠告のように聞こえた。

 それは拒絶ではなく、

 嘘から解き放とうとする解放の宣告だった。


 亮介がゆっくりと振り返ると、

 そこには、あかねが立っていた。


 喪服を着ているわけでもなく、

 あの頃のまま、

 潮風に裾を泳がせた白いワンピース姿で。


 けれど、その輪郭は

 月光に透けて消えてしまいそうなほどに淡い。

 どこか遠くを見ているようでいて、

 その視線はまっすぐ、彼自身の本質を射抜いていた。

 そのまなざしは、

 東京で見た夢のなかの甘いそれとも、

 中学時代の不器用な恥じらいとも違っていた。


 何十年、何百年という時間を飛び越え、

 あらゆる真理を見届けた後のような、

 深く、透き通った眼差し。


あかね「君は、何を探しているの?」


 三度目の問いかけ。


 その声は、川のせせらぎと同化して、

 夜の静寂に沈殿していった。

 亮介は、彼女の瞳の奥に自分自身の姿を見た。

 疲れ果て、迷い、

 それでも必死に自分の人生を繋ぎ止めようとしている

 一人の男の無様な姿を。

 彼は今度こそ、喉の奥に詰まったおり

 すべて吐き出すように、

 自分自身に言い聞かせるように答えた。


亮介「……明日だよ、あかねちゃん。

 ……昨日の続きじゃなくて、明日だ」


あかね「明日? ……そこには私はいないよ。

 お兄ちゃんも、あのコスモスも、

 全部ここにあるのに」


亮介「知ってるよ。……そこには

 何もないかもしれない。

 でも、何もないなら、新しく作ればいい。


 痛くても、寂しくても……

 それが生きるってことなんだと思う。


 ……さよなら。僕の愛した、

 偽物のあかねちゃん」


 亮介の声が、夜の帳を切り裂くように響いた。

 その言葉を発した瞬間、

 肺の奥を塞いでいた何かが溶け出し、

 温かい涙となって溢れ出した。


 あかねの幻影は、寂しそうに微笑み、

 一瞬だけ指先を亮介の頬に伸ばした。

 けれど、その指が触れることはなく、

 彼女の輪郭は霧のように薄れていった。


亮介「もう、夢には戻らない。

 ……たとえ、この先が泥水の中だとしても」


 河童が前に進み出た。

 その表情は厳しく、古の神のような威厳と、

 底知れない冷酷さがと同居していた。


河童「いいか? 人間。この石を捨てれば、

 俺が手伝ってやった『美しい記憶』はすべて消える。

 お前には、ただの『惨めな失恋』と『孤独な青春』

 の記憶だけが残るぞ。

 色を失い、乾ききった世界で、

 お前は一人で立ち尽くすことになる。

 ……耐えられるのか?」


亮介「……耐えるよ。

 それが僕の……僕だけの、本物の時間だからだ」

 亮介は黒い石を握りしめた。冷たさが痛いほどだ。


亮介「孤独も含めて、それが僕の人生だ。

 寂しかった夜も、

 泣いた日も、高志と馬鹿笑いした本当の思い出も、

 全部ひっくるめて僕なんだ。


 ……空っぽのアルバムの隣に、

 他人の幻を描くのはもうやめる。

 消えろ、河童。お前も、その重石も」


 河童はふっと、道の先を空けた。

 その背後に広がる筑後川の闇は、

 すべての嘘を慈悲深く飲み込む準備が

 できているかのように、

 深く、静かだった。


 亮介は大きく振りかぶった。

 掌の中で、黒い石が最後の抵抗をするかのように、

 氷のような冷たさを放つ。


 それは、

 彼が長年抱え込んできた「孤独」と「未練」、

 そして「弱さ」が心臓の形に

 凝り固まったものだった。

 これを手放せば、

 もう二度と「あの頃」に戻ることはできない。

 けれど、もう迷わなかった。


亮介「さようなら、僕の幻!」


 ふと見上げれば、

 遠く耳納連山の稜線が、かすかに白み始めていた。

 夜の帳が静かに捲れ、深い群青色の空に、

 夜明けの予兆が細い線となって染み出していく。

 長い、長い夜が、ようやく終わろうとしていた。


 叫びと共に、全身の力を込めて

 石を放った。


 黒い石は、月光を一瞬だけ反射して

 鋭くきらめき、


 夜の闇に吸い込まれるように

 筑後川の中心へと落ちていった。


——チャポン。


 重い水音が響いた瞬間、

 世界が激しく撥ねた。


 鼓膜を突くような静寂の後、

 強烈なめまいが亮介を襲う。


 視界が歪み、脳内でフィルムが

 逆再生されるように、


 丹念に作り上げられた偽りの記憶が

 剥がれ落ちていく。


 秋山と3人で自転車を漕いだ夕暮れ、

 放課後の図書室で交わした視線、

 共に乗り越えたはずの受験勉強の夜。

 色鮮やかだったそれらの景色が、

 薄汚れた絵の具のように溶け出し、

 泡沫となって霧散していく。


 そして、その崩壊の果てに、

 ただ一つだけ残った光景があった。

 それは、中学時代ですらない、小6の春休みの記憶。


 けたたましいディーゼルエンジンの音。

 荷台いっぱいに家財道具を積んだ

 引っ越しトラックが、ゆっくりと動き出す。

 遠ざかるトラックの窓から、

 あかねが身を乗り出すようにして、

 ちぎれるほどに手を振っていた。


あかね「元気でね、亮介くん! 忘れないでね!」


 僕は狂ったように舗装されていない土手を走り、

 トラックを追いかけた。

 息が切れ、喉が焼け、

 足がもつれて泥だらけになっても

 必死に手を伸ばし続けた。

 けれど、トラックは無情にも速度を上げ、

 角を曲がって見えなくなった。


 春の冷たい夕風の中で、

 僕はただ、

 舞い上がる砂埃を浴びながら立ち尽くしていた。

 あかねはいなくなったのだ。

 もう二度と、この町に戻ってくることはないのだ。

 そのとき初めて知った、

 胸に大きな風穴が開いたような、

 言葉にならない喪失感。


 それは救いようもなく悲しく、

 痛み、惨めな記憶だった。

 けれど、それは誰の手も加わっていない、

 ダイヤモンドのように硬く、鋭く、

 そして美しい真実の光を放っていた。

 偽物の永遠よりも、この一瞬の痛みのほうが、

 どれほど僕を生かしてくれていたことか。


 亮介の頬を、一筋の涙が

 静かに伝い落ちた。


 それは、二十数年という歳月をかけて、

 ようやく流すことができた

 本物の涙だった。


 目を開けると、そこには誰もいなかった。

 あかねも、河童もいない。

 ただ、広い広い筑後川が、

 悠々と流れているだけだった。

 向こう岸のシルエットが、

 朝焼けの淡いオレンジ色に縁取られ始めている。

 筑後川の鈍色の水面が、希望を孕んだ光を反射して、

 きらきらと輝き始めていた。


 あかね色の空は、もう「過去」の象徴ではなく、

 新しい一日の始まりを告げる色に変わっていた。


 風が吹いた。

 その風は、もう「あかねの匂い」はしなかった。

 土と、水と、草の匂い。

 ありふれた、けれど圧倒的にリアルな、

 現実の匂いだった。


 亮介は掌を見た。

 あんなに重かった石の感触は消え、

 ただの手汗だけが残っていた。


 不思議と、心は軽かった。

 穴が空いたような寂しさはある。

 けれど、それは風通しの良い、清々しい空洞だった。

 そこにはもう、淀んだ水は溜まっていない。


亮介「……行こう」

 亮介は土手の草を払い、歩き出した。


 ふと、足元の砂利の中に、 

 キラリと光る黒い石を見つけた気がした。

 けれど、もう振り返らなかった。

 拾い上げることもなかった。

 それは、川にあるべきものだ。


 駅へ向かう道すがら、スマホを取り出し、

 妻にメッセージを送った。


亮介『今から帰るよ。菜月にお土産、何がいいかな』

 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。


真理子『パパ、おかえり! 

 通りもんは絶対買ってきてね』

 すぐに返信が来た。


 現実が、彼を待っていた。

 完璧ではない、面倒で、騒がしくて、

 愛おしい現実が。


 筑後川は、今日も変わらずに流れている。

 過去を、妄想を、

 そしてあらゆる人の想いを飲み込んで、

 海へと還っていく。


 その流れに背中を押されるように、

 亮介は一歩、強く地面を踏みしめた。


 夜明け前の空のような、

 深い青色の時間が、彼を包み込んでいた。


 亮介は大きく息を吸い込んだ。


 冷たい空気が肺を満たし、

 彼はゆっくりと、駅へ向かって歩き出した。

 東京へ。あの都会の真ん中を流れる、

 僕の現実という名の川に向かって。


---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ