第4章 線香花火の夜
その夜は、夏の終わりだった。
空気が少しだけ乾き始め、
秋の気配が混じり合う夜。
北野天満宮の裏手、
小さな参道に面した家の縁側で、
あかねとふたり、
線香花火をしていた。
街灯は少なく、闇が濃い。
蝉の声も少し遠ざかり、
代わりに鈴虫の声が聞こえる。
ただ時おり、風鈴の音が
チリンと夜風に乗って、どこからともなく届いた。
火薬の焦げる匂いが、鼻腔をくすぐる。
暗闇の中に、小さな火の玉が灯る。
ジジ、ジジ、と
微かな音を立てて弾ける火花が、
屈み込むあかねの横顔を
淡い橙色に染め上げていた。
長い睫毛の影が頬に落ち、
真剣に一点を見つめる瞳の中には、
小さな星が乱舞しているかのような
輝きが宿っている。
亮介は自分の手元の花火が
消えていることにも気づかず、
ただその光景に見入っていた。
火花が「松葉」から「柳」、
および静かな「散り菊」へと
表情を変えていく。
その繊細な光の明滅が、
二人の間の沈黙を優しく埋めていた。
夏の終わりの生ぬるい風が、
彼女の髪をわずかに揺らす。
あかね「あ、落ちそう……」
あかねの持っていた線香花火の
火の玉が、ジジジと音を立てたあと、
ぽとりと地面に落ちる。
闇の中に赤い残像を残して。
あかねは残念そうに、
しかしどこか満足げに呟いた。
亮介「……きれいだったな。
あかねちゃんの火花、すごく元気に弾けてた」
あかね「……ねえ、亮ちゃん。
火花が落ちた後の、
この『じわっ』とする暗闇、好き?」
あかねは浴衣の袂をそっと押さえながら、
もう一本、新しい線香花火を
束の中から抜き取る。
シュッとマッチが擦られる音が
夜の静寂を切り裂き、
再び小さな灯が彼女の指先に宿った。
亮介「暗闇……? 寂しくないか?」
「寂しいけど……でも、
光があったことを教えてくれる気がして。
光ってる時よりも、
ずっと光のことを考えてる気がするの」
その光に照らされた彼女の瞳は、
まるで遠い異国の星を
眺めているかのように潤んでいる。
亮介の心拍が、ジジ、ジジと弾ける
火花の音に同調していく。
あかねが囁くように言った。
彼女の持つ花火が、ひときわ激しく
「松葉」の火花を散らしている。
あかね「線香花火って、
生まれたての赤ちゃんから、
おじいさんまでの一生みたいだよね。
急いで咲いて、一生懸命生きて、
最後は静かに、一粒の光になって落ちるの。
……おじいちゃんが亡くなる前に、
縁側で教えてくれたんだよ」
亮介「一生、か。……確かにそうだな。
でも、あかねちゃんは、
どこの段階が一番好き?」
あかねは一瞬、
亮介の方を向いて微笑んだ。
火花の光が、
彼女の瞳の中で優しく爆ぜ、
彼女の存在そのものが、
その一瞬の輝きの中に
凝縮されているように見えた。
あかね「あたし? あたしは……全部かな。
最初から、最後の一粒が落ちるまで。
こうやって、亮ちゃんと一緒に、
一つの火の玉を見てる時間全部」
あかねの言葉が、
夏の夜風に溶けて亮介の耳に届く。
そのあまりの直接さに、
亮介は息をするのも忘れて、
彼女の横顔を見つめていた。
あかね「こうやって、すぐ終わっちゃうのって
……なんか、いいよね、亮ちゃん。
無責任で、優しくて。
……亮ちゃん、何でそんなに見つめるの?」
亮介「……俺は……終わらせたくないよ。
終わるのが優しいなんて、思えない。
ずっと、この火花が消えないで、
こうして君の隣で、
この匂いを嗅いでいたいんだ」
自分の声が、
自分でも驚くほど震えていた。
けれど、それが今の亮介の、
嘘偽りのない本心のすべてだった。
あかねの持つ線香花火が、
静かな「散り菊」へと表情を変えていく。
彼女の声は小さくて、
まるでその儚い音の一部のように、
夜の闇に吸い込まれていった。
あの夜のことを、亮介は何度も思い出す。
妄想の中でも、夢の中でも、
現実との境が揺らいだ時でも――
決まってこの回想は、
聖域のように浮かんできた。
けれど、今夜は少し違っていた。
あかね「……あたしはずっと亮ちゃんのそばに
いるよ。お兄ちゃんと、3人でずっと。
……ダメかな?」
あかねが微笑んだ。
その笑顔に、亮介は違和感を覚えた。
「終わるのが優しい」と言った
彼女が、「ずっとそばにいる」と言う。
まるで、つぎはぎの言葉のように。
亮介「あかね、さっきは
『終わるのが優しい』って言ったじゃないか。
それなのに、ずっと一緒だって……
矛盾してないか?」
亮介が恐る恐る尋ねると、
あかねは首をかしげ、
いたずらっぽく目を細めた。
あかね「矛盾なんてしてないよ。
だって、終わらない世界なら、
ずっと綺麗でいられるでしょ?」
亮介「終わらない世界……?」
あかね「そう。亮ちゃんが望んでくれた、
この場所。ここには冬も来ないし、
さよならもない。
あたしたち、ずっとこの幸せな
時間のなかにいられるんだよ」
亮介「……あかね。君、本当に……」
その瞬間、手の中の黒い石が熱を持った。
そして、夢がノイズ混じりに乱れ始めた。
気づけば、足元には冷たい水音があった。
筑後川の流れだ。
水位が急激に上がり、
穏やかだった縁側のすぐ下まで、
濁った水が迫っている。
「あ……っ」
声を上げようとしたが、
喉が何かに締め付けられるように
動かない。
見れば、足元の木材が
じわりと湿り気を帯び、
川の底から響くような重低音が
耳の奥を震わせ始めた。
それは筑後川の轟音であると同時に、
都会の地下を走る地下鉄の振動のようでもあり、
工事現場で響く硬質な金属音のようでもあった。
ゆらゆらと、
筑後川の水面が揺れるたび、
そこに見慣れない巨大な影が混じる。
月明かりに照らされた水面には、
コスモスではなく、天を突く鋼鉄の塔
――スカイツリーの歪んだ輪郭が
映り込んでいた。
筑後川の湿った空気に重なるように、
排気ガスの匂いを孕んだ
別の流れが聞こえてくる。
亮介「荒川だ…。」
風景が万華鏡のように入れ替わり、
噛み合うはずのないもの同士が、
強引に牙を剥いて融合していく。
逃げ場を失った亮介の爪先を、
氷のような冷たさが飲み込んだ。
「——っ! ぐあぁぁっ!」
強烈な耳鳴りと共に、
亮介は弾かれたように現実へと引き戻された。
荒い息をつきながら目を開ける。
そこは、見慣れた自分の部屋だった。
気がつくと、数日が過ぎていた。
リビングに降りると、妻がほっとしたような、
しかし少し呆れたような顔で迎えた。
真理子「やっと起きたの? 亮介。
すごい熱だったのよ」
亮介「……ああ。……何日経った?」
真理子「三日よ。会社には連絡して
おいたけど……何か変な夢でも見てた?
うわ言ですごい叫んでたから」
亮介「……夢、か。そうだな……
長い夢だった」
妻の何気ない言葉に、
亮介はぎくりとした。
病み上がりの亮介がリビングで
ぼんやりと外を眺めていると、
寝室の片付けをしていた妻が、
クローゼットの奥から一箱の
ダンボールを抱えてきた。
真理子「これ、実家を引き払ったときに
持ってきたまま、まだ開けてなかったわよね」
上京した折、とりあえず亮介の荷物として
母がまとめておいたものだった。
「亮介の部屋に残っていたものを
送ります」というメモと共に。
中には、古い参考書や漫画、
および中学の卒業アルバムが入っていた。
亮介「懐かしいな……」
亮介は石をポケットに入れたまま、ページをめくる。
石の冷たさが、太ももを通して伝わってくる。
亮介「あかね、高志、俺……あの看板の前で笑ってるよな」
クラスの集合写真のページを開く。
亮介「…………え? なんだ、これ」
そこには――
あかねの姿が、どこにもなかった。
自分の隣に立っているのは、
少し居心地悪そうに肩をすくめた
高志だけだった。
二人はごく自然な立ち位置で並び、
カメラに向かって、当時らしい
少し硬い表情で納まっている。
どこにも「不自然な空白」など、
存在しなかった。
亮介「……いない。どうしてだ? 誰かが、
僕のアルバムだけ細工したのか?」
亮介は震える指で、
集合写真の表面をなぞった。
あかねが立っていたはずの場所。
そこには、ただの背景の校舎が
写っているだけだ。
ページの端に、自分の独り言のような
呻きが漏れる。
亮介「そんなはずはない。
だって僕は、彼女の隣で、あの時確かに……。
……そうだ、音楽室の写真は?
コンクールの練習の時の……」
狂ったようにページをめくる。
コンクールのスナップ写真。
亮介が一人で、絵筆を持って笑っている。
隣には誰もいない。
譜面台を囲んで歌う生徒たちの列の中にも、
あの澄んだソプラノを響かせていたはずの
少女の姿は見当たらない。
亮介「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ!
……高志の隣にも、どこにも……。
……アルバムが、間違ってるんだ。
そうに決まってる」
亮介は膝の上にアルバムを広げたまま、
激しく首を振った。
冷たい汗が背中を伝う。
ポケットの中の黒い石を、
握りつぶさんばかりの力で握りしめた。
その強烈な冷たさが、
パニックになりかけた脳に、
かろうじて意識の輪郭を与えてくれる。
亮介「落ち着け、亮介。
……そうだ、高志に聞けばいい。
アイツなら、妹のことを忘れるわけがないんだから」
亮介は震える手で、スマホを操作した。
電話の向こうで、奇妙な沈黙が流れた。
高志『……おい、亮介。お前、寝ぼけてんのか?
俺は一人っ子だぞ。妹なんて始めからいねえよ』
亮介「……は? いや、嘘だろ。
だってお前んちの玄関で、
よくあの子が絵を描いてた……
中学も一緒で、3人で帰ったじゃないか!
合唱の練習も!」
高志『何言ってんだお前。……ああ、
もしかして、あのあかねちゃんの話をしてるのか?』
亮介「あの、って……?」
高志『小6の時に転校してきた、
あのあかねちゃんだよ。
お前が好きだった……。
でも彼女、小学校の卒業と同時に
また引っ越しただろ。
それっきり何十年も会ってないじゃないか。
お前、疲れてんのか?』
スマホを取り落とした。
「あかねは……高志の妹じゃ、なかった……?」
記憶のダムが決壊する。
「甘い嘘」の堤防が崩れ、
冷たい「真実」の濁流が流れ込んでくる。
そうだ。あかねは、
小6の時だけの、短い転校生だった。
中学時代に彼女はいなかった。
「高志の妹」という設定も、
「3人で過ごした青春」も、すべて嘘だった。
それは、東京で孤独を深めていた
今の自分が、
あの頃の純粋な未練を埋めるために、
無意識のうちに作り上げてしまった
虚構だったのだ。
亮介「じゃあ、この石が見せていたのは
……俺の狂う姿か?」
亮介はポケットから、
あの黒い石を取り出した。
美しかったはずの石は、
今やドクンドクンと不気味に脈打ち、
泥のような水を吐き出していた。
ふと鏡を見る。
背後に、あの河童が立っていた。
河童「……気づいちまったか。
言葉を慎め、人間。
俺は何も足していないし、
何も引いていない。
記憶を入れ替えたのは、お前自身だ」
亮介「俺が……? 俺がこの嘘を
作ったのか?」
河童「そうだ。お前が望んだんだ。
東京での孤独が、
あの頃の小さな『未練』に、
禁断の水を注いで芽吹かせたのさ。
この石は、お前の心が描き出した嘘を、
現実と同じ強度で再生する映写機に過ぎない」
河童「いっそ気づかないフリをして、
このまま石を持ち続けるか?
真実なんてものは、
冷たくて硬いだけだぞ」
河童は誘惑するように囁く。
あかねの声が聞こえる。
親しみ深い、あどけない妹のような声で。
亮介「……違う。あかねは……そんなこと言わない」
亮介は絞り出すように言った。
線香花火が落ちるのを、
綺麗だと言ったあかねは……
『ずっと続くこと』なんて望んでいなかった。
彼女は、終わりを受け入れる強さを持っていたんだ。
それを僕が勝ためにねじ曲げて、
自分の都合のいい人形にしちゃいけない。
亮介「……返す。
これを、あるべき場所に返さなきゃいけないんだ」
背後から、湿った笑い声が漏れた。
河童「殊勝なことだな。
だが、お前にその重みが耐えられるか?
この石を手放せば、お前は再びあの乾燥した、
色のない東京の毎日に放り出されるんだぞ」
河童はぬらぬらとした指先で、
亮介の肩をなでるように動かした。
河童「真実なんてものは、ただそこにあるだけで、
誰も救いやしない。
お前が手放そうとしているのは、
お前自身が望んだ『最高の自分』だ。
それを泥の中に沈めて、何が残る?」
亮介「……何が残ってもいい」
亮介は、震える手で石を強く握りしめた。
亮介「偽物の光で飾り立てた思い出なんて、
ゴミと同じだ。
……消えてくれ、河童。僕は、僕の時間を生きる」
河童「ふん……。いいだろう。
なら、あの冷たい水の味、
せいぜい忘れないことだな」
河童の気配が、
霧が晴れるように薄れていく。
亮介は立ち上がった。
石はずっしりと重く、
まるで何キロもあるようだった。
東京の空は、嵐の前触れのように黒く澱んでいた。
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